神の目的とエホバの証者(その30)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第21章 第二次世界大戦が近づくにつれて神権的な秩序は設立される。
トム: ジョンさん,今夜お帰りになる前に欧州でのわざの状況をちょっと話していただけませんか。
ジョン: 1934年までには,協会はすべての大陸の49の国々に支部事務所をもっていました。a これらの支部事務所はブルックリン本部と密接な連絡を保ち,わざはアメリカ合衆国で行なわれていた型にしたがって発展していました。しかし,カトリック・ファシズムは欧州に勢力を伸ばし,わざのあらゆる面が難局に直面するようになりました。すでにお話ししたようにわざは1932年イタリアで禁ぜられましたが,約50人の証者たちは活動をつづけました。彼らはたえず警察につけ狙われたのです。警察は文書を受け取った人をも逮捕しました。b 多数のイタリア人の兄弟たちは,ムッソリーニのファシスト政府により投獄されました。1936年から1939年までのファシストの革命にもかかわらず,わざはスペインでも行なわれました。しかしその進歩はおそいものでした。この内乱の只中にあっても,スペイン人の証者たちは10万5570部の聖書文書を配布しました。c 遠い国である日本では,わざは1933年制限をうけるようになり,1939年には全面的に禁止されるようになりました。
おぼえていらっしゃると思いますが,ヒトラーの政府はマグデブルグにあった協会の資産を没収して,集会とか文書配布などに関する一切の証者の活動を禁じました。それでも,ドイツでは活動がさらにさかんに行なわれたのです。それは1933年の6月でした。同年の10月,資産は協会に返却されましたが,文書は禁令下にあったため,証者たちはその施設を用いることができませんでした。この行きづまりの状態は戦争が1939年に始まるまでつづきました。1939年,ドイツ政府はふたたび協会所有の建物を没収し,戦争目的のために変えました。
ヒトラー政府に対する抗議
すでにお話ししたように,ルサフォード兄弟はドイツにいて状態の推移を注意深く観察し,とるべき処置について考慮を払っていました。1934年,7月,大胆で決定的な手段が取られました。本部からの手紙はドイツの中の各会衆に送られました。その手紙に従い,兄弟たちはみなその日に会合し,全地の兄弟たちと時を同じくして抗議の決議を採決することにしました。諸会衆は,手紙の指示通りに行ないました。彼らはエホバに厳粛な祈りをささげて後,ベルリンのヒトラー政府の役人に宛てた決議文を電報で送りました。
その抗議文は次のことを指摘していました,すなわちヒトラー政府は神の律法に逆らって,エホバの証者の権利を犯しており,エホバの証者が共に集まって神の御言葉を研究し,神を崇拝して神に仕えることを禁じている。証者たちは,ヒトラーの法律と神の律法はまったく反するものであると責め,ヒトラーにこう告げました。
どんな犠牲を払おうとも,われわれは神のいましめに従う。神の御言葉を研究するために集会し,神のいましめ通り神を崇拝し,神に仕える。もし,われわれが神に従っているので,貴下の政府か役人が,われわれに害を加えるなら,われわれの血は,貴下にそそがれ貴下は全能の神に申し開きをせざるを得ないであろう」。d
彼らは,ヒトラーとその政府にはっきり次のことを保証しました,すなわち,エホバの証者は政治的な事がらに興味を持たずキリストの支配する神の御国に全く献身しており,そのわざの結果としてだれにも害は生じないと保証していました。それからその電文は「敬具エホバの証者」とむすばれ,彼らが会衆として集会した町か都市の名前が述べられていました。
ふたたびエホバの証者の一致は全世界にわたって示されました。同じ日曜日の朝,50の国のエホバの証者は野外奉仕に出かける前に,集まって,ドイツ人の兄弟たちを支持したからです。それぞれの群れは,エホバに祈りをささげて後,ヒトラーとその政府に宛てた次の抗議電文を送りました。
ドイツ,ベルリン,ヒトラー政府,エホバの証者に対する貴下の虐待行為は,地上の善人全部をおどろかし,神の御名をぼうとくするものである。今後,エホバの証者を迫害することを中止せよ。さもなくば神は貴下と貴下の国家政党を滅ぼすであろう。
その電文は「エホバの証者」と署名され,会衆の集まった都市や町の名が記されていました。e
トム: それはヒトラーの政府に強烈な影響をおよぼしたにちがいありません。その反応はどうでしたか。
ジョン: 兄弟たちの受けた反応は,迫害の程度がぐっと強まったことです。しかし,この莫大な数の抗議状の結果として実際に生じたことについて,協会は宣誓文書を所有しています。この文書は,カール・アール・エイ・ウィッティングの準備したもので,1947年11月13日,マイン・フランクフルトの公証人の前で署名されたものです。
宣言 ― 1934年10月7日,私は前もって召喚されていたので,当時ドイツ帝国とプロシアの内務大臣であったウイルヘルム・フリック博士を訪問した。その場所は,ベルリン・ケーニングスプラッツのドイツ帝国の本部事務所であった。そのとき,私はルーデンドルフ将軍の全権大使だったのである。私は通信物を受けとることになっていた。その内容は,ルーデンドフ将軍を説得して,ナチ政権に対する反対中止をはかるものであった。フリック博士と話している最中,ヒトラーがとつぜん現われて,会話に加わり始めた。私たちが,いまにいたるまでのドイツの万国聖書研究会〔エホバの証者〕に対する処置について話し合ったとき,フリック博士はヒトラーに多数の電報を示した。それらは聖書研究生を迫害する第三ドイツ帝国に対する抗議の電文であって,フリック博士はこう言った,「もし聖書研究生がすぐに服従しないなら,われわれはもっと強い手段を用いて彼らに対処する」。すると,ヒトラーは起立して,こぶしをにぎりしめてヒステリックな声でこう叫んだ,「この奴らをドイツから根絶してやる!」。この会話から4年後に,ヒトラーの激怒は単なるおどしではないということを私は十分に確認した。私自身が7年間,サクセンハウセン,フロセンベルグ,そしてマウトハウセンにあった地獄とも言えるナチ収容所の保護刑務所に入れられて,そのことを目のあたりに見たからである。私は同盟軍によって救われるまで刑務所の中にいた。前述の収容所内にいた囚人の群れで聖書の研究生ほど残酷な仕方で秘密警察から迫害されたものはひとつもない。肉体的な拷問と精神的な拷問がたえず加えられ,残虐そのものであった。この世の言葉では,それをとうてい言い表わすことができぬ。f
1933年,この危機の時が始まったばかりのとき,11月1日号の「ものみの塔」(英文)は,「彼らを恐るるなかれ」という題の下に中心記事を載せました。それはこの危険な時におけるエホバの油そそがれた残れる者に課せられた責任を明白かつ聖書的に示したものです。その表題の聖句は,マタイ伝 10章26,27節です,「この故に,彼らをおそるな。おほはれたるものにあらはれぬはなく,かくれたるものに知られぬは無ければなり。くらきにて我が告ぐることを光明にて言え。耳をあてて聴くことを屋の上にて宣べよ」。宣べるべきものとは,エホバがひそかに,「暗黒」にかくれて示すものであると記事は説明しました。
この世の見ていない真理あるいは理解していない真理は,敵に対する警告として明白に,かつ恐れなしに語らねばなりません。そうすれば,善意者たちも学ぶことができます。その記事は諸国民がエホバの証者を迫害したり,逮捕したりして示した憎しみと悪意に注意をひきました。特に1918年に主が宮に来てから憎しみと悪意は示されるようになったのです。特にローマ・カトリック教会のはげしい敵意はばくろされました。そして,エホバの証者が共産主義者,社会主義者であり,現在の地上の政府をくつがえすために政治的な企に参加しているという偽りの非難もばくろされました。この反対のために神の忠実な僕の幾人かが殺されることは,聖書からも分かると,その記事は示しました。
いまや残れる者各人の前に大論争が置かれている。その大論争については,疑問の余地はすこしもない。残れる者各人は,勇気と確信をもって,大論争に面しなければならない……もし宮級のひとりがいま述べ伝えねばならぬ大いなる真理を学んでも,その真理を自分のものだけにして,人々に告げる機会を避けるなら,そして敵の手先から非難をうけずに済むと思う行いをするなら,その者は主を否定しているのである。……なぜなら,彼は主のいましめに従っていない……キリスト・イエスと共々に御国の栄光にあずかる人々は,エホバ神の御名に関して忠実かつ真の証者でなればならぬ。そして,宮で神について学んだことを大胆に,しかもよろこびをもって告げねばならぬ。かくして,彼らはエホバの聖なる御名の立証に参加するであろう。g
国旗敬礼の論争が起きる
1934年別の論争が起きました。この論争のため,反対の火は猛烈なものとなり,ものすごい悪意と憎しみが燃えあがったのです。その始まりは,1932年ドイツでした。ヒトラーは,人々にかぎ十字の旗を強制的に敬礼させて,国民を統一しようとしました。この論争は,最高主権者エホバ神にささげるエホバの証者の忠誠を土台から打つことになりました。それはアメリカ合衆国やカナダにもひろまり,エホバの忠実な僕たちの敵であった熱烈な愛国主義者たちは,それを利用して証者たちを滅ぼそうとしました。国旗敬礼の儀式は,学校で組織化されましたが,エホバの証者の子供たちは,その良心の故に国旗敬礼に参加するのを拒絶しました。
1935年6月3日,月曜日,ワシントンD.C.で行なわれた5日間の大会の最後の日に,質問と答えの集会が開かれました。学校の子供たちがする国旗敬礼についての質問に対する答えとして,ルサフォード兄弟は大会出席者にこう答えました,地上の象徴物に敬礼して,それに救を帰することは神への不忠を示すものであって,彼は国旗敬礼をしない,との答えでした。それから程なくして,1935年9月20日,アメリカ中に宣伝されたひとつの出来事が生じました。エホバの証者のひとりであるアメリカの学童は,アメリカの国旗の敬礼を拒絶しました。h この子供の両親は,そのような変節の責任を問われました。共同通信の報道員はものみの塔聖書冊協会の会長に近づいて,この新しい論争についてのエホバの証者の見解を求めました。i 彼は通信員たちに後日来るように,その時までには声明文を用意しておくと告げました。
それから,1935年10月6日,彼はアメリカ国内の放送網を通して,有名な「国旗敬礼」という講演を行ない,アメリカの国民にその答えを与えました。この話は「忠節」と題する32頁の冊子にのせられ,幾百万部も配布されました。アメリカの新聞に対するこの聖書的な返答の中で次のことが指摘されました。すなわちエホバの証者は国旗を尊敬する。しかし,エホバの証者は聖書的な責任とエホバに対する関係を考えるとき偶像とか表象物に敬礼することはとうていできないというのです。エホバの証者にとって,そのような行いは崇拝の行いと同じ意味を持つものです。しかも,その崇拝は出エジプト記 20章4-6節に記録されている十戒の第二のいましめの原則に反するものです。さらに次のことが示されました。すなわちクリスチャンの両親は子供たちを教える主要な責任を持っているということ,および最も,大切な助言は聖書中に見出される故,子供たちには聖書についての両親の認識と理解に従い,真理を教えねばならないということです。
トム: その答えで事態は落ちつきましたか。
ジョン: いいえ,反対はかえって増加しました。時たつ中に,幾百人,幾千人というエホバの証者の子供たちは,この国家的な大論争の中に巻きこまれて行きました。しかし,これらの子供たちは,学校友だちからの嘲笑や排斥をうけても,き然とした立場を取り,両親と共々にエホバへの愛を示しました。その行いにより,彼らは主にある両親から受けた家庭聖書訓練の質を試してみました。彼らはエホバへの忠節をしっかり保ったので,歴史にも載るほどの行いをしました。また,国家の最高の役人たちを驚かせるほどにいたったのです。
トム: この論争はついに最高法廷に提出されたのですか。
ジョン: そうです。しかし,それは長年のあいだ行なわれませんでした。1935年11月6日,ふたりの子供は国旗の敬礼を拒絶してペンシルバニア州ミナースビルの公立学校から出されました。その子供の父親は逮捕されて,この件は連邦地方裁判所に提出されました。この裁判所は,エホバの証者に有利な判決をくだしました。巡回控訴院で,この有利な判決が論ぜられたときも,証者たちは勝を得ました。ついに1940年,この件はアメリカの最高裁判所に回されましたが,その結果は,惨たんたるものでした。それについては後日くわしくお話ししましょう。
成功を収めた英国の運動
英国でのわざは拡大していましたが,それはおそいものでした。1931年,365の会衆があり,約4000人の証者たちは定期的に報告していました。この中には196人の開拓者もはいっており,全部の証者たちは毎年150万部から200万部の本と冊子を配布していました。j 1937年,目をさますことをすすめる特別の召が発せられ,その応答は満足すべきものでした。第二次世界大戦の直前,英国の開拓者の数は約1500名に増加し,約5000人の伝導者は野外奉仕に参加していました。
他の場所と同じく,英国でも反対が生じました。1938年と1939年中,特にいくつかのカトリック ― ファシストの攻撃が加えられてきました。ある場合には,牧師の指導する暴徒たちが証者を襲撃したり,集会に干渉したりしました。k
カトリックが反対したひとつの例は1938年10月14日に生じました。そのとき,ロンドンの「カトリック・ヘラルド」は,ものみの塔協会の会長ジャッジ・ルサフォードは,英国人の福利を害する仕事をしている,という中傷的な言葉をのせました。ルサフォード兄弟は直ちに手段を講じました。彼は英国にいる協会の弁護士に指示を与えて,ロンドン,「カトリック・ヘラルド」に対する3つの中傷裁判をおこしました。ひとつは,ジャッジ・ルサフォード個人として,2番目はものみの塔協会の会長ジャッジ・ルサフォードとして,そして第3番目は,ものみの塔協会の法人としての裁判です。この思いもよらぬ手段を見て,「カトリック・ヘラルド」は,示談を求め,急速な解決を求めました。ルサフォード兄弟は,次の条件で訴訟を取り下げることに同意しました。すなわち,その新聞社がその時までの費用をみな払い,かつジャッジ・ルサフォードの指示通りの取り消し文をすべての人が必ず見ることのできるようにするため,黒線の中に入れて1頁に発表するということでした。英国の法廷では,とても勝てないと知ったこの新聞社は,11月25日号の第1頁に取消しの言葉をのせました。l
また1938年にはロンドンで特別顕著な大会が開かれました。欧州大陸の政治状態は緊迫してきたので,ジャッジ・ルサフォードは大会より6週間も前からロンドンにいて,旅行のできた欧州からの支部の僕たちと会いました。したがって,欧州大会は,ロンドンで最適の大会場,ローヤル・アルバート・ホールで開かれることになりました。
ふたたび新しい試みが実施されました。大きぼな放送の行なわれていた期間中,ラジオ電話通信は,非常な成功を収めました。したがって,地上の各地で50の大会が同時に開かれ,直接電線でむすびつけられる取りきめがもうけられました。このようなことはまったく前代未聞であり,英国国王のメッセージを放送するときでもこの種の取りきめはつくられませんでした。プログラムは大成功をおさめ,ふたつの大講演はロンドンから英国,スコットランド,アイルランド,カナダ,アメリカ合衆国およびオーストラリアの49の他の都市に伝えられました。
その最初は,9月10日の日曜日で,「地をみたせ」という題でした。このすばらしい話は,地上で生きる希望をもつハルマゲドン生存者たちは,最初エデンの園でアダムとエバに与えられた生めよふえよ地にみてよの命令に従う特権にあずかるという聖書的な説明を与えました。2番目の公開の話,「事実を見よ」は,世界の国民に対する強烈な挑戦であって世界の直面している危険な状態を認めるよう人々にすすめるものでした。また,民主主義の国民にカトリック・ファシストが世界支配計画を立てていると警告しました。a
時たつ中に,「事実を見よ」という冊子は1200万部も全地に配布されました。b
1936年,ニュージャージー州,ネワークで始められた新しい奉仕は,ロンドンでさらに発展しました。「事実を見よ」という講演を宣伝する際,プラカードは各証者の肩から前と後にかけられました。それに加えて,プラカードをになう者たちのあいだに他の証者たちは看板を棒につけてもちはこんでいました。それらの看板は,「宗教は罠でありごまかしである」および「神と王なるキリストに仕えよ」と示すものでした。兄弟たちはそれから長さ10キロにおよぶ行列をつくって都市の忙しいところを歩き,講演を宣伝しながらビラを人々に渡しました。この人目を見はらす行列は,「案内行列」cとして知られるようになり,録音された公開講演を宣伝するためにしばらくのあいだ大きぼに使用されました。後には,証者たちはひとりかふたりで歩き,行列をつくらなくなりました。
[脚注]
a (イ)1935年の「年鑑」(英文)53頁。
b (ロ)(イ)と同じ。131頁。
c (ハ)1937年の「年鑑」(英文)193-196頁。
d (ニ)1935年の「年鑑」(英文)118,119頁。
e (ホ)1935年の「年鑑」(英文)119頁。
f (ヘ)1955年の「ものみの塔」(英文)462,463頁。
g (ト)「ものみの塔」(英文)1933年,320-330頁。
h (チ)「黄金時代」(英文)16巻,1935年7年17日。653,654頁。1936年の「年鑑」(英文)22-38頁。
i (リ)「忠誠」(英文)(1935年)16-25頁。1936年の「ものみの塔」(英文)74頁。
j (ル)1932年の「年鑑」(英文)94,95頁。
k (オ)ロンドン,グラスゴー・クリデバンク,オルドハム,ニューブリッジ,チネのヘブバーン,フォークストーン,キャンバレイ,ライセスター,ダンディー,エブベールとノースウィッチ。「コンソレーション」(英文)第20巻,1939年5月31日,26,27頁。1939年,6月28日,3-7頁。
l (ワ)1940年の「年鑑」(英文)78頁。
a (カ)「コンソレーション」(英文)第20巻1938年10月5日,18頁。
b (ヨ)「インホーマント」(英文)1938年12月。
c (タ)「黄金時代」(英文)1936年11月18日,第18巻。120頁。「インホーマント」(英文)1939年5月と6月。