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残酷な敵というだけではありません目ざめよ! 1994 | 6月22日
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痛みのない生活?
こういう過酷な現実を前にして,痛みのない生活が可能だというようなことをほのめかすのは軽率な行為のように思えるかもしれません。したがって,聖書が言う,「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,……嘆きも叫びも苦痛ももはやない」ということなど,あり得ないように思えるかもしれません。―啓示 21:4。
しかし,痛みのない生活はあり得ないことではありません。でも,ちょっと考えてみてください。この聖句は実際に何を意味しているのでしょうか。今日でも痛みの感覚のない人たちがいます。生まれつきその感覚がないのです。そのような人たちをうらやましく思うべきでしょうか。解剖学者のアラン・バスバウムは,「痛みが全くないというのは災いである」と言います。
痛みを感じることができないと,水ぶくれができていても,ひどい潰瘍になるまでそれに気づかないことでしょう。あるニュース報道によると,痛みを感じないある少女の両親は,「肉が焼けるにおいがするので見てみると,娘がこともなげにストーブによりかかっていたといったことが何度かあった」ということです。ですから,痛みは残酷な敵というだけではありません。痛みにはありがたい面もあるのです。
では,「苦痛ももはやない」という聖書の約束についてはどうでしょうか。これはわたしたちが心から成就を願うべき約束でしょうか。
涙のない生活?
この聖句の文脈を見ると,「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり」とも述べられています。(啓示 21:4)これは重要な意味を持っています。涙は生命の維持に必要なものだからです。涙には痛みの感覚と同じように,わたしたちを保護する役目があります。
涙は目のうるおいを保ち,目とまぶたの摩擦を防ぎます。また,異物を目から洗い落とします。また涙には,目を消毒して感染を防ぐリゾチームと呼ばれる殺菌剤が含まれています。ですから涙を流す能力は,痛みの感覚と同様に,くすしく造られた人体に備わっている際立った特色の一つなのです。―詩編 139:14。
しかし,涙は悲しみや嘆きや苛立ちとも密接な関係があります。聖書時代のダビデ王は,「わたしは夜通し寝いすを漂わせ,寝床をわたしの涙であふれさせます」と嘆きました。(詩編 6:6)イエスも友の死に際して『涙を流されました』。(ヨハネ 11:35)人々がそのような悲しみの涙を流すことは神の当初の目的ではありませんでした。人類が不完全で死にゆく状態にあるのは,最初の人間アダムの罪のせいです。(ローマ 5:12)ですから,なくなるのは,わたしたちの不完全な,死にゆく状態に起因する涙なのです。
聖書が,ある種の涙は除き去られると述べていることからすると,苦痛はもはやない,という約束はどのように果たされるのでしょうか。人々は少なくとも時々,悲しみや叫びをもたらす痛みを味わうのでしょうか。
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もはやなくなる苦痛目ざめよ! 1994 | 6月22日
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もはやなくなる苦痛
聖書預言の成就として除き去られる苦痛は,最初の人間が不完全になった結果として人々が経験している苦痛です。この苦痛には,慢性疼痛と言えるものが含まれています。
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