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自分たちの名前以上に神のお名前を尊ぶ民ものみの塔 1972 | 2月1日
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にさいし,エホバが不敬虔な人びとすべてを滅ぼして,ご自分の義の審判をことごとく表明される前に,だれが今後もこの「大群衆」の中に自分の立場を取るかということです。そうする人はすべて,自分自身の名前以上に神のお名前を尊ぶでしょう。その人は,『その聖名にかなふ栄光をもてエホバにあたへよ』と述べる詩篇 96篇8節のことばどおりに喜んで事を行なうでしょう。その人は,「大かん難」を生き残って,『気息あるものが皆』エホバを賛美する正義の新しい事物の体制にはいる希望に「大群衆」とともにあずかれるでしょう。―黙示 7:13-15。詩 150:6; 29:2。
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訓戒をどう見なすべきですかものみの塔 1972 | 2月1日
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訓戒をどう見なすべきですか
若い人々が知りたいと願っている有益な事実
おそらくあなたは,学友か近所の人,あるいは先生の場合さえあるかもしませんが,自分がまちがっている,つまりあやまっていることを認めようとしない人をだれか知っていることでしょう。そうした人のことをあなたはどう思いますか。ところがある日,その人がつかつかとやってきて,「すみませんでした。わたしがまちがっていたことがわかりました」と言ったとしたら,その人に対するあなたの評価は高まりますか,それとも下がりますか。
確かに,わたしたちはみなまちがいをします。真の意味で完全,もしくは非のうちどころのない人はひとりもいないからです。聖書はそのことを教えています。それによれば,人間はすべて最初の親,アダムの不従順のために,生まれながらにして不完全,つまり罪を受け継いでいます。―ロマ 5:12。
まちがいはすべて単に『無知』に起因するわけではありません。不注意によるまちがいも少なくありません。たとえば,洋上を飛ぶ飛行機の中である乗客が,スチュワーデスが救命胴衣の用い方や機内での酸素の補給の仕方を説明するさいに注意を払わなかったため,突然非常事態に面してそうした備えを活用できずに命を失ったとすれば,それは単に当人の無知ゆえの不幸とはいえません。それは知ろうとしなかったための災いです。
ですから,人の犯すあやまちすべてを単なる過失のせいにすることはできません。故意の無知が原因となる場合がしばしばあります。もっと悪いことに,悪いと知っていながらその時点で自分にとってはもっともと思われる理由をあれこれ並べて言いわけをする人もいます。
以上のことからして,わたしたちには矯正を伴う訓戒の必要なことがわかります。わたしたちはすべて,老若を問わず矯正を必要としています。事実,人間の生活のどんな分野についても言えることですが,訓戒や矯正がなければ進歩はありえません。つまり,同じまちがいを繰り返し,同じあやまった考えをいだいているのでは,知識や能力は決して向上しません。
訓戒とは単なる教訓以上の意味を持っています。それは矯正し,形作り,強め,完全にする訓練を意味します。したがって,しばしばしっ責を伴います。つまり,必ずしもそうとは限りませんが,懲罰あるいは懲らしめをも含みます。とはいっても,それは決して単なる罰のための罰ではなく,常に,矯正と将来のための改善をはかってなされるものなのです。
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