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「キリストの思い」を知るものみの塔 2000 | 2月15日
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「キリストの思い」を知る
「『だれがエホバの思いを知って,彼を教え諭すようになったであろうか』……。それでもわたしたちは,キリストの思いを持っているのです」。―コリント第一 2:16。
1,2 エホバは,み言葉の中で,イエスについて何を明らかにすることが良いとご覧になりましたか。
イエスはどんな姿をしていたのでしょうか。髪の毛や肌や目は何色だったのでしょうか。身長や体重はどれくらいだったのでしょうか。何世紀にもわたって芸術家が描いてきたイエスの風貌は,穏当なものから無理のあるものまで,広い幅があります。雄々しくはつらつとした人として描く人もいれば,弱々しく青白い人として描く人もいます。
2 しかし,聖書はイエスの外見に注意を引いていません。むしろエホバは,はるかに重要なもの,つまりイエスの人となりを明らかにするほうが良いとご覧になりました。福音書の記述は,イエスの言ったことや行なったことを伝えているだけでなく,イエスの言動の背後にある深い感情や思考の型を明らかにしています。霊感のもとに記されたこれら四つの記述を調べるなら,使徒パウロの言う「キリストの思い」を洞察することができます。(コリント第一 2:16)イエスの考え,感情,性格に精通するのは大切なことです。なぜでしょうか。少なくとも二つの理由があります。
3 キリストの思いに精通するなら,どんな洞察が得られますか。
3 第一に,キリストの思いを知るなら,エホバ神の思いをかいま見ることができます。イエスは,み父を非常によく知っておられたので,「子がどのような者であるかは,父のほかにはだれも知りません。また,父がどのような方であるかは,子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば,だれも知りません」と言うことができました。(ルカ 10:22)ここでイエスは,『エホバがどのような方かを知りたければ,わたしに目を向けなさい』と言っておられるかのようです。(ヨハネ 14:9)ですから,福音書が明らかにしているイエスの考え方や感じ方を研究するなら,実質的にエホバの考え方や感じ方を学ぶことになります。そのようなことを知っていると,神にいっそう近づくことができます。―ヤコブ 4:8。
4 本当にキリストのように行動するには,まず何を学ばなければなりませんか。なぜですか。
4 第二に,キリストの思いを知ることは,「その歩みにしっかり付いて(ゆく)」助けになります。(ペテロ第一 2:21)イエスに従うとは,イエスの言葉を復唱し,その行動をまねるだけのことではありません。話し方や行動は考えや感情に左右されるので,キリストに従うには,キリストと同じ「精神態度」を培う必要があります。(フィリピ 2:5)すなわち,本当にキリストのように行動するには,まずキリストのように考えたり感じたりすることを学ばなければなりません。つまり,不完全な人間としてできる限りのことをするのです。では,福音書筆者の助けを借りながら,キリストの思いを洞察することにしましょう。まず,イエスの考え方や感じ方に影響を及ぼした種々の要素を取り上げます。
人間になる前の存在
5,6 (イ)わたしたちは仲間からどんな影響を受けますか。(ロ)神の長子は地に来る前,天でどんな交友を持っていましたか。このことからどんな影響を受けましたか。
5 親しい仲間は人に感化を与えます。良きにつけ悪しきにつけ,考えや感情や行動に影響を及ぼすのです。a (箴言 13:20)イエスが地に来る前に天で持っていた交友について考えてみましょう。ヨハネ福音書は,人間になる前のイエスの存在に注意を喚起し,神の「言葉」つまり代弁者という言い方をしています。ヨハネはこう述べています。「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。この方は初めに神と共にいた」。(ヨハネ 1:1,2)エホバに初めはありませんから,言葉が「初め」から神と共にいたということは,神の創造の業の初めから共にいた,という意味であるに違いありません。(詩編 90:2)イエスは「全創造物の初子」です。したがって,他の霊の被造物や物質宇宙が創造される前から存在していたのです。―コロサイ 1:15。啓示 3:14。
6 ある科学者たちの推定によれば,物質宇宙が存在するようになってから少なくとも120億年が経過しているということです。この推定にそれほど狂いがないとすると,神の長子はアダムが創造される前から,長大な年月にわたって,み父との親しい交友を持っていたことになります。(ミカ 5:2と比較してください。)こうしてこのお二方の間に,むつまじい親密な絆が結ばれました。人間になる前に存在していたこの長子は,擬人化された知恵として,このように語ったと記されています。「わたしは……,神[エホバ]が日々特別の親愛の情を抱く者となった。わたしはその前で常に喜(んだ)」。(箴言 8:30)神のみ子は,計り知れないほど長い年月にわたって,愛の源である方と親交を結んできたことから並々ならぬ感化を受けたに違いありません。(ヨハネ第一 4:8)このみ子は,他のだれも及ばないほど,み父の考えや感情や物事の行ない方を深く知り,反映するようになりました。―マタイ 11:27。
地上での生活と,受けた影響
7 神の長子が地に来る必要があった理由の一つは何ですか。
7 神のみ子が学ぶべき事柄は,ほかにもありました。エホバの目的は,み子を,「わたしたちの弱いところを思いやる」ことのできる,同情心に富む大祭司になるよう整えることであったからです。(ヘブライ 4:15)み子が人間として地に来た理由の一つは,大祭司の役割を担うための条件にかなった者となるためでした。イエスは,この地上では生身の人間として,以前は天から観察していたに過ぎない種々の状況や影響力にさらされました。人間の感覚や感情をじかに経験できるようになったのです。疲れやのどの渇きを感じることもあれば,空腹感を覚えることもありました。(マタイ 4:2。ヨハネ 4:6,7)そのうえ,ありとあらゆる困難や苦しみにも耐えました。こうして「従順を学ばれ」,大祭司としての役割にふさわしい資格を完全に備えられたのです。―ヘブライ 5:8-10。
8 地上におけるイエスの生涯の早い時期について,どんなことが分かっていますか。
8 地上におけるイエスの生涯の早い時期についてはどうでしょうか。子どものころのことは,ごくわずかしか記されていません。事実,イエスの誕生にまつわる出来事について述べたのはマタイとルカだけです。福音書筆者たちは,イエスが地に来る前に天にいたことを知っていました。イエスの人となりを形作ったのは,何よりも,人間になる前からそのように存在していたことでした。とはいえ,イエスは正真正銘の人間でした。完全な方ではありましたが,乳児期から少年期,青春期を経て大人へと成長し,その間ずっと学び続ける必要がありました。(ルカ 2:51,52)聖書は,イエスに影響を与えたに違いない早い時期の生活について,幾つかの点を明らかにしています。
9 (イ)イエスが貧しい家庭に生まれたことは,どんな点に示されていますか。(ロ)イエスは,どんな暮らし向きの家庭で育ったと考えられますか。
9 イエスは貧しい家庭に生まれたものと思われます。このことは,イエスが生まれてから約40日後,ヨセフとマリアが神殿に携えて来た捧げ物に示されています。焼燔の捧げ物としての若い雄羊に加え,罪の捧げ物としての若いいえばとかやまばとを携えて来たのではありません。二人は「やまばと一組もしくは若いいえばと二羽」を携えて来たのです。(ルカ 2:24)モーセの律法によれば,この捧げ物は貧しい人のために規定されたものでした。(レビ記 12:6-8)やがて,身分の低いこの家族は大きくなりました。ヨセフとマリアは,イエスが奇跡的に誕生した後,少なくとも6人の子どもを自然の方法でもうけています。(マタイ 13:55,56)ですからイエスは大家族の中で成長しました。その暮らし向きはおそらく質素なものだったでしょう。
10 マリアとヨセフが神を恐れる人であったことは,何から分かりますか。
10 イエスを育てたのは,神を恐れ,子を気遣う親でした。イエスの母マリアは,際立った女性でした。み使いガブリエルがマリアへのあいさつの中で,「こんにちは,大いに恵まれた者よ。エホバはあなたと共におられます」と語ったことを思い起こしてください。(ルカ 1:28)ヨセフも信仰の厚い人でした。過ぎ越しのため,エルサレムまで150㌔の行程を踏んで,毎年忠実に旅をしました。そうする義務は男子にしかありませんでしたが,マリアもそこに出席しました。(出エジプト記 23:17。ルカ 2:41)そのような時のこと,ヨセフとマリアは丹念に捜した末,12歳のイエスが神殿で教師たちの真ん中にいるところを見つけました。心を痛めていた両親に対してイエスは,「私が自分の父の家にいるはずのことをご存じではなかったのですか」と言いました。(ルカ 2:49)「父」― この語は,少年イエスにとって,温かで力強い響きを帯びていたに違いありません。まず,イエスはエホバが本当の父であることを告げられていたものと思われます。それに加え,ヨセフはイエスにとって,りっぱな養父だったに違いありません。エホバが,愛するみ子を育てるのに,厳しい人や冷酷な人を選ばれるはずはありません。
11 イエスはどんな手職を身につけましたか。聖書時代,その職に携わることには何が関係していましたか。
11 イエスはナザレにいた時,大工の仕事を身につけました。養父ヨセフから学んだのでしょう。イエスはその手職に習熟していたので「大工」と呼ばれました。(マルコ 6:3)聖書時代,大工は家を建てたり,家具(食卓や台や腰掛けを含む)を作ったり,農具を製作したりしました。西暦2世紀の殉教者ユスティヌスは自著「トリュフォンとの対話」の中で,イエスは「人間の中にいた時,大工として働く習慣があり,鋤やくびきを作った」と書いています。それは楽な仕事ではありませんでした。昔の大工はおそらく木材を購入できなかったと考えられるからです。きっと戸外に出ては木を選び,斧を振るい,木材を家に持ち帰ったことでしょう。ですからイエスは,生計を立て,客の相手をし,帳尻を合わせることの難しさに通じていたものと思われます。
12 ヨセフがイエスよりも前に亡くなったと思われることは,どんな点から分かりますか。このことはイエスにとってどんな意味があったはずですか。
12 長男であったイエスは,家族の面倒を見ることに関与したことでしょう。そう言えるのは特に,ヨセフがイエスよりも前に亡くなったと考えられるからです。b 「シオンのものみの塔」誌(英語),1900年1月1日号は,こう述べています。「伝承によれば,ヨセフはイエスがまだ若いころに亡くなり,イエスが大工の職を継いで一家を養ったとされている。聖書にはそれを裏づける証拠らしきものがある。イエス自身が大工と呼ばれ,イエスの母や兄弟たちのことが述べられていながら,ヨセフについては沈黙しているのである。(マルコ 6:3)……ゆえに,我らの主は[ルカ 2章41節から49節に記録されている]出来事が生じた時からバプテスマの時までの長い18年間を,生活の通常の務めを果たすために用いた可能性が高い」。マリアとその子どもたち ― イエスを含む ― は,愛する夫あるいは父親を亡くした時の痛みを知っていたものと思われます。
13 宣教を開始した時,イエスには他のどんな人間にもないような知識,洞察力,深い感情が備わっていたのはなぜですか。
13 明らかに,イエスは安楽な生活環境の中に生まれてきたのではありません。むしろイエスは,普通の人々の生活をじかに経験しました。そして西暦29年,イエスのために用意されていた神からの任務を果たす時が訪れました。イエスはその年の秋に水のバプテスマを施され,神の霊的な子として生み出されました。『イエスに対して天が開けた』とあるのは,人間になる前,天にいた時のことを,例えばその時期に考えたことや感じたことも思い起こせるようになったという意味のようです。(ルカ 3:21,22)ですから,宣教を開始した時,イエスには他のどんな人間にもないような知識,洞察力,深い感情が備わっていました。福音書筆者たちが,重点的にイエスの宣教に関連した出来事を記述したのは当を得たことでした。それでも,イエスの言動を逐一記録することはできませんでした。(ヨハネ 21:25)とはいえ,福音書筆者が霊感のもとに書き記した事柄から,これまでに生存した最も偉大な人の思いを洞察することができます。
イエスはどんな人だったか
14 福音書は,イエスが優しい温かさと深い感情を持つ人であることを,どのように描いていますか。
14 福音書から浮かび上がるイエスの性格には,優しい温かさと深い感情が備わっています。イエスが示した感情には広い幅がありました。例えば,らい病人に対する哀れみ(マルコ 1:40,41),反応の鈍い人々に対する悲嘆の情(ルカ 19:41,42),貪欲な両替人に対する義憤(ヨハネ 2:13-17)などがあります。イエスは感情移入のできる人であり,心を動かされて涙を流すこともありました。自分の感情を押し隠したりしませんでした。愛する友ラザロが死んだ時,ラザロの姉妹であるマリアが泣き悲しんでいるのを見て深く心を動かされ,涙を流しました。他の人たちの面前で泣いたのです。―ヨハネ 11:32-36。
15 イエスの優しい感情は,他の人々に対する見方や扱い方にどのようにはっきり示されましたか。
15 イエスの優しい感情は,他の人々に対する見方や扱い方に特にはっきり示されました。イエスは貧しい人や虐げられた人に近づき,「自分の魂にとってさわやかなものを見いだす」よう助けました。(マタイ 11:4,5,28-30)忙しすぎて,苦しんでいる人たちの必要にこたえられない,ということはありませんでした。出血の問題を抱え,イエスの衣にそっと触れた女性に対しても,黙っていられなかった盲目のこじきに対してもそうでした。(マタイ 9:20-22。マルコ 10:46-52)イエスは他の人の良い点を探し,人々を褒めました。しかし,必要なときには戒めも進んでお与えになりました。(マタイ 16:23。ヨハネ 1:47; 8:44)女性の権利がほとんど認められていなかった時代に,イエスは相応の品位と敬意をもって女性を扱いました。(ヨハネ 4:9,27)一群の女性が自発的に,自分の持ち物をもってイエスに奉仕していたのもうなずけます。―ルカ 8:3。
16 イエスが実生活について,また物質上のものについて平衡の取れた見方をしていたことは,どんな点に表われていますか。
16 イエスは,実生活について平衡の取れた見方をしていました。イエスにとって物質上のものは最重要ではありませんでした。物質上のものに関して言えば,イエスはほとんど持っておられなかったようです。自分には「頭を横たえる所が(ない)」と語っておられます。(マタイ 8:20)同時にイエスは,他の人の喜びを増し加えました。婚宴 ― 一般に音楽を奏で,歌を歌い,歓びのあふれるとき ― に出席した時,その場をしらけさせようとしていたのでないことは明らかです。それどころかイエスは,その場で最初の奇跡を行ないました。ぶどう酒が足りなくなったとき,水を上等のぶどう酒に変えました。ぶどう酒は,「死すべき人間の心を歓ばせる」飲み物です。(詩編 104:15。ヨハネ 2:1-11)そのおかげで祝宴は中断することなく,花嫁と花婿はきまりの悪い思いをせずにすんだことでしょう。イエスが平衡を保っておられたことは,長時間,懸命に宣教奉仕に携わった時に関する記述がずっと多いことにも表われています。―ヨハネ 4:34。
17 イエスが優れた教師であったとしても驚くに当たらないのはなぜですか。その教えには,何が表われていますか。
17 イエスは優れた教師でした。その教えの多くは,イエスが熟知していた日常生活の実情に即したものでした。(マタイ 13:33。ルカ 15:8)イエスの教え方は比類のないもので,至って明快,簡潔,かつ実際的でした。さらに重要なのは,イエスの教えそのものです。イエスの教えには,聴き手にエホバの考えや感情や物事の行ない方を知らせたいという心からの願いが表われています。―ヨハネ 17:6-8。
18,19 (イ)イエスは生き生きとしたどんな言葉でみ父を描写しましたか。(ロ)次の記事では何が取り上げられますか。
18 イエスはしばしば例えを用い,すぐには忘れられない生き生きとした言葉でみ父を明らかにしました。神の憐れみについて一般論を語ることと,進んで許す父親にエホバをなぞらえることとは全く別です。その父親は,戻ってくる息子の姿を見て感極まり,『走って行って息子の首を抱き,優しく口づけする』のです。(ルカ 15:11-24)イエスは,宗教指導者たちが民衆をさげすむような柔軟性のない文化を退け,み父は近づきやすい神であられる,と説明しました。誇り高いパリサイ人のこれ見よがしな祈りよりも,謙遜な収税人の懇願を好む方なのです。(ルカ 18:9-14)エホバは気遣ってくださる神であり,小さなすずめが地面に落ちたこともご存じである,とイエスは述べています。そして「恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」と言って弟子たちを安心させます。(マタイ 10:29,31)人々がイエスの「教え方」に驚き入り,イエスに引き寄せられたのも当然のことでした。(マタイ 7:28,29)実際,ある時には「大群衆」が,何も食べずに3日近くもイエスのもとにとどまったのです。―マルコ 8:1,2。
19 わたしたちは,エホバがみ言葉の中でキリストの思いを明らかにしてくださったことを本当に感謝できます。しかし,どうすれば対人関係においてキリストの思いを培い,それを表わすことができるでしょうか。この点は,次の記事で取り上げます。
[脚注]
a 霊の被造物も交友関係から影響を受けるということは,啓示 12章3節と4節に示されています。その部分でサタンは,他の「星」つまり霊の子たちを反逆の歩みに加わらせるため,自分の影響力を行使することができた「龍」として描かれています。―ヨブ 38:7と比較してください。
b ヨセフに直接言及されている最後の箇所は,12歳のイエスが神殿で見つかった時の記述です。イエスが宣教を開始したころ,カナで催された婚宴にヨセフが出席していたとは述べられていません。(ヨハネ 2:1-3)西暦33年,杭につけられたイエスは,マリアの世話を愛する使徒ヨハネに託しました。ヨセフがまだ生きていたなら,そのようにはされなかったでしょう。―ヨハネ 19:26,27。
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あなたは「キリストの思い」を持っていますかものみの塔 2000 | 2月15日
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あなたは「キリストの思い」を持っていますか
「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなた方……に持たせてくださいますように」。―ローマ 15:5。
1 キリスト教世界の絵画の中で,イエスは多くの場合どのように描かれますか。そのようなイエスの描き方が正しくないのはなぜですか。
「その男は一度も笑ったためしがない」。実際の著者は別ですが,古代ローマの一役人が著わしたとされる文書の中で,イエスはそのように描写されています。11世紀ごろから現在の形で知られているこの文書は,数多くの芸術家に影響を与えてきたと言われています。a 多くの絵画に見るイエスは,笑顔をめったに見せない陰気な顔つきの人物として描かれています。しかし,そのようなイエスの描き方は正しくありません。福音書が描き出すイエスは,深い感情を持ち,温かく,心優しい方なのです。
2 どうすれば「キリスト・イエスと同じ精神態度」を培えますか。それを培えば,何ができるようになりますか。
2 明らかに,本当のイエスを知るには,この地上にいたイエスの真の人となりを正確に理解し,その理解で思いと心を満たさなければなりません。ですから「キリストの思い」,すなわちキリストの感情,感じ方,考え方,推論の仕方に対する洞察を与える福音書の記述を幾らか調べてみましょう。(コリント第一 2:16)その際,どうすれば「キリスト・イエスと同じ精神態度」を培えるかを考慮しましょう。(ローマ 15:5)そうすれば,生活の中で,また他の人たちと接する際に,イエスが示した模範になおいっそう見倣えるようになるでしょう。―ヨハネ 13:15。
近づきやすい
3,4 (イ)マルコ 10章13-16節の記述には,どんな背景がありますか。(ロ)イエスは,幼子たちが自分のところに来るのを弟子たちが止めようとした時,どう反応されましたか。
3 人々はイエスに引きつけられました。いろいろな機会に,さまざまな年齢や背景の人々が気兼ねなくイエスに近づきました。マルコ 10章13節から16節に記されている出来事を考慮してみましょう。それが起こったのは,宣教も終盤に入り,イエスが苦しみの死に立ち向かうため最終的にエルサレムに向かっていた時でした。―マルコ 10:32-34。
4 その情景を思い描いてください。人々は,イエスに祝福していただこうと,子どもたちを連れて来るようになります。幼児もその中に含まれていました。b しかし,弟子たちは子どもたちがイエスのところに来るのを止めようとします。そのような極めて重要な時期に,イエスは子どもたちに煩わされることを望んでおられないはずだと考えたのでしょう。しかし,弟子たちは間違っていました。弟子たちがしていることを知ったイエスは,喜びませんでした。イエスは子どもたちを自分のもとに呼び,「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません」と言われます。(マルコ 10:14)その後のイエスの動作には,本当に優しい,愛情深い態度がはっきり表われています。イエスは「子供たちを自分の両腕に抱き寄せ,……祝福しはじめ(た)」と記述されています。(マルコ 10:16)言うまでもなく,イエスの優しい腕の中に抱き寄せられた子どもたちは安心しきっていました。
5 マルコ 10章13-16節の記述は,イエスの人となりについて何を明らかにしていますか。
5 この短い記述から,イエスの人となりについて多くのことを読み取れます。イエスが近づきやすい方であったことに注目してください。天で高い地位に就いていたにもかかわらず,不完全な人間を威圧したり見下したりすることはありませんでした。(ヨハネ 17:5)また,子どもたちでさえイエスのそばで安心しきっていたというのは意味深いことではないでしょうか。ほほえんだり笑ったりすることのない冷たい人,喜びのない人に子どもが引き寄せられることはないでしょう。あらゆる年齢層の人がイエスに近づいたのは,イエスの温かな優しい人柄を感じ取り,イエスから追い返されることはないと確信していたからです。
6 長老たちはどうすれば,さらに近づきやすい存在になれますか。
6 わたしたちはこの記述について思い巡らし,『自分はキリストの思いを持っているだろうか。近づきやすい人間だろうか』と自問できるでしょう。この危機の時代に,神の羊は近づきやすい牧者を,つまり「風からの隠れ場」のような人を必要としています。(イザヤ 32:1,2。テモテ第二 3:1)長老の皆さんが仲間の兄弟たちに対する心からの誠実な関心を培い,兄弟たちのために進んで自分を差し出すとき,兄弟たちは皆さんの気遣いを感じ取るでしょう。皆さんの顔の表情を見,声の調子を聞き,親切な態度に目を留めて,気遣われていることを知るのです。そのような純粋な温かさと気遣いを示すなら,信頼感に満ちた雰囲気が醸し出され,子どもたちを含めだれにとっても,長老は近づきやすい存在になります。クリスチャンである一人の女性は,ある長老に胸中を明かすことができた理由についてこう述べました。「兄弟は,優しく,同情心にあふれた話し方をしてくださいました。そうでなければ,私は口を閉ざしていたと思います。兄弟は私を安心させてくださいました」。
他の人たちを思いやる
7 (イ)イエスは,人々への思いやりをどのようにはっきり示しましたか。(ロ)イエスが,ある盲人の視力を徐々に回復させたことには,どんな理由があると考えられますか。
7 イエスには思いやりがありました。人の気持ちをよく察することができました。苦しんでいる人を見ただけで深く心を動かされ,苦しみを和らげてあげたいという気持ちになりました。(マタイ 14:14)人々の限界や必要な事柄についても思いやりを示しました。(ヨハネ 16:12)ある時,人々は,ひとりの盲人をイエスのもとに連れて来て,ぜひいやしてくださいと訴えました。イエスはその人の視力を回復させますが,徐々にそうされます。その人の目にまず見えてきたのは,ぼんやりした人々の姿でした。つまり,『木のようなものですが,それらは歩き回っていた』のです。それからイエスは,その人の視力を完全に回復させます。徐々にいやされたのはなぜでしょうか。それには,暗闇の世界に慣れていた人が,日の当たる複雑な世界をいきなり目にする衝撃に順応できるようにする,という目的があったのかもしれません。―マルコ 8:22-26。
8,9 (イ)イエスと弟子たちがデカポリス地方に入って間もなく,どんなことが起きましたか。(ロ)イエスが耳の聞こえない人をどのようにいやしたかを述べてください。
8 西暦32年の過ぎ越しの後に生じた出来事も考えてみましょう。イエスと弟子たちは,ガリラヤの海の東側のデカポリス地方に入っていました。その場所で,やがて大群衆が彼らを見つけ,病気の人や障害を持つ人を大勢イエスのもとに連れて来ました。イエスはその人々をみな治しました。(マタイ 15:29,30)興味深いことに,イエスはある人に注目し,特別な思いやりを示しました。福音書筆者マルコだけがこの出来事を記録し,事の次第を伝えています。―マルコ 7:31-35。
9 その人は耳が聞こえず,ほとんど話すことができませんでした。イエスはこの人が特におどおどしたり当惑したりしている様子に気づいたのかもしれません。この時イエスは少し変わったことをされました。群衆の中からその人を連れ出し,人目につかない場所へ行きます。それから,ある身ぶりを用いて,自分がこれから行なうことをお伝えになります。イエスは「ご自分の指をその人の両耳に入れ,つばをかけてから,彼の舌に触れられ」ました。(マルコ 7:33)次にイエスは天を見上げ,祈るように息をつきます。示唆に富むこれらの動作は,『これからあなたのために行なうことは神の力によるのです』というメッセージをその人に伝えるものだったのでしょう。最後にイエスは,「開かれよ」と言われます。(マルコ 7:34)すると,その人は聴力を取り戻し,普通に話せるようになります。
10,11 どのように会衆内の他の人たちの気持ちを思いやることができますか。家庭ではどうですか。
10 イエスは他の人たちに何と深い思いやりを示されたのでしょう。人々の気持ちをよく察することができました。それだけでなく,このような同情心にあふれた見方に動かされて,イエスは人の気持ちを傷つけないように行動されました。クリスチャンであるわたしたちが,この面でキリストの思いを培って表わすのはよいことです。聖書はこう勧めています。「あなた方はみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を抱き,優しい同情心に富み,謙遜な思いを抱きなさい」。(ペテロ第一 3:8)そうするためには,他の人の気持ちを考慮に入れて話し,行動することがどうしても必要です。
11 会衆内では,他の人の尊厳を認め,自分が扱ってもらいたいと思うのと同じように相手を扱うことによって,他の人の気持ちに思いやりを示せます。(マタイ 7:12)これには,何を言うかだけでなく,どのように言うかによく注意することが含まれます。(コロサイ 4:6)『無思慮な言葉は剣のように突き刺す』ことを忘れてはなりません。(箴言 12:18)家庭ではどうでしょうか。互いに心から愛し合っている夫婦は,相手の気持ちをよく察することができます。(エフェソス 5:33)口論したり,がみがみ小言を言ったり,辛らつな嫌味を言ったりしないようにします。それらはみな感情を傷つけることがあり,傷つけられた感情は容易にはいやされません。子どもにも感情があるので,愛情深い親はそのことを考慮に入れます。矯正が必要なときも,愛情深い親は子どもの尊厳を重んじながら矯正し,不必要にきまりの悪い思いをさせないようにします。c (コロサイ 3:21)このようにして他の人たちに思いやりをはっきり示すとき,わたしたちはキリストの思いを持っていることを示しているのです。
他の人を進んで信頼する
12 イエスは弟子たちについて,平衡の取れた現実的などんな見方をしていましたか。
12 イエスは弟子たちについて,平衡の取れた現実的な見方をしていました。弟子たちが完全ではないことをよく理解しておられたのです。何と言ってもイエスは人の心を読むことのできる方でした。(ヨハネ 2:24,25)それでもイエスは,弟子たちの不完全さのみに注目するのではなく,良い特質にも注目されました。また,エホバが引き寄せられたそれらの人たちの可能性にも目を留めました。(ヨハネ 6:44)イエスが弟子たちについて積極的な見方をしていたことは,弟子たちとの接し方,弟子たちの扱い方にはっきり示されています。その一つは,弟子たちへの信頼を進んで示されたことです。
13 イエスは弟子たちを信頼していることをどのように示しましたか。
13 イエスはその信頼をどのように表わしたのでしょうか。イエスは地を去る時に,油そそがれた弟子たちに重責をゆだねました。ご自分の王国にかかわる世界的な関心事を顧みる責任を弟子たちに託したのです。(マタイ 25:14,15。ルカ 12:42-44)イエスは宣教奉仕に携わっていた間,小さなこと,あまり重要でないことにおいても弟子たちへの信頼を示しました。食べ物を奇跡的に増やして群衆に食事をさせた時は,食べ物を配る責任を弟子たちにゆだねておられます。―マタイ 14:15-21; 15:32-37。
14 マルコ 4章35-41節の記述をどのように要約できますか。
14 マルコ 4章35節から41節の記述についても考えてみましょう。この時,イエスと弟子たちは舟に乗り,ガリラヤの海を東に向かって航行しました。舟が岸を離れるや,イエスは舟の後ろのほうで横になり,ぐっすり眠り込みます。ところが,すぐに「猛烈な風あらしが起こり」ます。ガリラヤの海でそのようなあらしが起こるのは珍しいことではありません。ガリラヤの海は湖面が低いため(海面下200㍍ほど),気温が周辺の地域よりもずっと高く,そのために大気の乱れが生じます。加えて,北方のヘルモン山から強風がヨルダン渓谷に吹き下ろします。なぎであったかと思うと,次の瞬間には荒れ狂うあらしになる,ということもあります。次のことを考えてみてください。イエスはガリラヤで育ったので,普通のあらしがどういうものかをご存じだったに違いありません。それでも,漁師も含まれていた弟子たちの腕を信頼し,安心して眠っておられました。―マタイ 4:18,19。
15 弟子たちを進んで信頼したイエスにどのように見倣えますか。
15 わたしたちも,弟子たちを進んで信頼したイエスに見倣えるでしょうか。中には,他の人に責任をゆだねることに困難を覚える人もいます。言ってみれば,いつも自分でかじを取らなければ気が済まないのです。『物事をきちんとするには,自分でするしかない』と考えるのでしょう。しかし,何もかも自分でしようと思うと,疲れ切ってしまうおそれがあり,家族と過ごす時間がむやみに奪われてしまう危険もあります。そのうえ,ふさわしい仕事や責任をゆだねることをしなければ,他の人が必要な経験を積んだり訓練を受けたりする機会を奪うことにもなりかねません。他の人を信頼し,物事をゆだねることを学ぶのは賢明な方法でしょう。正直にこう自問するのはよいことです。『自分はこの点でキリストの思いを持っているだろうか。他の人が最善を尽くすことに信頼を置き,特定の仕事を進んでゆだねるだろうか』。
イエスは弟子たちを信じていることを言葉で示した
16,17 イエスは,地上で過ごした最後の晩,自分が使徒たちに見捨てられることを知っていたにもかかわらず,弟子たちにどんなことを確約されましたか。
16 イエスは,もう一つ重要な面で,弟子たちについて積極的な見方をしておられることをはっきり示しました。自分は弟子たちを信頼しているということを知らせたのです。このことは,地上で過ごした最後の晩に使徒たちに語った励ましの言葉にはっきり示されています。どんなことがあったかに注目してください。
17 それはイエスにとって忙しい晩でした。イエスは使徒たちの足を洗うことにより,謙遜であるべきことを具体的に教えました。その後,ご自分の死の記念となる晩さんを制定されます。そのうちに使徒たちは,自分たちの中で一番偉いのはだれなのだろうかと,またもや激しい論争を繰り広げます。イエスは終始一貫して辛抱強く,使徒たちをしかりつけたりせず,筋道を立てて考えさせます。そして,前途にある事柄をお知らせになります。「今夜,あなた方は皆わたしに関してつまずくでしょう。『わたしは牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになるであろう』と書いてあるからです」。(マタイ 26:31。ゼカリヤ 13:7)イエスは,自分がこれから窮地に立たされ,ごく親しい仲間たちからも見捨てられることをご存じでした。それでも,彼らを責めたりしませんでした。それどころか,「しかしわたしは,よみがえらされた後,あなた方に先立ってガリラヤに行きます」と言われます。(マタイ 26:32)使徒たちから見捨てられるとしても,自分は使徒たちを見捨てることはない,と保証されたのです。この厳しい試練が過ぎたなら,使徒たちと再会するのです。
18 イエスはガリラヤで,弟子たちにどんな重要な任務を託しましたか。使徒たちはその任務をどのように遂行しましたか。
18 イエスは約束を守りました。後日,復活したイエスはガリラヤで,11人の忠実な使徒たちに現われました。ほかにも大勢の人がその場に居合わせたものと思われます。(マタイ 28:16,17。コリント第一 15:6)イエスはその際,弟子たちに次の重要な任務を与えました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)「使徒たちの活動」の書には,使徒たちがこの任務を遂行したことを示す明白な証拠が収められています。1世紀に使徒たちは,良いたよりを宣べ伝える業の先頭に立ち,忠実に働きました。―使徒 2:41,42; 4:33; 5:27-32。
19 復活した後のイエスの行動は,キリストの思いについて何を教えていますか。
19 この啓発的な記述は,キリストの思いについて何を明示しているでしょうか。イエスは使徒たちの最も悪い面を見ていましたが,「彼らを最後まで愛され」ました。(ヨハネ 13:1)使徒たちに落ち度があっても,使徒たちを信じていることを知らせたのです。イエスの信頼の置きどころが間違ってはいなかったことに注目してください。使徒たちは,自分たちが信頼され信用されていることを示す,以前のイエスの言葉によって強められ,命じられた業を果たす決意を固めたに違いありません。
20,21 仲間の信者について積極的な見方をしていることを,どのように示せますか。
20 この面でどのようにキリストの思いを表わせるでしょうか。仲間の信者について悲観的な見方をしないようにしましょう。最も悪い面について考えていると,おのずとそれが言葉や行動に表われてしまうものです。(ルカ 6:45)しかし聖書は,愛は「すべての事を信じ(る)」と述べています。(コリント第一 13:7)愛は消極的ではなく積極的です。愛は人を打ち壊すのではなく築き上げます。人々は脅しではなく,愛や励ましにいっそう快くこたえ応じます。わたしたちは,人々への信頼を言い表わすことにより,他の人を築き上げ,励ますことができます。(テサロニケ第一 5:11)キリストのように,兄弟たちについて積極的な見方をしているなら,兄弟たちを築き上げるような,また兄弟たちの最も良いところを引き出すような接し方ができるでしょう。
21 キリストの思いを培って表わすことには,イエスが行なった特定の事柄を見倣う以上のことが関係しています。前の記事に述べられているとおり,本当にイエスのように行動したいなら,まずイエスと同じような物の見方ができなければなりません。福音書を調べるなら,イエスの性格のもう一つの面,つまり自分に割り当てられた業についてどう考え,どう感じておられたかが分かります。この点は,次の記事で取り上げます。
[脚注]
a この文書の中で偽作者は,イエスの髪やひげの色,目の色など,イエスの風貌とされるものを描写しています。聖書翻訳者エドガー・J・グッドスピードの説明によれば,この偽作には,「画家のための手引き書に収められている,イエスの風貌に関する描写の普遍性を高める意図」がありました。
b 子どもたちの年齢には開きがあったようです。ここで「幼子」と訳されている語は,ヤイロの12歳の娘にも用いられています。(マルコ 5:39,42; 10:13)しかし,ルカは並行記述の中で,幼児にも用いられる語を充てています。―ルカ 1:41; 2:12; 18:15。
c 「ものみの塔」誌,1998年4月1日号,「他の人の尊厳を重んじますか」という記事をご覧ください。
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あなたはイエスのような動機で行動しますかものみの塔 2000 | 2月15日
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あなたはイエスのような動機で行動しますか
「イエスは大群衆をご覧になったが,彼らを哀れに思われた。彼らが羊飼いのいない羊のようであったからである。そして,彼ら……を教え始められた」。―マルコ 6:34。
1 人間がりっぱな特質を示すのはなぜ不思議なことではありませんか。
いつの時代にも,りっぱな特質を示す人は大勢いました。その理由ははっきりしています。エホバ神は,愛,親切,寛大さなど,わたしたちが高く評価する特質を持ち,それらを表わしておられます。人は神の像に創造されました。多くの人が愛,親切,同情心といった敬虔な特質をある程度示し,大部分の人々に良心の働きが認められる理由も,これで理解することができます。(創世記 1:26。ローマ 2:14,15)とはいえあなたは,このような特質を難なく表わせる人もいることにお気づきかもしれません。
2 人々は,おそらくキリストに見倣うことになると考え,どんな良い業を行なうかもしれませんか。
2 あなたも,しばしば病人のお見舞いや介護をする人,障害を持つ人たちに思いやりを示す人,あるいは貧しい人々に寛大な施しをする人などをご存じでしょう。また,同情心を動機として,らい療養所や孤児院での奉仕に身を投じる人,病院やホスピスでボランティアとして働く人,ホームレスの人や難民の支援のために尽くす人のことも考えてみてください。その中には,自分はクリスチャンの手本イエスに見倣っている,と思う人もいるでしょう。福音書には,キリストが病人をいやし,おなかをすかせた人々に食べ物を与えたことが記されています。(マルコ 1:34; 8:1-9。ルカ 4:40)イエスが示した愛,優しさ,同情心は「キリストの思い」の表われであり,キリストは天の父に見倣っていました。―コリント第一 2:16。
3 イエスの良い業について平衡の取れた見方ができるよう,どんな点を考慮する必要がありますか。
3 しかし今日,イエスの愛や同情心に感動しても,キリストの思いの重要な特色を見過ごしている人が多いことにお気づきでしょうか。その特色については,マルコ 6章を注意深く調べることによって洞察することができます。そこには,人々がいやしてもらうためイエスのもとに病人を連れて来たことが記されています。その文脈から,イエスは自分のもとに来た幾千という人々がおなかをすかせたのを見て奇跡を行ない,食べ物を与えたということも分かります。(マルコ 6:35-44,54-56)病人をいやし,おなかのすいた人々に食べ物を与えることには,愛ある同情心が見事に表わされていましたが,イエスは人々を助けるに当たって,このような方法を重視されたのでしょうか。また,イエスがエホバを見倣ったのと同じように,わたしたちが愛,親切,同情心に関するイエスの完全な手本を最大限見倣うには,どうすればよいのでしょうか。
霊的な必要にこたえたいと願う
4 マルコ 6章30-34節の記述にはどんな背景がありますか。
4 イエスが周囲の人々に哀れみを感じたのは,おもに人々の霊的な必要のためでした。霊的な必要こそ最も重要なものであり,身体的な必要よりも重要です。マルコ 6章30節から34節の記述を考慮してください。そこに記されている出来事は,西暦32年の過ぎ越しが迫っていたころ,ガリラヤの海の岸で起きました。使徒たちは興奮していました。それもそのはず,使徒たちは広い地域を旅行して,今し方イエスのもとに帰って来たばかりなのです。経験した事柄をぜひともイエスに話したいと思っていたに違いありません。しかし,大勢の人が集まってしまいました。その数があまりに多かったので,イエスも使徒たちも食べたり休んだりすることができません。イエスは使徒たちに,「さあ,あなた方は自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい」と言われます。(マルコ 6:31)一行はカペルナウムの近くと思われる場所で舟に乗り,静かな場所を目ざしてガリラヤの海を渡りました。ところが,群衆は岸伝いに駆けつけ,舟より先に着いてしまいます。イエスはどう反応するでしょうか。プライバシーをかき乱されて苛立ったでしょうか。そのようなことは全くありませんでした。
5 イエスは,自分のところに来た群衆についてどう思いましたか。それにこたえて,何をされましたか。
5 イエスは,幾千人もの人々が群れを成し,熱心に待ち構えている様子を見て心を動かされました。群衆に交じって病気の人もいたのです。(マタイ 14:14。マルコ 6:44)マルコは,なぜイエスが同情心を抱いたか,またイエスがどう反応したかに着目してこう書きました。「イエスは大群衆をご覧になったが,彼らを哀れに思われた。彼らが羊飼いのいない羊のようであったからである。そして,彼らに多くのことを教え始められた」。(マルコ 6:34)イエスは,人々を単に集団としてご覧になったわけではありません。霊的な必要を持つ個々の人に目を留められたのです。彼らは,緑豊かな牧草地に導いたり守ったりしてくれる羊飼いを持たず,なす術もなくさまよう羊のようでした。イエスは,本来なら気遣いを示す羊飼いであるべき宗教指導者たちが冷淡であり,実際には民衆をさげすみ,霊的な必要を顧みていないことを知っていました。(エゼキエル 34:2-4。ヨハネ 7:47-49)イエスは,それとは違う接し方を志し,人々のために考え得る最大の善を行なわれました。神の王国について人々に教えはじめたのです。
6,7 (イ)福音書は,イエスが人々の必要にこたえて何を優先したことを明らかにしていますか。(ロ)イエスはどんな動機で宣べ伝え,教えましたか。
6 並行記述の中で明らかにされている出来事の順序,および示唆されている優先順位に注目してください。それを書き記したのはルカです。ルカは医師であり,他の人の身体的福祉に強い関心を抱いていました。「群衆は……[イエス]のあとに付いて行った。それでイエスは彼らを親切に迎え,神の王国について話しはじめ,また治療を必要とする者たちをおいやしになった」。(ルカ 9:11。コロサイ 4:14)奇跡を取り上げたどの記述にも当てはまるわけではありませんが,この場合,霊感のもとに記されたルカの記述で第一に挙げられているのはどんなことでしょうか。イエスが人々を教えた,ということです。
7 実際このことは,マルコ 6章34節で強調されている事柄と一致しています。その節には,イエスがおもにどのようなかたちで哀れみを示したいと思われたかが明示されています。イエスは人々の霊的な必要にこたえるために人々を教えたのです。それよりも前,イエスは宣教に携わっていた時,「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」と述べました。(ルカ 4:43)とはいえ,イエスが単なる義務感から王国の音信をふれ告げたと考えるなら,つまり,行なわなければならない宣べ伝える業を型通りこなしたと考えるなら,わたしたちは思い違いをしていることになります。そうではなく,人々に対する愛ある同情心こそ,良いたよりを伝えたおもな動機でした。病気の人,悪霊に悩まされている人,貧しい人,飢えている人に対しても,イエスが成し得た究極の善は,神の王国に関する真理を知り,受け入れ,愛するよう助けることでした。エホバの主権を立証し,人類に永続する祝福をもたらす点で王国が果たす役割からすれば,その真理は極めて重要なものでした。
8 イエスは,宣べ伝えて教えることについてどのように感じていましたか。
8 王国について活発に宣べ伝えることは,イエスが地に来た主要な理由でした。地上での宣教も終わろうとしていたころ,イエスはピラトにこう告げました。「真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。(ヨハネ 18:37)前の二つの記事で,イエスが優しい感情を持つ方であったことに着目しました。気遣いを示し,近づきやすく,思いやりがあり,人を信頼し,何よりも愛のある方でした。キリストの思いを本当に理解したいと思うなら,イエスの性格のそれらの面を十分に把握する必要があります。キリストの思いには,イエスが宣べ伝えて教える業を優先させたことが含まれており,その点を理解するのも,同じく重要な事柄です。
イエスは証しするよう人々に熱心に勧めた
9 宣べ伝え,教えることは,だれにとって優先すべき事柄でしたか。
9 愛や同情心の表われとして宣べ伝え,教える業を優先するのは,イエスだけに求められていたのではありません。イエスは追随者たちに,ご自分の動機,優先順位,行動にぜひ見倣うようにと勧めました。例えば,イエスが十二使徒を選んだ後,彼らは何をすることになっていましたか。マルコ 3章14,15節にはこうあります。「イエスは十二人の群れを作り,また彼らを『使徒』と名づけられた。これは,彼らがイエスのもとにとどまり,また,イエスが彼らを遣わして宣べ伝えさせ,悪霊たちを追い出す権威を持たせるためであった」。使徒たちが何を優先すべきであったか,お分かりでしょうか。
10,11 (イ)イエスは使徒たちを遣わす際,何をするよう指示しましたか。(ロ)使徒たちが遣わされたとき,何が主眼とされましたか。
10 やがてイエスは,その12人が実際に人々をいやし,悪霊たちを追い出せるようにされました。(マタイ 10:1。ルカ 9:1)それから,「イスラエルの家の失われた羊」のもとに使徒たちを送り出します。何をさせるためでしょうか。イエスはこう指示しておられます。「行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病気の人を治し,死んだ者をよみがえらせ,らい病人を清め,悪霊を追い出しなさい」。(マタイ 10:5-8。ルカ 9:2)彼らは実際に何をしたのでしょうか。「それで彼らは出かけて行き,[1]人々が悔い改めるように伝道した。そして[2]多くの悪霊を追い出し,また大勢の病身の人に油を塗ってその人々を治すのであった」と記されています。―マルコ 6:12,13。
11 教えることがいつも最初に述べられているとは限らないことからすると,優先順位の問題や関係する動機について前節のような順序に注目するのは行き過ぎでしょうか。(ルカ 10:1-9)しかし,いやすことが教えることの前に置かれている回数を無視するわけにはゆきません。この場合の文脈を考慮してください。イエスは十二使徒を遣わす直前,群衆の状態をふびんに思いました。こう記されています。「イエスはすべての都市や村を回る旅に出かけて,人々の会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え,あらゆる疾患とあらゆる病を治された。また,群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである。そこで,弟子たちにこう言われた。『確かに,収穫は大きいですが,働き人は少ないのです。それゆえ,収穫に働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人にお願いしなさい』」。―マタイ 9:35-38。
12 イエスと使徒たちの奇跡的な業により,どんな付加的な目的を果たすことができましたか。
12 使徒たちはイエスのそばにいることにより,キリストの思いを幾らか取り入れることができました。人々に対して本当に愛と同情心を示すことには,王国について宣べ伝え,教えることが含まれる,という点を理解できました。それが,使徒たちの行なう良い業における主要な特色となるのです。その点に調和して,病人をいやすことなど,身体面でのりっぱな業は,困窮している人を助ける以上のことを成し遂げました。想像できるように,ある人々は,いやしや奇跡的に備えられた食物によって引き寄せられたかもしれません。(マタイ 4:24,25; 8:16; 9:32,33; 14:35,36。ヨハネ 6:26)とはいえ,そうした業は身体面で助けとなっただけではありません。見守る人々はイエスが神の子であり,モーセの予告した「預言者」であることを実際に認めるようになったのです。―ヨハネ 6:14。申命記 18:15。
13 申命記 18章18節の預言は,来たるべき「預言者」の果たすどんな役割を強調していましたか。
13 イエスが「預言者」であることに重要な意味があったのはなぜでしょうか。その方について予告されていた主要な役割とは何でしたか。その「預言者」は奇跡的ないやしを行なう人,あるいは,おなかをすかせた人たちに同情心から食べ物を供給する人として名をはせることになっていたのでしょうか。申命記 18章18節はこう予言しています。「わたしは彼らのためにその兄弟たちの中からあなた[モーセ]のような預言者を起こす。わたしは自分の言葉をまさに彼の口に置き,彼はわたしが命じるすべてのことを必ず彼らに話すであろう」。ですから使徒たちは,優しい感情を抱き,それを表現することを学ぶと同時に,キリストの思いは宣べ伝え,教える活動においてもはっきり示されるべきであるという結論を出すことができました。それこそ,人々のために行なえる最善の事柄なのです。その方法を通して病気の人や貧しい人は,人間の短い寿命の枠にとらわれない,あるいは一,二度の食事だけで終わらない永続的な祝福を得ることができるのです。―ヨハネ 6:26-30。
今日,キリストの思いを身につける
14 宣べ伝える業には,キリストの思いを持つことがどのように関係していますか。
14 キリストの思いを1世紀に特有のもの ― イエスと初期の弟子たちだけのもの ― とみなす人はいないでしょう。確かに使徒パウロは初期の弟子たちについて,「わたしたちは,キリストの思いを持っている」と書いています。(コリント第一 2:16)そしてわたしたちは,良いたよりを宣べ伝え,弟子を作らなければならないことをすぐに認めます。(マタイ 24:14; 28:19,20)それでも,どんな動機でその業を行なっているかをじっくり考えることは有益です。単なる義務感から出たものであってはなりません。宣教奉仕に携わるおもな理由は,神への愛です。そして,本当の意味でイエスに似た者となることには,同情心を動機として宣べ伝え,教えることが含まれます。―マタイ 22:37-39。
15 公の宣教において同情心を抱くのがふさわしいのはなぜですか。
15 わたしたちと同じ信仰を持っていない人に対して同情心を抱くのは必ずしも容易なことではありません。無関心な態度を示されたり,拒否されたり反対されたりしたときはなおさらです。ですが,人々に対する愛や同情心を失うなら,クリスチャン宣教に携わる非常に重要な動機を失うことになりかねません。では,どのように同情心を培えるでしょうか。人々に対するイエスの見方に倣うよう努めることができます。つまり,「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されてい(る)」存在と見るのです。(マタイ 9:36)この描写は,今日の多くの人に当てはまるのではないでしょうか。人々は,宗教上の偽りの牧者たちによってないがしろにされ,霊的に盲目にされています。そのため,聖書に記されている確かな導きも,神の王国が間もなくこの地にもたらす楽園の状態についても知りません。王国の希望を持たないまま日常生活の諸問題 ― 貧困,家庭不和,病気,死など ― に直面しています。わたしたちは,人々が必要とするもの ― すでに天に設立された神の王国に関する,命を救う良いたより ― を持っているのです。
16 人々に良いたよりを伝えたいと願うべきなのはなぜですか。
16 こうして周囲の身近な人々の霊的な必要についてよく考えるなら,心を動かされ,神の愛ある目的を人々に告げる点でできる限りのことをしたいと思うのではないでしょうか。確かに,わたしたちが行なっているのは,同情心を示す業です。人々に対してイエスのような感じ方をしていれば,声の調子,顔の表情,教え方にはっきり表われるはずです。そうなれば,わたしたちが携える音信は「永遠の命のために正しく整えられた」人々にとっていっそう魅力的なものとなるでしょう。―使徒 13:48。
17 (イ)どんな方法で人々に愛や同情心を表わせますか。(ロ)これが,良い業を行なうか,公の宣教に携わるか,という二者択一の問題でないのはなぜですか。
17 もちろん,愛や同情心は生き方全体にはっきり表われているべきです。これには,恵まれない人,病気の人,貧しい人に親切にし,その苦しみを和らげるため無理なく行なえることをする,という点も含まれます。家族を亡くした人たちが深い悲しみを忘れることができるよう,わたしたちが言行両面で努力することも含まれています。(ルカ 7:11-15。ヨハネ 11:33-35)それでも,愛や親切や同情心をそのように表わすことは,良い業の中心に据えるべきものではありません。一部の人道主義者たちはそうしていますが,それに倣うわけにはゆきません。同様の敬虔な特質を動機としながらも,クリスチャンの宣べ伝えて教える業により明示される努力のほうが意義深く,しかも,その意義深さはずっと長く保たれます。イエスがユダヤ人の宗教指導者たちについて述べた事柄を思い起こしてください。「あなた方は,はっか・いのんど・クミンの十分の一を納めながら,律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視してい(ま)す。これらこそ行なうべきことだったのです。もっとも,それら他方の事柄も無視すべきではありません」。(マタイ 23:23)イエスにとってこれは二者択一の問題ではありませんでした。つまり,人々の身体的な必要物に関して助けを差し伸べることと,命を与える霊的な事柄を教えることのどちらを選ぶかという問題ではありませんでした。イエスはその両方を実践されました。それでも,教える業が最も重要であったことは明らかです。イエスがそのようにして成し遂げた善は,永続的な助けを与えることができたからです。―ヨハネ 20:16。
18 キリストの思いを考慮するとき,何をするよう促されるはずですか。
18 わたしたちは,エホバがキリストの思いを明らかにしてくださったことを本当に感謝できます。福音書を通して,これまでに生存した最も偉大な人の考えや感情,特質,活動,優先順位をよりよく知ることができます。聖書がイエスについて明らかにしている事柄を読み,黙想し,実行するかどうかは,わたしたちにかかっています。本当にイエスのように行動したいのであれば,第一に,イエスのように考え,感じ,物事を評価することを学ぶ必要があることを忘れてはなりません。不完全な人間として力の限りを尽くしてそうするのです。では,キリストの思いを培い,表わすことを決意しましょう。これに勝る生き方はありません。人に対する,これに勝る接し方はありません。わたしたちおよび他の人々が,キリストのうちに完全に反映されている優しい神エホバに近づくうえで,これに勝る方法はないのです。―コリント第二 1:3。ヘブライ 1:3。
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あなたはイエスのような動機で行動しますかものみの塔 2000 | 2月15日
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