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み父が憐れみ深いようにあなたは憐れみ深い人ですかものみの塔 1972 | 12月15日
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例です。その男の冷淡さは他の奴隷をも憤慨させ,その奴隷はそのことを王に言いつけます。そこで王は憐れみのない奴隷を召し出して言います。「悪しき家来よ,なんじ願ひしによりて,かの負債をことごとく免せり。わが汝をあわれみしごとく汝もまた同僚をあわれむべきにあらずや」。憤った主人はその憐れみのない奴隷を獄に投げ込みました。―マタイ 18:32-34。
ダビデも,ある金持ちが貧しい男のたった1匹の子羊を取って客の食事を整えた,というナタンの話を聞いたとき,同様の感情を示しました。彼は憤慨して,「まことにこれをなしたる人は死べきなり」と叫びました。なぜですか。なぜなら,金持ちが仲間の人間を『憐れまなかった』からです。しかしダビデは,彼が発したことばが示したように心では憐れみ深い人でしたが,「汝はその人なり」と言われたとき,大きな打撃を受けました。ですから,わたしたちは憐れみ深くあるよう心がけているかもしれませんが,自己満足することなく,「汝らの父の慈悲なるごとく,汝らも慈悲なれ」という訓戒に注意を払わなければなりません。―サムエル後 12:1-7。ルカ 6:36。
これが重要な問題であることは,「無慈悲」が「死罪に当る」ものと神が見ておられるものの中に数えられていることから伺えます。(ロマ 1:31,32)イエスによって,ゲヘナすなわち永遠の滅亡に定められている級と言われたパリサイ人の場合を考えてみましょう。(マタイ 23:23,33)彼らがこの罰に価するものとされたのは,憐れみのなかったことが大きな原因であったことは明らかです。「罪なき者を罪した」ことで彼らを叱責されたとき,イエスは彼らに,『なんじら往きて学べ「われ憐れみを好みて,犠牲を好まず」とはいかなる意ぞ』と言われました。―マタイ 9:11-13; 12:7。ホセア 6:6。
パリサイ人の問題の根底には,何事に対ししても極端な律法尊重主義で接するということがありました。彼らは,規則や定めや手順には非常な注意を払いましたが,神のことばのもっと重要な原則や,真の崇拝の基本的な戒めは見のがすか,またあまり考慮しませんでした。彼らは確かに,自分たちの天の父と唱えていたかたとは似ても似つかない者でした。(ヨハネ 8:41)わたしたちは自分の中に,彼らと同じような傾向をもっていますか。
神の憐れみは,決して裁きの時だけに限られているわけではありませんが,それが顕著に現われるのは,たしかに裁きのときです。そしてわたしたちは,そのようなときに,神の憐れみの対象となることを,どんなに切実に望むことでしょう。
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