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エホバに近づきなさい
近 第1章 7–15ページ
燃えているいばらの木の前でモーセが顔を覆っている。

第1章

「これが私わたしたちの神かみだ!」

1-2. (ア)神かみにどんな質しつ問もんをしてみたいと思おもいますか。(イ)モーセは神かみに何なにを尋たずねましたか。

神かみと会かい話わしているところを想そう像ぞうできますか。宇う宙ちゅうの主しゅ権けん者しゃから話はなし掛かけられることを考かんがえるだけで,畏おそれ多おおい気き持もちになるかもしれません。あなたは,何なにを言いったらいいだろうとドキドキしながら,少すこしずつ話はなし始はじめます。神かみは耳みみを傾かたむけ,返へん事じをしてくれて,何なにか尋たずねたいことがあるか聞きいてくれます。あなたならどんな質しつ問もんをしてみたいと思おもいますか。

2 ずっと昔むかしに,神かみと話はなした人ひとがいます。モーセという人ひとです。その時ときにモーセがした質しつ問もんは,意い外がいに思おもえるかもしれません。自じ分ぶんはこの先さきどうなるかとか,どうして人にん間げんは苦くるしまないといけないのか,といったことではなく,神かみの名な前まえについて尋たずねました。モーセはすでに神かみの名な前まえを知しっていたので,単たんに名な前まえを確かく認にんしたかったのではなく,もっと深ふかいことを聞ききたかったに違ちがいありません。実じっ際さい,それは非ひ常じょうに大だい事じな質しつ問もんでした。その質しつ問もんに対たいする答こたえは,私わたしたちが神かみとの絆きずなを強つよめるのにとても役やく立だつからです。どういうことか,神かみとモーセの会かい話わの内ない容ようを見みてみましょう。

3-4. どんなことがあって,モーセは神かみと会かい話わすることになりましたか。その会かい話わはどういう内ない容ようでしたか。

3 モーセは80歳さいでした。同どう胞ほうのイスラエル人じんが奴ど隷れいにされているエジプトから逃にげて,40年ねんがたっていました。ある日ひ,しゅうとの羊ひつじの群むれの番ばんをしていた時とき,不ふ思し議ぎな光こう景けいを見みます。いばらの木きが燃もえていますが,燃もえ尽つきることなく山さん腹ぷくで明あかるく輝かがやいています。モーセは調しらべようとして近ちか寄よります。すると,火ひの中なかから声こえがして,話はなし掛かけられました。びっくりしたことでしょう。神かみが天てん使しを通とおしてモーセに話はなしていたのです。神かみとモーセはしばらく会かい話わをし,神かみはモーセにある任にん務むを与あたえます。平へい穏おんな生せい活かつを後あとにしてエジプトに戻もどり,奴ど隷れいにされているイスラエル人じんを救すくい出だすという任にん務むです。その責せき任にんの重おもさを考かんがえて,モーセはためらいます。(出しゅつエジプト記き 3:1-12)

4 モーセは神かみにいろいろ尋たずねたかったことでしょう。そんな中なか,どういう質しつ問もんをしたかに注ちゅう目もくしてください。「私わたしがイスラエル人じんの所ところに行いって,『父ふ祖そたちの神かみが私わたしを皆みなさんの所ところに遣つかわした』と言いうとしても,『その方かたの名なは何なにか』と言いわれたら,何なんと言いえばよいでしょうか」。(出しゅつエジプト記き 3:13)

5-6. (ア)モーセの質しつ問もんから,どんな大だい事じなことが分わかりますか。(イ)神かみの名な前まえに関かんして,どんな残ざん念ねんなことが行おこなわれてきましたか。(ウ)神かみが自じ分ぶんの名な前まえを明あきらかにしていることは,私わたしたちにとってどんな意い味みがありますか。

5 この質しつ問もんからまず,神かみに名な前まえがあることが分わかります。これは大だい事じなことですが,そうは思おもわない人ひともたくさんいます。多おおくの聖せい書しょでは,神かみの名な前まえが取とり除のぞかれ,代かわりに「主しゅ」や「神かみ」といった称しょう号ごうが使つかわれています。それは極きわめて残ざん念ねんなことで,間ま違ちがった宗しゅう教きょう的てきな考かんがえに基もとづいて行おこなわれました。私わたしたちは誰だれかのことを知しりたい場ば合あい,まずその人ひとの名な前まえを尋たずねるのではないでしょうか。神かみのことを知しる場ば合あいにも同おなじことが当あてはまります。神かみは,人にん間げんの理り解かいを超こえた,名なもない遠とおい存そん在ざいではありません。目めには見みえませんが,素す晴ばらしい性せい格かくを持もつ魅み力りょく的てきな方かたで,エホバという名な前まえがあります。

6 神かみが自じ分ぶんの名な前まえを明あきらかにしているということは,私わたしたちにとってどんな意い味みがあるでしょうか。うれしいことに,神かみは自じ分ぶんのことを知しってほしいと思おもっているのです。私わたしたちに,自じ分ぶんに近ちかづいて,友とも達だちになってほしいと思おもっています。そうすれば,私わたしたちは最さい高こうに幸しあわせな人じん生せいを送おくれるからです。エホバは自じ分ぶんの名な前まえだけでなく,自じ分ぶんがどんな方かたかも教おしえてくれています。

神かみの名な前まえの意い味み

7. (ア)神かみの名な前まえにはどんな意い味みがあると考かんがえられていますか。(イ)モーセは神かみの名な前まえについて尋たずねた時とき,どんなことを知しりたいと思おもっていましたか。

7 神かみが自みずから選えらんだエホバという名な前まえには,深ふかい意い味みがあります。「エホバ」には「彼かれはならせる」という意い味みがあると考かんがえられています。エホバは唯ゆい一いつの創そう造ぞう者しゃとして,全すべてのものが存そん在ざいするようにしました。また,自じ分ぶんの目もく的てきを必かならず果はたす方かたであり,そのために不ふ完かん全ぜんな人にん間げんをも何なににでもならせることができます。こうしたことを考かんがえると,エホバへの畏い敬けいの気き持もちが湧わいてきます。では,神かみの名な前まえの意い味みから,神かみについてさらにどんなことが分わかるでしょうか。モーセは何なにを知しりたかったのでしょうか。エホバが創そう造ぞう者しゃだということや,エホバという名な前まえであることを,モーセはすでに知しっていました。神かみの名な前まえは何なん世せい紀きも前まえから使つかわれていたからです。ですから,モーセは神かみの名な前まえについて尋たずねた時とき,その名な前まえを持もつ神かみがどういう方かたなのかを尋たずねていたのです。つまり,こう聞きいていました。「あなたについてどんなことを伝つたえたら,イスラエル人じんはあなたへの信しん仰こうを強つよめ,あなたが本ほん当とうに救きゅう出しゅつしてくださると確かく信しんできるようになるでしょうか」。

8-9. (ア)エホバはモーセの質しつ問もんに答こたえて何なんと言いいましたか。その言こと葉ばはどのように不ふ正せい確かくに訳やくされていることが多おおいですか。(イ)「私わたしは自じ分ぶんがなろうとするものとなる」という言こと葉ばにはどんな意い味みがありますか。

8 エホバはモーセに答こたえて,自じ分ぶんの素す晴ばらしい一いち面めんを明あきらかにしました。それは先さきほど考かんがえた神かみの名な前まえの意い味みと関かん係けいがありますが,「私わたしは自じ分ぶんがなろうとするものとなる」とモーセに言いいました。(出しゅつエジプト記き 3:14)多おおくの聖せい書しょでは,この言こと葉ばが「私わたしは『私わたしはいる』という者ものである」というふうに訳やくされています。しかし,より厳げん密みつな訳やくを見みると,神かみが単たんに自じ分ぶんは存そん在ざいすると言いっていたわけではないことが分わかります。エホバはモーセに,また後のちに聖せい書しょを読よむ人ひと全すべてに,次つぎのことを教おしえていました。エホバは自じ分ぶんの約やく束そくを果はたすために必ひつ要ようなどんなものにもなる,ということです。J・B・ロザハムの翻ほん訳やくでは,この言こと葉ばが「わたしは何なんであれ自じ分ぶんの望のぞむものになる」と適てき切せつに訳やくされています。聖せい書しょヘブライ語ごのある専せん門もん家かは,この言こと葉ばについてこう説せつ明めいしています。「いかなる状じょう況きょうや必ひつ要よう……が生しょうじようとも,神かみはその必ひつ要ように応こたえる解かい決けつ策さくと『なる』のである」。

9 エホバは当とう時じのイスラエル人じんに何なにを伝つたえたかったのでしょうか。イスラエル人じんがどんな障しょう害がいに直ちょく面めんしようと,どんな窮きゅう地ちに陥おちいろうと,エホバは彼かれらを救すくい出だして約やく束そくの地ちに連つれていくために必ひつ要ようなどんなものにもなる,ということです。イスラエル人じんたちは神かみの名な前まえの意い味みを知しって,神かみへの信しん頼らいが強つよまったに違ちがいありません。現げん代だいの私わたしたちも同おなじ気き持もちになるはずです。(詩し編へん 9:10)どうしてそう言いえるでしょうか。

10-11. エホバという名な前まえの意い味みを考かんがえると,エホバがあらゆる状じょう況きょうに対たい応おうできる最さい高こうのお父とうさんだと確かく信しんできるのはどうしてですか。

10 例たとえで考かんがえてみましょう。子こ供どもを育そだてる親おやは,いろいろな状じょう況きょうに対たい応おうするためにさまざまな務つとめを果はたす必ひつ要ようがあります。1日にちの間あいだに,看かん護ご師し,コック,先せん生せい,しつけ係がかり,裁さい判ばん官かんといった役やく割わりをこなさなければならないかもしれません。やることが多おお過すぎて大たい変へんだと感かんじる人ひともいます。幼おさない子こ供どもからの絶ぜつ大だいな信しん頼らいがプレッシャーになることもあります。子こ供どもは,お父とうさんやお母かあさんがけがの手て当あてをしてくれたり,きょうだいげんかを解かい決けつしてくれたり,壊こわれたおもちゃを直なおしてくれたり,いろいろな疑ぎ問もんに答こたえてくれたりすることを信しんじ切きっています。親おやの中なかには,自じ分ぶんにはうまくできないと感かんじてがっかりしたり,自じ信しんをなくしたりする人ひともいます。

11 エホバも愛あい情じょう深ぶかい親おやです。でも,人にん間げんの親おやとは違ちがうところがあります。エホバは,地ち上じょうの子こ供どもたちを十じゅう分ぶんに世せ話わするために,自じ分ぶんが定さだめた完かん全ぜんな基き準じゅんの範はん囲い内ないで何なににでもなることができるからです。それで,エホバという名な前まえの意い味みを考かんがえると,エホバが最さい高こうのお父とうさんだと確かく信しんできます。(ヤコブ 1:17)モーセや他たの忠ちゅう実じつなイスラエル人じんは間まもなく,エホバがその名な前まえの通とおりの方かたであることを実じっ感かんしました。エホバが自じ分ぶんたちにとって必ひつ要ようなさまざまなものになるのを目めにしたからです。例たとえばエホバは,無む敵てきの軍ぐん司し令れい官かん,並ならぶ者もののいない立りっ法ぽう者しゃ,裁さい判ばん官かん,建けん築ちく家かになりました。また,イスラエル人じんのために自し然ぜん界かいの力ちからをコントロールしたり,食しょく物もつや水みずを与あたえたり,服ふくやサンダルが擦すり切きれないようにしたりもしました。

12. エホバに対たいするファラオの態たい度どは,モーセの態たい度どとどのように違ちがっていましたか。

12 このように神かみは,自じ分ぶんの名な前まえを知しらせ,自じ分ぶんがどういう神かみなのかを明あきらかにし,自じ分ぶんがエホバという名な前まえの通とおりに行こう動どうすることを証しょう明めいしてきました。ですから,神かみが自じ分ぶんのことを知しってほしいと思おもっていることがはっきり分わかります。では,あなたは神かみのことをもっと知しりたいと思おもいますか。モーセは神かみのことを知しりたいと強つよく願ねがっていたので,神かみに仕つかえる生いき方かたを貫つらぬき,天てんの父ちちとの絆きずなを強つよめることができました。(民みん数すう記き 12:6-8。ヘブライ 11:27)残ざん念ねんなことに,モーセと同おなじ時じ代だいに生いきていた人ひとの多おおくは,神かみのことを知しりたいとは思おもいませんでした。例たとえば,エジプトの王おうファラオは,モーセがエホバについて話はなした時とき,傲ごう慢まんにも「エホバが何なに者ものだというの[か]」と言いいました。(出しゅつエジプト記き 5:2)イスラエルの神かみなどどうでもいい,知しる価か値ちなどない,という態たい度どを示しめしたのです。現げん代だいの多おおくの人ひとも同おなじような考かんがえ方かたをしています。そのため,エホバが主しゅ権けん者しゃである主しゅだという重じゅう要ような真しん理りを知しらずにいます。

主しゅ権けん者しゃである主しゅエホバ

13-14. (ア)聖せい書しょの中なかでエホバがいろいろな称しょう号ごうで呼よばれているのはどうしてですか。例たとえばどんな称しょう号ごうがありますか。(14ページの囲かこみを参さん照しょう。)(イ)エホバだけが「主しゅ権けん者しゃである主しゅ」と呼よばれるのにふさわしいと言いえるのはどうしてですか。

13 エホバは柔じゅう軟なんにあらゆるものになることができるので,聖せい書しょの中なかでいろいろな称しょう号ごうで呼よばれているのもうなずけます。それらの称しょう号ごうは「エホバ」という名な前まえほど重じゅう要ようではありませんが,称しょう号ごうについて考かんがえるとエホバのことがもっとよく分わかります。例たとえば,エホバは「主しゅ権けん者しゃである主しゅ」と呼よばれています。(サムエル第だい二に 7:22)聖せい書しょの中なかに何なん百びゃっ回かいも出でてくるこの称しょう号ごうは,エホバの高たかい地ち位いをよく表あらわしています。エホバだけが,宇う宙ちゅう全ぜん体たいを治おさめる権けん限げんを持もっています。どうしてそう言いえるのか考かんがえてみましょう。

14 エホバは唯ゆい一いつの創そう造ぞう者しゃです。啓けい示じ 4章しょう11節せつにはこう書かかれています。「私わたしたちの神かみエホバ,あなたは栄えい光こうと栄えい誉よと力ちからを受うけるのにふさわしい方かたです。あなたが全すべてのものを創そう造ぞうされたからです。全すべてのものは,あなたのご意い志しによって存そん在ざいするようになり,創そう造ぞうされました」。壮そう大だいな印いん象しょうを与あたえるこの聖せい句くは,ほかの誰だれにも当あてはまりません。宇う宙ちゅうのありとあらゆるものは,エホバによって存そん在ざいするようになったのです。エホバはまさに,主しゅ権けん者しゃである主しゅまた全すべてのものの創そう造ぞう者しゃとして,栄えい光こうと栄えい誉よと力ちからを受うけるのにふさわしい方かたです。

15. エホバが「永えい遠えんの王おう」と呼よばれているのはどうしてですか。

15 エホバだけに当あてはまる別べつの称しょう号ごうは,「永えい遠えんの王おう」です。(テモテ第だい一いち 1:17。啓けい示じ 15:3)この称しょう号ごうにはどんな意い味みがあるのでしょうか。人にん間げんには理り解かいしにくいことですが,エホバは永えい遠えんの過か去こから存そん在ざいしていて,将しょう来らいも永えい遠えんにわたって存そん在ざいし続つづけます。詩し編へん 90編ぺん2節せつには,「あなたは……永えい遠えんから永えい遠えんまで神かみです」と書かかれています。ですから,エホバには始はじまりがなく,常つねに存そん在ざいしてきました。宇う宙ちゅうの中なかで,まだほかの誰だれも何なにも存そん在ざいしていない時ときからずっといるので,「年ねん月げつを経へた方かた」とも呼よばれています。(ダニエル 7:9,13,22)エホバが主しゅ権けん者しゃである主しゅだというのは,確たしかに正せい当とうなことではないでしょうか。

16-17. (ア)エホバを見みることができないのはどうしてですか。モーセに起おきたことから何なにが分わかりますか。(イ)エホバはどんな点てんで,見みたり触ふれたりできるものよりも優すぐれた存そん在ざいだと言いえますか。

16 でもファラオのように,そうは思おもわない人ひとたちもいます。その1つの理り由ゆうは,目めに見みえるものしか信しんじないという傾けい向こうがあるからです。主しゅ権けん者しゃである主しゅは目めに見みえない天てんにいる存そん在ざいなので,人にん間げんには見みることができません。(ヨハネ 4:24)もし仮かりに生なま身みの人にん間げんがエホバ神かみのすぐそばに行いけたとしても,死しんでしまうでしょう。エホバはある時ときモーセにこう言いいました。「あなたは私わたしの顔かおを見みることはできない。私わたしを見みて生いきていられる人ひとはいない」。(出しゅつエジプト記き 33:20。ヨハネ 1:18)

17 その時ときモーセに何なにが起おきたか考かんがえてみてください。モーセはおそらく天てん使しを通とおしてエホバの栄えい光こうのほんの一いち部ぶを見みただけでしたが,その後ごしばらくモーセの顔かおは「光ひかりを放はなって」いました。イスラエル人じんたちは恐おそれて,モーセの顔かおをまともに見みられませんでした。(出しゅつエジプト記き 33:21-23; 34:5-7,29,30)ですから,人にん間げんは誰だれも,栄えい光こうに輝かがやく主しゅ権けん者しゃである主しゅを直ちょく接せつ見みることはできないのです。では,見みたり触ふれたりできないからといって,エホバは存そん在ざいしないということになるでしょうか。そんなことはありません。例たとえば風かぜや電でん波ぱなど,目めに見みえないものはたくさんありますが,私わたしたちはその存そん在ざいを疑うたがったりはしません。また,見みたり触ふれたりできるものはやがて朽くちてなくなりますが,エホバは何なん千ぜん億おく年ねんたっても変かわることがないので,はるかに優すぐれた存そん在ざいだと言いえます。(マタイ 6:19)それでは,神かみは漠ばく然ぜんとしたエネルギーのようなもので,知ち性せいや感かん情じょうなどない,という見み方かたに対たいしては,どう答こたえられるでしょうか。

素す晴ばらしい性せい質しつを持もつ神かみ

18. エゼキエルはどんな幻まぼろしを見みましたか。エホバのそばにいる「生いき物もの」の4つの顔かおは何なにを表あらわしていますか。

18 私わたしたちは天てんや神かみを見みることはできませんが,聖せい書しょを読よむと壮そう大だいな天てんの様よう子すがいくらか分わかります。例たとえばエゼキエル 1章しょうには,エゼキエルが見みた巨きょ大だいな天てんの兵へい車しゃの幻まぼろしについて書かかれています。その兵へい車しゃは,エホバの宇う宙ちゅう的てきな組そ織しきの天てんにある部ぶ分ぶんを表あらわしていました。印いん象しょう的てきなのは,エホバのすぐそばにいる力ちから強づよい天てん使したちです。(エゼキエル 1:4-10)それらの「生いき物もの」の外がい見けんから,神かみについて重じゅう要ようなことが分わかります。それぞれの天てん使しには4つの顔かおがあります。雄お牛うし,ライオン,ワシ,人にん間げんの顔かおで,エホバの4つの際きわ立だった性せい質しつを表あらわしているようです。(啓けい示じ 4:6-8,10)

19. (ア)雄お牛うしの顔かお,(イ)ライオンの顔かお,(ウ)ワシの顔かお,(エ)人にん間げんの顔かおは,何なにを表あらわしていますか。

19 雄お牛うしはとても力ちからが強つよい動どう物ぶつなので,聖せい書しょの中なかでよく力ちからの象しょう徴ちょうとなっています。ライオンは公こう正せいの象しょう徴ちょうです。公こう正せいであるには勇ゆう気きが必ひつ要ようで,ライオンは勇ゆう気きのある動どう物ぶつとして知しられているからです。ワシは視し力りょくが良よく,何なんキロも先さきにある小ちいさな物ものも見みることができます。それで,ワシの顔かおは,先さきを見み通とおす神かみの知ち恵えをよく表あらわしています。人にん間げんの顔かおはどうでしょうか。神かみの最さい大だいの特とく徴ちょうである愛あいを表あらわしています。人にん間げんだけが神かみに似にた者ものとして造つくられたので,神かみに倣ならって愛あいを表あらわせるからです。(創そう世せい記き 1:26)エホバの力ちから,公こう正せい,知ち恵え,愛あいは,聖せい書しょの中なかで繰くり返かえし強きょう調ちょうされていて,エホバの持もつさまざまな素す晴ばらしい性せい質しつの中なかでも特とくに際きわ立だっています。

20. エホバは変かわっていないと言いえるのはどうしてですか。

20 神かみについて聖せい書しょに書かかれてから何なん千ぜん年ねんもたっていますが,神かみは変かわっていないのでしょうか。はい。神かみ自じ身しんが,「私わたしはエホバであり,私わたしは変かわらない」と言いっています。(マラキ 3:6)エホバは気きまぐれに性せい格かくを変かえるのではなく,その場ばその場ばに最もっとも合あった性せい質しつを前ぜん面めんに出だしてくれます。まさに理り想そう的てきなお父とうさんです。数かずある性せい質しつの中なかで,最もっとも重じゅう要ようなのは愛あいです。力ちからや公こう正せいや知ち恵えを表あらわす時ときにも,愛あいがこもっています。興きょう味み深ぶかいことに,神かみと愛あいの関かん係けいについて,聖せい書しょに「神かみは愛あい……です」と書かかれています。(ヨハネ第だい一いち 4:8)神かみは愛あいがあるとか,愛あいを表あらわすとではなく,神かみは愛あいであると言いわれているのです。愛あいは神かみの本ほん質しつであり,神かみのあらゆる行こう動どうのベースになっています。

「これが私わたしたちの神かみだ!」

21. エホバのことを知しれば知しるほど,どんな気き持もちになりますか。

21 子こ供どもが友とも達だちの前まえで父ちち親おやを指ゆびさし,誇ほこらしげに「あれがうちのパパだよ」と言いうことがあります。父ちち親おやのことが大だい好すきだからです。神かみを崇すう拝はいする人ひとたちも,エホバについて同おなじように感かんじます。聖せい書しょに予よ告こくされているように,忠ちゅう実じつな人ひとたちは「これが私わたしたちの神かみだ!」と言いいます。(イザヤ 25:8,9)エホバがどれほど素す晴ばらしい方かたかを知しれば知しるほど,最さい高こうのお父とうさんだという実じっ感かんが強つよまります。

22-23. 聖せい書しょによれば,天てんのお父とうさんはどんな方かたですか。ぜひ自じ分ぶんに近ちかづいてほしいと思おもっていることが,どうして分わかりますか。

22 一いち部ぶの宗しゅう教きょう家かや哲てつ学がく者しゃは,神かみは冷れい淡たんで遠とおい存そん在ざいだと教おしえています。ですが,天てんのお父とうさんはそのような方かたではありません。冷れい淡たんな神かみに近ちかづきたいとは思おもいませんが,聖せい書しょによればエホバは温あたたかい「幸こう福ふくな神かみ」です。(テモテ第だい一いち 1:11)豊ゆたかな感かん情じょうを持もっています。人にん間げんのためを思おもって与あたえた指し針しんに背そむく人ひとたちがいると,悲かなしみます。(創そう世せい記き 6:6。詩し編へん 78:41)逆ぎゃくに,私わたしたちが聖せい書しょに従したがって賢かしこく行こう動どうすると,喜よろこびます。(格かく言げん 27:11)

23 天てんのお父とうさんは,ぜひ自じ分ぶんに近ちかづいてほしいと思おもっています。聖せい書しょの中なかで私わたしたちに,「神かみを探さがし求もとめて本ほん当とうに見みつける」ように勧すすめています。「実じつのところ神かみは,私わたしたち一人ひとり一人ひとりから遠とおく離はなれてはいません」。(使し徒と 17:27)でも,単たんなる人にん間げんが宇う宙ちゅうの主しゅ権けん者しゃである主しゅに近ちかづいて友とも達だちになることなど,本ほん当とうにできるのでしょうか。

エホバの称しょう号ごうの例れい

  • 全ぜん能のう者しゃ。誰だれも対たい抗こうできない無む限げんの力ちからを持もつ。(啓けい示じ 15:3)

  • 父ちち。全すべての命いのちの源みなもとであり,永えい遠えんの命いのちも与あたえることができる。自じ分ぶんに仕つかえる人ひとたちに,父ちち親おやとして愛あいを示しめす。(格かく言げん 27:11。ヨハネ 5:21)

  • 偉い大だいな教きょう師し。何なんでも知しっていて,私わたしたちを教おしえ,導みちびいてくれる。(イザヤ 30:20; 48:17)

  • 岩いわのような方かた。決けっして変かわることがなく,安あん全ぜんな避ひ難なん所じょのようになってくれる。(申しん命めい記き 32:4)

  • 牧ぼく者しゃ。自じ分ぶんに仕つかえる羊ひつじのような人ひとたちを導みちびいて守まもり,信しん仰こうを保たもてるように養やしなってくれる。(詩し編へん 23:1)

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