良い関係は意思の伝達を滑らかにする
「あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」― テサロニケ第一 2:8。
1 夫と妻に対してどんな問いが提出されていますか。わたしたちは信頼できる答えをどこに求めますか。
あなたは,結婚関係にある夫と妻として,互いに自由に,また十分に意思を伝え合うことができますか。当然そうしているべきです。しかし,障壁と言うほどではないまでも,多少の限界を感じ,そのためにある程度のざせつ感や,時には敵意さえ生じる場合がありますか。意思の伝達,特にそれがもともとどのように始まり,りっぱな土台の上に確立されたかを振り返るのは非常に興味深いことです。わたしたちは,この問題に関する導きと知識を,神話や伝説に求めるのではありません。唯一の信頼できる情報源である,神のことばに求めるのです。
2 意思の伝達とはどういうことですか。どのような結論に至りますか。
2 まず初めに,あなたは,意思の伝達ということがどういうことであるかを尋ねるでしょう。それは,情報を伝えまた分け与えることを意味しています。これは,結果として,ある事がらを互いに分け合い,共通に所有することになります。これは普通,単に知的な事がら,つまり知識や理解を分け与えるという形でなされるかもしれませんが,夫と妻の間では,心と感情と願望,そして互いに対する愛の関心をも包含すべきであり,またそうすることができます。このための簡単で直接的な方法は,口で語ることばによります。夫婦は互いに語り,親しく話し合うことができます。二人の間には共有関係ができており,相互の理解や気持ちの交流があります。何を言うかということだけでなく,それをどのように言うかという点もあります。ちょっとしたまなざしだけで多くの意味と感情を伝えることができます。あなたも,求愛が始まったころのそうしたことを覚えておられるに違いありません。違いますか。このことから,意思伝達のためにまず肝要なのは二人の間の良い関係である,という点に気づかれるでしょう。
3 (イ)どのような意味で聖書は意思伝達の手段となっていますか。(ロ)この点で,わたしたちはマタイ 15章1-9節から何を学びますか。
3 しかし,意思伝達の別の手段は文字になったことばです。あなたが今読んでおられるものもそのことを示しています。印刷された紙面があなたに何かを伝えています。もちろん,そのいちばん良い例は聖書です。聖書は教会の礼拝では依然使用されてはいますが,キリスト教国を含め今日の世界の大多数の人は,それを神の著作であるとはみなしていません。しかし,そのことで驚いたり,聖書を退けてしまったりしてはなりません。こうした事態はイエスの時代に見られたものと似ています。パリサイ人と書士たちは,自分たちこそ律法に従う者であるとがん強に主張しましたが,イエスが指摘したとおり,彼らが堅くきちょうめんに守っていたのは父祖たちからの伝統であり,それによって『神のおきてを踏み越える』結果になっていました。書き記された神のことばであるヘブライ語聖書に落ち度があったのですか。そうではありません。彼らは,最初の基本的な点,つまりエホバに対する献身という良い関係を保つ面で失敗していたのです。イエスはイザヤの預言を引用しつつ彼らについてこう語りました。「この民は口びるでわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのはむだなことである。人間の命令を教理として教えるからである」― マタイ 15:1-9。
4 わたしたちは,受け入れ,答え応じる力のあることをどのように示せますか。それはどのような結果を生みますか。
4 聖書の全巻を持つ今日のキリスト教世界の牧師と同じように,それらの人々も記されたみことばの述べる事がらを十分に知ってはいましたが,それが伝えようとしている音信と精神に対してはめしいまた耳しいとなっていました。しかし,そうした時代にも例外的な人々がいました。そして,あなたも今日の例外の中に入ることができます。さきのことばより少し前,イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは,天の王国についての神聖な奥義を理解することを聞き入れられていますが,あの人びとは聞き入れられていません。……『この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,わたしが彼らをいやす,ということが決してないためである』。しかし,あなたがたの目は見るゆえに,またあなたがたの耳は聞くゆえに幸いです」― マタイ 13:11-16。
5 地上における他の創造の業と比べ,人間の創造についてきわだっているのはどんなことですか。
5 あなたを幸いな例外の中に数えつつ,わたしたちは意思伝達の歴史を振り返り,それがどのように始まり,それから何を学べるかを見ることにしましょう。創世記第一章の創造に関する記述を見ると,六日めに至るまでのそれぞれの日は,ある事がらが起こるようにという意味のヘブライ語の動詞で動作の紹介されている点が注目されます。そうです,神はご自分の指示を伝達しておられたのです。しかし,それに答え応じている者のことは述べられていません。ところが,地上創造の最後を飾る行為の時になると,大きな変化が注目されます。こう記されています。『神言ひたまひけるは 我らにかたどりて我ら人を造らん』。部下に対するかのように命令を発することのできる立場にありながら,創造者はここで協力を呼びかけておられます。親切な親しみ深い気持ちがこめられています。良い関係,幸福な協調関係です。夫と妻の間にもそうした関係があるべきです。夫であるかたでしたら,自分の妻に対してそのように,つまり,「さあ,いっしょに……しよう」と語りかけますか。―創世 1:3,6,9,14,20,24,26。
6 この点で,会衆内の長老たちにどんな導きが与えられていますか。
6 ここでわたしたちは特に結婚の関係を取り上げていますが,同じ原則は他の関係にも当てはまります。一例として,長老もしくは監督である人と,エホバの証人の会衆内の他の人々との関係もそこに含まれます。長老である人には特別の責任があり,それに伴ってある程度の権威がゆだねられてはいますが,全体的な態度と意思伝達の方法は,命令するのではなく,協力を誘うものであるべきです。ある特定の区域で証言しているさいにぶつかるものなど,何かの問題を持つ人を助ける時には,単にどうすべきかを告げるのではなく,「行ってこの問題にいっしょに取り組みましょう」と言うほうがはるかに優れています。利己心のない愛の献身という暖かな精神が伝えられるべきですが,それは,わたしたちの言う事がらだけでなく,声の調子や行動にも示されるべきです。テサロニケの会衆に書き送った使徒パウロの手紙の中に,これがいかにはっきりと,また美しく表明されているかを見てください。「あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」。良い関係の優れた模範がことばと行動の両面で示されており,それが滑らかな意思の伝達という結果になっているではありませんか。―テサロニケ第一 2:8。
滑らかな意思伝達の良い模範
7 神が創世記 1章26節に記録されることばをだれに語ったかという点を,ヨハネはどのように明らかにしていますか。
7 わたしたちの元の話に戻ることにして,人間の創造の時にエホバがだれにご自分の意思を伝達しておられたかがわかるでしょうか。その答えは,人間が神の像とさまに造られているということの意味を深く認識する助けとなるでしょう。ヨハネは,イエスに関する福音書の導入部分でイエスのことを「ことば」と呼び,その「ことば」が「初めに神とともに」おり,人間を含め「すべてのものは彼を通して存在するように」なったとしています。ヨハネはさらに,「ことばは肉体とな(り)……わたしたちはその栄光……を目にした。……過分の親切と真理とに満ちていた」と述べ,「父に対してそのふところの地位にいる」彼が「[父]について説明した」と記しています。イエスについてのこの喜ばしい描写は,非常に良い関係と容易な意思伝達とがあることをよく物語っています。―ヨハネ 1:1-3,14,18。箴言 8:22,30,31もご覧ください。
8 「ことば」という称号にはどんな意味がありますか。これはどのような意味でイエス・キリストに当てはまりますか。
8 この点は,「ことば」という称号に含まれる意味にも示されています。この称号には,音信を携える者もしくは代弁者という意味があります。これは,垂れ幕のかかった窓の前に立ち,窓の内側にいて外からは見えない王からの音信を大声で他の人々に伝えた往時の伝令官に似ています。その役人は,「王の声もしくはことば」という意味で「カル ハツ」と呼ばれました。神のみ子について言えば,彼はその父エホバの口もしくは代弁者でした。そして,何にせよ,創造者が伝えようとする事がらを他の者に伝達する上で信頼に答える者となりました。イエスは地上での宣教の間も同じようにして忠実に仕えました。ある時こう言われました。「わたしは自分の思いつきで話したのではなく,わたしを遣わした父ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。……それゆえ,わたしの話すこと,それは,父がわたしにお告げになったとおりに話している事がらなのです」。イエスはハルマゲドンの戦いで神の義の裁きを執行する天軍を率いるさいにも「神のことば」と呼ばれており,そのさいにも同じ資格で語りかつ行動します。―ヨハネ 12:49,50; 14:10。啓示 19:13。
9 創世記 1章26節の中にどんな優れた模範が示されていますか。それに従うことは今日でも可能ですか。
9 こうした点に留意したわたしたちは,人間が偉大な創造者とその愛されるみ子の像とさまに創造されているということを考え,そのことを深く銘記すべきではありませんか。わたしたちがこの点について認識でき,互いに語り合えるということ自体,このことの真実さを示しています。さらにエホバは,書き記されたそのみことばの中で,良い関係と意思伝達の模範を親切にも示してくださいました。罪と不完全さの六千年が経過した今日でも,その模範に倣うことは可能です。幾十万というエホバのクリスチャン証人は,神の助けを得つつ,まさにそうした努力をしています。夫と妻としてあなたがたもそうしておられますか。
10 人間的な知恵に頼る人々が結婚生活上の問題を十分に処理できないのはどうしてですか。
10 この模範をさらにつぶさに見て,わたしたちがまねるべき基本的特色,また避けるべき事がら,そして,必要なら一掃すべき事がらを見るようにしましょう。事実,それだけが,わたしたちの直面する問題や難しい事態,特に結婚関係で直面するそうしたものと取り組み,それを克服するのに有効な方法です。そうした問題に関心を持ち,忠告や解決策を差し伸べようとするさまざまな社会機関の広める種々の考え方があることは確かです。そうした人々の動機を疑うものではありませんが,そうした努力はせいぜい,心理学の分野における人間的な知恵の結集にすぎない,という点を述べねばなりません。事実上,そうした人々は,結婚とは一つの人間関係であり,そうした観点に立って扱われねばならない,と述べています。つまり,この関係の創始者としての創造者の本来の地位を認めず,また,あらゆる人間関係に関する助言と教えを含む聖書が創造者自身の著作であることを認めていません。患者や相談者に対し,物事の最終的な権威として聖書を指摘する精神病医のことをだれが聞いたことがあるでしょうか。またこの点で言えは,こうした問題の処理に当たり,自分の信徒にそのような道を勧める司祭や牧師がどれほど多くいるでしょうか。
11 (イ)人間が進化したのでないことはどのように明らかですか。(ロ)創世記 2章23節にある,記録された,アダムの最初のことばは何を明らかにしていますか。
11 しかしわたしたちは,世の知恵を退け,偉大なる医師が備えてくださった書物をひもとき,『疑うことなく』,確信と期待をいだいてその助けを求めます。(ヤコブ 1:6)創世記 1章26節から先を読みつづけると,人間が,世の知者たちの教えるごとくに進化したのでないことは明らかではありませんか。『エホバ神が男から取ったあばら骨でそののち女を造り,それを男のところに連れて来られた』時,どのようなことが起こりましたか。男はことばを出せないで当惑したわけではありません。是認のほえ声や,非認のうなり声で彼女を迎えたのではありません。むしろ彼は,この,きわめて驚くべき,またうれしい贈り物,理想的な助け手であり,自分を補うものに対する自分の反応を,直ちに声を出して伝達しました。その語ったことから考えると,彼は単にそこに立って彼女を見ていたのではなく,意味と感情のあふれる次のことばを語りつつ彼女を強く引き寄せていたものと思われます。
「これこそついにわたしの骨からの骨,
わたしの肉からの肉。
これは女と呼ばれるであろう。
男から取られたからである」。
これはまさに詩をなしています。形の点からも,むだのない言いまわしからもそう言えます。それぞれの句が次の句とぴったり調和し,考えの連続と完全なつりあいとが保たれています。この点は原語においてはもっとはっきり見られたに違いありません。人間は確かに神の像に造られ,意思伝達の優れた能力を付与されたのです。―創世 2:22,23,新。
12 神のことばは,心をそそるどのような調子でしめくくられていますか。
12 こうして神のことばは,その初めの部分から,天と地の双方における,各個人間の意思の伝達について,興味深く,また励みになる記述を載せています。わたしたちの心をそそる点ですが,神のことばはまた,鳴り渡るような絶頂的な文句で終わっているのではなく,明らかに幸福な関係を相互に持つ二人の者の個人的な会話という親しみ深い調子で結ばれています。「これらのことについて証しされるかた[イエス・キリスト]が言われる,『しかり,わたしは速やかに来る』」。ついでわたしたちは,老齢の愛される使徒ヨハネが,その目を輝かせながら,「アーメン! 来たりませ,主イエスよ」と熱心に応じるのを聞きます。そうです,早く来てくださるほうがよいのです。これがこの部分の雰囲気です。―啓示 22:20。
障壁を乗り越える
13 意思伝達のきずなと程度は人間の違犯によってどのような影響を受けましたか。
13 アダムとその妻が創造者に対し,また互いに対して良い関係を保っているかぎり,なんの問題も生じませんでした。しかし,意識的な違犯によってその関係が断たれると,意思の伝達を阻む障壁がすぐにできました。園の中でエホバの声を聞いた時,「人とその妻はエホバ神の顔から隠れようと」しました。それは,アダムが述べたとおり,「怖かった」ためです。彼らは神の前にまともに立つことができず,神が自分たちに何を言われるだろうかと恐れの気持ちに満たされました。男とその妻との間の意思の伝達という点を考えると,それが心暖まるものであったはずはありません。詳細な点は述べられていませんが,エホバに対するアダムの自己弁護的な説明の中にそれが示されています。「わたしといっしょになるようあなたが与えてくださった女がその木の実をくれたので,そのためわたしは食べました」。加えてエホバは次のことを告げられました。「あなたが慕い求めるものはあなたの夫であり,彼はあなたに対して権力を振るうであろう」。後に取り上げるとおり,この「権力を振るう」ということばが,特に妻の側からの意思伝達が難しくなる主要な理由の一つを示しています。―創世 3:8-16,新。
14 (イ)神とともに歩むとはどういうことですか。(ロ)ヘブライ 11章に繰り返されている「信仰によって」という表現にはどのような意味が含まれていますか。
14 これは,わたしたちの立場が望みのないもので,問題を乗り越える見込みがない,という意味ですか。創世記の中には,ある人々に関して,それを否定する一つの表現があります。エノクとノアに関して,この二人がまことの神とともに歩みつづけた,つまり,単に時おりではなく,その全生涯にわたってともに歩み通したことが述べられています。アベルの場合もそうであったに違いありません。(創世 5:22-24; 6:9)二人の者がともに歩みつづける場合,当然そこにはしっかりした関係と,自由な意思の交流とがあるはずです。そのことは,これら三人および他の多くの人について用いられている別の表現によっても示されています。アベルをまず初めとして,パウロは,ヘブライ 11章に名を挙げられる人々が「信仰によって」神への忠節と献身を実証し,「ご自分をせつに求める者に[神が]報いてくださる」ことを信じていたと述べています。こうした資質こそ,まねるべき模範の基本的な部分をなしています。―ヘブライ 11:4-6。
15 なぜエホバは罪に起因する障壁を取り除かれましたか。わたしたちはそのことにどのように答え応ずるべきですか。
15 障壁を乗り越えられるようにしてくださったのはあわれみと,愛のこもった親切の特質を持たれるエホバご自身です。『エホバは我らのつくられしさまを知り われらの塵なることをおもひたまふ』のです。しかし,わたしたちとしては,正しい心の態度,あるいは少なくとも,正しい態度を教えられたいという意欲を持たなければなりません。『エホバのあはれみは……エホバをおそるるものにいたり……そのみ諭しを心にとめて行なふものに至る』からです。(詩 103:10-14,17,18)片意地な,あるいはごう慢な態度があってはなりません。積極的な面に目を向けてパウロが名を挙げる人々をさらに見ると,二人の人,つまりアブラハムとモーセが目にとまり,その二人から,わたしたちが倣うべき模範について多くのことを学べます。
16 (イ)人の関係ということについてどんなことが注目されますか。(ロ)アブラハムは自分の信仰と献身をどのように実証しましたか。それはどんな結果になりましたか。
16 人の関係というものは,静止していることはめったにありません。それは発展するか後退するかのいずれかです。また,その成長は健全であるか健全でないかのいずれかです。これはわたしたちが注意し,また守るべき点です。夫と妻として人が緊密な関係でともに生活している場合は特にそうです。まず初めに相互の信義と信頼があるかもしれませんが,それをあたりまえのものとみなすべきではありません。むしろ,ごく小さな事がらにおいてもそれらの優れた資質を発揮する点で機敏であってください。創世記第12章に始まる記録が示すとおり,アブラハムはその全生涯にわたってそのことを行ないました。パウロは,アブラハムが機敏な従順によってエホバに対する強固な信仰と献身を実証した三つの大きな事例を挙げています。つまり,(1)召された時に自分の国と郷里の町をあとにしたこと,(2)幾年もの間『異国にいで……外国人として』居留したこと,そして特に,(3)「イサクをささげた」ことです。(ヘブライ 11:8-10,17-19)前述のことがヤコブによっても裏付けられている点に注目してください。ヤコブはここに挙げた最後の点に言及してこう述べます。「あなたがたは,彼の信仰がその業とともに働き,彼の業によってその信仰が完全にされたのを見ています。そして,『アブラハムはエホバに信仰を置き,彼に対してそれは義とみなされた』と述べる聖句が成就され,彼は『エホバの友』と呼ばれるようになりました」。健全な成長が優れた関係に発展したではありませんか。喜びあふれる結末ではありませんか。アブラハムはエホバに対して大きな信仰を持ち,エホバはご自分の友に対して強固な信頼感をいだかれました。―ヤコブ 2:21-23。創世 18:19。ローマ 4:16-22。ガラテア 3:7-9。
17 (イ)イエスは追随者たちのためにどんな模範を示されましたか。(ロ)交友ということには何が伴いますか。その点はアブラハムの場合にどのように見られますか。
17 イエスは,滑らかな意思の伝達と関連のある真の交友関係の模範について話されました。謙遜さ,そうです,へりくだった態度,それにすすんで仕えようとする態度が加わること,これがその模範の重要な部分です。弟子たちと過ごしたあの最後の晩に弟子たちの足を洗ったのち,イエスはこう言われました。「わたしが,主また師でありながらあなたがたの足を洗ったのであれば,あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。わたしはあなたがたのために模範を示しました。あなたがたも,わたしがあなたがたにしたと同じようにするためです」。同じ夜のしばらく後,イエスは彼らにこう語りました。「わたしが命令していることを行なうなら,あなたがたはわたしの友です。わたしはもはやあなたがたを奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなたがたを友と呼びました。自分の父から聞いた事がらをみなあなたがたに知らせたからです」。(ヨハネ 13:14,15; 15:14,15。フィリピ 2:3)イエスは彼らに内密な事がらを話し,何事も秘めてはおきませんでした。同様にエホバも,アブラハムに対して,ちょうど友に対するように語りかけ,ある時にはきわめて親密なしかたで長いこと話されました。それはソドムとゴモラに関するアブラハムの執り成しを入れられた時であり,創世記の18章に記録されています。アブラハムの妻サラもここに登場します。彼女は仕えるためにすばやく行動しました。信仰を働かせました。また,深い敬意を示しました。そしてペテロは,妻である人たちが「彼女の子ども」となれることを述べています。「もっともそれは,あなたがたがいつも善を行ない,どんな恐ろしい事をも恐れずにいるならのことです」― ペテロ第一 3:5,6。創世 18:6。ヘブライ 11:11。
18 モーセの場合にきわだっていたものはなんですか。意思の伝達という面でどんな特別なことがありましたか。
18 アブラハムの場合に顕著であったものは「エホバの友」としての緊密な関係でしたが,モーセの場合には,例外的な手段で意思の伝達のなされたことがきわだっていました。モーセを批判したことでミリアムとアロンをとがめた時,エホバはこう言われました。『汝らのうちにもし預言者あらば我エホバまぼろしにおいて我をこれに知らしめまた夢においてこれと語らん わがしもべモーセにおいてはしからず 彼はわが家に忠義なる者なり 彼とは我口をもて相語り明かにもの言ひて隠語を用ひず 彼はまたエホバの形を見るなり』。(ヤコブ 2:23。民数 12:6-8)それより幾年も前,『営とはるかに離れて』張られたモーセの天幕をエホバが「会見の天幕」(新)として用いたことがありますが,そのことを描写する記録によると,『民みな幕屋の門口に雲の柱の立つを見……人がその友にもの言ふごとくにエホバ,モーセとかほをあはせてもの言ひたまふ』とあります。これは,意思の伝達という面でのあの壮大なできごとをもたらしました。モーセの求めに答えた『エホバは彼の前を過ぎ』,『エホバ,エホバあはれみあり めぐみあり 怒ることの遅くめぐみと真実の大いなる神』と言明されたのです。―出エジプト 33:7-11,17–20; 34:6,7。
19 モーセが特異な立場を得たことにはどんな理由がありますか。
19 モーセは,エホバとのきわめて緊密な意思伝達の手段を有したという点で確かに特異な存在でした。その理由ですか。一つには,『うなじの強い』,『よこしまな傾向のある』(新)その非常に難しい民の指導者としての必要からであり,また彼自身がエホバへのゆるぎない忠節を保ったためでもありました。(出エジプト 32:9,22,25-29)別の資質についても述べられています。「モーセはそのひととなり温柔なること世の中のすべての人に勝れり」。この点でも彼は特異な存在でしたが,彼に関する最後のことばはさらにこう述べています。『イスラエルのうちにはこの後モーセのごとき預言者おこらざりき モーセはエホバがかほをあはせて知りたまへる者なりき』。―民数 12:3。申命 34:10。
要約
20,21 (イ)個人的な関係と意思の伝達という面で天的な模範から何を学べますか。(ロ)わたしたちは地的な模範からも何を学びますか。
20 では,以上のことをどのように要約できますか。意思の伝達を滑らかにするような良い関係を構成するものはなんですか。霊感のもとに記された聖書を調べると,まずエホバとみ子との手本があります。初めから,純粋で愛のある関心が互いに対して示されていました。『エホバその道の始めとして我をつくりたまひき……我は日々によろこびつねにその前に楽しみ』。エホバは上位者であったにもかかわらず,み子の協力を誘いました。み子としては常に深い敬意を払い,従順を尽くしました。この両者の間には,最も緊密な接触と信頼感とがあります。また,互いに全く和合した関係があります。―箴 8:22,30。創世 1:26。ヨハネ 11:42; 14:10,11。
21 神のことばに記される地的な模範に目を移すと何が見られますか。あなたの配偶者がちょうどあなたと同じように不完全であるとしても,結婚当初だけでなく,いわばたそがれの時期に至るまでも,互いに対する認識を巧みに示す方法を学んでください。誇りや利己心のゆえに権力を振りまわすようなことを避け,自分のやり方だけを押し付けたり,それほど重要でない小さな事がらに至るまでも配偶者が自分のやり方に従うことを求めたりしてはなりません。むしろ,互いがともに歩んで語り合う方法を学び,自分の歩調や気構えを事情に応じてすすんで調節してください。相互の信義と信頼を築き上げ,それを保ってください。自由な意思伝達に対する最大の敵はうたぐりの気持ちです。真の交友のきずなを発展させ,それを強めることに目ざとくあってください。「優しい愛情」,またあわれみと柔和さを努めて実践し,それらを発揮するようにしてください。―フィリピ 1:8。テサロニケ第一 2:8。ヤコブ 5:11。
22 さらにどんな大切な問題は考慮に価しますか。
22 夫婦が誠実を尽くしてこうした努力をしていても,いろいろな問題が容易に起こりがちなものです。このことは双方が真のクリスチャンである場合にも,そうでない場合にも当てはまります。特に家族が分裂している場合,どのようにして忠実の道を保つことができるでしょうか。次の記事の中でこの問いの答えを見つけます。
[499ページの図版]
アビシニアの王の代弁者,「カル ハツ」