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「天の王国」は何に似ているかものみの塔 1976 | 1月15日
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「天の王国」は何に似ているか
「神の王国は何に似ているでしょうか。それを何になぞらえましょうか」― ルカ 13:18。
1,2 例えを用いて教えることにより,イエスはどんな預言を成就されましたか。
例えまたはたとえ話は,19世紀前のイエス・キリストが用いた教え方の重要な部分でした。イエスはこの方法により,一つの聖書預言を成就されました。そのことは,使徒のマタイ・レビが書いたイエス・キリストの生涯に関する記録を見ると,はっきり分かります。この伝記作者は次のように伝えています。
2 「イエスはこれらすべてを例えで群衆に話された。実際,例えを用いないでは話そうとされなかった。それは預言者を通し,『わたしは例えをもって口を開き,[世の]墓が置かれて以来隠されている事がらを公にする』と言われたことが成就するためであった」― マタイ 13:34,35。詩 78:2。
3 神の王国に関する例えは何と呼べるでしょうか。イエスはどんな前置きをしてそれらを語られましたか。
3 特に神のメシアの王国と関係のある例えまたはたとえ話は,王国の例えまたはたとえ話と呼ぶことができるでしょう。これらは時々,「天の王国は……に似ています」とか,「わたしたちは神の王国を何にたとえたらよいでしょうか」,また「神の王国を何になぞらえましょうか」といった前置きで始まっています。―マタイ 13:47。マルコ 4:30。ルカ 13:20。
4,5 (イ)イエスは例えを幾つ語られましたか。そしてマタイ 13章で,どんな一連の例えを話されましたか。(ロ)ルカ 13章17-21節によると,イエスはどんな状況のもとでからしの種粒とパン種の例えを語られましたか。
4 イエスは30の例えもしくはたとえ話を語られたと言われています。マタイによる福音書の13章によると,イエスはある時,互いに密接な関係のある王国の例えを七つ連続的に話されました。最初は種をまく人の例え,次は小麦と雑草,からしの種粒,ひとかまど分のこね粉の中に隠されたパン種,畑に隠された宝,価の高い真珠,そして引き網の例えでした。(マタイ 13:1-50)福音書記述者ルカは,からし種とパン種のたとえ話を異なる方法で紹介し,次のように述べています。
5 「さて,イエスがこれらのことを言われると,その反対者たちはみな恥ずかしく思うようになった。しかし,群衆はみな,彼の行なった栄光ある事がらすべてについて喜ぶようになった。それでイエスはさらにこう言われた。『神の王国は何に似ているでしょうか。それを何になぞらえましょうか。それは,人が取って庭にまいたからしの種粒に似ています。それは成長して木となり,天の鳥たちはその枝を宿り場としたのです』。それから再びこう言われた。『神の王国を何になぞらえましょうか。それはパン種に似ています。女がそれを取って大升三ばいの粉の中に隠すと,やがてかたまり全体が発酵したのです』」― ルカ 13:17-21。
6 人々がイエスの行なわれたことを喜んだあとイエスはたとえ話をされたので,イエスがそのたとえ話によって示そうとされたことにつき,人はどのように考えるかもしれませんか。
6 「群衆はみな,彼の行なった栄光ある事がらすべてについて喜ぶようになった」ので,人はイエスが,その前にルカ 12章32節で示唆されていることとは違い,天の王国が「小さな群れ」だけによって構成されるのでないことを示す二つの預言的例えを話して,全「群衆」の喜びに反応された,と考えがちでしょう。王国は非常に大きく成長し,人類の世界全体が鳥のように,王国によって備えられた避難所に宿るであろうというわけです。また人類の大部分が真のキリスト教の教えを心に植え付けられるようになる,というわけです。例えば,1884年に出版された,神学博士H・A・W・ミーヤー著「マタイの福音書に対する批評と解釈のハンドブック」の英語版,259ページ,3節には次のように述べられています。
からし種のたとえ話は,次のことを示すために語られたものである。つまりメシアの王国に関与することになっている人々で成る大共同体,すなわち未来の王国の組織された国民の総体を成す神の真の民は,小さな始まりから大群衆へ成長する定めになっている,したがって大きなものになる,ということである。……『それは小さな群れではあったが,増加して数え切れないものになった』。一方,パン種のたとえ話は,メシアの王国(エフェソス 4章4節以下)の特定の影響力がその未来の臣民全体に徐々に浸透し,この方法によってついに集団全体が,王国に受け入れられる資格となるあの霊的状態に徹底的に入れられることを示すためのものである
7,8 そのあとにルカはどんな大切な質問を記録していますか。またイエスのどんな王国のたとえ話を記録していますか。
7 しかしここには,重要なこととして考慮するに価する事実が一つあります。それはつまり,福音書記述者ルカが,イエスのその二つのたとえ話を記録し,イエスがその後一つの場所から他の場所へと教えて歩かれたことを述べたのち,ある人が尋ねた,「主よ,救われてゆく者は少ないのですか」という質問を挿入しているということです。イエスの答えはその問いを肯定するもののように思えましたか。それは「小さな群れ」の王国を示すものでしたか。―ルカ 13:22,23。
8 次のことばに耳を傾けてください。「イエスは彼らにこう言われた。『狭い戸口を通ってはいるため,精力的に努力しなさい。あなたがたに言いますが,はいろうと努めながらはいれない者が多いからです。ひとたび家あるじが起き上がって戸に錠をおろしてしまうと,あなたがたは外に立って戸をたたき始め,「だんな様,開けてください」と言います。しかし,彼は答えてあなたがたに言うでしょう,「わたしはあなたがたがどこの者か知らない」。そのときあなたがたは言い始めます,「わたしたちはあなたの前で食べたり飲んだりしましたし,あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました」。しかし彼はあなたがたに語ってこう言うでしょう。「わたしはあなたがたがどこの者か知らない。わたしから離れ去れ,不義を働く者たちすべてよ!」。アブラハム,イサク,ヤコブ,およびすべての預言者が神の王国にいるのに自分が外に投げ出されているのを見るとき,そこであなたがたは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう』」。(ルカ 13:23-28)ですから,実際に「狭い門」を通って入る人たちはみな,「精力的に努力」しなければならないでしょう。―ルカ 13:5-9も参照してください。
9 「ものみの塔」誌,1881年4月号に寄稿したJ・H・ペイトンは,パン種のたとえ話をどのように説明しましたか。
9 1881年4月付の「シオンのものみの塔」誌(英文)の5ページには,パン種の例えに関してJ・H・ペイトンが寄稿していますが,彼はその論議の中で次のように述べています。
進歩し,また輝かしい成功を収めているこの業は,救世主が語られたたとえ話によって説明されているようである。そのたとえ話の中で彼は天の王国をパン種に例えた。女はそれを取って升に三ばいの粉の中に隠し,やがて粉全体が発酵した。マタイ 13:33。たとえ話のこの適用に対するいかにももっともらしくて強力な反対は,パンと教理のパン種が聖書の中で清くない分子や腐敗分子として語られているという事実に基づいている。救世主が,物を腐敗させる成分や過程によって天の王国を表わすようなことをされるだろうか。われわれは救世主がここで,パン種の特徴の一つだけを,すなわち浸透力だけを用いておられると解釈する。その力は事が終わるまで作用し続ける。同様に神の王国も,のろいが除去されるまでその働きをやめることはない。
10 「ものみの塔」誌,1900年5月15日号は,パン種のたとえ話についてどのように述べましたか。
10 しかしながら,1900年5月15日付の「シオンのものみの塔」誌(英文)は,154ページで,この見解に対し異議を唱え,「パン種のたとえ話」という小見出しのところで次のように述べています。「パン種は聖書全巻を通して腐敗を象徴している。聖書がこの語を他で用いている場合に,この語は例外なく,悪いこと,清くないこと,汚すものとして表わされている。……主がここでこのパン種という語を,クリスチャンたちが一般に考えているように聖霊の働きといったような良い意味で用いておられるというのは妥当とは思われない。逆にわれわれは,主の教えがすべて一貫していることに気づく。主はらい病を神聖さの象徴として用いるようなことをされなかったから,同じくパン種をも義の象徴としては用いられなかったと確信してよいと思う」。
11 「ものみの塔」誌,1910年6月15日号は,パン種についてどのように説明しましたか。
11 1910年6月15日付の「ものみの塔」(英文)も205ページで,同じ考え方で論じ,「粉の中に隠されたパン種」という小見出しを掲げて次のように述べています。「『パン種』(33節)のたとえ話は,教会が預言されている通りに間違った状態になっていく過程を示している。女がパンを焼くためにひとかまど分の粉を取り,その中にパン種(イースト)を入れるとその塊が発酵するように,キリストの教会もそのようになった。家内中の者の食物が発酵もしくは腐敗した。塊全体に浸透する偽教理のパン種で,あらゆる部分が多かれ少なかれ損なわれた。したがって今日では,イエスとその使徒たちの説いた教理のほとんど全部が,暗黒時代の過誤により多かれ少なかれ曲げられ曲解されている」。―1912年6月15日号(英文)の「ものみの塔」,198,199ページの,「パン種のたとえ話」という見出しの記事をご覧ください。
パン種とぶどう酒
12 前述の「ものみの塔」寄稿家はそれに異議を唱えて,どんなことを主張したと考えられますか。そしてぶどう酒と皮袋についてのイエスのどんな例えを持ち出したと考えられますか。
12 ところでもしJ・H・ペイトンが,「ものみの塔」編集者C・T・ラッセルのように当時生きていたなら,1900年,1910年,1912年の「ものみの塔」誌に載せられた記事に異議を唱えたことでしょう。「ものみの塔」は「[イエスの]たとえ話のパン種の特徴の一つだけ,すなわち浸透力だけを主張する態度を維持すべきである」と言い張ったかもしれません。浸透力は,引き起こされる発酵作用の中にあるのだから,発酵作用は発酵作用で客観的に見るべきものである,と主張したかもしれません。そしてマタイ 9章17節の,「また人は,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしません。でももしそうすれば,皮袋は張り裂け,ぶどう酒はこぼれ出,皮袋はだめになります。やはり人は新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れます。そうすれば,両方が保たれるのです」というイエスのことばを引き合いに出したかもしれません。―マルコ 2:22; ルカ 5:37,38もご覧ください。
13 (イ)ではぶどう酒の発酵はどんな意味で象徴として用いられていますか。(ロ)その点を考えると,パン種によって起こる発酵の象徴的な意味についてどんな質問が生じますか。
13 新しいぶどう酒は依然発酵していてガスのあわが生じ,古い,弾力性のうせた皮袋は張り裂けます。ぶどう酒の発酵作用は良い目的に向かって働きます。それでここでは発酵作用は良い方に用いられており,良い事柄を象徴しています。しかしこれは,パン種による発酵作用が,大升三ばいの粉の中にパン種を隠して塊全体を発酵させた女のたとえ話の中で,ある良いことの象徴として用いられていることを示すものですか。そして聖書はパン種を悪いこと,邪悪なことの象徴として用いてはいますが,それにも一,二の例外があるということですか。聖書はパン種を象徴として二通りに,つまり良いこと正しいことの象徴,悪いこと邪悪なことの象徴として用いていますか。
14 聖書が,ぶどう酒の発酵を,ひとかまど分の粉に加えられるパン種によって起こる発酵と同様に扱っていないことは,どんな事実から分かりますか。
14 次のことを考えるとき,聖書はこね粉のパン種をそのように二通りに用いている,と論ずるのをどうして正しいと言えるでしょうか。過ぎ越しの祭りおよびそれにつづく七日間の祝いの時に,ぶどう酒を飲むことは許されていましたが,パン種を用いることは一切禁止され,その禁を犯すものは死刑に処せられたのです。(レビ 23:5-13。ルカ 22:7-20)それで聖書はすべての発酵作用とその浸透力を同様に扱っていますか。聖書は,発酵を起こさせるものを無視して,発酵によって生ずる浸透力だけを考慮すべき要素として扱っていますか。聖書の答えは否です。もしそのように扱っているのであれば,わたしたちは,過ぎ越しの祭りや過ぎ越しにつづく一週間の種入れぬパンの祭りに,明らかな矛盾を見いだすことはないでしょう。
15 発酵においては何が決定的要素ですか。それでパン種のたとえ話は肯定的な面を示すものですか,それともその面を示さないものですか。
15 したがって,浸透力を持つ発酵作用自体は決定的要素でないために,その象徴的な意味に関しては,良い地位,または悪い地位のどちらかを占めていることが明らかです。むしろ,発酵作用を促すために加えられる物こそ決定的な要素です。聖書では,発酵作用は(一つの要素として),その原因となるものから切り離されてはいません。したがって,ぶどう酒を作る際の自然発酵は,添加物イースト,すなわちパン種もしくは発酵させた生パンが生地の中で促す発酵作用と同種のものとはみなされていません。a ですから,パンを作るときに加えるパン種(発酵させた生パン)は良い正しい事柄の象徴であるということを示すために新しい皮袋に入れられた発酵中の新しいぶどう酒を引き合いに出す人は,要点を捕えそこねているわけです。その人の主張は聖書に基づいていません。そういうわけで,J・H・ペイトンが「シオンのものみの塔」,1881年4月号の中で用いている論法は無効です。霊感によって書かれた聖書によれば,象徴としてのパン種(発酵させた生パン)の場合は,確かに区別を設けざるを得ません。したがって,パン種のたとえ話は,肯定的な面に関するものではなく,反対に否定的な面に関するものです。しかしこのパン種の問題については,また後ほど説明することにしましょう。
「天の王国は」様々なものに「似ています」
16,17 からしの種粒とパン種のたとえ話の紹介の仕方ゆえに,なかには前述の説明にどんな反対をする人がいるかもしれませんか。しかし,どんな作業に使われている引き網のたとえ話には,どんな前置きがありますか。
16 「ものみの塔」誌の1900年,1910年,1912年の号(英文)に載せられている以前の説明は,イエスのひゆ的な例えがその成就の最高潮に達しつつある今日,効力を有しているでしょうか。確かに有しています。聖書研究者のなかには,それに異議を唱える向きもあるかもしれません。なぜなら,パン種のようであるとか,からしの種粒に似ていると言われているのは「天の王国」である,と彼らは言うからです。(マタイ 13:31-33)そうです,しかしマタイ 13章の一連の例えの七番目で最後のたとえ話の中で,イエスが次のように言われたのも事実です。
17 「また,天の王国は,海に下ろされてあらゆる種類の魚を寄せ集める引き網に似ています。それがいっぱいになったとき,人びとは浜辺にたぐり上げ,それから,腰をおろしてよいものを器に集め,ふさわしくないものは投げ捨てました。事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って義人の中から邪悪な者をより分け,彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」― マタイ 13:47-50。
18 (イ)したがって,引き網および賢い処女と愚かな処女の例えについてどんな疑問が生じますか。(ロ)イエスは明らかにどんな意味で,「天の王国は」何々「に似ています」と言われましたか。
18 さて,わたしたちは,「天の王国」すなわちメシアの「神の王国」を構成する人々が,子羊イエス・キリストとその追随者である14万4,000人の霊的イスラエルであることを知っています。(啓示 7:4-8; 14:1-5)従ってわたしたちはここで,次の問いを発せざるを得ません。つまりイエスは果たして,14万4,001人のこの王国級が,「義」人と「邪悪な者」とをそれ自身のうちに包含する引き網のようなもので,しかもイエス・キリストより劣るみ使いたちによって操作されるものである,という意味で言われたのだろうか,ということです。わたしたちはまたイエスが別の例えを紹介し,次のように語られたのをおぼえています。「その時,天の王国は,自分のともしびを手に取って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。そのうち五人は愚かで,五人は思慮深い者でした」。(マタイ 25:1,2)14万4,001人の王国級は,愚かな者半分と思慮深い者半分に分けられていると解釈すべきですか。それはあり得ないことです。ですからイエスが,天の王国に関連してこれこれの特色がある,あるいは,王国に関連した事柄はこれこれのものに似ている,という意味で,「天の王国は」何々に「似ています」という表現を使われたことは明らかです。
19,20 (イ)正しい結論に達するには,一連のたとえ話が語られた目的についてどんなことを知らねばなりませんか。(ロ)イエスご自身のことばによると,イエスはなぜ人々にたとえ話で語られましたか。
19 その表現の意味をこのように理解すれば,イエスが「天の王国」もしくはメシアの「神の王国」に関して,良い発展のみならず悪い進展をも例えで示されたことを認めることができます。正しい理解に達するには,そのたとえ話や一連のたとえ話が語られた目的を考慮しなければなりません。イエスご自身,その目的をわたしたちに知らせておられます。イエスが,種まき人の種の落ちた四種類の土のたとえ話または例えを公に語られたあと,イエスの弟子たちは,「例えを使って彼らにお話しになるのはどうしてですか」とイエスに尋ねました。そこで,イエスの次の答えに注意を向けてみましょう。
20 「あなたがた[弟子たち]は,天の王国についての神聖な奥義を理解することを聞き入れられていますが,あの人びとは聞き入れられていません。だれでも持っている人,その人はさらに与えられて満ちあふれるほどにされるのです。しかし,だれでも持っていない人,その人は持っているものさえ取り去られるのです。わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。[イザヤ書 6:9,10を引用すると]彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなたがたは聞くには聞くが,決してその意味を悟らず,見るには見るが,決して見えないであろう。この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,わたしが彼らをいやす,ということが決してないためである』」― マタイ 13:10-15。
21 (イ)イエスがたとえ話を用いられたことにより,イザヤ書 6章9,10節はイスラエルの場合にどのように成就しましたか。(ロ)四種類の土のたとえ話は同じ事実をどのように示していますか。
21 これが,イスラエルの人々にたとえ話で話されたイエスの明確な目的でした。つまり詩篇 78篇2節を成就することでした。またイエスはたとえ話によって,イザヤ書 6章9,10節の預言が成就すること,つまり比較的に少数の者,残りの者が彼の真実の音信を受け入れて「天の王国」にふさわしい真のクリスチャンとなることを示されました。例えば,種をまく人の例えではイエスは四種類の土について語られましたが,そのうちの三種類は生産性のないことが分かりました。良い種類の土だけが,王国の音信を宣べ伝えることにおいて,30倍,60倍,100倍と,豊かに実を生み出しました。(マタイ 13:3-8)ですから,一連のたとえ話の最初のたとえ話では,「天の王国」に関連した否定的な面が支配的です。
22 イエスの小麦と雑草のたとえ話では,イザヤ書 6章9,10節は,どの級に対して成就しましたか。
22 次に語られた小麦と雑草のたとえ話では,敵が小麦畑に雑草をまきました。そのため,刈り入れの時に畑はたくさんの雑草で醜いものになっていました。イエスの説明によると,「りっぱな種」は油そそがれた真のクリスチャン,すなわち「王国の子たち」です。雑草はその逆で偽のクリスチャンです。事実,彼らはそれをまいた悪魔すなわち「邪悪な者の子たち」です。収穫は「事物の体制の終結」で,わたしたちは今その時期にいます。西暦1919年の春以来続いている霊的収穫のわざを振り返って調べてみると,どんなことが分かりますか。み使いの導きのもとに収穫された「王国の子たち」は残りの者に過ぎず,今日では,主の夕食の祝いの時表象物のパンとぶどう酒にあずかる人の数は約一万人です。報告の示すところによると,1948年にはそのような人が2万5,395人いましたが,同年以来その数は減少してきています。一方,イザヤ書 6章9,10節が成就している偽の「王国の子たち」は,キリスト教世界の教会員約10億となっています。―マタイ 13:24-30,36-43。
23 隠された宝のたとえ話では,何人が積極的に行動しますか。
23 畑の中に隠された宝のたとえ話では,その宝を発見し,『自分の持つものすべてを売ってその畑を買う』のはただ一人です。他の者はみな,その目があたかも『のりで張り合わされて』でもいるかのように,その畑の中に隠されている価値を見なかったので,異なる方向にその価値感を働かせました。―マタイ 13:44。
24 価の高い真珠のたとえ話では,何人の旅商人が進んでそれを買おうとしましたか。
24 「価の高い真珠一つ」の例えでも,めったには見つけられないその真珠をどうしても手に入れたいと思ったのは,ただ一人の「旅商人」でした。『去って行って自分の持つものすべてを即座に売り,それからその畑を買った』のは彼だけでした。他の旅商人たちはみな,彼らが価値があると考えた何かほかのものを,おそらく買い入れ代価を用意するのに持ち物全部を手放さなくてもよいような何かを探していました。―マタイ 13:45,46。
25,26 (イ)どんな時に,引き網と小麦畑のたとえ話はその成就の最高潮に達しますか。(ロ)預言は「義人」に対し,また偽クリスチャンに対し,どのように成就していますか。
25 引き網の例えでは,「み使い」を表わす漁師たちの扱うこの大量漁具は,律法を守るユダヤ人が食べてもよい魚や,モーセの律法が禁じている魚など,「あらゆる種類の魚」を寄せ集めます。そしてよいものだけが器に集められ,あとのものは忌まわしいものとして投げ捨てられました。―マタイ 13:47-50。
26 小麦畑の例えがその成就の最高潮に達するのは,西暦1914年以来,「事物の体制の終結」を迎えているここ地上においてです。では,神の聖なるみ使いたちの見えない導きのもとで,「義人の中から邪悪な者をより分ける」働きが進行するにつれ,わたしたちは「天の王国」に関連してその問題のどんな事実を目にしていますか。天の王国に召されている「義人」は圧倒的に多数ですか。その逆で,彼らはわずかの霊的「残りの者」です。しかし,死んで天に行くことを期待しているキリスト教世界の教会員は幾億と推定されています。イザヤ書 6章9,10節は,それら偽クリスチャンに対して成就しています。彼らは間近に迫っている「大患難」の「火」の中に投げ込まれるでしょう。(マタイ 13:47-50)ですから,偽りの「天の王国」であるキリスト教世界は,だれにとっても今避難所を求めるべきところではありません。
[脚注]
a 「良質のぶどう酒を造るには,アルコール発酵の過程を注意深くコントロールすることが要求される。……ぶどうの果皮は通常,バクテリア,かび,そして酵母で覆われている。ピキア,クロエケラ,トルロプシスなどの野生酵母は往々にしてぶどう酒酵母サッカロミケスよりも多い。効率のよいアルコール発酵には,サッカロミケスの種類のほうが望ましいと一般に考えられているが,他の酵母属は,特に発酵の初期の段階で,風味を添えるのに貢献するようである。サッカロミケスのほうが好まれているのは,糖分をアルコールに変えるのが早く,またアルコールの抑制的影響力に対してそれほど敏感でないからである」― 大英百科事典,1974年版,第19巻,879ページ,「発酵」の項。
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偽りの王国の避難所を暴露するものみの塔 1976 | 1月15日
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偽りの王国の避難所を暴露する
1 イエスがからしの種粒の例えを語られた目的はどこにありましたか。それはどんな預言と調和していましたか。
さて,イエスが語られたからしの種粒のたとえ話,つまり萌芽期には非常に小さくてもやがて成長して木になる種粒のたとえ話の意図はどこにあるでしょうか。それは,イエスが言及されたイザヤ書 6章9,10節に描かれている否定的状況と一致している何かを示すことにあるに違いありません。(マタイ 13:13-15)七つ続いているたとえ話のこの三番目のたとえ話を語る際に,イエスはこう言われました。「天の王国はからしの種粒に似ています。人がそれを取って自分の畑に植えました。実にそれはすべての種の中でいちばん小さいものですが,成長したときには野菜のうちでいちばん大きくて木のようになり,天の鳥たちが来て,その枝の間に宿り場を見つけるのです」― マタイ 13:31,32。
2 からしの種粒の木を名目だけの教会になぞらえ,「シオンのものみの塔」誌,1900年5月15日号は,天の鳥が木の枝の間に宿ることをどのように説明しましたか。
2 「シオンのものみの塔」誌,1900年5月15日号,153ページには,次のように述べられています。「現在,成長の初期の状態にある,王国の三番目の例えの情景は,この福音時代の教会が非常に小さな初まりから相当大きなものになる,ということを示すためのものである。……ただしこの大きな成長は,必ずしも有利な地歩もしくは特別に望ましいものを意味するのではなく,逆に,空の鳥が来てその枝に住み,木を汚すという点で不利になる。これより前に出てくる種をまく人のたとえ話の中では,『空の鳥』はサタンおよびサタンの手先を表わしている。ゆえにわれわれは,ここで類以の適用を行ない,これを次のように解釈するのは正しいと思う。つまり,主イエスの植えた教会は急速に,かつ並々ならぬ繁栄を見せたこと,また教会が獲得したもの,教会の力その他のゆえに,サタンがその手先を通してやってきて,教会の多くの枝に宿った,ということである。彼らはこの福音教会の枝々に幾世紀もの間宿っており,現在もその中に見られる。それは汚すことを行なう分子である」。
3 「ものみの塔」誌の1910年6月15日号は,完全に成長したその「木」と鳥たちは何を表わすと述べていますか。
3 「ものみの塔」誌の1910年6月15日号も204ページで,いま引用した記事と同じ見解を示しながら,次のように述べています。「したがってこのたとえ話の教えはわれわれを次のような結論に導く。すなわちキリスト教会は一時期,それに所属することが恥ずべきこと,不名誉なことであったほどに,この世で微々たる存在であったが,ついに誉れあるもの,大いなるものとなり,仇のしもべどもがその陰で快楽を得た,ということである。こうして発達したものを聖書はバビロンとして表わし,種々の分派教派を持つ名目だけのキリスト教会全体がバビロン的であることを明らかにしている。主のみことばを傾聴せよ。『大いなるバビロンは……悪魔の住家,もろもろのけがれたる霊の檻,もろもろのけがれたる鳥の檻となれり』」。―「ものみの塔」誌,1912年6月15日号(英文),198ページ,「からし種のように」という見出しの記事もご覧ください。
4 (イ)「ものみの塔」誌のその二つの記事は,その象徴的な「木」は,何であるとは述べていませんか。(ロ)時と場所について言えば,からしの種粒のたとえ話はどんな状態や情景を表わすものではありませんか。
4 さてわたしたちは今1976年に住んでいます。そこで大きな疑問は,例の成長したからし種の木は何を表わしているか,ということです。先ほど引用した二号の「ものみの塔」誌は,大いなるバビロンである,と言います。この野菜の木は,天的権力を得て即位した14万4,001人の王国級を表わすとは言っていません。しかし,今日住んでいるわたしたちは,なんと言わねばなりませんか。わたしたちはまず,次のことを念頭に置いていなければなりません。つまり,からしの種粒のこの例えは,千年期の状態を表わすものでも,王国級の全員が天的栄光のうちに統治し,全人類がこのメシアの王国の支配下に避難することを示すためのものでもない,ということです。それは,「天の王国」の相続者に関する天の情景を表わしているのではなく,ある特定の期間におけるある物事の地上での状態を表わしています。
5 そのたとえ話が成就の最高潮に達する特別の期間とは何ですか。またそれはどこで成就しますか。
5 その特別の期間というのは,イエスが小麦と雑草および引き網の例えで示された期間のことです。雑草をまかれた小麦畑のたとえ話の中でイエスは,「収穫は事物の体制の終結であり,刈り手はみ使いたちです」と言われました。引き網のたとえ話ではイエスはこう言われました。「事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って義人の中から邪悪な者をより分け,彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」。(マタイ 13:39,49,50)その「収穫」は,より分ける必要のある「雑草」のあるこの地上で行なわれます。同様に,ふさわしい「魚」をふさわしくない魚から分けることも,魚を取る「海」のあるこの地上で行なわれます。その象徴的な「雑草」およびふさわしくない「魚」とは,自称クリスチャンのことです。彼らは受け入れない心,遠い耳を持ち,目を堅く閉じているので,そのような自称クリスチャンを霊的にいやすことは不可能です。―イザヤ 6:9,10。マタイ 13:14。使徒 28:25-28と比較してください。「ものみの塔」1967年2月15日号の「家々に住む人がなくなるまで癒されない」という記事を参照してください。
6 今日のこの野菜の「木」は何であると主張しますか。したがってその象徴的な「木」はなぜ大いなるバビロンではあり得ませんか。
6 わたしたちの時代の「事物の体制の終結」までには,その象徴的なからし種の木は完全に成長しているはずです。その成長した状態は収穫の時が来たことを示します。霊的「小麦」すなわち「王国の子たち」の収穫は西暦1919年以来進行していますから,わたしたちは象徴的なからし種の木が現在地上で成長しきっているのをはっきり見ることができます。この野菜の木は,イエスが「天の王国は」それに「似ています」と言われたので,「天の王国」を代表すると主張します。ですから,からしの種粒から成長した木は大いなるバビロンを表わすはずがありません。なぜなら,同組織は,古代バビロンとともに始まった,偽りの宗教の世界帝国であるからです。大いなるバビロンはその全体が,「天の王国」すなわちメシアの「神の王国」である,またはそれを代表する,と主張するわけではありません。しかし,大いなるバビロンの,最も数が多くて顕著な部分は確かに,神の天的メシア王国を代表すると主張します。大いなるバビロンのその最も強力な部分は,千を超える分派教派を持つキリスト教世界です。
7 歴史の上でのキリスト教世界の非常な成長は何に起因しますか。キリスト教世界は実際にはいつどのように発足しましたか。
7 キリスト教世界は,西暦一世紀中に,エルサレムにあった最初の小さなクリスチャン会衆から生まれたと主張します。今日,キリスト教世界の会衆の数は何百万という数にのぼります。キリスト教世界は非常な成長を遂げました。しかし今日のその恥ずべき俗っぽさと霊性の欠如は,その非常な成長が,キリスト教世界の霊的美徳に起因するものでもなければ,聖書の真理の前進的光を有していたからでもないことをはっきり示しています。宗教の歴史が示すところによると,キリスト教世界は実際には西暦四世紀に,異教徒のローマ皇帝コンスタンチヌス大帝によって創始されました。彼は西暦312年にキリスト教に改宗したと主張しましたが,西暦337年5月22日に死亡する直前まで,バプテスマを受けずにいました。彼は当時の堕落したキリスト教をローマ帝国の国教会となし,そうするために300人余の背教し妥協した「司教たち」を用いました。ローマ帝国の教皇として彼は,小アジアで第一ニケア公会議を招集して教理を裁定し,同会議はそれを教会の教理として公布しました。
8 今日キリスト教世界にはどんな教理や慣行が浸透していますか。それはどのたとえ話の成就ですか。
8 今日,キリスト教世界の諸教会の固まり全体には何が浸透していますか。聖書の真の教え,組織法,やり方,行事などですか。そうではありません。それは教皇コンスタンチヌスが発足させた融合宗教です。同宗教の基礎をなすものは,神の霊感による聖なることばではなく,バビロン的教理と物事の仕方です。エホバ神の個性と属性をめぐる論争を,三位一体というバビロン的教理に有利な裁定を下して落着させたのは,ニケア公会議の議長としてのコンスタンチヌスでした。イエス・キリストは,キリスト教の教理と実践の腐敗のこの過程を,パン種のたとえ話を語ることによって予告され,こう言われました。「天の王国はパン種に似ています。女がそれを取って大升三ばいの粉の中に隠したところ,やがてかたまり全体が発酵しました」― マタイ 13:33。
9 宗教を腐敗させるこの影響力はキリスト教世界でどれほど長く働いてきましたか。それは悪魔の手先にどんな機会を与えましたか。
9 キリスト教世界の固まり全体は,いままでに16世紀の発酵期間を有しました。キリスト教世界が今日,バビロン的な教理や俗っぽさ,ニムロデのようにエホバ神の宇宙主権をあなどること,などによって完全に発酵していることを,だれが否定できますか。キリスト教世界の非常な数の偽りの「王国の子たち」のこの堕落により,その偽りの地上の「神の王国」は,「天の鳥たち」が完全に成長したからし種の木の枝に宿るのと同じように,悪魔サタンの手先たちが身を隠すのに格好の場所となりました。―マタイ 13:31,32。
10,11 (イ)からしの種粒のたとえ話の中で,人類の益とならない事柄が表わされていると言えるのはなぜですか。(ロ)それでからし種の「木」は今日どんな「王国」を表わしていますか。
10 キリスト教世界の多数の分派の中にそれら象徴的な「天の鳥」すべてが宿ったことは,キリスト教世界の霊的益にはなりませんでした。それはちょうど農夫が彼の庭または畑にまいたからしの種粒から成長した木のようです。その枝に宿った天の鳥たちは,種まき人の手から道端に落ちた種を食べてしまった,イエスの四種類の土のたとえ話に出てくる鳥たちと同じように,からし種を食べることができました。(マタイ 13:4)イエスが語られた限りでは,そのたとえ話の木は,人間の益には少しもなりませんでした。例えば,木が完全に成長した時,それを植えた者が来て鳥たちを追い払い,食物の味付けによいソースを作るためのからし種をたくさん集めたとは,そのたとえ話は述べていません。しかしその農夫が,「天の鳥たち」に宿り場を与えるため庭にからしの種粒をまいたのでないことは確かです。
11 すべての事柄を総合して考えてみると,今日の象徴的なからし種の「木」はまがいの「天の王国」,すなわち僧職者が平信徒を支配するキリスト教世界であることが明らかです。完全に成長したその「木」は,今日地上にいる,証印を押された霊的イスラエルの残りの者を,矛盾をきたさずに表わすことはできません。というのは,その人々はごく少数であって,数の上で成長しきった王国相続者14万4,000人全員ではないからです。それどころか,霊的残りの者の数は,27年以上減少を続けてきました。1975年の記念式には彼らの数は1万454人に減っていました。
わたしたちが予想するものとは異なるからしの木
12 種はその類を生み出さねばならないという聖書の法則に基づいて,からし種の「木」はキリスト教世界を表わすという説明に対し,必然的にどんな異議を唱える人が出てくる可能性がありますか。
12 もっとも,ある人は以上の説明に対して次のように異議を唱えるかもしれません。イエスのたとえ話では,からしの種粒をまいた人は,良い目的でそれをまいた。その種粒が,『その類に従い』からしの木に成長することを彼は期待した。(創世 1:11,12)彼は自分のまいたものが何か違うものになることを予期してはいなかった。まがいのからしの木が生えることなど考えてもみなかった。だから,まいた者がそのようなまがいものを得た,とどうして言えるだろうか。したがって,上記のように,からしの種粒から成長した「木」が,「天の王国」のまがいものであるキリスト教世界を表わす,などとどうして言えるだろうか。a そう言うことは,種はそれ自身の種類を産出しなければならないという神の律法に反してはいないか。神のこの律法は,霊的に適用するとき,「天の王国」とは反対のものであるキリスト教世界という考えを排除するのではないか。
13,14 (イ)もしイエス・キリストが存在しなかったなら,なぜキリスト教世界も存在しなかったでしょうか。(ロ)どんな標準に従って神はキリスト教世界にご自分に対する責任を問われますか。また彼女は何に似たものですか。
13 この点から言えば,事の始まりはイエス・キリストでした。もしイエスという人物が存在しなかったなら,キリスト教世界も存在しなかったことでしょう。簡単な陳述ですが,それでも真実です。西暦四世紀に,キリスト教世界は,まがいものであることが目立たないように,偽りのキリスト,偽りのメシアではなくて本物のキリストに自らを結びつけました。また自らをキリスト教世界と呼んで,キリストの公式の称号を取ることさえしました。イエス・キリストと関係のある種々の事柄を,自らの用に供します。水のバプテスマを施すこともします。一部の教会は今日でも完全に水に浸すことを行なっています。キリスト教世界はまた,パンおよびぶどうの木の産物をもって主の晩餐を祝います。キリスト教世界には長老,司教,執事などがいます。(フィリピ 1:1,欽定訳)また,聖書全部について言えば,西暦1950年に「新世界訳聖書」の出版が始まるまでエホバのクリスチャン証人が用いてきた聖書は,キリスト教世界の教会が運営する聖書協会から出されたものでした。
14 キリストの真の教会である,と現在まで主張してきたキリスト教世界の構造にイエス・キリストが巻き込まれていることは明白です。それにエホバ神もキリスト教世界のことば通りに,彼女自身の主張通りに受け取られます。そういう理由から,エホバはその主張にふさわしく生きることを彼女に求め,ご自身の要求を実践しない責任を問われます。このためにエホバは彼女に当然の罰を加えます。この「事物の体制の終結」において,エホバは彼女をその宗教告白に不忠実な者として裁かれます。彼女は,不忠実であった古代イスラエルの現代版です。
15,16 イエスの小麦と雑草のたとえ話は,イエスが現在までキリスト教世界の成長に巻き込まれていることを示していますか。
15 イエス・キリストがキリスト教世界の成長に巻き込まれていることに対しては,聖書に基づく証拠に加えて,小麦と雑草(毒麦)の例えがあります。事実,「人の子」イエス・キリストは,自分の畑にそれらの雑草をまくようなことはしませんでした。彼の敵悪魔サタンがそれをまきました。たとえ話では,小麦をまいた人の奴隷たちが小麦畑に雑草のあるのをすぐに見つけて,その雑草の芽を抜き取りたいと思いました。しかし小麦をまいた人,つまり小麦畑の所有者は,彼らがそうするのを許しませんでした。彼は忍耐と寛容をもって,雑草と小麦を両方とも,ペンテコステごろになる収穫の時まで,一緒に成長させておくよう奴隷たちに命じました。その時には彼は,今や完全に成長した雑草を小麦から分けます。
16 イエスのたとえ話のこの特色の成就において,イエスは,キリスト教世界が姿を現わすがはやいかそれを滅ぼすというようなことをせずに,同世界が拡大することを許されました。その意味ではイエスは,キリスト教世界が現在の大きさ,つまり同世界史上最大の規模にまで成長することにかかわりを持っておられます。この記事を書いている今に至るまで,イエス・キリストはキリスト教世界を滅ぼしておられません。彼女は依然,イエスの許しにより,小麦をまいた人の畑,『彼の畑』,彼の「耕されている」宗教の「畑」の中に場所を占めています。―マタイ 13:24-27。コリント第一 3:9と比べてください。
17 象徴的な「引き網」はだれが扱ってきましたか。1891年と1912年に,この「引き網」は何を表わすと言われていましたか。
17 イエスとキリスト教世界の関係をさらに示しているのは,引き網のたとえ話です。(マタイ 13:47-50)引き網を操作する漁師たちは,栄光を受けられたイエス・キリストの指揮下にある天のみ使いたちです。しかし引き網そのものは何を表わしていますか。たとえ話では,『天の王国は引き網に似ています』となっているので,引き網は「天の王国」級の成員14万4,001人を表わしていますか。そうではありません。たとえ話の特色すべてを総合して考えてみるなら,引き網がそれを表わしているとは言えません。1891年に発行された「あなたの王国が来ますように」という本(英文)の214ページには,引き網は「名目だけのキリスト教会」を表わしていると書かれています。1912年6月15日付の「ものみの塔」誌は201ページで,「魚を取る網のたとえ話」という見出しでそれのことを,「あらゆる型のキリスト教をすべて寄せ集めた福音の網」と述べています。
18 1967年11月15日の日付の「ものみの塔」誌は,引き網が何を表わすと述べていますか。
18 さらに最近では,「ものみの塔」誌の1968年3月15日号に,「網をおろしてすなどれ」と題する研究記事が載りました。169ページの6節には次のように書かれています。『網は仲立ちイエス・キリストを介して,神との新しい契約下にある神の会衆を自任する地上の組織を表わしています。したがって,それは,霊的イスラエル,天の王国でイエス・キリストとともに治めるため神の霊で油そそがれた聖なる国民であると唱えます。その中には自らの主張にふさわしい者と,偽りの,あるいは不忠実な者とが含まれます。したがってこの網には,当然,キリスト教を名のる数百の宗派と,幾十万人の自称クリスチャンをもつキリスト教国が含まれます』。
19,20 (イ)象徴的なからしの種粒と接するイエスの経験は,エレミヤ記 2章21-23節に述べられているような,エホバのどんな経験と似ていましたか。(ロ)ホセア書 10章1-4節で,エホバはイスラエルの堕落をどのように象徴的『ぶどうの木』として表わされましたか。
19 このようにイエス・キリストは,王国のたとえ話の中で,ご自分と名目だけのキリスト教世界のクリスチャン団体の形成ならびに成長とのつながりを示されました。イエス・キリストとキリスト教世界との関係は,イエスの天のみ父エホバと,背教した古代イスラエルとの関係に似ています。エホバは西暦前1513年の昔にイスラエルの国を建てられましたが,その目的は良い正しいものでした。しかし,神が選んでパレスチナの約束の地にお植えになったその国はどうなりましたか。エホバご自身が,エレミヤ記 2章21節から23節の中でその問いに答え,こう述べておられます。『われ汝を植えて佳きぶどうの樹となし全き真の種となせしにいかなれば汝われに向いて異なるぶどうの樹の悪しき枝にかわりしや たといそうだをもて自ら洗いまた多くの灰汁を加うるも汝の悪はわが前に汚れたりと主エホバいい給う 汝いかで我は汚れずバアルに従わざりしということを得んや 汝谷の中のおこないを見よ 汝のなせしことを知れ 汝は疾走るわかき牝のらくだにしてその途にさまよえり』。
20 またホセア書 10章1節から4節でエホバはこう言っておられます。『イスラエルは果をむすびて茂り栄えるぶどうの樹その果の多くなるがままに祭壇をまし その地のゆたかなるがままに偶像を美しくせり かれらは二心をいだけり 今かれら罪せらるべし……かれらは虚しきことばをいだし 偽りの誓をなして約をたつ 審判は畑の畝にもえいずる茵陳のごとし』。
21 (イ)イエスの時代のユダヤ人は,背教していることをどのように示しましたか。(ロ)だれの経験は,イエスが象徴的なからしの種粒をまき,それが不適当な木に成長する可能性があることを示していますか。
21 イエス・キリストとその使徒たちの時代にもイスラエル民族は,エレミヤやホセアの時代と同じように背教していました。事実,メシアなるイエスに死をもたらし,イエスの使徒や一世紀の弟子たちを迫害したのは,イスラエルのその世代でした。イザヤもイエスも,特にそのようなイスラエルを指して,彼らは目を堅く閉ざし,その耳を遠くし,心を鈍くしているので,彼らのために霊的いやしはない,と言いました。(イザヤ 6:9,10。マタイ 13:13-15。使徒 28:24-28)それゆえに,その背教した世代は西暦70年に国家的災いを被りました。ではここで,たとえ話の中の種をまいた人としてのイエスは象徴的なからしの種粒をまいておきながら,どうしてそれを異種の木,つまりキリスト教世界と呼ばれる腐敗したまがいものにならせ得たか,と問う人がいるでしょうか。古代イスラエル民族に接したエホバの経験は,そのような問いに対して神の答えを与えます。
22 なぜイエスはからしの種粒のたとえ話を語り,完全に成長したその「木」がまがいものの組織を表わす,と考えることができましたか。
22 預言的先見の明あるイエス・キリストは,ご自分が一世紀にまいた象徴的なからしの種粒がどうなるかを予知することができました。イエスはイスラエルの歴史に精通しておられ,預言をすべてご存じでした。ですから,からしの種粒のたとえ話を語ることができ,「天の王国」のまがいものであるキリスト教世界を,「天の鳥たち」が宿る完全に成長したからしの木で表わされるものとして考えることができました。―マタイ 13:25,38,39; 24:23-25をご覧ください。
23 (イ)そのたとえ話が,からし種の「木」の滅びを示していないことから,どんな結論を下すべきではありませんか。(ロ)引き網のたとえ話は,魚を取るその網についてどんなことを示していませんか。
23 イエスのたとえ話そのものは,あるいはそのたとえ話に関する限りでは,鳥が荒らした「木」によって象徴された物が滅ぼされることを示していません。しかしそれは,象徴的な「木」,すなわちキリスト教世界の上にそのような滅びは臨まないと論ずる根拠とはなりません。(ルカ 13:5-9と比較してください)引き網についても同じことが言えるでしょう。イエスのたとえ話は,引き網がなくなることは示していません。しかし引き網が再び使われるということも示していません。もし使われるとすれば,それはたとえ話に描かれているのと同じような様々な魚を再び「海」から引き上げるでしょう。ですから,たとえ話がそこまで示していなくても,それは引き網によって表わされているものが,神の定めの時に排除されることなどないという意味ではありません。み使いの指導による活動は,その象徴的な引き網を使って過去19世紀間続けられてきました。しかし,その象徴的な網でたぐり寄せられた海の生物をえり分けることがいったん完了したなら,魚を取る仕事は繰り返されないでしょう。
24 たとえ話の中には示されていなくても,なぜ象徴的な引き網は神の定めの時に排除されますか。
24 引き網が「名目だけのキリスト教会」あるいは『本物と偽物とを包含する,キリスト教徒と公言する』組織を表わしている以上,その象徴的な引き網は実際に排除されるでしょう。キリスト教世界を含むそのような宗教的仕組みは捨て去られ,再び用いられることはないでしょう。エホバ神は,「事物の体制の終結」の終わりまでには,真の「天の王国」のための良い「魚」をすべて得ておられるでしょう。(マタイ 4:17; 13:47-50)したがって例えがそのことを示していなくても,それは,象徴的な引き網がその目的を達成して排除され,葬られ,再使用されなくなることを否定する証拠とはなりません。それでもイエスは,「天の王国」はその引き網に似ている,と言われました。ですから引き網そのものが,14万4,001人の成員の王国級を表わしていないことは確かです。
エホバにささげられたパン種のはいったものはどうか
25 名目だけのキリスト教団体はバビロン的なもので発酵していますが,それでもある人々は,女がこね粉の中に隠したパン種についてどんな疑問を持っていることが考えられますか。そしてなぜですか。
25 鳥に荒らされた,からしの種粒から成長した「木」で表わされている名目だけのキリスト教団体が,バビロン的な教理や慣行で腐敗してしまったかどうかについては疑問はありません。前述の論議の中で,自称キリスト教団体のこの腐敗は,女が固まり全体を発酵させるために少量のパン種を大升三ばいの粉の中に隠した,というイエスのたとえ話の中で表わされていることを指摘しました。(マタイ 13:33)それでもまだある人には,そのたとえ話の説明では納得できないで次のように自問するかもしれません。そのたとえ話の中のパン種は,悪い事柄,つまり宗教の腐敗を本当に表わしているだろうか。それは王国相続者の真のクリスチャン会衆に義と神聖さを浸透させる力を表わしてはいないか。モーセの律法に従ってエホバ神にささげられた物をみよ。それにはパン種がはいっていたがエホバに受納された。このことは,聖書がパン種を良い事や正しい事を表わすのに用いることを示してはいないか。イエスが語られた,ひとかまど分の多量のこね粉の中に隠されたパン種のたとえ話の場合もそうなのではないか。
26 そのような質問をする人は,大祭司がペンテコステの日にささげた小麦のパン二個の中のパン種について,どのように推理することが考えられますか。
26 パン種のはいったもので,エホバのご命令のもとにエホバにささげられエホバに受納された,指摘されそうな顕著な例は,陰暦の春のシワンの六日にあたる七週の祭りの日,すなわちペンテコステに,ユダヤの大祭司がささげたパン種のはいったパン二個です。ペンテコステは,大祭司が大麦の収穫の初穂をささげたニサン16日から50日目に当たりました。(レビ 23:15-17。申命 16:9-12。使徒 20:16。コリント第一 16:8)その二個のパンが極めて丁重に扱われたことから考えて,人は次のように推理するかもしれません。エホバはその祭りの日にパン種のはいった小麦のパン二個を受納される。では,この場合にエホバがパン種のはいったものを受納されるということは,パン種がそこでは良い意味を帯びているということではないか。これはパン種が神のみ前で時には良い象徴的意味を帯びることも確かにある証拠ではないか。それに,パン種のはいったパンが,エホバの古代選民の間でいかに好まれたかを考えてみよ。それに反し,パン種を入れずに焼いたパンは,「憂患のパン」と呼ばれた。(申命 16:1-3)そのことは確かに,聖書の中でパン種が象徴として使われるとき,それに良い性格を与えるにちがいない。
27 そのような考え方をするなら,ペンテコステの小麦のパン二個の実体の中のパン種の意味について,どんな結論に達するでしょうか。
27 七週の祭りの日にささげられた,種を入れて焼いた小麦のパン二個についてそのような考え方をするなら,当然どんな結論になりますか。ペンテコステのその二個のパンは,神の目的に従って訪れる事柄を予影する象徴であった,ということになります。それで,種を入れて焼いたパン二個をシワンの六日にささげることの実体においては,パンの中のパン種が象徴するものは,良いもの,正しいもの,徳のあるものであるはずです。そこでわたしたちは尋ねます。その種を入れて焼いた小麦のパン二個自体は何を予表していますか。それらは,西暦33年のペンテコステの日に生まれた,不完全な人間である信者から成る真のクリスチャン会衆を予表しました。(「シオンのものみの塔」,1898年3月1日号,68ページ,4節〔英文〕)それでもしパン種がペンテコステの日に何か良い面を表わしたとすれば,それに調和して,新しいクリスチャン会衆はそれ自体の中に,パン種の実体である善,特別の「聖霊の恵み」を有して発足するよう示されていることになります。こうしたことがすべて,聖霊のそそがれる前に生ずるのです。
28 しかし,「ものみの塔」誌と一致して,ペンテコステの予表的な小麦のパン二個の中のパン種は何を表わしていますか。
28 しかし,クリスチャン会衆の人間の成員は,神の聖霊が彼らの上にそそがれたペンテコステの日に,彼ら自身の内面的巧徳を有して発足しましたか。そうではありません。彼らは自分自身の義を有してはいませんでした。ですから,小麦の収穫の初穂のささげ物の中にあったパン種は罪を,つまり王国の共同相続者であるクリスチャン会衆の成員が不従順なアダムから受け継いだ罪を表わす,と長い間説明されてきました。(ローマ 5:12。「ものみの塔」誌〔英文〕,1912年6月15日号,198ページ,「パン種のたとえ話」という見出しの二節をご覧ください)しかしながら,西暦33年のペンテコステの日には,「み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清める」ということが,クリスチャン会衆の不完全な成員にとって真実となりました。―ヨハネ第一 1:7。アルフレッド・エーデルシェイム著「ザ・テンプル(神殿)」,1881年版,229ページ1節から231ページまでご覧ください。b
29 (イ)ペンテコステの日は,初穂をささげるどの日と結びつけられていますか。どのように?(ロ)ペンテコステより前の,収穫の初穂をささげるその日に関しては,パン種の問題はどうなっていましたか。
29 ペンテコステの小麦のパン二個についてのその説明には,もう一つ裏付けとなる事実があります。それは,ペンテコステ,すなわち七週の祭りの日(シャブオス)が,時を数えることによって,大麦の収穫の初穂をささげる日と結びつけられている,ということです。それをささげることはニサンの16日,すなわち過ぎ越しから三日目に行なわれました。(レビ 23:9-17)ニサンの16日に,大祭司が『[イスラエルの]大麦の収穫の初穂の束』を揺り動かした時,それとともにパン種をささげることはされませんでした。油で湿らせたきめのこまかい麦粉が一エパの十分の二,一ヒンの四分の一のぶどう酒とともにささげられましたが,パン種はささげられませんでした。(レビ 23:13)事実,この儀式は七日にわたる種入れぬパンの祭りの間に行なわれました。その七日の間は,パン種が周りにあってもならず,食べてもいけないことになっていました。ではなぜ,ニサン16日のこの儀式にはパン種がなかったのに,これと関係のあるペンテコステの祭りにはパン種があったのですか。
30 (イ)もしパン種が何か正しいものを予表したとすれば,大麦の初穂をささげる日にパン種がなかったことは,何を示したでしょうか。(ロ)大麦の収穫の初穂の束は何を予表しましたか。
30 ペンテコステの日に神がパン種を受納されたので,パン種は良いことの象徴であると考えるとすれば,大麦の収穫の初穂の束を揺るときに一緒にささげる物の中にそれを加えることを許されなかったのはなぜですか。もしパン種が良い意味での象徴であったなら,パン種がないことは,大祭司がささげた大麦の束に良い何ものかが欠けていることを示さないでしょうか。そうです,そのことは,この預言的状態の成就において,なんらかの美徳もしくはなんらかの「聖霊の恵み」が欠けていることを予表することになるでしょう。しかし本当にそういうことですか。その答えを得るには,大麦の収穫の初穂の束が何を予影していたかを考えてみなければなりません。それはほかでもない,復活された主イエス・キリストご自身でした。―コリント第一 15:20。
31 (イ)イエスはどの日に復活されましたか。なぜその日に復活されたのですか。(ロ)イスラエルでパン種を用いることを許されなかったことは,キリストの復活について何を示しましたか。
31 この事実と調和して,イエス・キリストは西暦33年ニサン16日,日曜日,すなわち七日にわたる種入れぬパンもしくは菓子の祭りの最中に,死人の中からよみがえらされました。確かに,その栄光ある復活の際,イエスは何か良いもの,何らかの徳や「聖霊の恵み」を得そこなってはいませんでした。つまり除かれていたパン種が何か好ましい象徴,いわゆる『義のパン種』であるとみなされるべきであるなら,当然そこに想定されるようなことはありませんでした。それとは全く逆に,大麦の収穫の初穂の束が揺り動かされたニサンの16日にパン種がなかったことは,イエス・キリストが完全な,義にかなった,罪のない霊者として復活させられることを予表していました。テモテ第一 3章16節に述べられているように,イエス・キリストは復活されたときに,「霊において義と宣せられ」ました。彼には象徴的な「パン種」はありませんでした。
32 (イ)イエスは主の夕食を制定するに当たり,ご自分が裂いたパンについてなんと言われましたか。(ロ)したがってそのパンが無酵母のものであることは,その場合何を象徴しましたか。
32 これに関連して,次のような事実があります。ニサンの16日,すなわち大麦の収穫の初穂がエホバ神にささげられた日は,過ぎ越しから三日目であったということです。西暦33年ニサンの14日,イエス・キリストは過ぎ越しの食事を祝ったあと,種を入れずに焼いたパンを取り,それを裂いて,ご自分の忠実な使徒たちに,「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」と言われました。(マタイ 26:26)用いられたパンにはパン種がはいっていなかったのですから,パン種は良い象徴であるということを根拠にして論ずれば,これは,イエスの肉体に重要なものが欠けていた,義が欠けていた,「聖霊の恵み」が欠けていた,ということですか。決してそういう意味ではありません。イエスが,わたしの体を象徴する,と言われたパンが無酵母のものであったということは,イエスの肉体が,あらゆる罪と不完全性から自由であったことを表わしました。―ヘブライ 7:26。
33 それで聖書はパン種をどのように象徴的に用いていますか。これを支持するどんな証人がいますか。
33 以上述べてきたことと一致して,象徴としてのパン種もしくは生パンは,聖書全巻を通し好ましくない意味で,あるいは否定的な面に使われている,と述べている「ものみの塔」誌の1900年5月15日号と,1910年6月15日号は正しいわけです。パン種もしくは生パンのことが初めて出てくる出エジプト記 12章15節から20節,13章7節より,最後に出てくるガラテア 5章9節に至るまで,聖書はパン種を悪いことの象徴として用いています。その事実に対する証人が必要とあらば,わたしたちには,聖書がパン種を一貫して悪いこと,正しくないこと,間違い,罪などを象徴するのに用いている事実を証言する証人が少なくとも二人います。イエスはパリサイ人のパン種とサドカイ人のパン種に言及されました。(マタイ 16:6-12。マルコ 8:15。ルカ 12:1)使徒パウロは,固まり全体を発酵させるパン種に気をつけるよう,警告しています。彼は予表的な種入れぬパンの祭りに言及し,パン種が何を象徴するかを明確に説明して次のように述べます。「わたしたちの過ぎ越しであるキリストはすでに犠牲にされたのです。ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか」― コリント第一 5:6-8。申命 17:6,7; 19:15。テモテ第一 5:19。ヘブライ 10:28。c
34 したがって,パン種のたとえ話は何を示すものですか。
34 以上のことから分かるように,イエスは,大升三ばいの粉の中に少しのパン種を隠した女のたとえ話をされたとき,パン種の意味について例外をもうけられたのではありません。イエスの教えは一貫していて,この場合にもパン種を,好ましくない事柄を表わすのにお用いになりました。ですからそのたとえ話は,「天の王国」に関連した事柄についての好ましくないものを例示しているに違いありません。この場合,ひとかまど分の多量のこね粉の発酵は,間違ったバビロン的教理と慣行で自称クリスチャン会衆が腐敗することを,預言的に示しています。それは,完全に成長したからしの木が表わすものの象徴的な発酵を示しています。ですからマタイもルカも,パン種のたとえ話を適切にもからしの種粒のたとえ話と並べて述べ,ルカなどは,偽善的な宗教家に対する激しい非難の直ぐあとに,このたとえ話を記しています。―ルカ 13:10-21。
[脚注]
a 1975年発行の,「世の苦難からの人間の救いは近い!」(英文)という本の206-209ページをご覧ください。
b 230ページ,12行目から14行目にかけて次のように述べられています。「したがってそれらはパン種を入れて焼いてあった。イスラエルの公の感謝の供え物は,至聖所さえも,不完全さと罪に影響されており,罪祭を必要としているからである」。
前述の事柄と一致して,カイル,デーリッチ共著「旧約聖書に関する注解」(第二巻-モーセの五書)の,「エホバの安息日と祭日の清め。―23章」という副見出し(437ページ)の部分の,443ページの16行目から34行目に,次のように述べられています。
「『……20節。祭司その初穂のパンとともにそれら(酬恩祭の子羊二匹)を揺りて,エホバの前に揺祭となすべし。(前述の)子羊二匹とそれら(パン)はエホバに聖なるものにして祭司に帰すべし』。……罪祭はイスラエルの会衆に罪の感情を意識させ抱かせることを目的としていた。こうして,パン種を入れたパンを日ごとに食してはいても,彼らが自分たちの古い性格というパン種に仕えず,むしろ彼らの主なる神に許しと罪の清めとを求め,嘆願するようにするためであった」。
c 「ユダヤ百科事典」,1971年版,第7巻,1235-1237段に,「ハメツ……『発酵した生パン』」と題する項目があり,1237段の「ユダヤ思想におけるパン種」という見出しのところに,次のように書かれています。
「パン種は腐敗と不潔の象徴と考えられている。『生パンの中の酵母』は,『われわれが神の意志を行なうのを妨げる』ものの一つである。(Ber.17a)この思想はカバラ思想において著しい発展を遂げた。新約聖書も,『悪と邪悪のパン種』に言及し,それを『誠実さと真実さの無酵母パン』と対照させている。(コリント第一 5:8)同様にその語は,パリサイ人とサドカイ人の腐敗した教理と考えられたものに適用されている(マタイ 16:12。マルコ 8:15)。
「それは特に,一門の中の清くない家系のさまざまな要素の混合に適用された。こうした考えのもとでは,(発酵した)『生パン』は『ふるいにかけられた純粋の粉』と対照された……」。
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真の王国の避難所へ逃れるものみの塔 1976 | 1月15日
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真の王国の避難所へ逃れる
1 (イ)イエスのたとえ話のからしの種粒の「木」によって表わされている組織はどのように暴露されてきましたか。(ロ)キリスト教世界のほとんどの人々は,イザヤ書 6章8節から10節に述べられている通りであることを,どのように示してきましたか。
イエスのたとえ話の中の,からしの種粒から成長した「木」によって表わされている組織は,エホバのクリスチャン証人の世界的な伝道によって暴露されてきました。(マタイ 13:31,32)その宗教組織,すなわちキリスト教世界から逃げ,エホバのクリスチャン証人たちが宣明する神のメシアの王国のもとに避難した自称クリスチャンたちは,比較的にわずかです。西暦前八世紀の預言者イザヤのように,これら証人たちは,キリスト教世界の人々に繰り返し宣べ伝えてきましたし,依然として宣べ伝えていますが,キリスト教世界の圧倒的大多数の人は,彼らがどんな霊的状態にあることを示していますか。預言者イザヤが予告していたとおりです。つまり,彼らの目は堅く閉ざされ,彼らの耳は遠く,彼らの心は王国の音信を理解しません。―イザヤ 6:8-10。
2 そのように霊的に病気の人々は,いつまでキリスト教世界の中にとどまりますか。
2 そのような人々はいつまで,キリスト教世界の中で,そうした霊的病気の状態のままでとどまっているのでしょうか。エホバはこの質問に対し,イザヤ書 6章11節から13節のご自身のみことばの中で,預言的に答えておられます。彼らは,キリスト教世界,すなわち象徴的なからしの種粒の成長した「木」がきたるべき「大患難」において一掃される時まで,そこにとどまるでしょう。(マタイ 24:21,22)「ものみの塔」誌,1967年2月15日号の中の,「『われここにあり 我をつかはしたまえ』とあなたは語りましたか」という題の記事をご覧ください。
3 神を恐れる人々はなぜ,神の樹立されたメシアの王国のもとに逃れましたか。そして神は彼らを何に入れられましたか。
3 滅びに定められているキリスト教世界から逃れた,神を恐れる人々は,聖書の預言に照らして,1914年以降の世界の情勢や事件を調べました。そうした比較によって彼らは,戦争で分裂していたその年に,み子イエス・キリストの手中にある,神のメシアの王国が天に誕生していたことを認めました。彼らは,「神の王国の地上における政治的表現」として国際連盟のもとに逃れることもしなければ,今日の国際連合を人類の「最後の希望」としてそれに逃れることもしませんでした。キリスト教世界の僧職者たちが示す見解などには目もくれず,それら目を見開いた,耳の敏感な,受け入れる心を持つ人々は,樹立された神の王国に逃げ,そのもとに避難しました。いわば「大患難」の始まる前に危険地帯の外の「山に」逃げました。(マタイ 24:16-22)このようにして彼らは,回復に関する聖書の預言の成就としてエホバ神が1919年以来,ご自身の回復された民のために設けられた霊的「パラダイス」にはいりました。―イザヤ 35:1-10; 65:17-25。
4,5 (イ)イザヤ書 32章1,2,17,18節は,その霊的パラダイスに入れられた人々の平安と安全をどのように描写していますか。(ロ)この預言の成就において,そこに述べられている「君たち」とはだれのことですか。彼らはパラダイスの穏やかな状態にどのように貢献しますか。
4 彼らが現在メシアの王国のもとで経験している平和と安全は,イザヤ書 32章1,2,17,18節に,次のようなことばで美しく描写されています。『ここにひとりの王あり 正義をもて統治めその君たちは公平をもて宰さどらん また人ありて風のさけどころ暴雨ののがれどころとなり かわける地にある水のながれのごとく 倦つかれたる地にある大いなる岩陰のごとくならん かくて正義のいさおは平和 せいぎのむすぶ果はとこしえの平穏とやすきなり わが民はへいわの家におり 思いわずらいなき住所におり 安らかなる休息所におらん』。
5 地上の人々で,ここで描写されている「君たち」に相当する人々は,キリスト教世界の「教会の君たち」ではありません。それは「長老たち」,すなわち3万5,000を超える,エホバの救われ回復された民の会衆の任命された「監督たち」のことです。天の王,すなわちメシアなるイエスに対して直接に責任があるので,彼らは羊飼いの牧羊のようなわざを,『公平をもって』賢明に行ないます。このようにして彼らは,エホバが西暦1919年以来,回復された崇拝者たちを入れられた霊的パラダイスの平和,静穏,信頼性に寄与します。
メシアによるきたるべき千年統治のもとで
6 地上における神の新秩序が霊的パラダイスをもって発足するというのはどういうわけですか。しかしそのパラダイスにいる人々の前には,どんな地的仕事が控えていますか。
6 ちょうど耐水性の箱船がノアとその家族およびすべての動物と鳥のつがいを乗せて,西暦前2370年から2369年にかけての世界的大洪水を通過したのと同じく,霊的パラダイスもエホバの保護のもとに,「大患難」というきたるべき大洪水を生き残るでしょう。この霊的パラダイスの中にとどまる忠実なエホバ崇拝者たちは,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく」また「二度と起きないような」あの「大患難」を,霊的パラダイスと共に生きて通過するでしょう。(マタイ 24:21,22。啓示 7:9-14)このような理由で,大患難後の地上における神の義の事物の新秩序は,「エホバの知識で満たされ」,エホバの忠実な崇拝者たちによって占められた霊的パラダイスをもって発足します。(イザヤ 11:9,新)ノアの三人の息子とその三人の嫁に相当する生存者の「大群衆」の前途には,文字通りの地球全体をパラダイスのように,世界的規模のエデンの園のように美化する仕事が控えています。したがって,イエス・キリストおよびその仲間の王たち14万4,000人の千年統治の下における,人の住む未来の地球は,文字通りの意味でパラダイスとなるでしょう。イエス・キリストご自身,パラダイスということばを使ってそれを約束されました。―ルカ 23:43。
7,8 (イ)ノアおよびその家族と共にだれが箱船で生き残りましたか。(ロ)ノアの家族が,地の下等生物に対する恐れを持たずに箱船から出たのはなぜですか。
7 西暦前2369年当時,ノアの箱船がアララテ山上に着陸し,ノアがエホバ神のお閉めになった扉をあけることを許された時,ノアとその家族は外の広い所へ出てきました。しかし彼らだけが出たのではありません。創世記 8章19節(口)にあるように,「すべての獣,すべての這うもの,すべての鳥,すべての地の上に動くものは皆,種類にしたがって箱舟を出た」のです。彼らも,大洪水を生き残った人間たちと同じように,地上で増えることになっていました。―創世 1:20-25。
8 それら下等な地的被造物は人間に対してどんな関係を持つようになるでしょうか。神は,ノアとその家族を祝福されたとき,その関係を示し,次のように言われました。『地のすべての獣畜天空のすべての鳥 地にはうすべてのもの 海のすべての魚なんじらを畏れ なんじらにおののかん これらはなんじらの手に与えらる』。(創世 9:1,2)ですから,人類は自分たちの前途に恐ろしいことがあることなど全く予期せずに,動物に対してさえそれを予期せずに,保護の箱船から出ました。人類は箱船の中の動物たちに恐れを持ちませんでした。箱船の中ではライオンさえ,雄牛のように植物を食べたのです。
9 そのことは,地の下等生物に関してアダムとエバにお命じになった事柄の成就として,神が「大患難」後に何を行なわれることを示唆していますか。
9 そのことは,人が住む地上での,わたしたち自身の将来を示唆するものであるに違いありません。霊的パラダイスの中にいる人間のエホバ崇拝者たちと共に,地の下等生物も,人類の用のためまた喜びのために保護されるでしょう。「大患難」が終わったのち,神が,地上の生き残った崇拝者たちに対し,魚,飛ぶ生物,また陸上動物に関して再保証をお与えになることは疑えません。全能の創造者は,地のこれらすべての下等生物に,人間への恐れを植え付けられます。それゆえ,これら下等生物が人間を苦しめることはありません。神が最初の男女,すなわちアダムとエバにお命じになったことからすると,人類はこれらの下等生物すべてを従わせ,そしてそれらは従順で無害で,人類に服するものとなるでしょう。―創世 1:27,28。
10 地の下等生物は現在みな人間に服していますか。ダビデはそれらが服す人を預言的にどのように指し示しましたか。
10 大洪水から1,300余年を経て,エルサレムのダビデ王が詩篇 八篇を書いたころ,地の下等生物は,人になれていて人を害さないという意味では,全部が全部人間に従っていたわけではありません。しかし,この詩篇の中でダビデは,これからそれら全部を服させる人を預言的に指し示し,次のように述べました。「わたしが,あなたの天を,あなたの指の業である,あなたの備えられた月や星を見ますのに,死にゆく人間はいかなるものなので,あなたはこれを思いに留められるのですか。また,地に住む人の子はいかなるものなので,これを顧みられるのですか。あなたは,人を神のような者たちより少し低く造り,次いで栄光と光輝を冠としてこれに添えられました。あなたはみ手の業を彼に支配させ,すべてのものをその足の下に置かれました。小さい家畜や雄牛,それらすべて,さらに原野の獣,空の鳥,海の魚,海路を通うすべてのものを」― 詩 8:3-8,新。
11 神が地のすべてのものを服させるべく指名された人の名前は,どこにどのように示されていますか。
11 さてエホバ神はだれを,地のものすべてが服させられるその「人」として指名されましたか。霊感によって記されたヘブライ人への手紙 2章5節から9節は,わたしたちに次のように告げています。「きたるべき,人の住む地,すなわちわたしたちが話しているものですが,神はそれをみ使いたちに服させることはされなかったのです。むしろ,ある証人があるところで証ししてこう述べています。『人間が何者なのであなたはこれを思いに留め,また人の子が何者なのであなたはこれを顧みられるのですか。あなたは彼をみ使いたちより少し低い者とされました。あなたは彼に栄光と誉れの冠を与え,み手の業の上に立ててこれをつかさどる者とされました。あなたはすべてのものを彼の足の下に服させました』。神はすべてのものを彼に服させたのですから,彼に服さないものを何一つ残さなかったのです。しかし,わたしたちは今なお,すべてのものが彼に服しているのを見ません。ただわたしたちは,み使いたちより少しく低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」。
12 「きたるべき,人の住む地」においては,地のどんな生物も,イエスの足の下に服しますか。
12 これは,「大患難」後,そして悪魔サタンとその配下の悪霊たちが鎖につながれ,底しれぬ深みに監禁されたのち,「きたるべき,人の住む地」は,メシアなるイエスの足の下に服する,という意味です。「小さい家畜や雄牛,それらすべて,さらに原野の獣,空の鳥,海の魚,海路を通うすべてのもの」を含め,人の住む地のあらゆるものが服します。(詩 8:7,8)「原野の獣」には,ライオン,くま,ひょう,コブラや他のすべての毒へびのように,現在どう猛で人間にとって危険な野生動物すべてが含まれます。「海路を通うすべてのもの」には,ピラニア,ふか,しゃちなども含まれています。
13 今天で栄光を受けておられるイエス・キリストは,「きたるべき,人の住む地」において,それら地の下等生物がみな彼に服していることを,どのように示されますか。
13 現在,天において,栄光と誉れの冠を戴くメシアなるイエスは,野生の,人になれていない獣を支配する力を失ってはおられません。(マルコ 1:13; 11:2-7)イエスは,現在危険なそれらの動物がご自分に服するところを示されるでしょう。どんな方法で?「大患難」を生き残って,この地のために神がお立てになる新秩序にはいる,将来の地的パラダイスの相続者たちの「大群衆」に彼らを服させることによってです。このようにして,今日いる野生的で,凶暴で,危険な動物は,エホバ神の地上の崇拝者たちにとって無害なものとされるでしょう。その時広く行き渡る獣と人との間のこの傷つけ合うことのない関係は,イザヤ書 11章6節から9節の描写と一致するでしょう。それは,エホバのクリスチャン証人が現在楽しんでいる霊的パラダイスの中で,すでに成就をみています。
14 贖われた人間の死者が,「きたるべき,人の住む地」に出てくる時に,恐れるものが何もないのはなぜですか。
14 かくして,地上のすべての動物を,全地球に広がったエデンの園で完全な男女に服させるという,創造者なる神の最初の目的は実現します。その世界的パラダイスは平和で安全な場所となるでしょう。この「きたるべき,人の住む地」に墓からよみがえる,贖われた人間の死者すべてにとって,恐れるものは何もないでしょう。(使徒 24:15。ヨハネ 5:28,29。啓示 20:11-14)「ほえるしし」,すなわち悪魔サタンと,その配下の悪霊たちは,近辺にいません。天において栄光を受けた「人の子」は世界中で,人と人との間に,人と獣との間に,そして獣と獣との間に,平和を推進されるでしょう。「正義は産出的な地の住民が確かに学ぶところと」なり,その正義の全地に対する貢献と,全地に及ぼす影響は,平和,静穏,真の信頼,そして安全でしょう。(イザヤ 26:9; 32:17,18)地球は,人がパラダイスの住みかとして永遠に居住する,なんとすばらしい所となるでしょう。これもみな,「きたるべき,人の住む地」が,真の「天の王国」の支配を受けるからにほかなりません。―マタイ 4:17; 5:3,10。
15 「大患難」が目前に迫っているために危険に臨んでいる人々に関し,わたしたちは今何をする特権と機会が与えられていますか。
15 これが「天の王国」です。今わたしたちに与えられている特権と機会は,この王国を世界中に宣明することです。そのもとにすでに逃れているわたしたちは,この空前絶後の世界的苦難の時に住む他の人々の安全を憂慮しています。患難の中の患難は目前に迫っています。この事を心にとめ,わたしたちは,よく教えを聞く人々すべてを真のメシアの「天の王国」に導きつづけ,彼らがそのもとに逃れて安全を得るよう助けていきましょう。世界の最も大きな苦難からの彼らの救いは,そのことにかかっているのです!
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