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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第4章 35–45ページ

第4章

「見みなさい,ユダ族ぞくの者ものであるライオン」

兵士を含む殺気立った群衆の前で,イエスが堂々と名乗り出ている。使徒たちが離れた所から見ている。

「それは私わたしです」

1-3. イエスにどんな危き険けんが迫せまりましたか。イエスはどうしましたか。

大おお勢ぜいの男おとこたちがイエスを捜さがしています。剣つるぎやこん棒ぼうを持もっていて,兵へい士しもいます。悪あく意いの塊かたまりとなって夜よるのエルサレムの通とおりを突つき進すすみ,キデロンの谷たにを渡わたってオリーブ山やまに向むかいます。満まん月げつなのに,たいまつやランプも持もっています。月つきが雲くもに覆おおわれて,道みちを照てらす必ひつ要ようがあったのでしょうか。それとも,イエスは暗くらがりに隠かくれているに違ちがいないと思おもったのでしょうか。1つ言いえることとして,イエスは恐おそれて身みを潜ひそめているだろうと思おもっている人ひとは,イエスのことを何なにも分わかっていません。

2 イエスは危き険けんが迫せまっていることを知しっていますが,逃にげも隠かくれもしません。群ぐん衆しゅうが近ちかづいてきます。先せん頭とうにいるのは,信しん頼らいする友ともだったユダです。ユダは恥はじ知しらずにもイエスを裏うら切ぎります。偽ぎ善ぜん的てきなあいさつと口くちづけをして,この人ひとがイエスだと他たの人ひとたちに知しらせます。それでもイエスは落おち着ついています。男おとこたちの前まえに進すすみ出でて,「誰だれを捜さがしているのですか」と尋たずねます。男おとこたちは「ナザレ人じんイエスだ」と答こたえます。

3 武ぶ器きを持もった群ぐん衆しゅうが迫せまってきたら,大たい抵ていの人ひとは恐おそろしく感かんじるでしょう。この時ときの男おとこたちも,イエスはおびえるだろうと思おもっていたかもしれません。しかし,イエスはおじけづくことも,逃にげることも,自じ分ぶんが誰だれなのかをごまかすこともしません。「それは私わたしです」と言いいます。イエスがあまりに落おち着ついて堂どう々どうとしているので,男おとこたちは驚おどろいて後あとずさりし,地じ面めんに倒たおれてしまいます。(ヨハネ 18:1-6。マタイ 26:45-50。マルコ 14:41-46)

4-6. (ア)神かみの子こは何なんと呼よばれていますか。どうしてですか。(イ)イエスはどんな3つの分ぶん野やで勇ゆう気きを表あらわしましたか。

4 とても危き険けんな状じょう況きょうだったのに,イエスがそれほどまでに冷れい静せいでいられたのはどうしてでしょうか。一ひと言ことで言いうと,勇ゆう気きがあったからです。勇ゆう気きは,リーダーに期き待たいされる資し質しつの中なかでも上じょう位いに挙あげられます。そして,イエスほどの勇ゆう気きを示しめした人ひとはこれまで誰だれもいません。前まえの章しょうで学まなんだ通とおり,イエスはとても謙けん遜そんで温おん厚こうでした。そのため,「子こ羊ひつじ」と呼よばれています。(ヨハネ 1:29)しかし,勇ゆう気きもあったので,聖せい書しょの中なかで全まったく別べつの呼よび方かたもされています。「ユダ族ぞくの者ものであるライオン」と呼よばれているのです。(啓けい示じ 5:5)

5 ライオンはたびたび勇ゆう気きと結むすび付つけられています。あなたは雄おすのライオンの成せい獣じゅうと向むかい合あったことがありますか。あるとしても,ライオンは動どう物ぶつ園えんの囲かこいの中なかなどにいて,危き害がいを加くわえられる心しん配ぱいはなかったことでしょう。それでも,間ま近ぢかで見みて思おもわずたじろいでしまったかもしれません。鋭するどい目めつきの迫はく力りょくあるライオンを見みていると,何なにかを恐おそれて逃にげ出だすことなどないように思おもえます。聖せい書しょにも,ライオンは「野や獣じゅうの中なかで最もっとも力ちから強づよく,何なにものからも逃にげない」と書かかれています。(格かく言げん 30:30)キリストはそのライオンのように勇ゆう気きがあったのです。

6 では,イエスがライオンのような勇ゆう気きをどのように表あらわしたか,3つの分ぶん野やを考かんがえてみましょう。イエスは真しん理りを擁よう護ごし,公こう正せいを貫つらぬき,反はん対たいに立たち向むかいました。私わたしたちも,たとえもともと勇ゆう敢かんでないとしても,イエスに見み習ならって勇ゆう気きを示しめせます。どのようにそうできるかも考かんがえていきましょう。

イエスは勇ゆう敢かんに真しん理りを擁よう護ごした

7-9. (ア)イエスが12歳さいの時ときにどんなことがありましたか。緊きん張ちょうしても無む理りはない,どんな状じょう況きょうでしたか。(イ)イエスは神しん殿でんの教きょう師したちの前まえでどのように勇ゆう気きを示しめしましたか。

7 「うその根こん源げん」であるサタンが世よの中なかを支し配はいしているので,真しん理りを擁よう護ごするには勇ゆう気きが必ひつ要ようです。(ヨハネ 8:44; 14:30)イエスは年とし若わかい頃ころから真しん理りを擁よう護ごしていました。12歳さいの時とき,エルサレムでの過すぎ越こしの祭まつりの後あとに両りょう親しんとはぐれたことがありました。マリアとヨセフは3日か間かん,必ひっ死しにイエスを捜さがし,ようやく神しん殿でんで見みつけます。イエスはそこで何なにをしていたのでしょうか。「教きょう師したちの真まん中なかに座すわり,話はなしを聞きいたり質しつ問もんをしたりして」いました。(ルカ 2:41-50)この出で来き事ごとについてもう少すこし考かんがえてみましょう。

8 歴れき史し家かたちによれば,著ちょ名めいな宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちが祭まつりの後あとも神しん殿でんにとどまり,広ひろいポーチで人ひと々びとを教おしえていました。その教きょう師したちの足あし元もとに座すわって,話はなしを聞きいたり質しつ問もんしたりできたようです。その人ひとたちは高たかい教きょう育いくを受うけていて,モーセの律りっ法ぽうだけでなく,長ながい年ねん月げつの間あいだに付つけ足たされてきた多おおくの複ふく雑ざつな規き定ていや伝でん統とうについてもよく知しっていました。もしあなたがそのような教きょう師したちに囲かこまれたとしたら,どう感かんじると思おもいますか。緊きん張ちょうしたとしても無む理りはありません。わずか12歳さいだったらなおさらです。年としが若わかいと気き後おくれしがちです。(エレミヤ 1:6)学がっ校こうの授じゅ業ぎょうでなるべく目め立だたないようにする子こもいます。恥はずかしい思おもいをしたりばかにされたりしたくないので,先せん生せいに指さされないようにするのです。

9 しかし,イエスはそうではありません。博はく学がくな教きょう師したちの真まん中なかに座すわり,恐おそれずに鋭するどい質しつ問もんをしています。それだけでなく,聖せい書しょによると「イエスが話はなすのを聞きいていた人ひとは皆みな,その子この理り解かい力りょくと答こたえにとても驚おどろいて」いました。(ルカ 2:47)イエスが何なにを話はなしたのかは聖せい書しょに書かかれていませんが,当とう時じの宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちの間ま違ちがった教おしえに同どう調ちょうするようなことは言いわなかったに違ちがいありません。(ペテロ第だい一いち 2:22)いつも神かみの言こと葉ばの真しん理りに沿そって意い見けんを言いったことでしょう。それで聞きいていた人ひとたちは,その12歳さいの少しょう年ねんの洞どう察さつ力りょくや勇ゆう気きに驚おどろいたのです。

若い姉妹が「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」の本を先生に見せながら話している。

多おおくの若わかいクリスチャンが勇ゆう気きを出だして,自じ分ぶんの信しんじていることについて話はなしている

10. 現げん代だいの若わかいクリスチャンたちは,イエスのように勇ゆう気きを示しめしてどんなことをしていますか。

10 現げん代だいの多おおくの若わかいクリスチャンも,イエスのように勇ゆう気きを示しめしています。もちろんイエスと違ちがって完かん全ぜんな人にん間げんではありませんが,年とし若わかい頃ころから真しん理りを擁よう護ごしています。学がっ校こうや近きん所じょで会あう人ひとたちに上じょう手ずに質しつ問もんし,話はなしてくれることをよく聞きいて,敬けい意いを込こめて真しん理りを伝つたえています。(ペテロ第だい一いち 3:15)そのようにして,クラスメートや先せん生せいや近きん所じょの人ひとたちがキリストの弟で子しになれるように助たすけてきました。そうやって勇ゆう気きを示しめしている若わかい人ひとたちを見みて,エホバはとても喜よろこんでいることでしょう。そのような若わか者ものは聖せい書しょの中なかで,爽さわやかで魅み力りょく的てきな露つゆに例たとえられています。(詩し編へん 110:3)

11-12. イエスは大人おとなになってからもどのように勇ゆう敢かんに真しん理りを擁よう護ごしましたか。

11 イエスは大人おとなになってからも繰くり返かえし勇ゆう敢かんに真しん理りを擁よう護ごしました。まず,これから宣せん教きょうを始はじめようという時ときに,恐おそろしい相あい手てに立たち向むかわなければなりませんでした。力ちから強づよい天てん使し長ちょうではなく生なま身みの人にん間げんとして,エホバの敵てきの中なかで最もっとも強きょう力りょくで危き険けんなサタンと相あい対たいすることになったのです。サタンは聖せい書しょの言こと葉ばを自じ分ぶんの都つ合ごうのいいように解かい釈しゃくしようとしましたが,イエスはそれを論ろん破ぱしました。そして,「離はなれ去され,サタン!」ときっぱり命めいじて,その邪じゃ悪あくな敵てきを退しりぞけました。(マタイ 4:2-11)

12 イエスはその後ごも,聖せい書しょの言こと葉ばの意い味みをゆがめようとする人ひとたちがたくさんいる中なかで,天てんの父ちちの言こと葉ばが正ただしく伝つたわるように奮ふん闘とうしました。当とう時じも現げん代だいと同おなじように,宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは間ま違ちがったことばかり教おしえていました。それでイエスは彼かれらをとがめ,「自じ分ぶんたちが伝つたえる伝でん統とうによって神かみの言こと葉ばを否ひ定ていしている」と言いいました。(マルコ 7:13)その宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちは一いっ般ぱんの人ひとたちから尊そん敬けいされていましたが,イエスは恐おそれることなく彼かれらを「目めが見みえない案あん内ない人にん」や「偽ぎ善ぜん者しゃ」と呼よんで非ひ難なんしました。a (マタイ 23:13,16)このイエスの勇ゆう気きある手て本ほんに,私わたしたちはどのように倣ならえるでしょうか。

13. 私わたしたちがイエスと全まったく同おなじようにできないのはどうしてですか。それでもどんな素す晴ばらしいことができますか。

13 私わたしたちはイエスと違ちがって人ひとの心こころの中なかを見みることはできませんし,裁さばく権けん限げんもないので,イエスと全まったく同おなじようにはできません。それでも,イエスに倣ならって勇ゆう敢かんに真しん理りを擁よう護ごできます。例たとえば,多おおくの宗しゅう教きょうが神かみや,神かみが願ねがっていることや,神かみの言こと葉ばである聖せい書しょについて間ま違ちがったことを教おしえていますが,そうした教おしえが正ただしくないことを示しめせます。そのようにして,サタンのうそによっていわば暗くら闇やみに包つつまれた世よの中なかで光ひかりを輝かがやかせるのです。(マタイ 5:14。啓けい示じ 12:9,10)間ま違ちがった教おしえのせいで恐おそれを感かんじたり,神かみについて誤ご解かいしたりしている人ひとたちに真しん理りを伝つたえ,爽さわやかな気き持もちになれるよう助たすけることができます。イエスが言いった通とおり人ひとが「真しん理りによって自じ由ゆうにな[る]」のを見みることができるのは,本ほん当とうに素す晴ばらしいことです。(ヨハネ 8:32)

イエスは勇ゆう敢かんに公こう正せいを貫つらぬいた

14-15. (ア)イエスはどのように「公こう正せいとは何なにかを国くに々ぐにに明あきらかに」しましたか。(イ)イエスはどんな偏へん見けんを意いに介かいさず,サマリア人じんの女じょ性せいと話はなしましたか。

14 聖せい書しょの預よ言げんによると,メシアは「公こう正せいとは何なにかを国くに々ぐにに明あきらかにする」ことになっていました。(マタイ 12:18。イザヤ 42:1)イエスは地ち上じょうにいる間あいだにそのことに着ちゃく手しゅしました。勇ゆう気きを持もっていつも人ひと々びとに公こう平へいに接せっしました。当とう時じの世よの中なかには聖せい書しょの教おしえに反はんする偏へん見けんや敵てき意いがはびこっていましたが,そうした考かんがえ方かたに流ながされたりはしませんでした。

15 ある時ときイエスは,スカルの井い戸どの所ところでサマリア人じんの女じょ性せいと話はなしました。それを見みた弟で子したちは驚おどろきました。当とう時じほとんどのユダヤ人じんはサマリア人じんをひどく嫌きらって避さけていたからです。それは昔むかしからあった根ね深ぶかい感かん情じょうでした。(エズラ 4:4)さらに,女じょ性せいを見み下くだすラビたちもいました。彼かれらが作つくって後のちに書しょ物もつにまとめた規き則そくによると,男だん性せいは女じょ性せいとの会かい話わを控ひかえるべきでした。女じょ性せいに神かみの律りっ法ぽうを教おしえる価か値ちはないということもほのめかされていました。特とくにサマリア人じんの女じょ性せいは汚けがれていると見みなされていました。でもイエスは,公こう正せいとは程ほど遠とおいそのような偏へん見けんを意いに介かいさず,不ふ道どう徳とくな生せい活かつを送おくっていたサマリア人じんの女じょ性せいを人ひと目めもはばからずに教おしえ,自じ分ぶんがメシアであることをその女じょ性せいに明あかすことさえしました。(ヨハネ 4:5-27)

16. 周まわりの人ひとが偏へん見けんを持もっている場ば合あい,クリスチャンに勇ゆう気きが必ひつ要ようなのはどうしてですか。

16 あなたは偏へん見けんを持もつ人ひとと一いっ緒しょにいたことがありますか。そういう人ひとは人じん種しゅや国こく籍せきの違ちがう人ひとをばかにするような冗じょう談だんを言いったり,異い性せいについて失しつ礼れいなことを言いったり,貧まずしい人ひとや立たち場ばの低ひくい人ひとを見み下くだしたりするかもしれません。キリストの弟で子しはそのような心こころない見み方かたに同どう調ちょうしたりせず,自じ分ぶんの心こころから偏へん見けんを取とり除のぞこうと懸けん命めいに努ど力りょくします。(使し徒と 10:34)こうした面めんで公こう正せいであるには,勇ゆう気きが必ひつ要ようです。

17. イエスは神しん殿でんでどんなことをしましたか。どうしてですか。

17 イエスは,神かみの民たみや崇すう拝はいの清きよさを守まもるために闘たたかった時ときにも勇ゆう気きを示しめしました。宣せん教きょうを始はじめて間まもない頃ころにエルサレムの神しん殿でんの境けい内だいに入はいった時とき,商しょう人にんや両りょう替がえ屋やがそこで商しょう売ばいをしているのを見みてがくぜんとし,怒いかりを感かんじました。それで,その貪どん欲よくな人ひとたちを神しん殿でんから追おい出だしました。(ヨハネ 2:13-17)宣せん教きょう期き間かんの終おわりが近ちかづいた頃ころにも同おなじようなことをしました。(マルコ 11:15-18)そのようにすれば敵てきをつくることになると分わかっていましたが,イエスはためらいませんでした。どうしてでしょうか。イエスは子こ供どもの頃ころから神しん殿でんを自じ分ぶんの父ちちの家いえと呼よび,心こころからそうだと思おもっていました。(ルカ 2:49)そこで行おこなわれる清きよい崇すう拝はいを汚けがすような不ふ公こう正せいを見み過すごすことなどできませんでした。そういう熱あつい思おもいがあったので,勇ゆう敢かんに行こう動どうできたのです。

18. 現げん代だいのクリスチャンは会かい衆しゅうの清きよさを守まもるためにどのように勇ゆう気きを示しめせますか。

18 現げん代だいのキリストの弟で子したちも,神かみの民たみと崇すう拝はいの清きよさを守まもりたいと強つよく願ねがっています。仲なか間まのクリスチャンが重じゅう大だいな罪つみを犯おかしたことを知しったなら,見みて見みぬふりはしません。勇ゆう気きを出だしてその人ひとと話はなし,その件けんが確かく実じつに会かい衆しゅうの長ちょう老ろうたちに伝つたわるようにします。(コリント第だい一いち 1:11)長ちょう老ろうたちは,神かみとの絆きずなが弱よわまっている人ひとを助たすけるだけでなく,会かい衆しゅうの清きよさを守まもるために必ひつ要ようなことを行おこないます。(ヤコブ 5:14,15)

19-20. (ア)イエスの時じ代だいにどんな不ふ公こう正せいが見みられましたか。多おおくの人ひとがイエスにどんなことを期き待たいしましたか。(イ)キリストの弟で子しが政せい治じや暴ぼう力りょくに関かかわらないのはどうしてですか。神かみの民たみはどんな立りっ派ぱな行こう動どうで知しられていますか。

19 では,イエスは世よの中なかのあらゆる不ふ公こう正せいと闘たたかったのでしょうか。当とう時じの世よの中なかにはほかにもいろいろ不ふ公こう正せいなことがありました。イエスが生うまれ育そだった国くには外がい国こくに占せん領りょうされていました。ローマ人じんは強きょう力りょくな軍ぐん隊たいを駐ちゅう留りゅうさせてユダヤ人じんを抑よく圧あつし,重おもい税ぜいを課かし,宗しゅう教きょうにも干かん渉しょうしました。ですから,イエスに政せい治じを変かえてほしいと多おおくの人ひとが願ねがったのも不ふ思し議ぎではありません。(ヨハネ 6:14,15)でも,イエスは政せい治じに関かかわろうとはしませんでした。それには勇ゆう気きが必ひつ要ようでした。

20 イエスは,自じ分ぶんの王おう国こくはこの世せ界かいのものではないと説せつ明めいしました。そして,政せい治じ問もん題だいに関かかわるのではなく,神かみの王おう国こくの良よい知しらせを伝つたえることに専せん念ねんするよう,手て本ほんによって弟で子したちに教おしえました。(ヨハネ 17:16; 18:36)群ぐん衆しゅうが自じ分ぶんを捕とらえにやって来きた時ときには,正ただしい行こう動どうについて大たい切せつなことを教おしえました。その時ときペテロはとっさに剣つるぎを振ふるい,1人ひとりの男だん性せいにけがを負おわせました。ペテロの気き持もちも分わかります。神かみの子こが無む実じつだったにもかかわらず捕とらえられようとしていたのですから,正せい当とう防ぼう衛えいだと考かんがえたのでしょう。でも,イエスはこう言いいました。「その剣つるぎをさやに収おさめなさい。剣つるぎを取とる人ひとは皆みな,剣つるぎで滅ほろびます」。この言こと葉ばは,現げん代だいに至いたるまでイエスの弟で子したちが守まもるべき指し針しんとなっています。(マタイ 26:51-54)当とう時じのキリストの弟で子しがそのように平へい和わを大たい切せつにするには,勇ゆう気きが必ひつ要ようでした。今いまでもそうです。現げん代だいの神かみの民たみは,戦せん争そうや大だい虐ぎゃく殺さつや暴ぼう動どうが起おきてもクリスチャンとして中ちゅう立りつを保たもちます。他たのさまざまな暴ぼう力りょく行こう為いにも関かかわることはありません。そのような立りっ派ぱな行こう動どうは,まさしく勇ゆう気きの証あかしです。

イエスは勇ゆう敢かんに反はん対たいに立たち向むかった

21-22. (ア)イエスは最さい大だいの試し練れんに立たち向むかう前まえにどのように力ちからをもらいましたか。(イ)イエスはどのように最さい後ごまで勇ゆう敢かんでしたか。

21 エホバの子こは,地ち上じょうで厳きびしい反はん対たいに遭あうことをかなり前まえから知しっていました。(イザヤ 50:4-7)実じっ際さい,地ち上じょうで何なん度ども命いのちを狙ねらわれました。そして,ついにこの章しょうの冒ぼう頭とうで取とり上あげた出で来き事ごとが起おきます。そのような危き険けんな目めに遭あいながら,イエスが勇ゆう気きを持もち続つづけることができたのはどうしてでしょうか。群ぐん衆しゅうが捕とらえに来くる前まえに,イエスが何なにをしていたか思おもい出だしてください。エホバに熱ねつ烈れつに祈いのっていました。聖せい書しょによると,そのイエスの祈いのりはエホバに「聞きき入いれられました」。(ヘブライ 5:7)エホバは天てん使しを遣つかわして,自じ分ぶんの勇ゆう敢かんな子こを力ちからづけました。(ルカ 22:42,43)

22 力ちからづけられて間まもなく,イエスは使し徒とたちに,「立たちなさい。行いきましょう」と言いいました。(マタイ 26:46)こう言いったイエスがどれほど勇ゆう敢かんだったか考かんがえてみてください。「行いきましょう」と言いった時とき,イエスはその後あとどうなるかを知しっていました。武ぶ器きを持もった群ぐん衆しゅうから友ゆう人じんたちを守まもらなければならないことも,その友ゆう人じんたちが自じ分ぶんを見み捨すてて逃にげてしまうことも,人じん生せい最さい大だいの試し練れんに独ひとりで立たち向むかうことになることも知しっていたのです。そして,違い法ほうで不ふ公こう正せいな裁さい判ばんにかけられ,あざけられて拷ごう問もんを受うけ,ひどく苦くるしんで死しを迎むかえました。その間あいだずっと,イエスの勇ゆう気きが尽つきることはありませんでした。

23. イエスは死しぬことが分わかっていながら危き険けんに立たち向むかいましたが,無む謀ぼうだったわけではありません。どうしてそう言いえますか。

23 イエスは危き険けんを顧かえりみない人ひとだったのでしょうか。そうではありません。そのような無む謀ぼうさを勇ゆう気きとは言いいません。実じっ際さいイエスは弟で子したちに,神かみの望のぞむことを行おこない続つづけるために用よう心じん深ぶかくあり,危き険けんを避さけるようにと教おしえました。(マタイ 4:12; 10:16)でも,自じ分ぶんは最さい後ごの試し練れんを避さけるわけにはいかないと分わかっていました。神かみの意い志しが関かん係けいしていたからです。忠ちゅう誠せいを貫つらぬくことを決けつ意いしていたイエスにとって,試し練れんに真まっ向こうから立たち向むかう以い外がいの道みちは考かんがえられませんでした。

ナチス・ドイツでの迫害に耐えた3人の兄弟が囚人服を着て立っている。

エホバの証しょう人にんは迫はく害がいを受うけても勇ゆう気きを示しめしてきた

24. どんな試し練れんに遭あっても勇ゆう気きを持もって神かみに従したがい通とおせると確かく信しんできるのはどうしてですか。

24 多おおくの弟で子したちが,主しゅ人じんであるイエスに倣ならって勇ゆう気きを示しめしてきました。あざけりや迫はく害がいに遭あったり,逮たい捕ほされ投とう獄ごくされたり,拷ごう問もんを受うけたりしても,エホバに忠ちゅう実じつに仕つかえてきました。殺ころされることになってもエホバに従したがい通とおした人ひとたちもいます。不ふ完かん全ぜんな人にん間げんがそれほどの勇ゆう気きを持もてたのはどうしてでしょうか。自し然ぜんに身みに付ついたのではなく,イエスと同おなじようにエホバに助たすけてもらったのです。(フィリピ 4:13)ですから私わたしたちも,この先さきに待まち受うけていることについて心しん配ぱいする必ひつ要ようはありません。忠ちゅう誠せいを貫つらぬくことを決けつ意いしていれば,エホバが勇ゆう気きを与あたえてくださいます。次つぎの言こと葉ばを語かたった,私わたしたちのリーダーであるイエスの手て本ほんについて考かんがえると,力ちからが湧わいてきます。「勇ゆう気きを出だしなさい! 私わたしは世よを征せい服ふくしたのです」。(ヨハネ 16:33)

a 歴れき史し家かたちによれば,ラビたちの墓はかは預よ言げん者しゃや族ぞく長ちょうたちの墓はかと同おなじように尊とうといものとして大たい切せつにされていました。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • イエスのどんな手て本ほんについて考かんがえると,私わたしたちが伝つたえる真しん理りに気きを悪わるくする人ひとがいても語かたり続つづける勇ゆう気きが湧わいてきますか。(ヨハネ 8:31-59)

  • サタンや邪じゃ悪あくな天てん使したちを過か度どに恐おそれて人ひと々びとを助たすけられないということがないように,どんなことを考かんがえるとよいですか。(マタイ 8:28-34。マルコ 1:23-28)

  • たとえ迫はく害がいを受うけることになるとしても,ひどい扱あつかいを受うけている人ひとに思おもいやりを示しめすべきなのはどうしてですか。(ヨハネ 9:1,6,7,22-41)

  • 将しょう来らいの希き望ぼうは,イエスが試し練れんに立たち向むかうのにどう役やく立だちましたか。希き望ぼうがあると勇ゆう気きを持もてるのはどうしてですか。(ヨハネ 16:28; 17:5。ヘブライ 12:2)

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