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忍耐 ― クリスチャンにとって不可欠な特質ものみの塔 1993 | 9月15日
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忍耐 ― クリスチャンにとって不可欠な特質
『あなた方の信仰に忍耐を加えなさい』― ペテロ第二 1:5-7。
1,2 わたしたちが皆,終わりまで耐え忍ばなければならないのはなぜですか。
旅行する監督とその妻は,90代になる仲間のクリスチャンを訪ねていました。そのクリスチャンはそれまで何十年もの間,全時間宣教を行なってきました。互いに話を交わした中で,その年配の兄弟は長年にわたって楽しんできた特権についてあれこれと思い出を語りました。「でも」と言って嘆く兄弟のほほを涙がつたいました。「今はもう何をするにも大したことはできません」。旅行する監督は聖書を開いて,マタイ 24章13節を読みました。そこには,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」というイエス・キリストの言葉が引用されています。それから巡回監督は,その愛する兄弟を見つめてこう言いました。「どれほど多くのことを行なえるにしても,どれほどわずかしか行なえないとしても,わたしたちすべてが果たさなければならない最後の割り当ては,終わりまで耐え忍ぶことです」。
2 そうです,わたしたちは皆クリスチャンとして,この事物の体制の終わりまで,あるいはわたしたちの生涯の終わりまで,耐え忍ばなければなりません。エホバの是認を得て救われるには,そうするよりほかに道はありません。わたしたちは命を目指した競走に参加しており,ゴールラインを越えるまで「忍耐して走(ら)」なければなりません。(ヘブライ 12:1)使徒ペテロはこの特質の大切さを強調し,仲間のクリスチャンに,『あなた方の信仰に忍耐を加えなさい』と勧めました。(ペテロ第二 1:5-7)しかし,厳密に言って,忍耐とは何でしょうか。
忍耐 ― どんな意味があるか
3,4 耐え忍ぶとは,どういう意味ですか。
3 耐え忍ぶとは,どういう意味でしょうか。「耐え忍ぶ」に相当するギリシャ語の動詞(ヒュポメノー)には,「下にとどまる,あるいは下にいる」という字義通りの意味があります。この語は聖書に17回出て来ます。辞書編集者のW・バウアー,F・W・ギングリッチ,F・ダンカーによれば,この語は「逃げるのではなくとどまること……,じっと踏みとどまること,持ちこたえること」を意味します。「忍耐」に相当するギリシャ語の名詞(ヒュポモネー)は30回以上出て来ます。この言葉について,ウィリアム・バークレーの「新約聖書の用語集」という本はこう述べています。「これは,単なるあきらめではなく燃えるような希望をもって事態に耐えることのできる精神である。……人はこの特質によって,逆風に面しても自分の足で立ち続ける。これは,最もつらい試練でも栄光に変えることのできる美徳である。この美徳は,苦痛の向こうに目標を見るからである」。
4 ですから,わたしたちは,忍耐によってじっと踏みとどまることができます。忍耐があれば,障害や苦難に面しても希望を失うことはありません。(ローマ 5:3-5)忍耐は,当面の苦痛の向こうにある目標,つまりとこしえの命という賞,あるいは賜物を見つめます。それは,天における命の場合もあれば,地上における命の場合もあります。―ヤコブ 1:12。
忍耐 ― なぜ?
5 (イ)すべてのクリスチャンに「忍耐が必要」なのはなぜですか。(ロ)わたしたちの試練は,どんな二つの種類に分けることができますか。
5 クリスチャンとして,わたしたちにはみな「忍耐が必要」です。(ヘブライ 10:36)なぜでしょうか。基本的に言って,わたしたちは「さまざまな試練に遭う」からです。このヤコブ 1章2節のギリシャ語本文は,人が強盗に襲われる時のように,予期せぬ出来事や望ましくない出来事に遭遇することを暗示しています。(ルカ 10:30と比較してください。)わたしたちが遭う試練は,二つの種類に分けることができます。つまり,受け継いだ罪の結果として人が共通に経験する試練と,わたしたちの敬虔な専心のために生じる試練の二つです。(コリント第一 10:13。テモテ第二 3:12)そうした試練の中には,どんなものがあるでしょうか。
6 あるエホバの証人は,痛みの伴う病気にかかった時にどのように耐え忍びましたか。
6 重い病気。テモテのように,「度々かかる病気」を耐え忍ばなければならないクリスチャンがいます。(テモテ第一 5:23)非常な痛みなどの伴う慢性の病気にかかった時は特に,神の助けによって耐え忍び,じっと踏みとどまり,クリスチャンの希望を見失わないようにする必要があります。急速に悪化する悪性腫瘍を患い,長くてつらい闘病生活を続けた50代初めのエホバの証人の例について考えてみましょう。この人は2回手術を受け,輸血を受けないという決意をしっかりと固守しました。(使徒 15:28,29)しかし,腹部に腫瘍が再発すると,それが脊柱の近くで増殖を続けました。そのうちに,想像を絶する痛みが体を襲うようになりました。どれほど薬を投与しても痛みを抑えることはできませんでした。しかし,この人は当面の苦痛の向こうにある賞を見つめました。つまり,新しい世での命という賞です。彼は医師や看護婦や見舞い客に自分の燃えるような希望を話し続けました。まさに終わりまで ― 自分の生涯の終わりまで ― 耐え忍んだのです。あなたの場合,健康上の問題は命を脅かすものではないかもしれません。あるいは,この愛する兄弟が経験したほどの痛みは伴わないかもしれません。しかしそれでも,そのような問題は忍耐を大いに試みる場合があります。
7 わたしたちの霊的な兄弟姉妹の中には,どんな痛みを耐え忍んでいる人たちがいますか。
7 感情的な痛み。エホバの民の中には時折,「心の痛み」のゆえに「打ちひしがれた霊」を経験するようになる人たちがいます。(箴言 15:13)この「対処しにくい危機の時代」にあって,重度のうつ病は珍しいものではありません。(テモテ第二 3:1)サイエンス・ニューズ誌の1992年12月5日号はこう伝えています。「1915年以降に生まれた人々の間では,各世代が進むにつれて重度のうつ病の割合が高くなっており,それによって生活能力が奪われる場合も少なくない」。そのようなうつ病の原因は様々で,生理的な要因から,痛みを引き起こす不快な体験に至るまで多岐にわたります。忍耐するには,感情的な痛みを感じながらも,じっと踏みとどまるために日々闘わなければならないというクリスチャンもいます。しかし,彼らはあきらめません。涙を流すことはあっても,エホバに忠実であり続けるのです。―詩編 126:5,6と比較してください。
8 わたしたちは,経済面でどんな試練に遭うかもしれませんか。
8 わたしたちが遭うさまざまな試練の中には,経済面の深刻な苦難も含まれるかもしれません。アメリカのニュージャージー州に住むある兄弟は突然仕事を失った時,家族を養えるかどうか,家を失わずにすむかどうかについて心配しました。これは無理もないことです。しかし,この兄弟が王国の希望を見失うことはありませんでした。別の仕事を探している時には,その機会を活用して補助開拓者として奉仕しました。やがて,この兄弟は仕事を見つけました。―マタイ 6:25-34。
9 (イ)愛する人を亡くした時は,どのように忍耐が必要になるかもしれませんか。(ロ)悲しみの涙を流すのが間違っていないことをどんな聖句が示していますか。
9 愛する人を亡くすという経験をすれば,周りの人たちが普段の生活に戻ってからも長いあいだ忍耐が必要になります。毎年,愛する人が亡くなった時期には特につらくなると感じる場合さえあるかもしれません。そうした寂しさに耐える時,悲しみの涙を流すのは間違ったことではありません。愛していた人の死を嘆くのはごく自然なことであり,復活の希望に対する信仰が足りないということでは決してないのです。(創世記 23:2。ヘブライ 11:19と比較してください。)ラザロが死んだ後,イエスは「涙を流され」ました。マルタに対しては確信をこめて,「あなたの兄弟はよみがえります」と言っておられたにもかかわらず,イエスはそうされたのです。そして実際にラザロはよみがえりました。―ヨハネ 11:23,32-35,41-44。
10 エホバの民にはなぜ,独特の面で忍耐が必要ですか。
10 すべての人が共通に経験する試練を耐え忍ぶことに加えて,エホバの民には独特の面で忍耐が必要です。「あなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」と,イエスは警告されました。(マタイ 24:9)イエスはまた,「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう」と言われました。(ヨハネ 15:20)どうして,あらゆる憎しみや迫害を受けるのでしょうか。わたしたちが神の僕としてこの地上のどこに住んでいるかにかかわりなく,サタンはエホバに対するわたしたちの忠誠を打ち砕こうと躍起になっているからです。(ペテロ第一 5:8。啓示 12:17と比較してください。)そのために,サタンはしばしば迫害の炎をあおって,わたしたちの忍耐を厳しく試みてきました。
11,12 (イ)1930年代から1940年代の初めにかけて,エホバの証人とその子供たちは忍耐のどんな試みに直面しましたか。(ロ)エホバの証人が国家の象徴に敬礼しないのはなぜですか。
11 例えば,1930年代から1940年代の初めにかけて,アメリカとカナダのエホバの証人とその子供たちは,良心上の理由から国家の象徴に敬礼しなかったために迫害の的となりました。エホバの証人は,自分の住んでいる国の象徴を尊重しますが,神の律法に記されている原則に従って行動します。出エジプト記 20章4節と5節にはこうあります。「あなたは自分のために,上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない。あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神(だからである)」。あるエホバの証人の子供たちがエホバ神だけを崇拝することを望んだために退学処分を受けた時,エホバの証人は王国学校を設置してその子供たちを教育しました。合衆国最高裁判所が現在の開かれた国々と同様に,エホバの証人の宗教上の立場を認めた時,その子供たちは公立学校に復学しました。しかし,こうした子供たちの勇気ある忍耐は,聖書の規準に従おうと努力するために今嘲笑されているかもしれないクリスチャンの子供たちにとって特に立派な模範となっています。―ヨハネ第一 5:21。
12 わたしたちが遭うさまざまな試練は ― 人に共通の試練も,クリスチャンの信仰のゆえに直面する試練も ― わたしたちに忍耐が必要な理由を示しています。しかし,どのように耐え忍ぶことができるでしょうか。
終わりまで耐え忍ぶ ― どのように?
13 エホバはどのように忍耐を与えてくださいますか。
13 神の民は,エホバを崇拝しない人々よりも非常に有利な立場にいます。わたしたちは,『忍耐を与えてくださる神』に助けを求めることができます。(ローマ 15:5)しかし,エホバはどのようにして忍耐を与えてくださるのでしょうか。一つの方法として,神はみ言葉である聖書に記されている忍耐の模範によってそうされます。(ローマ 15:4)わたしたちはそうした模範についてよく考える時,耐え忍ぶための励みを得るだけでなく,耐え忍ぶ方法についても多くのことを学びます。では,二つの際立った模範について考えてみましょう。つまり,ヨブの勇気ある忍耐と,イエス・キリストの非の打ちどころのない忍耐です。―ヘブライ 12:1-3。ヤコブ 5:11。
14,15 (イ)ヨブはどんな試練を耐え忍びましたか。(ロ)ヨブはどのように,自分の直面した試練を耐え忍ぶことができましたか。
14 ヨブの忍耐はどんな状況によって試されたでしょうか。財産の大半を失った時には,経済上の苦難に遭いました。(ヨブ 1:14-17。ヨブ 1:3と比較してください。)暴風によって10人の子供たちが全員死んだ時には,失うことの苦しみを味わいました。(ヨブ 1:18-21)非常な痛みの伴う重い病気にもかかりました。(ヨブ 2:7,8; 7:4,5)自分の妻からも,神を捨てるように迫られました。(ヨブ 2:9)親しい仲間からは,辛らつで,冷酷で,事実に反したことを言われました。(ヨブ 16:1-3とヨブ 42:7を比較してください。)しかしヨブは,こうしたことすべてを経験しても,じっと踏みとどまり,忠誠を保ちました。(ヨブ 27:5)ヨブが耐え忍んだ事柄は,エホバの民が現在直面する試練とよく似ています。
15 ヨブはどのようにして,こうした試練をすべて耐え忍ぶことができたのでしょうか。特にヨブの支えになったものの一つは,希望でした。「樹木にさえ望みがあるのだから。たとえ切り倒されても,それはまさしく再び芽を出し,その若枝は絶えることはない」と,ヨブは言いました。(ヨブ 14:7)ヨブにはどんな希望があったのでしょうか。数節後に書かれているとおり,ヨブはこう言いました。「もし,強健な人が死ねば,また生きられるでしょうか。……あなたは呼んでくださり,私はあなたに答えます。ご自分のみ手の業をあなたは慕われます[もしくは,思いこがれます]」。(ヨブ 14:14,15)そうです,ヨブは当面の苦痛の向こうを見ました。自分の試練が永遠に続くわけではないことを知っていたのです。耐え忍ばなければならないのは,どんなに長くても死ぬ時までです。ヨブが希望をかけていた期待とは,死者を復活させることを愛の気持ちから望んでおられるエホバが,自分をよみがえらせてくださることでした。―使徒 24:15。
16 (イ)わたしたちは,ヨブの模範から忍耐についてどんなことを学びますか。(ロ)王国の希望は,わたしたちにとってどれほど現実的でなければなりませんか。なぜですか。
16 わたしたちは,ヨブの忍耐から何を学びますか。終わりまで耐え忍ぶには,決して希望を見失ってはならないということです。また,王国の希望が確かであることからすると,わたしたちが遭うどんな試練も,どちらかと言えば「つかの間」のものであるということも忘れてはなりません。(コリント第二 4:16-18)わたしたちの貴重な希望は,近い将来に,「神(が)[わたしたちの]目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」時が来るというエホバの約束にしっかりと基づいています。(啓示 21:3,4)『失望に至ることのない』その希望は,わたしたちの考えを守るはずです。(ローマ 5:4,5。テサロニケ第一 5:8)その希望はわたしたちにとって現実的でなければなりません。つまり,信仰の目によって,新しい世にいる自分の姿を思い描けるほどに現実的でなければならないのです。病気やうつ病との闘いはもうありません。むしろ,毎日健康な状態で,すっきりとした気分で目覚めるのです。経済上の深刻な問題について心配することはもうありません。むしろ安定した暮らしができるのです。愛する人の死を嘆くことはもうありません。むしろ,愛する人の復活を目撃して胸を躍らせるのです。(ヘブライ 11:1)そのような希望がなければ,わたしたちは当面の試練に押しつぶされて,あきらめてしまうかもしれません。そのような希望があるからこそ,わたしたちは,まさに終わりまで闘い続け,耐え忍び続けるための強力な動機を持てるのです。
17 (イ)イエスはどんな試練を耐え忍ばれましたか。(ロ)イエスが耐え忍ばれた極度の苦しみは,どんな事実から理解できるかもしれませんか。(脚注をご覧ください。)
17 聖書は,イエスを「一心に見つめ」,イエスのことを「深く考え(る)」ように勧めています。イエスはどんな試練を耐え忍んだのでしょうか。そうした試練の中には,他の人々の罪や不完全さから生じたものもありました。イエスは,『罪人たちの逆らいのことば』だけでなく,弟子たちの間で起きた問題に関しても耐え忍ばれました。そうした問題の中には,だれが一番偉いかをめぐって弟子たちが繰り返し言い争ったことも含まれています。それだけではありません。イエスは,信仰に関する並外れた試みに遭いました。イエスは,「苦しみの杭に耐え(た)」のです。(ヘブライ 12:1-3。ルカ 9:46; 22:24)杭につけられる苦痛や冒とく者として処刑される恥辱に伴う精神的な苦しみや身体的な苦しみは,想像することさえ容易ではありません。a
18 使徒パウロによれば,どんな二つの事柄がイエスを支えましたか。
18 イエスは何によって,終わりまで耐え忍ぶことができたのでしょうか。使徒パウロは,イエスを支えた二つの事柄を挙げています。つまり,『祈願と請願』,さらには「自分の前に置かれた喜び」です。イエスは神の完全なみ子でありながらも,助けを求めることを恥じたりはされませんでした。イエスは,「強い叫びと涙をもって」祈りました。(ヘブライ 5:7; 12:2)特に,最後の試練が近づいていた時には,繰り返し熱烈に力を祈り求める必要をお感じになりました。(ルカ 22:39-44)エホバはイエスの祈願に対する答えとして,その試練を取り除くことはされませんでしたが,イエスがその試練を耐え忍ぶための力を確かにお与えになりました。また,イエスが耐え忍んだのは,苦しみの杭の向こうにある報いを見つめたからでもあります。その報いとは,エホバのみ名を神聖なものとし,人類を死から贖うことに貢献できるという喜びでした。―マタイ 6:9; 20:28。
19,20 イエスの模範は,忍耐に関係している事柄を現実的に見るのにどのように役立ちますか。
19 イエスの模範から,わたしたちは,忍耐に関係している事柄を現実的に見るのに役立つ幾つかの点を学びます。忍耐の歩みは容易なものではありません。何かの試練を耐え忍ぶのが難しいと感じるとしても,イエスの場合でさえそうだったということを知るのは慰めです。終わりまで耐え忍ぶには,繰り返し力を祈り求めなければなりません。試練を受けている時は,祈る資格すらないと感じる時もあるでしょう。しかしエホバは,ご自分に心を注ぎ出すよう勧めておられます。『神はわたしたちを顧みてくださるからです』。(ペテロ第一 5:7)また,エホバはみ言葉の中で約束した事柄のゆえに,信仰によってご自分を呼び求める人々に必ず『普通を超えた力』を与えてくださいます。―コリント第二 4:7-9。
20 時には,涙と共に耐え忍ばなければならないこともあります。イエスにとって,苦しみの杭の苦痛それ自体は,歓喜の理由ではありませんでした。むしろ,喜びは自分の前に置かれた報いにありました。わたしたちの場合も,試練を受けている時にいつでも陽気で快活にしていられると考えるのは現実的ではありません。(ヘブライ 12:11と比較してください。)しかし,前途にある報いを見つめることにより,最もつらい状況に面した時でさえ,『それをすべて喜びとする』ことができるかもしれません。(ヤコブ 1:2-4。使徒 5:41)大切なのは ― たとえ涙を流さずにはいられないとしても ― 確固とした態度を保つことです。考えてみれば,イエスは『涙を最も少なく流した者が救われる』とは言われませんでした。むしろ,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」と言われたのです。―マタイ 24:13。
21 (イ)ペテロ第二 1章5節から7節は,わたしたちの忍耐に何を加えることを勧めていますか。(ロ)次の記事では,どんな質問について考えますか。
21 ですから,忍耐は救いにとって不可欠です。しかし,ペテロ第二 1章5節から7節は,わたしたちの忍耐に敬虔な専心を加えることを勧めています。敬虔な専心とは何でしょうか。それは忍耐とどんな関係にあるでしょうか。どうすれば,敬虔な専心を得ることができるでしょうか。次の記事では,こうした質問について考えます。
[脚注]
a イエスが耐え忍ばれた極度の苦しみは,イエスの横で杭につけられた悪行者が,死を早めるために足を折られる必要があった一方で,完全な人間だったイエスが,杭に掛けられてほんの数時間後に息を引き取ったという事実から理解できるかもしれません。(ヨハネ 19:31-33)その悪行者たちは,イエスが杭につけられる前に徹夜で苦しい目に遭わされ,ご自分の苦しみの杭を運ぶことすらできないほどに味わわれた精神的な苦しみや身体的な苦しみを経験してはいませんでした。―マルコ 15:15,21。
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あなた方の忍耐に敬虔な専心を加えなさいものみの塔 1993 | 9月15日
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あなた方の忍耐に敬虔な専心を加えなさい
『あなた方の信仰に忍耐を,忍耐に敬虔な専心を加えなさい』― ペテロ第二 1:5-7。
1,2 (イ)1930年代以降,ナチスの統制下にあった国々に住むエホバの証人には何が起きましたか。なぜですか。(ロ)エホバの民は,そうした過酷な仕打ちを受けた時にどうしましたか。
それは,20世紀の歴史の暗黒時代でした。1930年代以降,ナチスの統制下にあった国々に住む大勢のエホバの証人は不当にも逮捕され,強制収容所に送り込まれました。なぜでしょうか。エホバの証人は勇敢にも中立の立場を保ち,ハイル・ヒトラーと言うことを拒否したからです。彼らはどんな仕打ちを受けたでしょうか。「聖書研究者[エホバの証人]のように親衛隊員のサディズムにさらされた……受刑者のグループはほかにない。それは,果てしなく続く肉体的拷問と精神的拷問を特徴とするサディズムであった。それを言葉で言い表わすことなど到底できない」― ドイツの元政府役人,カール・ウィティヒ。
2 エホバの証人はどうしたでしょうか。クリスティーン・E・キング博士は,「ナチス国家と新しい宗教: 非国教主義に関する五つの事例研究」という本の中で,「政府も[他の宗教団体とは対照的に]証人だけは屈伏させることができなかった」と述べています。そうです,エホバの証人は,たとえ数百人の証人たちが耐え忍んで死を迎えたとしても,全体としてじっと踏みとどまりました。
3 エホバの証人は何によって,厳しい試練を耐え忍ぶことができましたか。
3 エホバの証人は何によって,ナチスドイツだけでなく,世界中でそのような試練を耐え忍ぶことができたのでしょうか。彼らの天の父は,彼らの敬虔な専心のゆえに,耐え忍ぶための助けをお与えになりました。「エホバは,敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか……を知っておられるのです」と,使徒ペテロは説明しています。(ペテロ第二 2:9,10)ペテロはその同じ手紙の前のほうで,『あなた方の信仰に忍耐を,忍耐に敬虔な専心を加えなさい』とクリスチャンたちに助言しました。(ペテロ第二 1:5-7)ですから,忍耐と敬虔な専心の間には密接なつながりがあります。現に,終わりまで耐え忍ぶには,『敬虔な専心を追い求めて』,それを表わす必要があります。(テモテ第一 6:11)しかし,厳密に言って,敬虔な専心とは何でしょうか。
敬虔な専心とは何か
4,5 敬虔な専心とは何ですか。
4 「敬虔な専心」に相当するギリシャ語の名詞(エウセベイア)は,字義通りに訳せば,「よく崇敬の念を示すこと」となるかもしれません。a (ペテロ第二 1:6,王国行間逐語訳)これは,神に対する温かい心からの感情を指しています。W・E・バインによれば,形容詞のエウセベースは,字義通りには「よく崇敬の念を示す」という意味で,「神に対する聖なる畏敬の念の命じるところにしたがって,献身的な活動のうちに表われるエネルギー」を指しています。―ペテロ第二 2:9,行間。
5 ですから,「敬虔な専心」という表現は,エホバに対する崇敬や専心と関係があります。それがあれば,わたしたちはエホバに喜ばれることを行ないたいという気持ちになります。難しい試練に直面する時でさえ,そのことに変わりはありません。わたしたちは心からエホバを愛しているからです。これは,わたしたちの生き方の中に表われる,エホバに対する忠節で個人的な愛着です。真のクリスチャンは,「敬虔な専心を全うし,……平穏で静かな生活をして」ゆけるように祈ることを勧められています。(テモテ第一 2:1,2)辞書編集者のJ・P・ローとE・A・ナイダはこう述べています。「多くの言語で,テモテ第一 2章2節の[エウセベイア]は,『神がわたしたちに望まれるとおりに生活する』,あるいは『神がこう生活するべきだと告げてくださったとおりに生活する』と訳すのが適切かもしれない」。
6 忍耐と敬虔な専心の間には,どんな関係がありますか。
6 こうしてみると,忍耐と敬虔な専心の関係がいっそうよく分かります。わたしたちは,神が望まれるとおりに ― 敬虔な専心をもって ― 生活しているので,この世の憎しみを買い,それが常に信仰の試練をもたらします。(テモテ第二 3:12)しかし,そのような試練を耐え忍ぶ動機づけが得られるのは,天の父に対する個人的な愛着があるからこそです。さらに,エホバはそうした心からの専心にこたえてくださいます。考えてもみてください。神が天から下を眺めて,ご自分に対する専心のゆえに,あらゆる種類の反対にもめげずにご自分を喜ばせようと努力している人々をご覧になるなら,どのような気持ちを持たれるでしょうか。『敬虔な専心を保つ人々を試練から救い出し』たいと思われるのも不思議ではありません。
7 敬虔な専心を培わなければならないのはなぜですか。
7 しかし,わたしたちは敬虔な専心をもって生まれたわけではありません。またそれは,敬虔な親から自動的に得るものでもありません。(創世記 8:21)むしろ,それは培わなければならないものです。(テモテ第一 4:7,10)わたしたちは,忍耐や信仰に敬虔な専心を加えるよう努力しなければなりません。ペテロが言うとおり,それには「真剣な努力」が必要です。(ペテロ第二 1:5)では,どうすれば敬虔な専心を得ることができるでしょうか。
どうすれば敬虔な専心が得られるか
8 使徒ペテロによれば,敬虔な専心を得るためのかぎとは何ですか。
8 使徒ペテロは,敬虔な専心を得るためのかぎを説明し,こう述べています。「過分のご親切と平和が,神およびわたしたちの主イエスについての正確な知識によってあなた方に増し加えられますように。それは,その神からの力が,栄光と徳とによってわたしたちを召された方についての正確な知識を通して,命と敬虔な専心に関するすべての事柄をわたしたちに惜しみなく与えたからです」。(ペテロ第二 1:2,3)ですから,わたしたちの信仰や忍耐に敬虔な専心を加えるには,エホバ神とイエス・キリストに関する正確な知識,つまり十分な知識,あるいは完全な知識において成長する必要があります。
9 神とキリストに関する正確な知識を持つことには,単にお二方の名前を知る以上のことが関係しているという点を,どんな例えで説明できますか。
9 神とキリストに関する正確な知識を持つとは,どういう意味でしょうか。これには明らかに,単にお二方の名前を知る以上のことが関係しています。例えで考えてみましょう。皆さんは隣の家に住んでいる人の名前を知っているかもしれません。また,名前を呼んであいさつすることもあるかもしれません。しかし,だからといって,その人に多額のお金を貸したりするでしょうか。その人がどういう人なのか本当に知っているのでない限り,そのようなことはしません。(箴言 11:15と比較してください。)同様に,エホバとイエスを正確に,あるいは十分に知るとは,単にお二方の存在を信じているとか,お二方の名前を知っているといった程度のことではありません。たとえ死に至るとしても,そのお二方のためなら喜んで試練を耐え忍びたいという気持ちになるには,お二方を本当に親しく知る必要があります。(ヨハネ 17:3)それには,どんなことが関係しているでしょうか。
10 エホバとイエスに関する正確な知識を持つことには,どんな二つの事柄が関係していますか。なぜですか。
10 エホバとイエスに関する正確な知識,あるいは完全な知識を得ることには,次の二つの事柄が関係しています。(1)お二方を人格的な存在として知る,つまりその特質や感情や方法を知るようになること,(2)お二方の手本に倣うこと。敬虔な専心には,エホバに対する心からの個人的な愛着が関係しており,それはわたしたちの生き方によって明らかになります。ですから,敬虔な専心を得るには,エホバを個人的に知るようになり,人間に可能な範囲で神のご意志と方法を徹底的に理解することが必要です。確かに,エホバを知るために,神の像に創造されたわたしたちは,そのような知識を活用し,神に似た者となるよう努力しなければなりません。(創世記 1:26-28。コロサイ 3:10)また,イエスは言動に関してエホバを完全に見倣っておられたので,イエスについて正確に知ることは,敬虔な専心を強める上で貴重な助けになります。―ヘブライ 1:3。
11 (イ)どうすれば,神とキリストに関する正確な知識を得ることができますか。(ロ)読んだ事柄について黙想するのが大切なのはなぜですか。
11 しかし,神とキリストに関するそうした正確な知識を得るには,どうしたらよいでしょうか。聖書と聖書に基づく出版物を勤勉に研究することです。b とはいえ,個人的な聖書研究の結果として敬虔な専心を得たいのであれば,読んだ事柄について黙想する,つまり思い巡らしたり,よく考えたりするための時間を取ることがどうしても必要です。(ヨシュア 1:8と比較してください。)そのことが大切なのはなぜでしょうか。敬虔な専心とは,神に対する温かい心からの感情であることを思い出してください。聖書の中で,黙想は心,つまり内面の人と何度も結びつけられています。(詩編 19:14; 49:3。箴言 15:28)読んだ事柄を感謝の気持ちで思い巡らすなら,それは内面の人にまで浸透し,結果としてそれは気持ちをかき立て,感情を奮い立たせ,考えに影響を及ぼします。そのようにして初めて,わたしたちは研究によってエホバに対する個人的な愛着を強め,困難な状況や難しい試練に直面した時でも神に喜んでいただける生き方をしたいという動機づけを得ることができます。
家庭で敬虔な専心を実践する
12 (イ)パウロによれば,クリスチャンはどのように家庭で敬虔な専心を実践できますか。(ロ)真のクリスチャンが高齢になった親の世話をするのはなぜですか。
12 敬虔な専心は,まず家庭で実践しなければなりません。使徒パウロはこう言っています。「やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです」。(テモテ第一 5:4)高齢になった親の世話をすることは,パウロが述べているように,敬虔な専心の表われです。真のクリスチャンは単に義務感からではなく,親を愛しているからこそ,そのような世話を行ないます。しかし,それだけではありません。真のクリスチャンは,エホバが家族の世話を重視しておられることを認めています。助けが必要な時に親を見捨てるとすれば,『キリスト教の信仰を否認する』のと同じであることをよく知っているのです。―テモテ第一 5:8。
13 家庭で敬虔な専心を実践することが時として難しい課題になるのはなぜですか。しかし,親の世話をすることからどんな満足感が得られますか。
13 確かに,家庭で敬虔な専心を実践するのは必ずしも容易ではありません。家族はそれぞれ,かなり遠い所で離れて生活しているかもしれません。成人した子供たちは自分の家族を養っていて,経済面で苦労していることもあります。親が必要とする世話の性質や程度からして,世話をする人たちの身体的,精神的,感情的健康には相当な負担がかかるかもしれません。それでも,親の世話をすることは「当然の報礼」になるだけでなく,「天と地のあらゆる家族がその名を負う」方に喜ばれることなのです。そのことを知れば,本当の満足感が得られるはずです。―エフェソス 3:14,15。
14,15 子供たちが敬虔な態度で親の世話をした実例について述べてください。
14 本当に感動的な実例について考えてみましょう。エリスと5人の兄弟姉妹は,家庭で父親の世話をすることに関して難しい問題にぶつかりました。「1986年に父は脳卒中を起こし,体が完全にまひしてしまいました」と,エリスは説明します。6人の子供たちが,入浴させることから,床ずれを防ぐために定期的に姿勢を変えてあげることまで,協力して父親の面倒を見ました。「父のために何かを読んであげたり,話しかけたり,音楽を演奏したりします。父が周りで起きていることに気づいているのかどうか,わたしたちには分かりません。でも,わたしたちはあたかも父が何でもよく分かってくれているかのように接しています」。
15 この子供たちがそのようにして父親の世話をするのはなぜでしょうか。エリスはこう続けます。「1964年に母が亡くなってから,父は独りで私たちを育ててくれました。その時私たちは,一番下が5歳で一番上が14歳でした。そのころは父が私たちの面倒を見てくれました。今度は私たちが父の面倒を見る番です」。もちろん,そのような世話をするのは容易なことではありません。この子供たちも確かにがっかりすることがあります。「しかし私たちは,父の状態が一時的な問題であることを知っています。私たちは,父が健康を取り戻し,みんなで母と再会できる時を楽しみにしています」とエリスは言います。(イザヤ 33:24。ヨハネ 5:28,29)確かに,子供が親を敬うことをお命じになった方は,親に対するそうした献身的な世話を見て,心に温かいものを感じておられるに違いありません。c ―エフェソス 6:1,2。
敬虔な専心と宣教
16 わたしたちが宣教で何を行なうにしても,そのおもな理由は何であるべきですか。
16 「絶えずわたしのあとに従いなさい」というイエスの勧めを受け入れる時,わたしたちは王国の良いたよりを宣べ伝え,人々を弟子とするという神からの任務を受けることになります。(マタイ 16:24; 24:14; 28:19,20)確かに,宣教に参加することは,この「終わりの日」におけるクリスチャンの責務です。(テモテ第二 3:1)しかし,宣べ伝えて教える活動を行なうわたしたちの動機は,単なる義務感や責任感以上のものでなければなりません。エホバに対する深い愛こそが,宣教において何を行なうにしても,どれほどのことを行なうにしても,そのおもな理由でなければならないのです。「心に満ちあふれているものの中から口は語る」と,イエスは言われました。(マタイ 12:34)そうです,エホバに対する愛がわたしたちの心にあふれる時,わたしたちはエホバについて他の人々に証言したいという衝動を感じます。神への愛がわたしたちの動機であれば,わたしたちの宣教は敬虔な専心の有意義な表現となります。
17 どうすれば,宣教に対する正しい動機を強めることができますか。
17 宣教に対する正しい動機を強めるには,どうしたらよいでしょうか。エホバを愛することに関して,エホバご自身が与えてくださった三つの理由を感謝の気持ちで思い巡らすことです。(1)わたしたちは,エホバがすでにわたしたちのためにしてくださった事柄のゆえにエホバを愛します。神が贖いを備えることによって示してくださった愛よりも大きな愛はありません。(マタイ 20:28。ヨハネ 15:13)(2)わたしたちは,エホバが現在わたしたちのためにしてくださっている事柄のゆえにエホバを愛します。わたしたちは,祈りを聞き届けてくださるエホバに,はばかりのないことばで語りかけることができます。(詩編 65:2。ヘブライ 4:14-16)また,王国の関心事を優先させる時,生活の必要物が得られます。(マタイ 6:25-33)わたしたちは,直面する問題に対処するのに役立つ霊的な食物を確実に受け取っています。(マタイ 24:45)さらに,世界の他の部分からはっきり区別されるクリスチャンの世界的な兄弟関係の一員であるという祝福があります。(ペテロ第一 2:17)(3)わたしたちは,エホバがこれからわたしたちのためにしてくださる事柄のゆえにもエホバを愛します。わたしたちは神の愛のゆえに,「真の命」― 将来の永遠の命 ―「をしっかりとらえ」ます。(テモテ第一 6:12,19)エホバがわたしたちに示してくださる愛について考える時,わたしたちの心は,神と神の貴重な目的について他の人々に語る活動に献身的に参加するようわたしたちを駆り立てるはずです。宣教において何を行なうべきか,どれほどのことを行なうべきかについて,他の人から指示してもらう必要はありません。わたしたちの心が,できるだけのことを行なうようわたしたちを駆り立てるのです。
18,19 ある姉妹は,宣教に参加するためにどんな障害を克服しましたか。
18 難しい状況にぶつかった時でさえ,敬虔な専心によって奮起した心は語らずにはいられません。(エレミヤ 20:9と比較してください。)この点は,極端に内気なクリスチャンの女性,ステラの場合からも分かります。ステラは最初に聖書を研究し始めた時,『戸別訪問なんて絶対にできない』と考えました。「私は普段からほとんどしゃべりませんでした。ほかの人にこちらから話しかけて会話を始めることなど絶対にできませんでした」と,ステラは説明しています。しかし,研究を続けてゆくうちに,エホバに対する愛が深まり,彼女は神について他の人々に話したいという燃えるような願いを強めてゆきました。「聖書研究の司会者に,『話したいという気持ちはすごく強いんですが,私にはできません。それが本当につらいんです』と話した時のことを覚えています。その時の司会者の言葉は決して忘れられません。『ステラ,あなたが話したいという気持ちになっていることを感謝してね』」。
19 やがてステラは,隣の家の人に証言するようになりました。それから,彼女は自分にとって非常に大きな一歩を踏み出しました。初めて家から家の宣教に参加したのです。(使徒 20:20,21)彼女はこう思い出を語っています。「自分の言うことを全部書いておきました。でも,気が動転してしまい,目の前にあるにもかかわらず,緊張の余りメモを見る余裕すらありませんでした」。それから35年以上たった今,ステラの性質は今でも非常に内気です。しかし,彼女は野外宣教を愛しており,引き続き有意義な仕方で宣教に参加しています。
20 迫害や投獄でさえ献身的なエホバの証人の口を封じられないということを,どんな例が示していますか。
20 迫害や投獄でさえ,献身的なエホバの証人の口を封じることはできません。ドイツのエルンスト・ゼリガーとヒルデガルト・ゼリガーの例について考えてみましょう。彼らは信仰のゆえに,ナチスの強制収容所や共産主義者の刑務所の中で,二人合わせて40年以上を過ごしました。刑務所の中でさえ,二人は他の受刑者にたゆまず証言しました。ヒルデガルトはこう思い出を語ります。「刑務所の当局者は私を特に危険な人物とみなしました。ある女性看守が言ったように,私は一日中聖書について話していたからです。それで,地下の独房に入れられることになりました」。ゼリガー兄弟姉妹は最終的に自由になった後,クリスチャンの宣教に全時間をささげました。二人とも亡くなるまで忠実に奉仕し,ゼリガー兄弟は1985年に,姉妹は1992年に亡くなりました。
21 忍耐に敬虔な専心を加えるには,何をしなければなりませんか。
21 わたしたちは,神の言葉を勤勉に研究し,学んだ事柄を感謝の気持ちで黙想するための時間を取ることによって,エホバ神とイエス・キリストに関する正確な知識において成長してゆきます。そうすることによって今度は,あの貴重な特質,つまり敬虔な専心をいっそう十分に得ることができるようになります。敬虔な専心がなければ,クリスチャンであるわたしたちに降り掛かるさまざまな試練を耐え忍ぶことは決してできません。ですから,使徒ペテロの助言に従って,これからも『わたしたちの信仰に忍耐を,わたしたちの忍耐に敬虔な専心を加えて』ゆきましょう。―ペテロ第二 1:5-7。
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