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6ホ 「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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見られます。この構文は七十人訳にも見られます。(箴言 24:21の脚注参照)「新約ギリシャ語イディオム・ブック」(An Idiom Book of New Testament Greek,C・F・D・ムール著,英国,ケンブリッジ,1971年,109ページ)によると,『偉大な神,およびわたしたちの救い主であるイエス・キリストという考えは……[定冠詞が]繰り返されていなくても,κοινή[コイネー]ギリシャ語において可能』です。
テトス 2:13に関する詳細な研究が「第四福音書の原作者と批評論文」(The Authorship of the Fourth Gospel and Other Critical Essays,エズラ・アボット著,ボストン,1888年,439-457ページ)の中で行なわれています。その452ページで次のような注解がなされています。「新約聖書から例を取ってみることにしよう。マタイ 21:12に,イエスが,『神殿で売り買いしている者たちすべてを追い出した』,τοὺς πωλοῦντας καὶ ἀγοράζοντας[トゥース ポールーンタス カイ アゴラゾンタス]ことが記されている。ここで,売っている者と買っている者が同一の人物として示されているなどとは道理の上から考えられない。マルコでは,ἀγοράζονταςの前にτούςが挿入されていて,両者が区別されている。ここでは,両者の区別が読者の知力で間違いなく判別できるようにされている。我々が取り上げている例の場合[テトス 2:13],σωτῆρος[ソーテーロス]の前の冠詞が省かれていることは,わたしにとって少しも問題ではない。その理由はἡμῶν[ヘーモーン]を加えることによってσωτῆρος[ソーテーロス]が十分に特定されている(ウイナーの説)からではない。というのは,神もキリストもしばしば『わたしたちの救い主』と呼ばれており,ἡ δόξα τοῦ μεγάλου θεοῦ καὶ σωτῆρος ἡμῶν[ヘー ドクサ トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン]だけであれば,ごく当然のこととして,単一の主体,すなわちみ父である神に適用されると理解されよう。しかしながら,σωτῆρος ἡμῶν[ソーテーロス ヘーモーン]にἸησοῦ Χριστοῦ[イエースー クリストゥー]が加えられていることにより事情は全く異なってくる。それによって,σωτῆρος ἡμῶνは,パウロの通常の言葉遣いに従って,彼がὁ θεός[ホ テオス]と呼ぶ方とは区別される人物もしくは存在者に限定されることになる。そのため,あいまいさを避けるための定冠詞を繰り返して付ける必要はなかったのである。同様に,テサロニケ第二 1:12の場合も,κατὰ τὴν χάριν τοῦ θεοῦ ἡμῶν καὶ κυρίου[カタ テーン カリン トゥー テウー ヘーモーン カイ キュリウー]という表現は単一の主体に適用されると考えるのが自然であり,二人の別個の主体が意図されているのであれば,κυρίουの前に冠詞が必要とされるであろう。しかし,κυρίου[キュリウー]にἸησοῦ Χριστοῦ[イエースー クリストゥー]が付け加えられるだけで,冠詞を挿入することなしに,二人の別個の主体に適用されることになる」。
ですから,テトス 2:13では,エホバ神とイエス・キリストという二人の方のことが言及されています。聖書全巻を通じて,エホバとイエスを同一の存在とみなすことはできません。
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6ヘ イエス ― アブラハムが存在する前からいる新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ヘ イエス ― アブラハムが存在する前からいる
ヨハネ 8:58 ―「アブラハムが存在する前からわたしはいる」
ギ語,πρὶν ᾿Αβραὰμ γενέσθαι ἐγὼ εἰμί
(プリン アブラアム ゲネスタイ エゴー エイミ)
4/5世紀
「アブラハムがいた前からわたしはいる」
シリア語訳 ― 印刷版: 「シリア語重ね書き写本からの四福音書の翻訳」(A Translation of the Four Gospels from the Syriac of the Sinaitic Palimpsest),アグネス・スミス・ルイス訳,ロンドン,1894年。
5世紀
「アブラハムがいるようになる前からわたしはいた」
シリア語クレトニア写本 ― 印刷版: 「四福音書のクレトニア訳」(The Curetonian Version of the Four Gospels),F・クローフォード・バーキット訳,第1巻,英国,ケンブリッジ,1904年。
5世紀
「アブラハムが存在する前からわたしはいた」
シリア語ペシタ訳 ― 印刷版: 「ペシタ訳からの英訳シリア語新約聖書」(The Syriac New Testament Translated into English from the Peshitto Version),ジェームズ・マードック訳,第7版,ボストンおよびロンドン,1896年。
5世紀
「アブラハムがいるようになる前からわたしはいた」
グルジア語訳 ― 印刷版: 「古代グルジア語訳ヨハネ福音書」(The Old Georgian Version of the Gospel of John),ロバート・P・ブレーク,モーリス・ブリエール共編,「東方教会教父研究」(Patrologia Orientalis),第26巻,第4分冊,パリ,1950年。
6世紀
「アブラハムが生まれる前からわたしはいた」
エチオピア語訳 ― 印刷版: 「エチオピア語……新約聖書」(Novum Testamentum……Ethiopice),トーマス・ペル・プラット編,F・プラエトリウス改訂,ライプチヒ,1899年。
ヨハネ 8:58で言い表わされている行為は,「アブラハムが存在する前」に始まり,今でも依然として進行状態にあります。このような状況のもとでは,一人称単数,直接法現在形のεἰμί(エイミ)は直接法完了形に訳すのが適切です。これと同じ構文は,ルカ 2:48; 13:7; 15:29; ヨハネ 5:6; 14:9; 15:27; 使徒 15:21; コリント第二 12:19; ヨハネ第一 3:8にも見られます。
この構文について,「新約聖書の慣用句に関する文法」(A Grammar of the Idiom of the New Testament,G・B・ウイナー著,第7版,アンドーバー,1897年,267ページ)はこう述べています。「時として,現在形が過去時制をも含むことがある。(Mdv.108)例えば,その時点より前から始まり,依然として続いている状態をその動詞が表わしている場合 ― 次の例に示される継続状態:ヨハネ 15:27 ἀπʼ ἀρχῆς μετʼ ἐμοῦ ἐστέ[アプ アルケース メト エムー エステ],8:58 πρὶν ᾿Αβραὰμ γενέσθαι ἐγὼ εἰμι[プリン アブラアム ゲネスタイ エゴー エイミ]」。
同様に,「新約聖書ギリシャ語文法」(A Grammar of New Testament Greek,J・H・モールトン著,第3巻,ニゲル・ターナー,英国,エディンバラ,1963年,62ページ)は次のように述べています。「ある行為が過去に生じ,論じられているその時点に至るまで継続していることを表わす現在形は,実質的に完了相と同じである。ただ一つ違っているのは,その行為が依然として継続状態にあるとみなされていることである。……新約においてこのような例は多く見られる: ルカ 248; 137……1529……ヨハネ 56; 858……」。
イエスとエホバを同一視しようとして,ἐγὼ εἰμί(エゴー エイミ)は,神によって用いられるヘブライ語の表現アニー フー,「わたしは彼である」と同じものであると主張する人がいます。しかし,このヘブライ語の表現は人によっても用いられることを覚えておかなければなりません。―歴代第一 21:17の脚注参照。
イエスとエホバを同一視しようとして,出エジプト 3:14(七十訳)を引き合いに出す人もいます。そこには᾿Εγώ εἰμι ὁ ὤν(エゴー エイミ ホ オーン)という句があり,これには,「わたしは存在者である」もしくは「わたしは存在している者である」という意味があります。出エジプト 3:14の表現はヨハネ 8:58の表現とは異なっていますから,その主張を正当なものとして認めることはできません。(出エジプト 3:14の脚注参照)クリスチャン・ギリシャ語聖書全体を通じて,イエスとエホバを同一の存在者とみなす根拠はありません。―ペテロ第一 2:3の脚注; 付録6イ,6ホ参照。
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7イ コブラは音に反応する新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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7イ コブラは音に反応する
詩編 58:4,5 ―「耳をふさぐコブラのように耳が聞こえない。……それは蛇使いの声を聴くことがない」。
1954年1月10日付,ニューヨーク・タイムズ紙,第4欄,9ページに,「蛇を音楽によって『操る』ことができるか」という見出しのもとで詩編 58:4,5に関する次の報告が載せられています。「ボルチモア[米国]にあるマウント・サイナイ病院の薬理学研究員,デービッド・I・マクト博士は,コブラの毒に関する世界的権威の一人である。(コブラの毒は血液障害などの薬物治療に一般に用いられている。)同博士は,コブラとコブラの毒について研究するうちに,インド各地から来た,高い教育を受けた多くのインド人の医者と親しくなったことを述べている。それらの医者は皆,コブラが笛などから出るある種の音楽的な音に反応を示すという点で意見の一致を見ている。彼らの報告によると,反応を強く引き起こす音楽と,そうでない音楽とがあるらしい。マクト博士は,田舎の地方で遊ぶ子供たちが,暗くなってからは歌を歌ってはいけない,コブラが子供の声に引き付けられるかもしれない,と注意されることを指摘し,何度も耳の聞こえないものとして蛇に言及しているシェークスピアは……一般の誤解をそのまま述べていたに過ぎない,と語っている。一方,マクト博士が言うには,蛇に聴力のあることを示唆している詩編 58編5節の作者は正しかった。……蛇はある生物学者たちの主張に反して,蛇使いの動作によってではなく,音によって『操られる』のだ,と同博士は述べた」。
ドイツの動物学誌,「グルジメクの動物,ジールマンの動物の世界」(Grzimeks Tier, Sielmanns Tierwelt),1981年7月号,34,35ページに発表された記事の中で,その筆者はスリランカの自分の私有地のシロアリの巣に住んでいた一匹のコブラについて同様のことを述べています。彼は蛇使いにその野生の蛇をつかまえて,踊らせてくれるよう頼みました。その筆者は次のように報告しています。「私は自分の招いたその蛇使いにコブラが確かにそこに住んでいたことを得心させた,すると彼はそのシロアリの巣の前に座り,自分の笛を吹き始めた。長い時間がたってから ― もう何も起こらないだろうと思っていた時に,コブラが穴から数センチ首を出した。蛇が口を開ける前に,その蛇使いは急いで近寄り,蛇の首を親指と二本の指の間にはさんで押さえた」。それからそのインド人は実際に蛇を踊らせました。
したがって,コブラが実際に「蛇使いの声を聴く」という証拠は存在しています。
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7ロ 異議を示す反発的な質問新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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7ロ 異議を示す反発的な質問
マタイ 8:29 ―「神の子よ,わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか」。
イエスに対する悪霊たちのこの質問は,ヘブライ語聖書の中の次の8か所に出て来る,古代の慣用句の形を取った質問です: ヨシ 22:24; 裁 11:12; サ二 16:10; 19:22; 王一 17:18; 王二 3:13; 代二 35:21; ホセ 14:8。クリスチャン・ギリシャ語聖書でもシリア語訳でも,このヘブライ語の古代の表現が字義通りに訳されており,次の6か所に出て来ます: マタ 8:29; マル 1:24; 5:7; ルカ 4:34; 8:28; ヨハ 2:4。マタイ 8:29の質問は字義通りに訳すと,「わたしたちとあなたにとって何がありますか」となり,「わたしたちとあなたの間にどんな共通のことがありますか」,「わたしたちとあなたはどんな共通の事柄を有していますか」,または上記の訳のように,「わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか」という意味になります。
ヘブライ語聖書の場合でも,ギリシャ語聖書の場合でも,いずれもそれは反発的な質問で,示唆されたり,提案されたり,疑われたりした事柄に対する異議を表明するものです。この点は,エズラ 4:3(エスドラス書第一 5:67,七十訳)に見られるその肯定形式の表現によって裏付けられます。その箇所は,「あなた方はわたしたちの神のために家を建てる点でわたしたちとは何のかかわりもありません」と訳されており,字義通りには,「わたしたちの神に家を建てることはあなた方とわたしたちに属しません」となります。同じ表現で命令法の形式を取ったものが,ピラトに対する彼の妻の願いを表わす文です。それは,自分の夫ピラトの前で裁判にかけられているイエスに関する願いですが,マタイ 27:19に,「その義人にかかわらないでください」と訳されています。字義通りに訳すと,「あなたとその義人の間に何もありませんように」となります。
イエスがこのごく一般的な形式に託して述べた母に対するヨハネ 2:4の質問も,これと同様の表現とみなさなければなりません。そのすべての特徴は,イエスの取るべき行動を提案する母に対する反発または抵抗にあるからです。それゆえ,この場合にもわたしたちは他の同様な質問すべてと同じ訳し方をしました。「婦人よ,わたしはあなたとどんなかかわりが
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