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「健やかにお過ごしください」ものみの塔 1982 | 9月15日
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「健やかにお過ごしください」
西暦1世紀当時のクリスチャンの統治体はこのような言葉をもって諸会衆にあてた1通の手紙を結びました。ここで用いられているギリシャ語の表現には,『強健であってください,お達者で,健康でありますように』という考えが含まれています。―使徒 15:29。
「健やかにお過ごしください」という表現が手紙の結びの言葉として用いられているとはいえ,それはわたしたちすべてにとって大切な健康に言及するものです。人々は長い間,より優れた健康法を探求してきました。ところが,今日非常に多くの人々が健康について過度に心配しているようです。そのことに気付いておられますか。クリスチャンにとって,平衡の取れた見方とはどのようなものか,お考えになったことがありますか。
健康に対する見方に影響を及ぼすもの
健康に対する関心が高まっていることは,人々が死の必然性を深く感じ取っていることを反映していると言えるでしょう。死は瞬く間にやって来ます。(詩編 90:10)現在の命がすべてであるとしたら,死の到来を早めかねない病気を避けるために,人が八方手を尽くす理由も理解できないことはありません。
また,健康に対する見方は,伝統的な医学の権威をも含めた“体制”に対する不信の念が広まっていることにも影響されています。この不信感から,多くの人は市販の食品の質に疑問を抱いています。化学添加物の入った,精製された“栄養価の少ないスナック食品”を食べ過ぎるのは健康に悪いことを聞いているので,大勢の人々は自分たちの食べる加工食品の量を制限するほうが良いと考えています。“自然食品”に熱中する余り,事実上それ以外の物は何も口にしないという人も少なくありません。また,サリドマイドによる先天性疾患などの悲劇について知っているため,薬について疑い深くなっている人もいます。そうした人々は製薬会社が必死に売り込もうとしている薬品には副作用があるかもしれず,少数ながら,忙しい医師の中には注意深い検査をしないで薬を処方する人がいるのではないかと考えます。
こうしたことの当然の結果として,人々は健康の問題についてより自主的に行動するようになっています。大人であれば,様々な選択に関する信頼できる情報に基づいて,各人が自分で自分の健康について決定すべきことを認めておられるでしょう。しかし,考慮に入れておかねばならない危険があるでしょうか。聖書は健康面の問題に関し,わたしたちにとって役立つものとなりますか。
キリスト教はあなたの健康に良い
前述の1世紀の統治体の手紙は,クリスチャンが『淫行と血を避ける』べきであることを説明していました。(使徒 15:28,29)これは健康面の見地からしても賢明なことです。淫行を犯すと,性病や望まれない妊娠などの危険にさらされます。輸血のために,法王ヨハネ・パウロ2世が感染したような,しばしば致命的な結果を生むウイルスなどに感染し,病気や肝炎になる人々は数えきれないほど多くいます。
また,大酒や喫煙に関する神の助言を当てはめることから得られる健康面での益についても考えてみるとよいでしょう。ジョール・ポスナー博士の伝えるところによると,米国で健康管理のために費やされるお金の60%は,アルコールとたばこの使用と関連した病気のために使われます。―箴言 20:1。コリント第二 7:1。a
聖書はほかの面でもわたしたちの健康を守るものとなります。清潔さを保つことについて聖書の述べる事柄を考えれば,そのことが理解できるでしょう。(出エジプト記 30:17-21。申命記 23:12-14)聖書を学ぶにつれてクリスチャンの培う精神全体も,健康の増進に役立つことがあります。温和や親切や愛を追い求めることにより,その人は他の人々とより平和的に暮らしてゆくことになり,それが健康を守ります。(箴言 14:30)さらに,クリスチャンは命を高く評価するので,危険な行為を避けるよう道理にかなった範囲で予防策を講じます。例えば,クリスチャンは車のシートベルトを着用する点で,大半の人々よりも良心的かもしれません。(使徒 17:24,25,28)ロックフェラー財団の保健科学部門の部長代理,K・L・ホワイト博士は,「生活様式や個人の行動」にかかわるそのような問題が「人の健康に影響を及ぼす主な要素」になる,と語りました。
そしてさらに聖書の次のような助言があります。「あなたが見いだしたのは,はち蜜か。自分にとって十分なだけ食べよ。食べ過ぎて,吐き出すことにならないためである。あまり多くのはち蜜を食べるのはよくない」。(箴言 25:16,27)はち蜜と砂糖のどちらが甘味料として優れているにせよ,この助言は健康を保つのに役立つ通則となっています。節度を自分の食習慣のかぎとすることです。様々な食べ物を食べ,食べ過ぎないようにし,また一つの種類の食べ物ばかり食べるようなことを避ければ,健康面での益を刈り取ることになります。はち蜜に関する注解には,健康を保つ点にも当てはまる広範に及ぶ価値があります。
ビタミン,無機質そして薬草
栄養学の向上は,健康の増進に役立ってきました。そのかぎとなったのは,人間がビタミンや無機質<ミネラル>を必要としているという発見です。例えば,脚気・ペラグラ・壊血病・くる病などの欠乏症は,適度のビタミンB,CおよびDを含むバランスの取れた食事により治療または予防できます。また,栄養に関する医師たちの研究が進むにつれて,医師の監督下で,ある種のビタミンや無機質<ミネラル>を大量に投与すると病状がよくなると思われる病気がほかにもあると報告されました。
ところが大勢の人々は,容易ならぬ欠乏症が広く見られると言わんばかりに,自分勝手に大量の補助食品を摂取するようになっています。そのような人の中には,『少しだけでも健康に良いのなら,もっと飲めば,それだけ健康に良いはずだ』とか,『ビタミンや無機質<ミネラル>を多く取り過ぎても体がそれを排出してくれるから,害はないはずだ』と考える人もいます。確かに,ある種のビタミンは,取り過ぎても,「腸に進んで行き,下水に排出され」,その結果は単に高価な排せつ物というだけのことかもしれません。(マタイ 15:17)しかし,ビタミンや無機質<ミネラル>の中には,服用しすぎるともはや栄養素ではなく,薬として働きだし,体に害を及ぼすほど有毒になるものさえあります。
ある種のビタミンを大量に取り過ぎたため,体の器官を損なったり,もっと悪い結果を身に招いた人もいます。一つだけ例を挙げましょう。英国の一人の男の人はにんじんジュースをたくさん飲み,ビタミンAを大量に服用していましたが,その結果ビタミン過剰症で死亡しました。誠実ではありながら栄養に関する誤った情報を受けている親が過度にビタミンを与えるために害を受けている子供たちも大勢います。無機質<ミネラル>については,目の手術も行なう一眼科医が次のように個人的な所見を述べています。「私はカルシウムや銅,亜鉛,クロムなどを大量に服用している大勢の人々について心配している。20代や30代の兄弟姉妹たちに失明をもたらすような状態が見られるようになっている」。はち蜜に関する聖書の賢明な助言を思い起こしてください。合成薬剤であろうと,天然のビタミンや無機質<ミネラル>や薬草であろうと,大量に服用すると有害な場合があるのです。
そうです,薬草についても注意をするのは望ましいことです。ある種の薬草療法に効果のあることは明らかです。例えば,ジキタリスやキニーネは“薬草”から取られています。ケニアでの調査によると,「呪術医の用いる薬草療法の少なくとも50%には,純粋に医学的な価値がある」とされています。とはいえ,これはそれだけ多くの薬草にはっきりした薬効がないということを意味しています。また,エホバが元来「草木」を人間の食物とすることを目的とされたからといって,すべての薬草が安全であるという意味ではありません。たばこやマリファナは“薬草”です。―創世記 1:29,30。
ある人に効き目があると思える薬草も,別の人には危険な場合があります。米国オハイオ州の旅行する一奉仕者は胃の痛みに悩まされていました。心配した友人たちは一般的な薬草療法を行なうよう勧めました。それでもよくならなかったので,この奉仕者は医師の診察を受け,徹底的な検査の結果,胆石のあることが分かりました。医師はまた,その奉仕者の血液が凝固しないことをも発見しました。切り傷を負ったら出血多量で死んでいたかもしれなかったのです。薬草療法を受けていたことを知ると,医師はその療法が血液凝固の問題を引き起こすことで知られている,と話しました。その薬草を飲まなくなると,血液の問題は消え去りました。
提案を与える
病気の友人や親族を助けたいと思う人が,自分にとって助けとなったと思うものや,効き目があると聞いたものを勧めたいと思うのはもっともなことです。そうすることがクリスチャンの示す親切である場合さえあるでしょう。使徒パウロが若いテモテにその地方の生水を飲まないように,「胃のため,また度々かかる病気のために,ぶどう酒を少し用い(る)」よう勧めたのと同じです。―テモテ第一 5:23。
とはいえ,薬やビタミンや無機質<ミネラル>や薬草をいつもいつも勧めている人は注意しなければなりません。健康法や体の器官の仕組みに十分通じていない場合はなおさらそうです。その人はこう自問してみるべきです。自分は本当に事実を知っているだろうか。ある薬やビタミンや無機質<ミネラル>や薬草は自分にとって助けになったと思えても,これがほかの人に有害なものになるかどうか自分は知っているだろうか。もし有害な影響があったなら,自分には幾らかの責任があり,責められるべきではないだろうか。あるいは,自分の提案した療法に害はなくても効き目がない場合,病状が危険もしくは致命的になるまで,その人が効き目のある治療を受けるのを遅らせることになるのではなかろうか。―テモテ第一 5:22と比較してください。
中には,健康法に異常なまでに熱を入れた人がいます。その極端な例として,クリスチャンの一長老は,ビタミン剤を販売するある友人からの手紙が戸口の下に差し入れられているのを見ました。その手紙は一部次のように述べていました。『この(商標名)の補助食品に効き目があることには論理的で,驚くべき理由があります。これはちょうど「大いなるバビロン」と比べた場合の「真理」のようなものです。時には,私たちの兄弟姉妹たちが一体どのようにして真理を得たのか分かりかねることがあります。私たちの意図している事柄はすべて彼らを助けることなのに,彼らは箴言 18章13節を無視します』。
理由はともあれ,ある人々が健康の問題について宗教的とも言える熱意を示すことがあるので,すべてのクリスチャンは平衡を失わないよう十分注意を払う必要があります。
ほかの問題
クリスチャンは神のみ言葉聖書の助言を与えられていることに感謝できます。それはわたしたちが健康を保つよう様々な仕方で助けてくれるからです。とはいえ,健康に関して別の分野にも注意を向けるのは良いことです。それには次のようなものがあります。どんな治療を受けたらよいかをどのようにして判断できるだろうか。正統的ではない診断法や治療法についてはどうだろうか。そうしたものの中には霊的に危険なものがあるだろうか。神の王国に対する見方は,健康に関する考え方にどんな影響を及ぼすだろうか。次の記事はこうした面を扱っています。
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『健やかに過ごす』こととクリスチャンのわきまえるべき道理ものみの塔 1982 | 9月15日
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『健やかに過ごす』こととクリスチャンのわきまえるべき道理
使徒パウロは,古代フィリピのクリスチャンに宛てて,「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい」と書き送りました。こうしてパウロは古代フィリピのクリスチャンたち,およびそれ以降のクリスチャンすべてに,節度の霊と理性的な平衡とを表わすよう勧めました。―フィリピ 4:5。
自分の健康という点で,わたしたちは道理をわきまえることが必要です。例えば,食べ過ぎや食べ物に関して極端に走ることを避ける必要があります。また,適度の運動をし,休息をとらなければなりません。様々な治療法に対するわたしたちの態度も同様に道理にかなっていなければなりません。一時的に流行しているある種の健康法に夢中にならないよう注意を払わなければなりません。また,自分の霊的な健康と身体的な健康との平衡を取る上でも,道理をわきまえることが求められます。わたしたちは,「より重要な事柄を見きわめ」,健康上の関心事のために,神の王国が二義的なものにならないようにしなければなりません。―フィリピ 1:10。
治療法の選択
医学上の,また健康上の問題について決定を下す際には,こうした問題でさえ人気や流行に左右され得るという点を認識するのはよいことです。かつては人気があったのに,今ではかなり異なった見方で見られている治療法を思い起こせるでしょう。医師がにきびを治すのにX線を使ったり,ちょっとした理由で子供の扁桃腺を切除したり,ほとんどの病気に新しいサルファ剤やペニシリンを処方したりしていた時のことを覚えておられますか。時代は変わりました。こうした治療法がふさわしい場合もありますが,経験や研究から,好ましくない副作用のあることが明らかになり,そのような治療法を用いる際にはかなり注意深くあらねばならないことが分かりました。
“科学的な手法”を教え込まれ,新しい薬や治療法には慎重を期すよう訓練されている医師たちでさえ一般に広く受け入れられている見解に影響され得るのであれば,素人はなおのこと流行の健康法に平衡を失いやすいはずです。現に,幾百万もの人々が平衡を失っているのです。そうした人々は大抵,ある程度の効き目はあるものの,資格のない人々によりはなはだしく誤用されているある種の治療法を取り入れています。広く行なわれるようになった“療法”の中には,まやかしであるために実際には全く効かないものもあります。a そうした療法を促進しているのは,病人からお金を巻き上げることを喜びとしている人々です。また,クリスチャンが少なからず心配しているのは,一般に広く行なわれている治療法の中に聖書が非としている「怪異な力」つまり心霊術と関係していると思われるものがあることです。―イザヤ 1:13。申命記 18:10-12。
『でも,ある治療法がまやかしかどうかどうしたら分かるだろうか』と尋ねる方もいるでしょう。その判断は難しい場合があります。というのは,今ではほとんどの人が無価値だったと認める過去の治療法の多くには,科学的な響きを持つ名称が付されていたからです。また,治療法について書かれた配布用の文書には,ある人々にとってもっともらしく思える説明文が載せられていました。では,どこに助けを求めることができるでしょうか。b
道理をわきまえる
弟子ヤコブは,「上からの知恵は……道理にかない」と書きました。(ヤコブ 3:17)たとえ健康問題の専門家でなくても,クリスチャンが道理をわきまえるよう努めるなら,診断(あるいは検査)の方法や治療法の価値を判断するのに役立ちます。
もちろん,数々の健康上の問題には異なった取り組み方があることを認めなければなりません。活発なクリスチャンはそのすべてに精通することはできません。しかし,自分が治療を必要とし,ある治療法を勧められるなら,次のように自問してみることができるでしょう。『勧められた治療法は,体や病気に関する知識と矛盾しない,道理にかなったものだろうか。それとも主張している事柄が一風変わっているように思え,目をみはらせるような場合さえあるだろうか。自分は,情報に十分通じていない人や金銭的な益を受ける立場にある人々から,この治療法を受け入れるよう説得されているだろうか。それについて疑念があるなら,もっと多くの事実が分かるまで待つべきではなかろうか』。
こうした質問は基本的なものと思えるかもしれませんが,過去においてある種の奇妙な治療法が一般に広く受け入れられたという事実はこれらの質問を考慮する価値のあることを示しています。このことをよく示す最近の例もあります。普通の教育を受け,ある事務所に勤める一女性は,極端な食餌療法を強調する開業医の所へ行きました。この女性が後で友人たちに語ったところによると,彼女は「患者たちが排せつした腫瘍の入ったびん」を見せられ,その中には「脳腫瘍」の入ったびんもありました。道理をわきまえていれば,次のように考えるでしょう。普通の人は実際の腫瘍がどのようなものか知っているだろうか。そうであれば,どのように「排せつされた」かは別にしても本物の腫瘍をどのように見分けることができるだろうか。また,脳はほかの臓器と隔てられているのに,どのようにして腸やそのほかの経路を通して脳腫瘍が「排せつ」されるだろうか。
最後に,役に立たないことが明らかになった過去の検査法や治療法の多くは,“奇跡の物質”,“体から出る[異例の]力”,あるいは開業医が振り子のようなものや診断箇所とは無関係と思われる体の部分から“判断”する奇妙な方法などを掲げて推し進められてきました。それは道理に訴えるのではなく,感情や神秘主義,場合によっては心霊術的な力にさえ訴えるものでした。―レビ記 19:26と比較してください。
推薦の言葉はどうか
わたしたちはさらに次の言葉から助けを得ます。「経験のない者はすべての言葉を信じ,明敏な者は自分の歩みを考慮する」― 箴言 14:15。
これは優れた助言です。大抵の人は次のような推薦の言葉を伴う治療法について聞いたことがあるからです。『医師たちはジョーンズ氏に,あと4か月の命だと告げたが,―― を服用したところ,今ではすっかりよくなっている』。「ジョーンズ氏」が実際に病気だったのかどうかは,健康法に関するこれまでのまやかしの多くも推薦の言葉で裏書きされていたことから分かるでしょう。とは言っても,知人が個人的な経験を話すときに批判的になるべきだという意味では決してありません。しかし,健康に関して大きな決定を下す際には,『推薦の言葉すべてを信じる』のではなく,それ以上のことが必要です。
例えば,「ジョーンズ氏」が本当に病気にかかっていてよくなったとしても,どうしてよくなったのでしょうか。通常の医学をも含め,健康療法に大きな影響を及ぼすのは“偽薬効果”です。薬理作用のない薬や水の注射による治療を受けた後,患者の3ないし4割の容態がよくなったことを研究は示しています。サイエンス・ダイジェスト誌(1981年9月号)はこう伝えています。「信仰・希望・信頼はいずれも偽薬効果の大切な要素で,時には傷を治し,体の化学作用を改め,極めて頑固な病気の経過をも変えることがある」。ですから,『すべての言葉を』どれほど『信じる』かを決める際に,“偽薬効果”のことを忘れないようにし,こう尋ねてみるとよいでしょう。この治療法は,確かな研究と広範に及ぶ検査とによって効果のあることが確証されているだろうか。
たとえ報告が単なる推薦の言葉以上のものであっても,その治療法が道徳的にあるいは宗教的に受け入れられるものかどうかを検討するのはよいことです。アメリカ医師会ジャーナル誌は,紅斑性狼瘡という由々しい免疫学的な病気にかかった28歳の女性について伝えています。この病気は数々の臨床検査によって診断されます。この女性は医療を受けることを拒み,祈とう師の所へ行って,「その女性に掛けられていた呪いを取り除いて」もらいました。戻ってきた時には病気の症状はなくなっており,治ったように思われました。同誌の記事は,アジアの祈とう師がどのように『邪悪な霊を除き』,この女性を治したのだろうかという質問を提起しました。この治療には効き目があったと思われますが,クリスチャンはこうした治療法や何らかの種類の心霊術が関係していると思えるその他の治療法を避けるでしょう。―マタイ 7:22,23と比較してください。
資格のある人の助けを求める
わたしたちが治療法や健康の問題について専門家の助言を必要とする場合の多いことは明らかです。どんな人に信頼を置くことができるでしょうか。聖書は次のような賢明な言葉を述べています。「あなたは自分の仕事に熟練した人を見たか。その人は王の前に立(つ)」― 箴言 22:29。
物事を研究し,業をみがく人は,自分の専門の分野で資格のある人,専門家とさえみなされるようになります。健康の分野でもこのことは当てはまります。ですから,医師や健康問題の相談員からの勧めを検討する際に,この人の資格認定書はどのようなものだろうか,と自問してみることができるでしょう。それに対する答えは,その人の肩書きや名前の後に付く略称などだけによるのではないかもしれません。箔をつけるために肩書きを並べる人は少なくありません。(マタイ 23:6,7と比較してください。)“先生”と呼ばれたがる人の中には,数冊の本を読むか,数時間の“授業”を受けただけで(無料あるいは有料c で)診察や治療を行なう人もいるかもしれません。
次のような点も考慮に入れることができるでしょう。この人の受けた訓練はどの程度のもので,どのような質のものだろうか。この人は知識のある人々から尊敬され,資格ある人物とみなされているだろうか。弟子ルカは研究を重ね,十分の経験を積んでいたものと思われます。ですから,使徒パウロはルカに言及して,「愛する医者ルカ」と述べ,その資格に敬意を払いました。―コロサイ 4:14。
言うまでもなく,健康の問題について良い訓練を受けた人の中にも,ふさわしくない助言を与えたり不適切な治療を施したりした人もいます。自分の受け持つ患者に真の関心を抱いていない場合があるからです。ある種の奇妙な健康学説を発展させたのかもしれません。あるいは,医学の進歩に追い付けず,そのため必要とされる専門的な知識が足りないこともあります。ここでも,聖書はわたしたちを助けるものとなります。
聖書は次のように述べています。「内密の話し合いのないところには計画のざ折があり,助言者の多いところには達成がある」。(箴言 15:22)これは二,三の意見を聞いてみることの価値を強調しています。多くの患者は掛かり付けの医師に対する強い信頼感を築き上げているので,医師の勧めることすべてについて別の意見を求める必要はありません。しかし,重大な健康の問題や受けた助言について不安があるような場合には,別の医師の意見を求めるのは道理にかなったことです。しかし,偏見のない助言を必ず与えてくれるとの確信を抱けるような人から意見を求めるようにします。問題に対して異なった取り組み方をする人からのものであっても,専門家の助言でなければなりません。このようにして,「助言者の多い」ことは健康を向上させるのに役立つのです。
霊的健康と身体的な健康の平衡を保つ
健康や治療法に関するこの論議すべてにおいて,献身的なクリスチャンは次の点を常に念頭に置いておかなければなりません。すなわち,身体的な健康も大切であるとはいえ,霊的な健康のほうがそれよりもずっと大切だということです。
イエスは次のような助言をお与えになりました。「何を食べるのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい」。そうです,自分の体に関して,食べることや着ること,あるいは医療を受けることで過度に思い煩うようになることに警戒していなければなりません。クリスチャンが体の健康を気遣うあまり,霊的な健康をないがしろにするようになるなら,それは実に悲しいことです。そのような人は,イエスのたとえ話の中に出てくる富んだ人と同じわなに陥りかねません。その人に対して神はこう言われました。「今夜,あなたの魂は求められる。そうしたら,[健康をも含む]あなたの蓄えた物はだれのものになるのか」。イエスはさらにこう付け加えられました。「自分のために宝をためても,神に対して富んでいない者はこうなるのです」。―ルカ 12:20-22。
確かに,わたしたちは神に仕えるために自分の命を用いることができるように,健康に気を配りたいと思います。しかし,各地から寄せられる報告によると,身体的な健康のことに夢中になっているクリスチャンもいます。それを示す一つだけの例として,米国中西部の一人のエホバの証人は次のような手紙を寄せました。「余りにも多くの人が健康のことで過度に心配しているように思えます。[会話からも分かる通り]その人たちは常にそのことを考えているのです」。その手紙の説明によると,素人でありながら人にガンがあるかどうか判別できると考え,食餌療法と補助食品とを処方する人からガンだと言われた後に,多くの人がこのことについて極端に心配するようになりました。この証人は米国カリフォルニア州からの一訪問者がこう言うのを耳にしました。「[こうした習慣を持つ]わたしたちは,無知な状態にとどまることを選んで掛かり付けの医師のところへ行く人々とは交わりません」。
これは数々の点で有害です。クリスチャンの集会や大会は,健康について熱のこもった会話を交わしたり,他の人を診察しようとしたり,種々の治療法を勧めようとしたりするための場ではありません。むしろ,そうした集まりは温かみのある,霊的な交友の場です。長老たちは王国会館が健康を保つための様々な治療法や見解を広める中心地とならないように注意し,そこが常に一致と真の崇拝のための場になるよう見届けなければなりません。―ヨハネ 2:16,17と比較してください。
現在の事物の体制では完全な健康を享受するのは不可能です。そのような健康は新しい事物の体制が到来するまで実現されません。その時,「『わたしは病気だ』と言う居住者はいない」のです。それは,その人たちのとがや罪が赦されるからです。(イザヤ 33:24)ですから,現在の自分の健康について道理をわきまえられなくなるほどに心配し,身体面での完全さを今,追い求めているかのような態度を取ることがないようにしましょう。むしろ,自分の霊的な健康に注意を集中することにより,知恵を表わし,道理をわきまえるようにしましょう。
イエスは何に注意を集中すべきかを示し,こう言われました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)わたしたちは神から与えられたこの割当からそれて行くようなことがあってはなりません。健康の問題のために,心をこめて王国を支持する道から脱線してしまうようなことがあってはなりません。『王国を第一に求めてゆく』ことこそ賢明で,道理にかなった道です。それは「神の平和」をもたらし,現在でも健康を増進させるものとなるでしょう。しかし,さらに重要なこととして,それはキリストの贖いの犠牲が人類に適用される時にのみ実現されるすばらしい見込みを伴う,神の是認という宝をもたらすことになるのです。―フィリピ 3:8-11; 4:6,7。マタイ 6:33。
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