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完全 ― それはいったい何を意味するのですかものみの塔 1971 | 11月15日
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上の理想にすぎず,聖書はそのような考え方を示してはいません。
イエス・キリストは完全な人間として生まれましたが,それでもすべての赤ん坊と同様に,堅い食物を食べること,歩くこと,話すことを学ばねばなりませんでした。イエスが養父のヨセフとともに大工の仕事をしたことはありうることですが,そうなら,大工道具を使う技術を学ばねばならなかったのは当然です。彼が完全だからといって,その技術は自動的に得られたのではありません。他の知識,ご自分の父のみことばや目的に関する知識についても同じです。ルカ伝 2章52節で,12歳以降のイエスについて述べられているとおりです。「イエス知恵も身のたけも弥増り神と人とにますます愛せられ給ふ」― ルカ 2:42-52。
そうであれば,完全さは生きることの挑戦を除去するものとはなりません。各の仕事には解決されねばならない個有の問題があり,努力,熟考,計画がやはり要求されます。しかし,完全さは,不完全で罪に支配された世界における生活が今日わたしたちにもたらしている挫折感,失意の念,むなしさなどを取り除くことになります。今の世では,たとえ最善の努力をしても,障害にあったり,人生があまりに短かったりして挫折させられるか,罪深い性質からくる弱点のゆえに失敗させられることが何度となくあります。
神の新しい秩序のもとで生きる人々にとって,永遠の命という見込みそれ自体が,もっともっと多くのことを学びたい,自分たちの住んでいるすばらしい地球と,神の造られた途方もない変化に富む創造物とについてさらに多くを学びたいとの挑戦を与えるものとなるでしょう。すべての人の生産力,独創力,機知と進取の気性,発明の才と創意が挑戦を受けるのです。各人が作る家・庭・衣服・手芸品・芸術品などはその人自身の好みや目的を反映し,しかもそうした好みや目的はすべて神の意志と一致するのです。これは全地に尽きることのない変化が見られる保証を与えるものであり,決して単一さや単調さが存在することにはなりません。
では,真に価値のある知識の偉大な源から今,できるかぎり学ぶべきであることを認識してください。「神は其道〔完全なり〕エホバの言は純粋なし」ということを認めてください。そのみことばに信頼して,それを今自分の生活で実践し,将来に関する神の約束にたより,エホバを避け所また強さの源としてください。そうすれば,詩篇作者とともにこう言えるのです。「神はちからをわれに帯しめ わが途を〔完全な〕ものとなしたまふ」― 詩 18:30-32〔新〕。
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霊の奇跡的な賜物はなぜ絶えたのかものみの塔 1971 | 11月15日
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霊の奇跡的な賜物はなぜ絶えたのか
1,900年前,目に見えない神はご自分のみ子イエス・キリストを通しての救いの良いたよりを強力に支持されました。何によってですか。
ヘブル書の記述者は,モーセの律法契約下にあったクリスチャンに語りかけながら,それがどのようになされたかをこう述べています。「神また徴と不思議と,さまざまの能力ある業と,御旨のままに分ち与ふる聖霊とをもて証を加へたまへり」。(ヘブル 2:1-4)そうです,神はこの手段によって同時に,新しい契約下にある新たに設立されたクリスチャン会衆とかかわりを持っていること,そして律法契約下にあるユダヤ教の取り決めから恵みを取り去ったことを明らかに示されたのです。
それら「分ち与ふる聖霊」には,多くの奇跡的な能力が含まれていました。使徒パウロはそうした奇跡的な賜物に触れ,それらは時たつうちに過ぎ去ると語りました。(コリント前 13:8)今日わたしたちは,いやしを行なったり,以前に全然研究したことのない種々の言語を話したり,霊感を受けた預言を発したりといった,驚嘆すべき奇跡的な方法で神の霊が個人を通して働くのを見ておりません。なぜですか。当時の会衆にそれが必要だったのであれば,なぜ現在それが必要ではないのですか。
その理由は,クリスチャン会衆は今日も同様,その宣教を成し遂げるため神の霊の働きに十分に祝福されてはいるものの,霊は多くの会衆の必要を異なった方法で,より広範で恒久的な方法で満たしているのです。それはどうしてですか。その答えを得るため,昔付与された賜物の目的とそれが成し遂げた事柄とを振り返ってみる必要があります。
1世紀における霊の力強い活動
聖書の中の特に使徒行伝に記録されている,使徒と彼らの仲間の活動の報告を読むと,わたしたちは聖霊の働きの力強さと強烈さまたその勢力に感銘させられずにはおられません。西暦33年のペンテコステ以降,『信ずるもの男女とも増ておほく主に属き』ました。(使行 5:14)わずか1年半ほどを要したパウロの最初の宣教旅行中,彼とバルナバはクプロと小アジアを通りました。(使行 13,14章)彼らはこの短い期間に,次々に会衆を設立し,地方の男たちを監督の職に任命しました。ある会衆は非常に短期間にできたようです。その後の旅行でパウロは,大都市コリントでわずか1年半ほど費やして多くの弟子たちを見いだしました。―使行 18:11。
霊がそれほど強力に働いて,何百人,いや何千人もの人々をクリスチャン会衆に集めたのは,しかも,その初期の歴史のきわめて短期間にそうしたのはなぜですか。
それは会衆を設立し,建て起こし,強化するために比較的わずかの年月しかなかったからです。イエスは小麦と雑草との例の中で,この盛んな活動が限られた一定期間続くことを明らかにされました。それは「人々の眠れる」とき,すなわち使徒たちが『眠った』つまり死んでいなくなった後に終了します。この事態が起こると,予告されていた「不法の人」はもはや長くは抑制されず,真の使徒たちの教えや慣行に逆らう大規模な背教,反抗が大いに幅をきかすことになっていました。(マタイ 13:24-30,36-43。テサロニケ後 2:3-8)そのために使徒たちは,ほとんど飲み尽くさんばかりの背教の激流に抗して会衆が真理の柱,「真理の基」となるよう,それを築き上げるべく絶ゆまずに働いたのです。―テモテ前 3:15; 4:1。使行 20:29,30。ペテロ後 2:1-3。
しかしながら,霊の奇跡的な働きがなぜ必要だったのですか。まず,1世紀には,ユダヤ人でさえヘブル語聖書の巻本全部を持っていた者はまれであったことを思い起こされるでしょう。異教徒の間では聖書はほとんど知られていませんでした。福音書やギリシア語聖書の中の手紙についていえば,きわめて少数の写しが回覧されていたにすぎません。聖書中のどの本も,今日のように章や節に便利に分けられてはおらず,聖書用語索引それに聖書の辞典や註釈書などは全然ありませんでした。ゆえに,普通以上の,神からの助けが必要だったことが明りょうです。神の霊が聖書の知識と指示に関する,多くのクリスチャンの弟子たちの必要を満たす方法で働くことは理にかなっていました。次に見るように,神の霊はそれを奇跡的な賜物を通して行ないました。
奇跡的な賜物
その賜物はコリント前書 12章4節-11節にあげられています。ここで使徒は,霊は会衆の各成員に同様な方法で働きかけるのではなく,多様な方法でその働きと影響力とを現わすことをしるしています。それによって霊は,一集団としての会衆が正しい教義と清い慣行とを維持し,良いたよりを伝道し教え,背教に対して堅く立つよう十分に備えさせました。その多様な賜物と目的とを考慮してみましょう。
最初にあげられているのは「知恵の言」です。知恵はある目標を達成するため知識と理解を成功裏に行使する能力です。この知恵の賜物は経験から生まれる知恵ではなく,奇跡的な知恵であり,それを所有する者はむずかしい性質の決定をなすに当たって会衆を援助することができました。―使行 13:1-5。
二番目の賜物は「知識の言」です。これは弟子となるためにすべてのクリスチャンが持つよう要求されている,神とキリストに関する知識ではありません。(ヨハネ 17:3。ロマ 10:14)それは聖書の写しが欠如していることを埋め合わせる奇跡的な知識であり,同時に,会衆の福祉に影響を与える事態を奇跡的な方法で気づかせました。―使行 5:1-11。
次は「信仰」でした。この信仰も,すべてのクリスチャンが持たねばならない信仰とは別のものでした。神とそのみ子,また,あがないの犠牲に対する信仰は,クリスチャンになるための第一の要件でした。(ロマ 10:10。使行 2:38,39)それはむしろ,霊を吹き込まれた奇跡的な信仰,破れることのない確信であり,その所有者をして山のような障害を克服させ,堅固として良いたよりの伝道を推し進める勢力と熱意を会衆に分け与えさせました。この賜物を持つ者はなんと貴重な会衆の成員であったことでしょう。
さらに,「病を医す賜物」と他の「異能ある業」がありました。(使行 3:1-8; 5:12-16; 13:6-12)それらは不信者に対するしるしとしての役をし,神の霊が会衆に臨み,そのわざを促進させていることを強力に証明しました。
「預言」の賜物には,神についての壮大な事柄を話すほかに,来たるべき事柄を正確に語る,霊感による能力が含まれていました。しかし,生起する事柄を霊感のもとに予告することは一般的には,当時の会衆に影響を及ぼす事態に限られていたようです。その結果,クリスチャンの預言者アガボが予告した,クラウデォ皇帝の時代の飢きんの場合のように,会衆は予知されていた事態に対処することができました。―使行 11:27-30。
『霊をわきまえる力』は会衆の安全に資する賜物でした。当時には,霊感を受けた音信を携えた預言者が実在しており,それらのある者はバルナバ,シラス,パウロその他の人たちのように旅行しました。霊をわきまえる力の賜物により,会衆はいかさま師や偽りの預言者から保護されました。そのような者が会衆に来るなら,この賜物を持つ成員によってその実体をあばかれました。その結果,会衆はある「霊」つまり霊感を受けた発言に注意を払うべきか否かを知りえたのです。―ヨハネ第一 4:1。
「異言を言ひ」「異言を釈く能力」は,良いたよりをアジア,ヨーロッパ,アフリカそして海洋の島々に急速に広めるのに重要でした。異言を語る賜物は同時に,クリスチャン会衆外の者たちに対するしるしとしての役を果たしました。(コリント前 14:22)パウロは諸国民への使徒としての使命を受けたがゆえに,他の人よりも広範に旅行し,多種多様の言語と方言を話す人々に会いました。まさしくこの理由で,彼はこの賜物を非常に豊かに付与されたのでしょう。パウロはこう言いました。「我なんぢら衆の者よりも多く異言を語る」― コリント前 14:18。
現代の会衆における霊的な賜物
さて,真のクリスチャン会衆は現在,中世を霊的な暗黒でおおい隠した背教から回復させられました。西暦前537年,ペルシアのクロス王によってイスラエルが,自分たちの土地に帰還させられたように,エホバも統治しているご自分の王イエス・キリストを用いて,現代のクリスチャン会衆を霊的に繁栄した状態に導きいれられました。(イザヤ 1:25-27)神の名前,み子イエス・キリストの地位,神の王国,あがない,復活その他に関する真の教理が回復させられました。三位一体,地獄の火,人間の魂の不滅性などの偽りの教理は聖書に反することが暴露されました。王国の良いたよりを伝道するわざは,全世界にわたって行なわれています。会衆がそのわざを遂行し,その清さ,高潔さ,一致を保つのに霊の奇跡的な賜物が必要ですか。
いいえ,そのような賜物は1世紀におけるように,全面的に奇跡的な仕方では必要とされていません。というのは,神は会衆に必要なものを異なった方法,より完全で恒久的な方法で付与されたからです。しかしながら会衆の初期の歴史におけると同様,会衆のすべての成員があらゆる能力を所有しているわけではなく,一体としての会衆がそのすべての能力において,神とキリストを正確に代表するよう,各人が互いに補足し合うのです。これは種々の能力を与える神の霊の働きによって成し遂げられます。
知識に関しては,神はご自分のみことば全部を印刷物の形で備えておられ,今日それはどんなに貧しい人でも入手できます。それを使うなら,神の人は十分な能力を備え,すべての良いわざに対して完全に備えられた者となれます。(テモテ後 3:16,17,新)そのうえ,註釈書,用語索引,聖書辞典などの聖書研究の助けを通して,さらに,勤勉な研究から知識を修得した会衆の男子の助けにより,すべての人が知識を得ることができます。
知恵も同様に得られ,それを奇跡的に取得する必要はありません。使徒行伝に述べられている初期会衆の経験に加えて,背教から回復させられた現代の会衆の歴史に関する知識も入手できます。以前に対処されなかったり克服されなかったりした問題はとても起こりえません。この時期における油そそがれたクリスチャンの会衆は,イエス・キリストにより「忠実で思慮深い奴隷」に選任されています。(マタイ 24:45-47,新)神のみことばと神の霊の指示を受け,長年の経験を積んだ円熟した男子が,その結果として得た知識を用いて,会衆が諸問題を克服し,そのわざを秩序正しく成功裏に推進するよう助けを与えます。
同様な方法で強い信仰は,会衆の大多数の成員を通じて会衆内に強力に作用します。それは聖書の研究を通して神の意志を注意深く確かめることにより,また霊の導きに従うことにより成長を促せる霊の実です。(ガラテヤ 5:22)二つの世界大戦の激変中,また神の王国とその宣布に対する火のような憎しみや反対のきびしい試練の間,さらに,無関心,嘲笑,迫害などに面しながらもその全期間を通じて,信仰の人は会衆を導き,生気づけてその使命を果たさせてきました。
病をいやす賜物やそれと同様な奇跡的なわざは今日必要ではありません。神が古代ユダヤ人からクリスチャン会衆に移行したことは歴史が確証しており,一方,クリスチャン会衆の示す愛と活動それに預言の多くの成就は,実体を明らかにする現代のしるし,また神の恵みがその上にあることを示す証拠となっています。王国伝道のわざが全世界に拡大していることも,一つの強力なしるしです。―コリント前 13:10-13。マタイ 24:14。
霊感を受けて預言することは今日では不要なことでしょう。聖書にしるされた預言は今日の会衆に対する導きとしては完成しており,付け加えられるべきものは何もありません。(テモテ後 3:16,17。黙示 22:18,19)したがって,神のみことばが完全な導きを備えている以上,奇跡的な意味で預言をわきまえる賜物は必要ではありません。神から権限を与えられて霊感を受けた預言者は今日いないからです。「竜の口より,獣の口より,偽預言者の口より」,あるいは,いわゆる「霊感を受けた表言」なるものを語る他の者たちから出る事柄は直ちに評価され,霊感を受けた神のみことばによって偽りであることが証明されます。―黙示 16:13,14。ヨハネ第一 4:1。
「しかし異言を語ったり,異言をといたりする力についてはどうか」と尋ねるかたがおられるかもしれません。答えに代えて次の質問を提起しましょう。「王国の良いたよりはすべての主要な言語で,すべての国の民に伝道されてはいませんか」。そのとおりです。206の土地で証言がなされており,聖書の全巻あるいは一部が,1,400以上の言語で入手できるのです。訓練を受けた幾千人もの宣教者が外国語を学んで,それらの土地に住む人々に王国の良いたよりを伝えています。次いで,それを聞いた人々は宣教者の話さない方言を使ってまで,良いたよりを遠く広く伝え,こうして真理のことばを他の人々に説き明かしているのです。
このようにして神の霊が良いたよりの伝道のわざを導く結果,「もろもろの国・族・民・国語の中より,誰も数へつくすこと能はぬ大なる群衆」が出てきてエホバ神とその王イエス・キリストを賛美しており,王が支配を開始したことを宣布するわざに加わっています。―黙示 7:9,14。
したがって,霊は初期クリスチャン会衆におけると同様,今日も確かに力強く作用しています。それが成し遂げているわざは,人間の観点から見ると,実際には奇跡的であると言えるでしょう。わざを行なっている人たちがそれを成し遂げるには神の霊を持っていなければなりませんし,彼らは神の霊が実際に成果をおさめさせていることを認めます。
しかしながら,神の霊が神の民を活動へと鼓舞する力であることを認めない人にとって,成し遂げられた事柄は物事の自然の成り行きと見えるかもしれません。神の会衆内での霊の働きは今日はなばなしいこととして映りません。それは用いられている賜物がそれを所有する人によって長い期間にわたりつちかわれた霊的な賜物であるからです。一方,初期会衆の奇跡的な賜物は,神によって選ばれたクリスチャンに即座に付与されました。―コリント前 12:6,11,18。使行 19:5,6。
クリスチャンであるわたしたちは今日,神がこのような方法で驚くべき知恵をもって事を処された結果,真理が地に生きながらえさせられたことを幸福に思えます。わたしたちは『神の過分の親切を受けながら,その目的を逸する』者とならないよう,霊の実をつちかうことに今熱心に努めるべきです。―コリント後 6:1。
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聖書の原則を尊重するものみの塔 1971 | 11月15日
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聖書の原則を尊重する
◆ 聖書の原則に従って行動すれば,しばしば良い証言を行なえるものです。南西アフリカの一兄弟は友人から「ビルトング」(野生の雄じかの干し肉)を勧められました。兄弟が事情を調べたところ,その雄じかからは正しく血が抜かれてはいたものの,それは国道で撃たれており,法にふれるものであることがわかりました。兄弟はビルトングをいっさい辞退し,その雄じかは実際には盗んだものであることを説明しました。ビルトングはたいへんおいしい食物なので,友人は非常に驚き,この問題に関係する聖書の原則についての兄弟の説明に注意深く耳を傾けました。そして,聞いたことを自分の妻に話し,夫婦そろって聖書研究をしたいとその兄弟に申し出ました。ふたりは現在集会に定期的に出席しており,次の大会でバプテスマを受けるのを楽しみにしています。
― エホバの証人の1971年度年鑑より
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