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りっぱな羊飼いとその方の「この囲い」ものみの塔 1984 | 5月15日
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りっぱな羊飼いとその方の「この囲い」
1,2 (イ)ダビデ王は詩編 23編1節でどのようにエホバを描写しましたか。(ロ)エホバを羊飼いに,イスラエルをその羊に例えるのはなぜふさわしいことでしたか。
「エホバはわたしの牧者。わたしは何にも不足しません。神は草の多い牧場にわたしを横たわらせ,水の十分にある休み場にわたしを導いてくださいます」。かつては羊飼いの少年,また竪琴を奏でる人であり,のちにイスラエル国民の王となった人は,このような言葉で,深く愛されている調べの一つを始めました。―詩編 23:1,2。
2 別の詩編作者が詩編 95編6節と7節にある,「わたしたちの造り主エホバのみ前にひざまずこう。この方はわたしたちの神,わたしたちはその放牧地の民,そのみ手の羊だからである」と書くことができたのは,もっぱら古代イスラエル国民に対してでした。その国民の人間の王は羊飼いに例えられるかもしれませんが,イスラエル国民は最高の羊飼いであられるエホバ神をいただく羊になぞらえることができました。エホバ神は,エホバの献身した民の会衆内で比喩的な羊飼いとして仕える人々が見倣うことのできる最もりっぱな羊飼いであられます。
3 イエスに関連してさえ,エホバを羊飼いと呼ぶのはなぜふさわしいことでしたか。
3 ダビデ王はイエス・キリストを予影していました。ただしイエス・キリストは,自分の王統の上で父祖にあたる古代のダビデよりもはるかに偉大な方です。「エホバはわたしの牧者」というダビデの言葉をイエスが引用して語られるとすれば,それは極めて適切なことでしょう。イエスの前駆者であるバプテスマを施す人ヨハネは,自分のそばにいる聴き手たちの注意を,近づいて来るイエス・キリストに向けさせ,「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です」と言ったのではないでしょうか。(ヨハネ 1:29,36)ヨハネは,イエスを羊の群れの子羊として語った際に,「彼はほふり場に向かう羊のように連れて行かれ(た)」というイザヤ 53章7節の言葉を思いに描いていたのかもしれません。さらに,聖書巻末の書である啓示の5章6節以降には,栄光を受けたイエスのことが比喩的な子羊として28回言及されています。
4 イエスはどのように羊の囲いの中の羊のようになられましたか。その羊の囲いとは何でしたか。
4 イエスは西暦前2年に奇跡的な方法で地上に誕生することにより,イスラエル国民の中に生まれました。こうしてイエスは,イスラエルの羊飼いであられるエホバがその選ばれた民と結ばれた律法契約のもとに入りました。十戒を中に含むその律法契約は,イスラエル国民のためのもので,預言者モーセがその仲介者となりました。(ガラテア 4:4,5)そしてイエスはその選ばれた民の一員として,比喩的な羊の一部として生まれました。エホバがそれらの羊の至上の羊飼いであられました。こうしてイエスご自身は比喩的な羊の囲いの中に,つまり壁のようなモーセの律法契約に保護された,神聖な羊飼いとの恵まれた関係の中にいました。
5 ヨハネ 10章1節の羊の囲いに関して以前とは異なった見方をする理由はどこにありますか。
5 わたしたちはここでヨハネ 10章1節の「羊の囲い」がモーセの律法契約の取り決めであるとしているのでしょうか。そのとおりです。この羊の囲いをアブラハム契約とする以前の説明は,ヨハネ 10章が直接に言及しているのはただ一つの囲いであり,もしそのとおりであるとすれば,論理的に言ってそれはアブラハム契約を意味するという考え方に基づいていました。しかしこの章をさらに研究してみると,イエスが実際には羊の複数の囲いについて語っておられたことが分かってきました。それでこれから見るように,説明の調整がふさわしいものとなりました。
6 あなたは,聖書の要点に関する理解のこうした調整についてどのように感じますか。
6 このような調整はときどき必要になります。箴言 4章18節には,「義なる者たちの道筋は,日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」と記されているからです。真理の背教した反対者たちは,このような漸進的な解明に「歯ぎしりし」ますが,このことはわたしたちを悩ませるものではありません。(使徒 7:54)むしろわたしたちは,「光が義なる者のために,歓びが心の廉直な者たちのためにきらめいた」ことに対しエホバに感謝します。(詩編 97:11)あなたは,自分にとって,また今日のエホバの証人の他のすべての人々にとって,羊の囲いに関するイエスの例えが一体どんな意味を持つかを知って歓ばれるものとわたしたちは確信しています。
律法下における初期の羊の囲い
7 イスラエル人の羊の囲いに関して,イエスは西暦29年にどのように新しい役割を帯びることになりましたか。
7 では,モーセの律法契約というその羊の囲いについてどんなことが言えるでしょうか。イエス・キリストはバプテスマを施す人ヨハネからバプテスマを受け,エホバの聖霊によって油そそがれ,ユダヤの荒野で40日間の誘惑を受けたあと,西暦29年にイスラエル人の羊の囲いに霊的な羊飼いとして来られました。イエス・キリストは,自分は特に「イスラエルの家の失われた羊」のところに遣わされた,と言われました。(マタイ 10:6; 15:24)バプテスマの時まで,イエスはもっぱらモーセの律法契約という羊の囲いの取り決めの中で生活する生来のイスラエル人の一人でした。しかし今やエホバの霊によって油そそがれ,生み出されたイエス・キリストは,「りっぱな羊飼い」としての新たな役割を担ってその羊の囲いのところに来ることができました。―ヨハネ 10:11。
8 ヨハネ 10章3節の比喩的な戸口番とはだれのことでしたか。なぜそう言えますか。
8 バプテスマを施す人ヨハネは,イエスを至上の羊飼いエホバ神によって任命された真の羊飼いとして認めた最初の人でした。イエスは羊の囲いを荒らすためではなく,合法的な務めを行なうためにやって来ました。イエスは誉れある仕方で,ご自身を霊的な羊飼いとしてイスラエル国民の羊の囲いに差し出すことができました。マラキ 4章5節(マタイ 11:12-14; ルカ 1:13-17と比較してください。)の預言と調和して,ヨハネは至上の羊飼いから,イスラエル人の羊の囲いの比喩的な「戸口番」となる仕事を割り当てられていました。(ヨハネ 1:15,17,19-28; 10:3)ヨハネは,エホバ神の従属の羊飼いとしてのイエス・キリストの信用証明書を認め,すぐに進んでイエスを受け入れ,イエスこそ名前を呼んで羊を牧場へと導き出す,予告されたメシアなる羊飼いであると見分けました。
9,10 イエスはどのように,羊飼いに関するご自身の描写に適合しましたか。イスラエル人の羊飼いたちはどのように自分たちの羊を扱いましたか。
9 イエスは,ヨハネ 10章1節から5節の言葉に示されている,真実のりっぱな羊飼いに関するご自身の描写にかなった方でした。そこにはこう記されています。「きわめて真実にあなた方に言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです。戸口番はこの者に対して戸を開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。よその者には決して付いて行かず,むしろその者からは逃げるのです。よその者たちの声を知らないからです」。
10 古代イスラエルの羊飼いは自分の羊と非常に親密になりました。羊飼いには羊全体を呼ぶ自分独自の呼び方があり,それによって羊飼いは自分の羊のすべてを呼び集め,自分の個人的な注意を受けられるようにしました。さらに羊飼いは,自分の羊の各々に固有の名前を付けました。各々の羊はその固有の名が呼ばれると従順に答え応じました。羊は自分の羊飼いの声の質や音色を知っていたので,よその者の声には決して答え応じませんでした。
11 わたしたちは個人的に,羊飼いとしてのイエスの役割についてどのように感ずるべきですか。
11 これに対応することとして,わたしたちの霊的な羊飼いはわたしたち一人一人の名を知り,わたしたちに個人的な世話を施し,注意を払うことができるという保証が与えられているのは,何と大きな慰めでしょう。わたしたちは,イエスの時代の聴き手の少なからぬ人々がそうであったように,イエスの意義深い比喩の要点をつかみ損なうことがないようにしたいものです。わたしたちに対する警告の例として,ヨハネ 10章6節にはこう記されています。「イエスはこの比喩を彼ら[ご自身のユダヤ人の聴き手たち]に話された。しかし彼らは,自分たちに話されていることがどういう意味なのか分からなかった」。
12 イエスが語られた「よその者」とはだれでしたか。それはどのような点で事実でしたか。
12 人々のところにやって来て,自分が約束されたメシア,つまりキリストであると主張した他のイスラエル人は,イエスからよその者と断定された人々でした。彼らは,任命された「戸口番」からエホバのメシアなる羊飼いとしては紹介されませんでした。その戸口番とはヨハネであり,そのもとへイエスご自身バプテスマを受けるために来られたのです。この点でイエスに誤りはありませんでした。(マタイ 3:1-7。マルコ 1:1-7。ルカ 3:1-9)イエスは,ご自分が民の霊的な羊飼いとしてエホバから民のもとに遣わされた者であることを明らかにして,不正直な羊飼いたちを暴くことをよしとされましたが,それには民を守るという目的がありました。
りっぱな羊飼いのもとにある新しい囲い
13 神はご自身の羊の囲いに関してどのような変化をもたらされましたか。
13 当時も今日も重要なことは,人が正しい羊の囲いに入ることです。それは,エホバ神の是認される羊の囲いに関して変化があり得ることを示唆するものでしょうか。そのとおりです。イエスがヨハネ 10章でさらに述べておられることも,歴史の事実が示していることも,神が律法のもとにあるイスラエル人の羊の囲いを新しい囲いに換えようとしておられたことを示しています。イエスの言葉をさらに続けますが,どうぞその点に注目してください。
14,15 ヨハネ 10章7-10節でイエスが新しい羊の囲いに言及されたことはなぜ明らかですか。
14 ヨハネ 10章7節から10節にはこのように記されています。「それゆえイエスは再び言われた,『きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしは羊の戸口です。わたしに代わって来た者はみな盗人であり,強奪者です。しかし羊は彼らの言うことを聴きませんでした。わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ,その人は出入りして,牧草地を見つけるのです。盗人は,盗み,打ち殺し,滅ぼすためでなければやって来ません。わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」。
15 この句で,イエスがご自分のことを,いま言及している羊の囲いの戸口として語っておられることに注目してください。その戸口は,至上の羊飼いエホバ神のその羊の囲いに入るための戸口です。イエスは,生来のイスラエルの羊の囲いに入るための比喩的な戸口ではありませんでした。イエスご自身はユダヤ人の処女マリアから誕生したことによって,その国民の中に生まれたからです。イエスは,イスラエル国民をエホバ神との専一的な関係に入れるものとなった律法契約の戸口のような仲介者ではありませんでした。エホバ神がイスラエル国民に対して,「わたしは,地上のすべての家族のうちただあなた方だけを知った」と言われたのは,イエスが地上に誕生するずっと前のことでした。(アモス 3:2)エホバ神の真の従属の羊飼いは,ユダヤ人の象徴的な羊の囲いの中から,ご自分の羊の群れの最初のものを呼び出し,それらの羊を特別の霊的な牧草地に導き入れることになっていました。ですからイエスは,りっぱな羊飼いであるご自分が別の意味で戸口となっている新しい羊の囲いについて語り始められたに違いありません。
16 (イ)エホバが新しい羊の囲いをお持ちになる予定だったことは,以前からどのように示されていましたか。(ロ)イエスは新しい羊の囲いが存在する予定であることをどのように示しましたか。
16 イエスの羊のような弟子になることを拒んだこれらのユダヤ人たちは,自分たちの羊の囲いこそエホバ神が意図しておられた唯一のものであり,それは定めのない将来に至るまで存続しつづけるはずだと考えました。彼らは,エホバ神がエレミヤ 31章31節から34節の預言にしたがって確立すると約束しておられた「新しい契約」を考慮に入れなかったのです。この契約はエホバ神との新たな関係ができること,したがって新しい比喩的な羊の囲いができることを意味しました。イエス・キリストは,廃れたものとなり,もはやエホバの保護の壁に囲まれていない羊のおりの戸口ではありませんでした。(ヘブライ 8:7-13)ユダヤ人の弟子たちと最後の過ぎ越しを祝った晩のこと,イエスは過ぎ越しのぶどう酒を弟子たちに与えた際に重要な意味をもつ言葉を語られました。そのぶどう酒に象徴的な意味を付与し,こう言われたのです。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わします。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」。―ルカ 22:20。マタイ 26:27-29。
17,18 (イ)イエスがりっぱな羊飼いとなっておられるこの新しい羊の囲いとは何でしたか。(ロ)どのようにイエスをこの新しい囲いの戸口にもなぞらえることができましたか。
17 イエス・キリストは,モーセの律法契約のもとにある生来のイスラエル人のためにあった以前の羊のおりに取って代わることになっていたもの,つまり永続する羊のおりの戸口となるはずでした。イエスは,死者のうちから復活して40日後,ご自分の弟子たちを地上に残して天に上られたとき,ご自分の完全な人間の命の権利を依然として保持しておられました。その権利をイエスは,肉におけるいかなる罪によっても失いませんでした。(イザヤ 53:3-12。使徒 8:30-35)そのためイエスには,仲介者として仕えるための,またご自身の血によって象徴されるこの命の権利を地上の弟子たちのための新しい,より勝った契約の締結に適用するための用意が整いました。イエスはこれを,遅くとも西暦33年のペンテコステの日までに行ないました。その時,エルサレムで待機していた従順なユダヤ人の弟子たちの上に聖霊が注ぎ出されたのです。
18 こうしてこれらの弟子たちは,新しい契約に入れられ,新たな羊のおりが存在するようになりました。そのおりは,イエス・キリストの血によって締結された新しい契約を基とするエホバ神との関係にかかわるものでした。この新たなおりの中の象徴的な羊はエホバの霊によって生み出され,その霊によって油そそがれました。イエス・キリストは,このおりの戸口であり,同時にこのおり,つまり囲いの中にいる羊に対するエホバの任命されたりっぱな羊飼いでした。
19 ゼカリヤ 13章7節はどのような方法で成就しましたか。
19 イエスが逮捕され,墓の中で死んでいた足かけ三日のあいだ,イエスはご自分の羊のような弟子たちの世話を,至上の羊飼いであられるエホバ神に全面的に委ねなければなりませんでした。その時,ゼカリヤ 13章7節のエホバのお告げが成就しました。つまり,「牧者を打って,群れのものたちを散らせ。わたしは必ず,取るに足りない者たちの上にわたしの手を戻す」というお告げです。全能の羊飼い,エホバのみ手は,これらの取るに足りない弟子たちの上に戻され,その後弟子たちは復活させられた従属の羊飼いであるイエス・キリストに再び引き渡されることになりました。―マタイ 26:31,32。
20 ヨハネ 10章16節は,別の囲いがこれから生ずるという期待をどのように起こさせていますか。わたしたちがそれに関心を持つべきであるのはなぜですか。
20 しかし,りっぱな羊飼いのもとにあるこの新しい羊の囲いを念頭においた上で,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければな(りません)」という,ヨハネ 10章16節のイエスの言葉に注目してください。この言葉は,イエスがりっぱな羊飼いとして仕えてくださる別の第二の囲いのことを示しているのではないでしょうか。そうだとしたら,それはいつ存在するようになり,その中にいる羊とはだれのことでしょうか。これらは非常に時宜にかなった質問であり,その答えは,あなたの希望と永遠の見込みに直接関係があります。それでこの問題を調べてみましょう。
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「ほかの羊」のための近年のおりものみの塔 1984 | 5月15日
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「ほかの羊」のための近年のおり
「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」― ヨハネ 10:16。
1 霊的イスラエルの羊の囲いに関して,西暦36年に新たにどんな事が生じましたか。
西暦33年のペンテコステの日に霊的イスラエルの新しい羊の囲いがもたらされたことに伴って,モーセの律法契約のもとにあった生来のユダヤ人のための以前の羊の囲いは,目的を果たしたものとして過ぎ去りました。その3年半後,ローマ人の百人隊長コルネリオと,信仰を持つその家族および友人たちがカエサレアで転向し,バプテスマを受け,霊によって油そそがれました。こうして,ユダヤ人の改宗者ではない無割礼の異邦人が,イエス・キリストを「戸口」とする羊の囲いの中に入れられました。(使徒 10章)この囲いは,「神のイスラエル」,霊によるイスラエル人,つまり霊的イスラエル人を入れるためのものです。これらの人々のうちのだれか ― ユダヤ人と異邦人の別を問わず ― について,この人は『この囲いのものではない』,つまり新しい契約の取り決めにしたがって集められた羊の群れではないと言うことができたでしょうか。そのようには決して言えませんでした。―ガラテア 6:16。ヨハネ 10:16。
2 イエスが,新しい契約に入っている人々のりっぱな羊飼いとして今なお仕えているとどうして言えますか。
2 時間がずっと経過した今も,地上にはまだこの神のイスラエルの残りの者がおり,このことは新しい契約の仲介者であるイエス・キリストが忠実でりっぱな羊飼いであり続けたことを証明しています。したがって,19世紀以上の時を経過した現在でさえ,栄光を受けたイエス・キリストは,ご自身の死と復活の前に語られた言葉,ヨハネ 10章14,15節に記されている言葉を正当に述べることができます。そこには空自慢など少しも含まれていません。こう記されています。「わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。ちょうど父[至上の羊飼い]がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます」。
3,4 「ほかの羊」はなぜ「小さな群れ」と区別されるべきですか。
3 ここまで述べてからイエスは,注目すべき寛大さにあふれた言葉を次に語られました。「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲い[あるいは,「おり」,新国際訳; 今日の英語聖書]のものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」。(ヨハネ 10:16)「ほかの羊」とはだれのことを言っておられたのでしょうか。
4 これらの「ほかの羊」は「この囲い」のものではないので,神のイスラエルの中に含まれることはありませんでした。神のイスラエルの成員は,霊的,つまり天的な相続財産を得るのです。これらの霊的なイスラエル人は,せいぜい「小さな群れ」を構成するにすぎません。イエスは,ペンテコステの日に聖霊を注がれる見込みをもっていた弟子たちに,「恐れることはありません。小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです」と言われたからです。(ルカ 12:32)天の王国が与えられ,りっぱな羊飼いイエス・キリストと共にその王国で統治することになっていた小さな羊の群れは,わずか14万4,000人の霊的イスラエル人を数えるにすぎません。―啓示 7:1-8; 14:1-5。
5 ほかの羊が論理的に言って小さな群れの希望とは異なった希望を抱いていることを示すために,どのように啓示 14章4節を用いることができますか。
5 啓示 14章4節は,「これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」と述べています。もし別の穂,あとの実りがないとしたら,これら14万4,000人の霊的なイスラエル人が人類の中から取られた象徴的な初穂であるとどうして言い得るでしょうか。ですから,新しい契約の羊の囲いの中の王なる羊たちの小さな群れを構成する14万4,000人の霊的イスラエル人以外にも,のちに集められるはずのほかの羊がいるはずです。実際にそのとおりになってきたのではないでしょうか。
6,7 啓示 22章17節はどのように成就していますか。ここで『来る』ように招かれているのはだれではありませんか。
6 啓示 22章17節には次のような予告の言葉があります。「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」。キリストの霊的な花嫁は,「来なさい!」という招待の言葉を自分自身,つまり,14万4,000人をそろえるためにさらに花嫁級の一部となる必要があるとエホバ神がお考えになった人々に話しているのではありません。この招待の言葉が至上の羊飼いであられる方の聖霊と協働する「花嫁」から差し伸べられているのを聞いたのは,1914年に始まった「事物の体制の終結」の期間中のことでした。―マタイ 24:3。
7 これらの招待の言葉は,キリストによる神の王国が地上に回復させる楽園において神の像と様を備えた完全な人間の命を得たいと願うこの地上の人々に差し伸べられています。今日,この事物の体制の終結の期間中におけるこれら招かれた人々とは,ヨハネ 10章16節に記されている長期間に及ぶイエスの預言に出てくる「ほかの羊」です。彼らはりっぱな羊飼いイエスがそこで言及された「この囲い」のものではありません。しかし彼らは,「この囲い」の中にいる「羊」の残りの者を通して招待を受け,霊的残りの者と交わるようになってこの事物の体制の終結の最終部分に至るまでその招待をさらにほかの人々に差し伸べてきました。
8 1905年にはほかの羊に関してどのような見解が取り入れられましたか。
8 「シオンのものみの塔」誌の1905年3月15日号の中に,「真の羊飼い,真の羊,真の囲い」と題する記事が載りました。それは,「この囲い」の羊と,ほかの羊と呼ばれる人々を区別するものでした。「この囲い」は,「この福音時代」と呼ばれる時期に取り出されているクリスチャンの会衆と関連があると強調されました。「もう一つの群れのほかの羊」,および「同じ約束に関する友なる相続者たち」(89,90ページ)という副見出しに続いて,次のことが記されました。
「主がこのたとえ話の時期にご自身の側に集めておられた羊の群れは生来のイスラエルではなく,霊的なイスラエルであった。……よって,一部の人々が抱いているような,異邦人,つまりここで言及されている『ほかの羊』である我々が現在一つの囲いの中に連れて来られているという見解は正しくない。……このたとえ話の中で言及されているこれらの『ほかの羊』は,現在の『小さな群れ』が完成されたあとに主の羊になるものと思われる」。
9,10 (イ)羊とやぎに関するたとえ話が千年統治の期間中には当てはまらないのはなぜですか。(ロ)ほかの羊はいつ集められることになっていましたか。
9 その記事のあとのほうの節で,「ほかの羊」は,マタイ 25章31節から46節に示されている,羊とやぎに関するイエスのたとえ話の中に出てくる「羊」と同一視されています。1905年当時,このたとえ話は,ハルマゲドンの戦場における「全能者なる神の大いなる日の戦争」のあとのキリストの千年統治期間中に適用されると考えられました。(啓示 16:14-16)しかし,わたしたちが念頭に置くべきなのは,羊とやぎに関するこのたとえ話が,イエスの「臨在と事物の体制の終結」のしるしは何かという弟子たちの質問に対するイエスの答えの最後の部分をなしていたということです。(マタイ 24:3)ですから,このたとえ話の成就は,1914年に始まったこの事物の体制の終結の時期に実現するに違いありません。
10 したがって,りっぱな羊飼いであるイエス・キリストは,割礼を受けたサマリア人がキリスト教に転向し始めた1世紀のその時に,ヨハネ 10章16節の「ほかの羊」を連れて来られたのではないと理解されます。さらに西暦36年ごろ,ローマ人の百人隊長であった無割礼の異邦人コルネリオが改宗した時にもそのようになさったわけではありません。では,りっぱな羊飼いはご自分のほかの羊をいつ集め始められましたか。事実の示すところによれば,それはその幾世紀もあと,そうです,この20世紀のことです。―使徒 8:4-17; 10:9-48。
11 霊的イスラエル人は1935年まで何に努力を集中していましたか。
11 「この囲い」の中の霊的イスラエル人の残りの者が,1935年の春まで,14万4,000人から成る霊的イスラエル人のそろった数を満たすために必要な最後の人々をこの囲い,つまりおりの中に集め入れることに努力を集中していたことをわたしたちは知っています。これらの人々は,りっぱな羊飼いが仲介者となられた新しい契約のもとに連れて来られる最後の人々でした。そのりっぱな羊飼いは,「永遠の契約の血」を備えるため神の子羊として死なれました。(ヘブライ 13:20。詩編 50:5)では,1935年に何が生じましたか。
12 1935年の大会に関連して,どんな異例な事が生じましたか。
12 エホバの証人の全国大会が,アメリカ合衆国のワシントン特別区で開かれました。この大会には,非イスラエル人のヨナダブのような,神を恐れる聖書研究者たちが出席するよう特に招待されました。大会二日目の5月31日には,当時のものみの塔聖書冊子協会の会長が,啓示 7章9節から17節に基づいた「大いなる群衆」(啓示 7:9,欽定訳)に関する話をして,大会出席者たちの興奮を誘いました。同会長は,予告されたこの「大いなる群衆」が「ほかの羊」で構成されることを説明しました。この「ほかの羊」は,イスラエルの王であったエヒウに伴い,エホバに対する熱意と,偽りの神バアルの崇拝者たちを非とする熱意を示した非ユダヤ人のヨナダブ,ないしエホナダブによって予影されていました。(列王第二 10:15-28。エレミヤ 35:6-19)こうしてエヒウは,『エホバと張り合う関係を一切認めていないこと』,あるいは欽定訳によれば,「主のための熱心さ」を示しました。―列王第二 10:16。
13,14 (イ)現代のヨナダブとなったのはだれですか。(ロ)彼らが何を行なうのは適切なことでしたか。なぜですか。
13 ヨナダブのようになって,りっぱな羊飼いの「ほかの羊」として数えられることを願った幾百人もの人々は,公にされた招待にこたえ応じ,ワシントンの大会に出席しました。その人々が現代における対型的なヨナダブとなるためには,りっぱな羊飼いを通してエホバ神に全く献身し,「この囲い」に属する羊がすでに行なったように,完全に水の中に没することによってその献身を象徴することが聖書的に言って必要でした。そのようなわけで,1935年6月1日の土曜日には,大会出席者たちのうち840名が水のバプテスマを受けました。それは,西暦33年のペンテコステの日にエルサレムで見られた集団バプテスマに似ていました。りっぱな羊飼いが,好ましい羊飼いの声として自分の声に聞き従うことになっていたほかの羊を,牧者としてのご自身の保護下に連れて来るようになったことを示す何と印象的で画期的な方法だったのでしょう! これはその羊飼いにとって非常に大きな喜びだったに違いありません。1935年のワシントン大会のあと,啓示 7章9節から17節を解説した主要な話は,「ものみの塔」の1935年8月1日および15日号の誌上に「大いなる群衆」(第1部,及び第2部)という表題で掲載されました。
14 それから幾千人もの読者が,正にりっぱな羊飼いのほかの羊になる特権と,適切な囲い,つまりおりに割り当てられる特権を理解しました。それを目ざして,それらの人々は従属の羊飼いイエス・キリストを通して理性的に行なった至上の羊飼いに対する献身の象徴として,一番早い機会にバプテスマを受けました。彼らは,エホバの従属の羊飼いがすべての羊のためにご自身の人間としての魂をなげうたれたことを認めているので,事実上,身分証明となる「自分の長い衣を」この神の「子羊」の「血」で「洗って白くし」,神の検分を通過できるようにしています。―啓示 7:14。
15 ほかの羊はどれほどの数になりましたか。これは何を証しするものですか。
15 異邦人の時が1914年に終わると共に始まったこの事物の体制の終結は,りっぱな羊飼いが命を救うための注意をほかの羊に向けるということが考慮され,1935年には終了しませんでした。しかしそれは今年1984年まで続いており,終わりは今後最終的な王国伝道の業が成し遂げられたあとに到来します。主の晩さんの祝いの際にほかの羊の囲いの中にいることを自ら示す人々はすでに数百万を数えており,数えきれない他の多くの人々がさらにその囲いの中に入りつつあります。すでに彼らは,あらかじめ定められた14万4,000という数をはるかに上回っています。この限定された数は,天の王国においてりっぱな羊飼いと共同の相続人となる霊的イスラエル人のために予定された「この囲い」に連れて来られる人々のために定められたものです。この事実は,ほかの羊がりっぱな羊飼いの「小さな群れ」の「この囲い」の中にいないことを示すさらに別の証拠となります。―ルカ 12:32。
16,17 (イ)ほかの羊と小さな群れとの関係はどのようなものですか。(ロ)「一つの群れ」になるというイエスの言葉は,どのような成就を見ていますか。
16 希望の違い,すなわち,「この囲い」の中にいる羊のための天の希望と,近年備えられたもう一方の囲いに属するほかの羊のための地上の希望があることは,これらの人々に共通するものが全くないかのように,互いに離反したグループとならせてしまったでしょうか。1935年以来の事態の進展は,否! と明確に答えています。りっぱな羊飼いであるイエスは,そのようにはならないと予告されました。イエスはさらに,『彼らは一つの群れとなる』と言われたからです。(ヨハネ 10:16)わたしたちは,イエスが『一つの囲いの中の一つの群れ』とは言われなかったことに注目しますが,別個の囲いがあるとしても,「一人の羊飼い」のみが存在することになっており,その方は異邦人の時が終了した1914年以来,天で統治してこられた牧者なる王です。この事実に適合する点として,「羊」には遂行すべき共通の一つの仕事があります。それは,この古い世の事物の体制の終わりが到来する前に,『王国のこの良いたよりを,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝える』仕事です。―マタイ 24:14。
17 ほかの羊は,小さな群れから差別されているとは全く感じていません。彼らは共に集まって,りっぱな羊飼いに属する羊の一つの群れを構成しています。ほかの羊は小さな群れとの親しい交わりを歓び,将来王また祭司となる人々,千年王国の期間中自分たちがその臣民となる人々と共にしばらく奉仕できることを大きな特権とみなしています。
18 (イ)新しい契約と,「この囲い」の中の油そそがれた羊は将来どうなりますか。(ロ)ほかの羊にはどんな見込みがありますか。
18 神の定めの時に,霊的なイスラエル人の残りの者が地上の歩みを終えて姿を消し,天の報いに入る時,仲介者であるりっぱな羊飼いイエス・キリストの血に基づいた新しい契約は,その目的を首尾よく成し遂げ,もはや適用されなくなります。これによって,毎年の過ぎ越しの日に主の晩さんを守り行なうことも行なわれなくなるでしょう。そしてまた,霊的なイスラエル人の羊の群れのための「この囲い」は存在しなくなります。献身してバプテスマを受けたほかの羊は地上にとどまって,りっぱな羊飼いイエス・キリストとその仲間の14万4,000人の祭司また王たちによって構成される王国がそそぐ数々の祝福に入ります。清められた地上に残る羊の群れは,一致したほかの羊のみで構成されることになります。彼らは引き続き自分たちの牧者なる王の声に聞き従い,それによって彼らは,人間としての完全さのうちに,楽園となる地上でとこしえの命を得ることになるでしょう。
説明できますか
□ ほかの羊が小さな群れの羊とは異なっていることを何が示していますか
□ 啓示 22章17節は今日どのように成就していますか
□ いつまたどこで,ほかの羊は前面に出るようになりましたか
□ ほかの羊と油そそがれた者たちとは異なった囲いの中にいるのに,彼らはどうして一つの群れであると言えますか
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