神に立ち返らせる悔い改め
「神の温情があなたを悔い改めに導こうとしている」― ローマ 2:4。
1,2 罪と神の見解に関し,わたしたちはどんなことを認識しなければなりませんか。
わたしたちは皆,詩篇作者ダビデの次の言葉に励まされます。
「エホバは憐れみと慈しみに富み,
怒ることに遅く,愛ある親切の豊かな方である。
神はわたしたちの罪に応じてわたしたちを扱われたことはない。
わたしたちのとがに応じて,当然受けるべきものをわたしたちにもたらされたこともない。
父がその子らを憐れむように,
エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。
神はわたしたちの造りをよくご存じであり,
わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ」― 詩 103:8,10,13,14,新。
2 神はわたしたちすべてが罪人であることをご存じですが,それでもわたしたちを助けたいと願っておられ,喜んで許しを与えてくださいます。(詩 32:1,2)しかし,罪に対する神の見方全体を受け入れないとしたら,神に関するわたしたちの概念は正確なものとはなりません。詩篇 103篇はエホバが「[わたしたちの]すべてのとがを許(す)」と保証していますが,わたしたちの責務についても示し,こう述べています。「エホバの愛ある親切は,定めのない時から定めのない時に至るまで,これを恐れる者たちに及ぶ。……その命令を覚えて実行しようとする者たちに及ぶ」― 詩 103:3,17,18,新。
3 悔い改めが肝要なのはなぜですか。
3 重大な罪を犯しながら,悔い改めず,父親のような神の憐れみを求めることなく罪を行ない続けるならどうなるでしょうか。出エジプト記 34章6,7節(新)にはエホバに関する記述があります。その憐れみ,怒ることに遅く,とがを進んで許されるということが強調され,そのあとに,「しかし,処罰を免れさせることは決してせず」と付け加えられています。(民数 25:1-5; エゼキエル 33:12,13と比較してください。)ですから,神の憐れみにつけ込んだり,憐れみを受けて当然だと考えたりしてはなりません。では,万一真の崇拝者が罪に陥った場合にはどうすべきですか。
神に立ち返るための処置を取る
4 どうすれば許しを得ることができますか。(歴代下 7:13,14)
4 神の律法に反する罪を犯したクリスチャンには許しが必要です。それを差し伸べることができるのはだれですか。事実上,神だけです。使徒ヨハネはこう書きました。「わたしたちが自分の罪を[神に]告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」― ヨハネ第一 1:9; 2:1。
5,6 ヤコブ 5章14-16節にはどんな助言がありますか。この諭しに悪行者が従うのはなぜ道理にかなったことですか。
5 重大な罪の場合,「自分の罪を告白する」クリスチャンには付加的な処置を取る義務があるとの賢明な助言を神は与えておられます。「罪」に関連した霊的な病気に言及したと思われる文脈の中で,弟子ヤコブはこう書きました。「あなたがたの中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たち[長老たち]を自分のところに呼びなさい。そして,……自分のために祈ってもらいなさい。そうすれば,信仰の祈りが病んでいる人をよくし,エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう。また,その人が罪を犯しているなら,それはゆるされるでしょう」― ヤコブ 5:14-16。
6 この処置は道理にかなっています。重大な罪を犯してしまったクリスチャンは,ある程度の霊的弱さと,助けの必要なことを示しているからです。その人は「会衆の年長者たち」の信仰の祈りから益を得られるでしょう。同時に年長者たちは,その人が再び霊的な強さを得られるように,聖書に基づく諭しや助けを与える立場にいます。それに加え,神の民に非難と悲しみをもたらすために,クリスチャン会衆に対する罪となる違犯があります。このような場合,こうした罪を犯した人が長老たちの助けを求めるのはなおさら適切なことです。―コリント第二 2:10。
7 長老たちは,助けを与えるため,どのように悪行に対する注意を喚起されますか。(箴 28:23; 29:24)
7 大きな罪を犯したクリスチャンが,自分の方から長老たちに近付くのは,知恵と謙遜さの表われです。「自分の違犯を覆い隠している[『隠す』,ラムサ訳]者は成功しない。しかしそれを告白して捨てる者は憐れみを示される」のです。(箴 28:13,新)時には,きまりが悪かったり,罪の意識があったり,心から悲しんでいなかったりするために,罪を犯した人がヤコブの忠告に従わず,長老たちに近付かないことがあります。その罪に気付いたクリスチャンはだれでも,悪行者がその誤りから離れ,必要な霊的な助けを求めるように励まさなければなりません。それでもその悪行者が長老たちのところに行かないときには,他のクリスチャンは長老たちの注意を喚起し,必要な助けを与えられるようにしなければなりません。クリスチャンは皆,「罪人をその道の誤りから立ち返らせ」,そのようにして「その人の魂を死から救い」たいと願うべきです。―ヤコブ 5:19,20。
神の言葉で戒める
8 長老たちは,審理委員の会合をどのように進めますか。
8 悪行に関する審理委員会が開かれる時に長老たちは,よく祈ってエホバの導きを求めます。愛ある牧者にふさわしい方法で,長老たちは忍耐強く,問題,つまり悪行と思われるものに関して本人と話し合います。(エフェソス 5:1,2。ペテロ第一 5:2,3)悪行があったことを確証する証人がいる場合でも,審理委員会は当人がその悪事についてだけではなく,そうするに至ったいきさつやそのことを自分がどう思っているかを率直に話すよう促します。(申命 19:15。ヨハネ 8:17)どうしてこのことが必要なのでしょうか。
9,10 悪行を審理する委員会で,長老たちはどんなことをするよう努めますか。(詩 51:13)
9 事件の審理に当たる長老たちは,罪を確定したり,当人に悪行を犯したことを悟らせたりはしますが,主要な関心事は迷い出たクリスチャン兄弟を助けることです。彼らは,『さわやかさがエホバのみもとから到来する』よう,その人を悔い改めへと動かすことを望んでいます。(使徒 3:19)その人が悪事を認めず,そのゆゆしさを悟らず,悔い改める必要を理解しないのであれば,『その罪に関し,義に関し,……納得させる証拠』を提出しなければならないでしょう。(ヨハネ 16:8と比較してください。)それでも神からのこうした戒めを与える際には,懲罰的であったり,苛酷であったりしてはなりません。「辛抱強さと教えの術とをつくして戒め,けん責し,説き勧めなさい」と聖書は勧めているからです。(テモテ第二 4:1,2)毅然とした態度で,親切に,忍耐強く戒めを与えれば,罪を犯した人の心を動かして,その人が悪を憎み,神に立ち返るように助けることができるかもしれません。―エレミヤ 3:12,13。
10 エズラの模範から学ぶことができます。エズラはユダヤ人たちにその誤りをはっきり示しました。その第一の目的は彼らを恥じ入らせることではなく,彼らを思いとどまらせ,心を動かし,悪を憎んで悔い改めるように促すことでした。ユダヤ人たちはエホバに告白し,それに従って行動し,その悪を償うため自分たちにできる事柄を行なう必要がありました。(エズラ 10:7-14)それと同様に,ゆゆしい罪に関する事件を扱う審理委員会も,悪行者がその悪事の重大さを理解し,心の中で悔い改めの必要を感じ取れるよう助けることを願います。―イザヤ 1:18。
「見守るすべての人の前で戒めなさい」
11 聖書的な戒めを必要とするのはだれですか。
11 悪行者との審理のための会合に関連して,長老たちはテモテにあてた使徒パウロの言葉を適用します。つまり「罪をならわしにする者たちを,見守るすべての人の前で[字義通りには『全員の目の前で』]戒めなさい。ほかの人たちも恐れの気持ちを持つようになるためです」という言葉です。(テモテ第一 5:20)これらの悪行者たちは,戒めが実際に与えられる時まで,『罪を執ように繰り返した』(改訂標準訳),あるいは「罪のうちにとどまる」(新アメリカ標準訳)人々です。
12 審理委員会は,テモテ第一 5章20節の諭しをどのように当てはめますか。
12 西暦1世紀当時,使徒パウロの正当な代表者であったテモテは,関係者『全員の目の前で』,記された指示通りのことを個人的に行なうことができました。そこには悪行者も出席していました。今日,こうした戒めは個人ではなく,長老たちからなる指名された委員会によって与えられます。必ずしも会衆全体がそれに関係するわけではありません。審理委員の会合の終わりごろに,罪が確定されたなら,長老たちはその悪行に関する聖書的な戒めを与えます。その罪に関して証言を行なった証人たちが居合わせており,事情を知っているそうした人々は,聖書的な戒めを聞くよう招かれます。このようにして,それは「見守るすべての人の前で」,つまり『全員の目の前で』与えられます。テモテ第一 5章20節に述べられている「ほかの人たち」は,こうして罪に関する健全な恐れを抱き,罪と,罪に至る可能性のある状況を避ける必要を理解するように助けられることでしょう。
その人は悔い改めているか
13 重大な罪を扱う際に長老たちはどんな挑戦に直面しますか。
13 悪行に関する事件を扱う長老たちにとって最大級の挑戦となるのは,罪を犯した人が真の悔い改めを示しているかどうかを見極めることです。単なるうわべだけで裁いてはなりません。心を読むことはできないので,その悪事および悪事と神の律法との関係,そして罪を犯した人の言動について判断を下す際には,優れた識別力と知恵を働かせ,平衡の取れた見方をする必要があります。
14,15 人が悔い改めているかどうかを見極める際に,長老たちが注意深くなければならないのはなぜですか。
14 悔い改めがあるとの結論を下すに当たって,長老たちは性急であってはなりません。なぜですか。罪を犯した人が悔い改めたと誤って判断するなら,羊の群れ全体に破壊的な影響の及ぶことがあるからです。しかし,コリント会衆の悪行者に関する,聖書中の逆の例に是非とも注目してください。この人はしばらく会衆から追放されていましたが,そのあと,真の悔い改めが見られるとの理由で復帰を許されました。兄弟たちはその時,この人をどのように扱ったでしょうか。コリントの人々は,この人が悔い改めたというその判断を信頼して,当人を親切に「ゆるしてなぐさめ」,「彼に対する愛を確証する」ように励まされました。(コリント第二 2:6-8)今日,審理委員会が,悪行者は悔い改めているとの結論を下す場合にも同じことが言えます。しかし万一,長老たちが事態を誤って判断し,実際には悔い改めていない悪行者を会衆に戻すとしたら,長老たちは群れの中のすべての人の道徳的および霊的清さを危険にさらすことになるでしょう。―コリント第一 5:6。
15 では,その悪行者が本当に悔い改めているかどうかを見極めるに際し,審理委員会は何を手掛かりにできるでしょうか。悔い改めている人は自分の悪い歩みを過小評価したり正当化したりするようなことはしません。自分のしたことの非を思いの中で認め,神に対する罪を犯してしまったことを心の中で深く後悔します。(エレミヤ 3:25。使徒 3:19)ですから,事件を扱う長老たちは,こうした後悔の念や悲しみが見られるかどうかを確かめなければなりません。
16,17 (イ)「世の悲しみ」と「敬神の悲しみ」とはどこが違いますか。(ヘブライ 12:16,17)(ロ)涙や感情的な証拠は長老たちの判断にどのような影響を与えますか。
16 長老たちは,「世の悲しみ」と「救いに至る悔い改めを生じさせる」「敬神の悲しみ」とを区別しなければならないでしょう。(コリント第二 7:10)悪行を犯した人は,個人としての失敗ゆえに悲しみを感じ,それが明るみに出たことを恥じ,懲らしめを受ける見込みがあるために憂うつな気分になるかもしれません。しかしそのような「世の悲しみ」は,当人が神に対して罪を犯したこと,ないしは神とその民に非難をもたらしたことを悲しみ,「敬神の悲しみ」を示す証拠を見せているという意味ではありません。エサウは長子の権を失って涙を流しましたが,エサウが心から真に悔い改めていないことをエホバはご存じでした。したがって,重大な罪を犯した人が泣き出すとしても,長老たちはそれが「敬神の悲しみ」から出ているかどうかを見極める努力を払うべきです。それは「敬神の悲しみ」から出たものかもしれません。エズラの時代に人々は,彼らの罪に関するエズラの熱心な祈りを聞いてから『甚しく泣きました』。ペテロもイエスを否んだあとに激しく泣きました。―創世 25:29-34; 27:34。エズラ 10:1,新。ルカ 22:59-62。
17 これらの聖書的な実例は,長老たちが表面に表われた感情だけで裁くことはできない理由を浮き彫りにしています。人の感情的な造りや,感情を制する仕方はみな異なります。ですから涙を流すかどうかにかかわりなく,大切なのは悪行者が心を動かされて,エホバ神を怒らせ,神との関係を損なってしまったことに対して悶えるような苦しみの霊,つまり深い後悔の念を抱いているということです。(詩 51:1-4)したがって,悪行者がダビデのように祈りのうちにエホバに告白し,神からの許しを求めたかどうか,長老たちは質問することでしょう。―詩 32:3-5; 41:4。エレミヤ 31:19。
18 告白はどのようにこの問題と関連していますか。
18 悪行者が自発的に「会衆の年長者たち」に告白した場合,それは本人の心の状態を測る目安となります。(ヤコブ 5:14,16)では,当人が自発的に告白せず,何らかの証拠や証人たちの証言を突き付けて問題を確証しなければならない場合はどうですか。そのような人はそのあと(その会合において)心を動かされ,自分の罪を認めるかもしれません。(サムエル後書 12章1-13節にある,ダビデがバテシバとの罪を悔い改めた例に注目してください。)しかし特に,徹底的な戒めを与えたあとで,悪行者がやっと悔い改めを表明する最初の一言を口に出す場合,審理委員会は警戒しなければなりません。悪行者の心の状態が変化し,本人が間違いを正す熱意を持ち,今後はそうしたことを絶対に避けたいとの決意を持っているという確信を長老たちは抱いていなければなりません。―コリント第二 7:10,11。啓示 3:19。
19 悔い改めた悪行者は,会衆に関してどのように感じるべきですか。
19 悪行を犯した人は神の会衆に恥辱をもたらしたことに対して悲しみを感ずるべきです。ダビデが人口調査を行なって罪を犯し,自分のしたことの意味を悟った時,ダビデは自分の行動の愚かさを認識しました。そして,国民全体に臨んだ猛烈な結果を見て心を動かされ,次のように言いました。「ご覧ください,わたくしが罪を犯したのです。わたくしが不当なことをしたのです。ですが,これらの羊は ― 彼らは何をしたのでしょう」。(サムエル後 24:10,17,新)では,悪行者は,自分が会衆にもたらしたかもしれない非難,問題および悲しみに対して純粋な悔恨の情を示すでしょうか。
「悔い改めにふさわしい業」
20-22 (イ)長老たちはどんな「業」,あるいは「実」を吟味しますか。(ロ)悔い改めた人がどのようにこうした「実」を生み出すかを説明してください。
20 使徒パウロは人々に,「悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずる」よう熱心に勧めました。(使徒 26:20)ネヘミヤの時代のユダヤ人が外国人の妻をめとったことを悔い改めた時,彼らは悔い改めを反映する明確な行動を取りました。(ネヘミヤ 9:1,2。ヨナ 3:5-10と比較してください。)そうであれば,長老たちはゆゆしい罪に関する事件を扱うに当たって,悪行者が「悔い改めにふさわしい実を生み出し」たかどうかに関心を持つでしょう。―マタイ 3:8。
21 ある人が別の人に対して罪を犯したなら,その人は自分の罪を相手に告白し,許しを求めましたか。例えば,姦淫の場合,当人は潔白な方の配偶者にそのことを告白し,許しを求めましたか。あるいは悪行者が詐欺の罪を犯したのであれば,その人は奪ったものを償うための何らかの措置を講じましたか。状況によっては自分がもたらした損害すべてを相殺できないかもしれませんが,その人は,奪ったものを償うため今後理にかなった措置を取るという明らかな証拠を示していますか。(ルカ 19:8)要するに,罪を犯した本人は,どの程度「悔い改めにふさわしい実」を生み出しましたか。
22 多分その罪は,聖書の助言を無視することから始まったのかもしれません。例えば,世の同僚とレクリエーションを定期的に行ない,この不健全な交わりによって不道徳に巻き込まれたということもあるでしょう。では誤りを犯した人はそうした交わりを絶ちましたか。(箴 13:20。ペテロ第一 4:3,4)同時に,その人は神の民と定期的に集うための努力を払い,清い崇拝者として神を賛美したいという心からの願いを表わしてきましたか。これらの「実」のどれも,それだけでは罪を犯した人が悔い改めていることを見極める規準とはなりません。当人が健全な交わりを持ち,クリスチャンの集会に出席し,野外奉仕に熱心であることに長老たちは関心を払うでしょう。長老たちは,「悔い改めにふさわしい業」があって然るべきであるとの神の見解を認めているからです。
23 審理委員会は,罪が繰り返される場合に何を考慮すべきですか。
23 審理委員会は,会衆を清く保つことにひとかたならぬ関心を抱くべきであり,悪行者がゆゆしい罪を長期間にわたって秘密裏に行なっていた場合には,特に用心しなければなりません。罪を犯す型ができ上がっており,悔い改めたように見える人を扱う際にも同じことが言えるでしょう。その人は幾度悪事を働いても,悔い改めたように見えるためにその都度戒めを受け,会衆内にとどまることを許されました。そして再び罪を犯しました。こうした場合に長老たちは,群れ全体の福祉をも考慮に入れ,当人の生き方が「悔い改めにふさわしい実」を生み出している確かな証拠となっているかどうかを考慮すべきです。その人の生き方は,当人が神の会衆に属するということに重大な疑いを投げかけるものではないでしょうか。―詩 119:104。ローマ 12:9。
24 悪行者とさらに別の会合を持つべきかどうかを決める要素は何ですか。(ホセア 5:4。マタイ 21:30)
24 長老たちの誠実で忍耐強い努力にもかかわらず,罪を犯した人がかたくなで闘争的になり,真の悔い改めを示さないこともあります。(伝道 8:11)あたかも相手に懇願し,悔い改めることをこいねがおうとするかのように,そうした悪行者と幾度も会う義務は長老たちにはありません。しかし場合によっては,本人の気持ち,動機,悔い改めなどがあまり明らかではないときなどに,罪を犯した人ともう一度会う必要を感ずるかもしれません。当人が祈り,また先に与えられた聖書的な論議をよく考える時間を取ったあとに,その人が悔い改めたかどうかの問題がはっきりすることもあります。
25 悪行に関する長老たちの責任が重いのはなぜですか。
25 真の悔い改めを見極める長老たちの責任は重大です。彼らは憐れみを示し,過ちを犯して真に悔い改めている人々を助けなければなりません。とはいえ,会衆内に危険な「パン種」を残すことになりかねない誤った同情心を持たないように警戒する必要もあります。―ガラテア 5:9。
会衆を助ける
26 悪行について知っている人がほとんどいない場合,問題はどのように扱われますか。
26 大きな罪でも人々に広く知られておらず,これからも知られそうにない場合があります。恐らく,その罪について知っているのは,一緒に生活している家族や数人の目撃証人などのわずかな人々だけかもしれません。(これらの人々は「見守る者たち」ですが,その件に関してうわさ話をするのは不誠実なことであるという点を悟らなければなりません。)ですから,いったん審理委員会が,悪行者は悔い改めているという確信を抱くに至ったなら,その問題をそれ以上広く知らせる必要はありません。「見守る者たち」はすべてその問題に関する聖書的な戒めを聞いており,罪を犯した人は悔い改めているからです。
27,28 ある人が戒めを受けたことを会衆に知らせる方がよいのはどんな場合ですか。
27 罪のことが会衆や地域社会の多くの人々に知られている場合もあるでしょう。あるいはその罪の性質から,それが知れ渡るのも時間の問題であるという場合もあります。こうした問題は異なった方法で扱う必要があります。会衆全体は,その問題が正しく扱われたかどうかについて安心感を抱いている必要があるのです。それに会衆の成員は,罪に対する健全な恐れを抱くのに助けとなる聖書的な諭しから益を得ることができます。
28 また長老たちが,ある程度の注意を働かせるべきだと感ずる場合もあるでしょう。例えば,その悪行者は現在誠実に悔い改めていても,罪に至る道を避けようとする決意の点で過去に幾らか弱い所が見られたかもしれません。ですから,会衆内のだれかが腐敗的な影響を及ぼす結果,会衆が危険にさらされることを懸念して,長老たちの審理委員会は,有益で聖書的な話をする必要があると決定するかもしれません。
29,30 (イ)長老たちはどのように会衆に知らせますか。(ロ)ある事件をこうした方法で扱うことにはどんな益がありますか。
29 いずれの状況であれ,会衆の長老たちはそれを毎週行なわれる奉仕会で扱うよう取り決めることができます。ほかの集会でではありません。以前悪行に走った者が審理委員会によって戒めを受け,悔い改めを示したという発表を奉仕会で行なえます。さらに,審理委員会は特定の制限を課す必要を感じるかもしれません。その中には,集会の一部分に参加したり,会衆を代表して祈ったりすること,あるいは集会で聖書を読んだり注解したりすることも含まれるでしょう。審理委員会が何らかの制限を課した時には,そのことを会衆に発表すべきか否かについて,長老たちに知らせます。こうした制限は将来徐々に除いてゆけるでしょう。
30 その同じ晩,奉仕会のプログラムの少しあとの部分で,割当てを受けた長老は毅然とした聖書的な話をすることができます。悪行者の名前を述べることや,審理委員会の会合で明らかになった内密な情報の特定な詳細を述べるべきではありません。それでも,この場合と関係のある種類の誤りや罪について,またその危険性やそれを避ける方法について神の言葉である聖書が何と述べているか話すことはできます。会衆全体はこうした聖書的な訓戒から益を得られるでしょう。―テモテ第二 4:1,2。
31 悔い改めに関する神の見方について,わたしたちはどう感じるべきですか。
31 わたしたちはすべて,エホバが誠実な悔い改めを喜んで受け入れてくださることに深く感謝しなければなりません。確かに「神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないように」すべきです。(コリント第二 6:1)ある人がそのようにして,罪に陥り,悔い改めないなら,神はさらに強硬な措置を取るよう会衆に指示しておられます。これらの点については次の号で扱われます。
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あなたは悔い改めについて何を学びましたか
重大な罪を犯したなら,神に告白する必要があり,神の言葉聖書にある,「年長者たち」の助けを求めるようにとの助言を適用しなければならない。
審理委員会の会合で長老たちは,罪を確定し,悪行者が悔い改めるよう助けることに力を注ぐ。
この会合で,「見守るすべての人の前で戒める」ことには,証人として出席している人々やその罪について知っている人々が関係する。
真に悔い改めている人は,神とその民に対して罪を犯し,非難をもたらしたことについて心を動かされる。
長老たちは「悔い改めにふさわしい業」の証拠を探すようにする。
悪行者を助けることに関心を抱く一方,審理委員会は会衆が腐敗しないよう守ることにも注意を払う。