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憶せずに語る勇気を持っていた人ものみの塔 1977 | 6月1日
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エノスが生まれてから387年後にエノクが生まれるまで,神と共に歩んだ人がいたという記録はありません。エノクの時代までに,忌むべき不敬虔な行為が一般的になっており,偽りの崇拝がはびこっていました。このような霊的に腐敗した周囲の状況にもめげず,エノクは,『真の神と共に歩みつづけ』ました。―創世 5:22,新。
エノクは神の預言者として奉仕する
忠実なエノクは,宗教上の誤りや不敬虔な行為に関して沈黙を守ったりはしませんでした。際立った信仰の持ち主であったエノクは,エホバの「大ぜいの,雲のような証人たち」の一人に数えられています。(ヘブライ 11:5; 12:1)単なる不完全な人間でありながら,悪行者の中にあってただ独りの証人としての立場を保ったエノクは,憶せずに語る勇気を持ち合わせていました。
エノクはこう語りました。「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである」。(ユダ 14,15)そうです,エノクは神の忠実な預言者として勇敢に語りました。事実,エノクの預言は宣べ伝える業によって知らされたようです。それは,後日ノアが「宣明者」と呼ばれたことと通ずるところがありました。(ペテロ第二 2:5)しかし,エノクは自らの責任で行動する運動家ではありませんでした。彼はエホバの聖霊,つまり活動力によって導かれて語っていたのです。ですから,エノクはあえて語るだけの勇気を持っていたものの,神から与えられた力によってそうしたのです。―フィリピ 4:13。
西暦一世紀にエノクの言葉を書き記した弟子ユダが,どのようにしてその預言について知ったのかはつまびらかでありません。その預言は,創世記の記述を編集したモーセの著述の中には見られません。ともあれ,ユダは神の霊感の下にこの手紙を記したのですから,エノクの預言がこの手紙の中に含まれていること自体,その言葉の真正さを裏付けています。
ユダは,クリスチャン会衆内に忍び込んだ,ある「不敬虔な者たち」について論じていました。(ユダ 4)そのような者たちに言及した際,ユダは,エホバが不敬虔な者たちに裁きを執行するために来られることを述べたエノクの預言を引用したのです。確かにこの言葉は,一世紀当時の人々に対して効果があったに違いありません。
しかし,その預言的な言葉が,エノクの時代に生きていた人々にどれほどの影響を及ぼしたか考えてもみてください。それらの悪行者たちは,『エホバが不敬虔な者に裁きを執行するために,その聖なる巨万の軍を率いて来られる』という言葉を聞いて喜ぶでしょうか。もちろん喜びません。偽りの宗教を奉ずる不義な者たちのただ中であえて語るには,確かに勇気とエホバの後ろだてが必要でした。彼らはどれほどエノクを沈黙させたいと思ったことでしょう。
神が介入される
それら不敬虔な者たちは,その偽りの崇拝や「不敬虔な行為」を非難するために神が用いておられたこの人物を殺したいと思ったに違いありません。しかし,そのような計画はすべてくじかれました。どのようにしてですか。「その後,[エノク]はいなくなった。神が彼を取られたからである」と書かれています。(創世 5:24,新)エホバは,エノクの反対者たちが,ご自分の忠節な預言者を殺すことを許しませんでした。むしろ,神は「彼を取られ(た)」のです。しかし,この言葉は何を意味しているのでしょうか。
この点に関して,クリスチャン使徒パウロはこう書きました。「信仰によって,エノクは死を見ないように移され,神が彼を移されたので,彼はどこにも見いだされなくなりました。彼は,移される前に,神をじゅうぶんに喜ばせたと証しされたのです」。(ヘブライ 11:5)ジェームズ・モファット博士は,この聖句を次のように訳出しています。「信仰によって,エノクは天に連れて行かれた。ゆえに,彼は決して死にはしなかった。(彼は死に遭わなかった。神が彼を連れ去られたからである)」。しかし,この翻訳の仕方はどうして正しいと言えるでしょうか。詩篇 89篇48節(新)は,「生きていて死を見ない,どんな強健な人がいるでしょうか」と尋ねています。
エノクは不完全な人間でした。彼は父祖アダムから罪と死を受け継いでいました。使徒パウロはこう記しています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった(のです)」。(ローマ 5:12)さらに,イエス・キリストは,「天から下った者,すなわち人の子のほかには,だれも天に上ったことがありません」と言われました。(ヨハネ 3:13)ですから,エノクは死にましたが,神はエノクを天に連れて行かれたわけではありません。
むしろ,エノクが365歳になったとき,この忠実な預言者を安らかに死の眠りに就かせて活動の舞台から除くことにより,『神は彼を取られた』のです。(創世 5:23,24,新)この年齢は,エノクと同時代の人々の大半の寿命をはるかに下回っていました。エノクは,迫害者たちの手にかかって非業の死を遂げたのではありません。また聖書に示されている限りでは,死に至りやすい健康の衰えをエノクが経験していたのでもありません。ですから,エノクは死の苦しみを味わわなかったものと思われます。そうであれば,彼は自分の死を自覚しないという意味で,「死を見」なかったと言えます。
この勇敢な預言者がとある場所で死を遂げた後,エホバはひそかにその死体を処理されました。それは,後日モーセの死体を処理されたのと同じです。(申命 34:5-7)エノクに敵対した人々は,その死体を発見して,それにいかなる辱めを加えることもできませんでした。
エノクは『移される』
それで,エノクは「神をじゅうぶんに喜ばせたと証しされた」後,何らかの方法で,「死を見ないように移され」たのです。(ヘブライ 11:5)ここで「移された」と訳されているギリシャ語の言葉には,「移す」,「輸送する」,あるいは「場所を変える」という意味があります。これは,「第三の天に」,つまり「パラダイスに」移された,あるいは取り去られた使徒パウロの身に起きた事柄を思い起こさせます。その状態の下で,パウロはクリスチャン会衆の将来の霊的パラダイスの幻を神から受けたものと思われます。―コリント第二 12:1-4。
エノクは預言者だったので,エノクが同じように歓喜した状態にあったときに神は彼を『取られた』とも考えられます。エノクが預言者に生ずる恍惚状態に陥って,エホバが「実際,永久に死を飲み干される」神の新秩序のパラダイスの幻を見ているうちに,エホバはエノクを死の眠りに就かせたのかもしれません。(イザヤ 25:8,新)エノクの場合,死からの復活は,心を奪うような幻からすばらしい現実への変化を意味するものとなるでしょう。―使徒 24:15。
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