所有権の問題を解決する
『それ天と諸天の天および地とそのうちにあるものは皆なんじの神エホバに属す』― 申命 10:14。
1 神の天地の所有権を最初に証しするものは何ですか。そして聖書はそれをどのように支持しますか。
『元始に神天地を創造たまえり』。(創世 1:1)聖書のこの冒頭のことばは,天地の所有者が神であることを率直に証言しています。神はこれらを創造されました。すなわち神は天地をつくり出し,それらを存在せしめられました。神は天地の造り主です。それらは昔も今も神の所有物であり,財産です。神はそれらに対して独占的,絶対的な所有権をお持ちです。神はこれらの財産全部に対して権利をお持ちです。そして聖書はこのことに関する合法的な証拠書類となります。聖書は神の権利証書です。このことは,神のことばである聖書全体に,最後の本であるヨハネへの啓示に至るまで,繰り返し述べられています。―啓示 4:11; 10:6; 14:7。
2 聖書は神の所有権についてさらにどのように証ししていますか。
2 創世記の第1章は,前述のことを明白なことばで引き続き裏づけてゆきます。創造のどの段階においても,なすべきことを命令したのは神でした。神は天と地の生物や無生物のこれこれを『創造りたまえり』ということが幾度も書かれています。神はそれらに名前をつけることもされました。『神光を昼と名づけ暗を夜と名づけたまえり』。そして最後に,『神その造りたるすべての物をみたまひけるに甚だ善りき』とあります。それはエホバの是認の印を得ました。エホバ神が『地と天を造りたまえる日に』,すべてのものは唯一の真の神エホバに属していました。(創世 1:5,31; 2:4)後日,モーセは霊感を受けてイスラエルに次のように述べ,このことを確証しました。『それ天と諸天の天および地とそのうちにあるものは皆なんじの神エホバに属す なんじの神エホバは神の神主の主大いにしてかつ権能ある畏るべき神にましま(す)』― 申命 10:14,17。
3 このことに関し,なぜ人間の創造は特別の注意を要求しますか。
3 人間の創造は,地上における創造のわざの最後を飾るものであり,わたしたちが特別の注意を払うに価するものです。それを言うことは同時に所有権に関する問題の発展もしくは拡大を示すことでもあります。服従のことなどさまざまな面が述べられており,いろいろな程度の相対的もしくは限定された所有権とそれに伴う責任が示されています。このことに関してなんと言われているか注意してみましょう。
4 (イ)『われらの像のごとくにわれら人を造り』という表現から,わたしたちは何を学びますか。(ロ)神のことばは,創造にさいして用いられた働き手がだれであったかを,どのように明らかにしていますか。
4 記録の中で初めて,ある者が創造に協力するよう求められます。『われらに象てわれらの像のごとくにわれら人を造り これに海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地にはうところのすべての昆虫を治めしめ[服従させ,新]ん』。この協力関係は,神の所有権が多少とも譲渡されること,あるいは共同所有となることを意味しているでしょうか。そうではありません。その次に書かれているように,首導権と責任と監督権とは完全に神の手中にありました。『神その像のごとくに人を創造たまえり すなわち神の像のごとくにこれを創造 これを男と女に創造たまえり』。(創世 1:26,27)エホバが創造にさいして働き手としてお用いになったのは,人間になる以前の,いまイエス・キリストと呼ばれているかたであったことが,他の聖句から分かります。知恵が擬人化されたようなかたであるイエス・キリストは,「[エホバの]みわざの始め」であり,エホバの「熟達した働き手」でした。彼は「ことば」でした。彼を通して「[他の]すべてのものは……存在するようになり」ました。彼は「見えない神の像であり,全創造物の初子です」。したがって人間の創造に関係したことはふさわしいことでした。人間も神の像に造られたからです。イエス・キリストが,「わたしたちの唯一の所有者[あるいは主人]また主」として語られていることは事実です。しかしこの称号は,のちほど述べるとおり,彼が買いもどすことを行なったために与えられたのであって,神が創造をされたさいに働き手としての役目を果たしたから与えられたのではありませんでした。―箴 8:22,30。ヨハネ 1:1-3。コロサイ 1:15,16。ユダ 4。
5 人間にある程度の所有権があることを示すのにどんな聖句が引用できますか。
5 しかしながら,人間が創造され,『生めよ繁殖よ地に満てよ これを服従せよ また海の魚と天空の鳥と地に動くところのすべての生物を治めよ』との使命を授けられたとき,人間は相当程度の所有権を与えられたのかどうかということについて疑問が生じます。(創世 1:28)この聖句から考えるとそれは与えられたと言えるかもしれません。人間が神の像に造られたということには,所有権を行使する能力も与えられたということが含まれていなかったでしょうか。このことを裏付ける他の聖句も頭に浮かぶかもしれません。大洪水のあと神は,「すべての生き物」についてノアに,「これらはいまあなたがたの手に与えられる」と言われました。それからダビデがエホバに語ったときの,『これに手のわざを治めしめ万物をその足の下におきたまえり』ということばも思い出されます。また詩篇作者の次の有名なことばを思い浮かべるでしょう。『天はエホバの天なり されど地は人の子にあたえたまえり』― 創世 9:2,新。詩 8:6; 115:16。
6 どんな聖句でもその文脈を検討することはなぜ大切ですか。
6 たしかに前述の聖句が所有権のことを述べていることは認められます。しかしその所有権はせいぜい相対的なもの,あるいは制限された範囲のものです。それぞれの場合の文脈を見るなら,そのことは明らかになります。これは,どんな問題にせよ,神のことばを正しく理解しようとするときにいつでも大切なことです。
7 所有者としての人間の立場についてわたしたちは(イ)創世記 2章15-17節,(ロ)創世記 9章3-6節,(ハ)詩篇 8篇,(ニ)詩篇 115篇からどんなことを学びますか。
7 人間の本来の地位に関しては,『エホバ神その人をとりて彼をエデンの園に置きこれを理めこれを守らしめ給えり』ということを読めば,真の所有者がだれであったか明白です。その次にはこのように書かれています。『エホバ神その人に命じて言いたまいけるは 園の各種の樹の果はなんじ心のままに食うことを得 されど善悪を知るの樹はなんじその果を食うべからず なんじこれを食う日には必ず死ぬべければなり』。(創世 2:15-17)その人の命は,創造者と所有者への服従にかかっていたのですから,その人には確かに,自分がだれに属するかを忘れる理由も口実もありませんでした。同様に,神がすべての生き物をノアの手に与えられたときにも,そのあとすぐに,血を食べることと人間の血を流すこととを厳重に禁止することばが書かれています。このこともまた,すべての生き物の血によって象徴される命の窮極の所有者がだれであったかを強調しています。(創世 9:3-6)また詩篇の8篇を調べてみると,地の所有権が人間に譲渡されていることを暗示するものは何もなく,むしろその主題は全体が,万物を所有し支配されるかたの誉れとなり賛美となるものであることがわかります。『われらの主[主人,所有者]エホバよ なんじの名は地にあまねくして尊きかな』。(1,9節)詩篇 115篇を見ても主題は同じようです。特に冒頭のことばに注意してください。『エホバよ栄光をわれらに帰するなかれ われらに帰するなかれ なんじのあわれみとなんじのまこととの故によりてただ名にのみ帰したまえ』。これはエホバが事実上の所有者であるばかりでなく,すぐれた,価値のある所有者であることを強調しています。エホバにまさる所有者はあり得ません。
8 (イ)人間は創造者によってどんな立場に置かれましたか。(ロ)このことは一般に認められていますか。どんな質問が生じますか。
8 すでに検討した聖句からわたしたちは,人間が最初非常に信頼された,大きな責任のある立場を与えられたことを理解することができます。自由な道徳的行為者として神の像に創造されましたから,あらゆる要求を満たすのに必要な能力をすべて備えていました。エホバは土地所有者でした。人間は地球全体を管理する者となることを頼まれた小作人でした。人間は尊いものを預けられ財産管理人とされたのです。そのことは明白です。しかし次のことも同様に明らかです。つまり人間は今日,一般的にいって,この点にかんしなんの責任も自覚していないということです。実際はその逆です。どうしてそのようになったのでしょうか。所有権に関する疑問はどのように問題になったのでしょうか。そしてどのように解決されるでしょうか。さらに,わたしたちは個人としてこのことにどのように関係しており,どんな結果がわたしたち自身に及ぶでしょうか。これらの質問に対して正しい答えを得ることにわたしたちは本当に関心をいだいています。
所有権に関して生じた問題
9 禁じられた実を食べることは何を意味しましたか。
9 悪魔サタンが禁じられた実を食べるようエバを誘惑したとき,その所有権のことは直接には話に出ませんでした。しかし,ある物を食べるときにどんなことが起こるか,ちょっと考えてみましょう。それがいったん自分の手,あるいは自分の皿の上に乗ると,権利のあるなしはともかくとして,あなたはそれを手に入れたのです。しかしそれを食べてしまったあとは,それを実際に自分の一部にしてしまったのです。どんなことを言って言いわけや告白をしようとも,あなたはそれを自分のものにしてしまったのです。エバの場合がそれでした。彼女は,『なんじらこれを食べからずまたこれにさわるべからず 恐らくはなんじら死なん』という命令を繰り返して述べたばかりでしたが,次を見ると『その果を取りて食いまたこれをおのれとともなる夫に与えければ彼食えり』と書かれています。(創世 3:1-6)彼らにそのような行動をさせたサタンの論議は,彼らにはそれを食べる権利がある,という意味を含んでいました。こうしてアダムとエバは二人とも,ことばより雄弁に語る意識的,反抗的な行動により,その禁じられた木を,自分たちが食べる権利を与えられている他のすべての木と少しも変わらないものであるとしました。しかしふたりは,禁じられた実を食べたすぐのちに,木についての自分たちの判断は正しかったと感じたでしょうか。彼らが良心に責められたことは,彼らがそう感じなかったことを示しています。彼らが禁じられた木から取って食べた実をまたその木に戻すことができなかったのは事実です。しかし,食べた実が体に吸収されても,禁じられた実を食べる正当な権利があるという感じを持つことはできませんでした。いまや彼らは自分が裸であることを自覚し,それを隠すために木の葉で腰おおいを作りましたが,その葉は禁じられた木から取ったものではなく,イチジクの木から取ったものでした。問題全体は,あたかも酸いブドウを食べたかのような結果になりました。―エゼキエル 18:2。
10 これがある物質だけの問題でなかったことについて述べなさい。さらにどんな疑問が生じますか。
10 それでも神の正当な所有権に関する問題は生じました。この問題が決してある物質,つまり特定の木の実だけの問題でなかったことに注意してください。人間自身はどうですか。命だけでなく,忠節,献身,感謝といったりっぱな道徳的資質はどうですか。これらの資質はみな,エホバの誉れとなり賛美となるよう常に示されるべきもの,エホバに対する積極的な従順と服従とによって証明されるべきものではないでしょうか。人間は命とそのすべての可能性および恵みを完全に神に依存してはいませんか。そのように依存しているという認識は,神の正当な所有物として常に正しく神に示されるべきものではありませんか。
11 (イ)パウロはコリント人に手紙を書き送ったときに,同様の論議をどのように用いましたか。(ロ)これには関係と所有権のどんなつながりが示されていますか。
11 パウロはコリントのクリスチャンに手紙を書き送ったとき,これに似た論議を用いました。「しかしわたしは,へびがそのこうかつさによってエバをたぶらかしたように,あなたがたの思いが腐敗させられて,キリストに示されるべき誠実さと貞潔さから離れるようなことになりはしまいかと気づかっているのです」。それらのクリスチャンたちの誠実で貞潔な行ないは正当にキリストのものでした。その理由をパウロは次のように説明しています。「あなたがたを貞潔な処女としてキリストに差し出すため,わたし自身があなたがたをただひとりの夫に婚約させたからです」。こうした関係の問題を正しく聖書的に理解することは,所有権に対する正しい見方を得るのに役立つので,わたしたちはこうかつな詭弁にたぶらかされないですみます。―コリント第二 11:2,3。
12 エデンにおける反逆に対して神はどう反応されましたか。
12 人間の最初の両親は,不従順と独立,すなわち堕落の道を意識的に選びました。彼らは彼らに対する神の所有権を事実上否認したのです。自分たちは自分たちのものまたお互いのものであって,神のものではない,という見方を取りました。彼らは神との良い関係を断ち切りました。この挑戦に対して神はどう反応されましたか。神は彼らおよび彼らの住居であったエデンに対するご自分の所有権を放棄されましたか。決してそのようなことはされませんでした。神は彼らの立法者であり審判者でした。それで神はいまやこの資格で行動されました。判決を下したあと,神は彼らをエデンの園から追い出し,そこにもどることを不可能にすることにより,とりわけ「生命の樹の途」を守ることによって,ご自分の財産を保護されました。―創世 3:24。
13 創世記 3章15節の預言はだれのために与えられましたか。それはどんなことを保証しましたか。
13 それ以後神はアダムとエバが自力でやってゆくよう彼らを完全に放置された,と言えるかもしれませんが,彼らの子孫はそのようには扱われませんでした。ヘビに刑を宣告されたときに神は,女のきたるべき「裔」に関する預言をされました。その裔はヘビの頭を砕きます。(創世 3:15)これがいつどのようになされるかについては詳しいことは示されませんでしたが,その預言は,人間の反逆による挑戦に対し神が満足のゆく答えをお与えになることを,はっきりと約束しています。したがってそれは,悪と悪を行なう者たちの存在を一時的に許してはおられても,天地はそのすべての住人を含め,依然として神の所有物であることを示すものでもありました。
14 アベル,エノク,ノアは,神の彼らに対する所有権を認めていることをどのように示しましたか。
14 このことの裏付けとして,パウロがあげた三人の信仰の人,アベル,エノク,ノアについて言われていることに注意してください。彼らは『神とともに歩み』ました。パウロはそのことをヘブライ 11章1節から7節で確証しています。(創世 5:24; 6:9)彼らは自分たちに対する神の所有権を認め,誠意のこもった献身と服従の精神をいだいて従順の道を忠実に歩みつづけることにより,そのことを証明しました。不利な圧力が強いときにも彼らは,誠実な,そしてまた貞潔な態度で,神のものを神にささげました。
15 (イ)一般の人類はどんな道を追い求めましたか。それにはどんな問題が関係していましたか。(ロ)これらの問題に対しエホバはどんな態度を取られ,またどんな目的を持っておられますか。(ハ)イエスは正しい態度についてどんな模範を示されましたか。
15 すでに述べた少数の人々は別として,人類の大多数は独自の道を歩みました。所有権にかんする問題は解決するどころではありませんでした。アベル以降,その少数の人々は,その生活の仕方により,関係している正しい原則を示しました。しかし記録に示されているとおり,大多数の人々はその良い模範を無視しました。あるいはそれに憤慨して激しく反対しました。(ヘブライ 11:36-38)地球とその住民を実際に所有するものがだれであるかを思い出させる大事件であったノアの日の洪水さえも,人間のわがままで利己的で不従順な行ないを一時食い止めたにすぎません。このことは偉大な所有者であるエホバを嘆かせましたが,驚かせはしませんでした。密接な関係のある他の問題も含まれていました。主権すなわち支配権,および崇拝がそれです。サタンは,これらの問題に関連して挑戦的な疑問を投げかけていました。そしてエホバは,反逆の始まった時から予知しておられた目的を着々と進めておられました。この目的が完全に成就する時には,神が最高の所有権をお持ちになる事実のみならず,神がその地位に最もふさわしいかたであることや,そのことを認める義務が人間にあることが永久に実証されるでしょう。イエスは荒野で受けた最後の誘惑に対し,「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない」と答えられましたが,それと同じ方法で正しい関係を保ちつづけている人々はこれを認めていることを言い表わしています。また彼らは最後の試みにいたるまでそれを言い表わすことでしょう。―マタイ 4:10。ヨブ 1:7-12; 2:2-5。イザヤ 46:9-11。啓示 20:7-9。
16 所有権の問題はいつどのように国家的レベルのものとなり,どんな結果を招きましたか。
16 大洪水後まもなく,所有権の問題は再燃しました。ノアの曾孫ニムロデは全人類の支配をねらっていました。彼は自分の土地に町々を建ててそれを自分の支配下に置きました。これが『彼の国の起初』でした。それから『彼はその地からアッスリヤに出て』征服し,他の町々を建てました。この精神に影響されて,大胆不敵な計画が立てられ始めました。人の子たちは申し合わせた行動を取りこう言いました。『いざ邑と塔とを建てその塔の頂を天にいたらしめん かくして我ら名を揚げて全地の表面に散ることを免れん』。エホバは彼らのことばを乱すことによってその挑戦に応じ,『彼らをかしこ[バベル]より全地の表面に散らし』ました。しかし彼らはその同じ思いと精神を携えて行きました。そして国家群がしだいに形成されてゆき,所有権と支配権の問題はいまや国家的レベルの存在となって,今日に至るまで計りしれない悲しみと敵意を生み出してきた偏狭な愛国主義や競争意識,戦争などを招く結果となりました。―創世 10:8-12; 11:1-9。
17 (イ)エホバはどのように国家的レベルの活動を開始されましたか。(ロ)イスラエルはどのように不忠実で無価値なものであることを示し,どんなときにそれは絶頂に達しましたか。
17 予定の時にエホバも国家的レベルの行動を開始されました。エホバは,イスラエルと改名されたヤコブの12人の息子からイスラエル国民をつくられました。シナイ山でエホバは彼らに言われました。「もしあなたがたがわたしの声に厳密に従い,わたしの契約をほんとうに守るなら,あなたがたは確かにほかのすべての民の中にあって,わたしの特別の所有物となる。全地はわたしのものである」。(出エジプト 19:5,新)申命記には「特別の所有物」という表現が三回出てきます。いずれの場合の文脈をみても,崇拝と所有権について取るべき正しい見方と行動が強調されています。(申命 7:6; 14:2; 26:18,新)しかしながら,国民としてのイスラエルは,彼らに対する神の処遇にこたえる,つまり服従する,あるいは神の預言者のことばに注意することを幾度も怠りました。王または立法者としてのエホバの彼らに対する所有権を彼らは否認したのです。(サムエル前 8:7。イザヤ 33:22。エゼキエル 20:13,30-32)神がご自身の愛するみ子を彼らにお遣わしになったときにそれは絶頂に達しました。彼らがそのみ子をメシアとして受け入れるべき理由は十分にありました。しかし彼らは指導者たちに影響されてみ子を退け,殺してしまいました。このことはイエスご自身が,エホバを『耕作人たちにぶどう園を貸し出した』「ぶどう園の持ち主」になぞらえた例えの中で,明確に描写されています。―ルカ 20:9-16。
問題解決の基礎が固められた
18 (イ)西暦33年のペンテコステにどんな新事態が発展しましたか。(ロ)その時ペテロはどんな重要な真理を聴衆に理解させましたか。
18 それらの宗教指導者たちは,今後もひきつづき疑う余地のない勝利者,民衆の主人としての立場が保てる,と思っていました。ところがそうはいきませんでした。イエスがはりつけになってから52日めに当たるペンテコステの祝いのときに,異言という奇跡の賜物を伴う聖霊が,エルサレムにいたイエスの弟子たちに注がれました。たちまちのうちに群衆が集まりました。使徒ペテロは彼らに向かって,イエスを亡き者にした責任が彼らにあることをはっきりと告げました。しかし,このことは「神の定まったみ旨と予知とによって」起きた,ということもつけ加えました。それはエホバの目的の重要な部分の成就でした。ペテロはさらに,神がイエスを復活させてご自身の右に高め,「主ともキリストともされた」ことを語りました。―使徒 2:22-24,32-36。
19 ペテロとユダは,イエスの正当な地位についてなんと述べましたか。そしてパウロはそれをどのように確証しましたか。
19 ペテロはこのほかに三回,人々やサンヘドリンの前で,イエスが「命の主要な代理者」であること,「角の頭[石]」となられたこと,そして『ほかのだれにも救いはない』ということをつけ加えて,この同じ真理を力説しました。(使徒 3:15-18; 4:10-12; 5:30-32)それから幾年もののち,ペテロとユダは両者とも彼らの手紙の中で,「自分たちを買い取ってくださった主人」,「わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリスト」「のことをさえ否認」する偽教師のことを警告しました。(ペテロ第二 2:1。ユダ 4)したがって次のことが明らかになります。つまりイエスが所有権の問題の解決の中心となること,そして彼の死と復活とによって最初の重要な段階である基礎が固められ保証されたことは,神が予知しておられた目的であったということです。パウロはアテネの人々に言いました。「[神は]ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」― 使徒 17:31。
20 神の愛と義に一致して,イエスはどのように人類の所有者になりましたか。
20 他の聖句は,イエスがどのように全人類の所有者になられたかについて詳しく述べています。それらの聖句を簡単に調べてみますと,使徒パウロはローマ 5章12節から21節で,アダムが反逆によって自分自身と自分の子孫(アダムの腰にあってまだ生まれていなかった)を売り渡して奴隷とし,罪および死という王に隷属する者となったことを説明しています。しかし神はその大いなる愛とあわれみにより,しかも厳正な義との調和を失うことなく,和解の手段を設けてくださいました。これには,人間を買いもどして有罪の宣告から解放し得る十分の代価を準備し支払うことが要求されました。その代価は完全な人アダムと完全につり合うものでなければなりません。神はひとつの奇跡により,天にいるご自分のみ子が地に来るよう,誕生して完全な人間に成長するよう,取り計らわれました。イエスは自ら進んでこのことを行なわれ,ご自分で言われたとおり,実際に「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与え」られました。パウロは次のように書きました。「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。神はこの取決めの創始者であるばかりでなく,創造者なる所有者でもありました。したがって,これはいまや共同所有の問題となったということができます。―マタイ 20:28。テモテ第一 2:5,6。使徒 20:28。
21 一般の人類はどのように,そしていつ贖いの益を受けますか。
21 キリストの贖いの犠牲を信じ受け入れる信仰を通して神が人に帰負される義は,「無償の賜物」と言われています。(ローマ 5:15-17; 6:23)一般の人類は,神の王国が治める一千年の間に,贖いの益を受けます。いままでのところ,大多数の人はこの備えのことをまったく知らずに生活し死んでゆきました。しかし神の王国の支配の下では,「記念の墓の中にいる者がみな」復活してきます。そしてすべての人が,王すなわちキリスト・イエスによる義の裁きを受けます。―ヨハネ 5:28。啓示 20:11–21:4。
22 イエスは,所有することとは反対の道をどのように示されましたか。そのためにどんな疑問が生じますか。
22 しかしながら,人類の裁きの日が始まる前に,神の目的のさらに他の部分が成就します。それも神の所有権を認めることと関係があります。あるときイエスは,「だれでもわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて絶えずわたしのあとに従いなさい」と言われました。(マタイ 16:24)イエスはどんな意味でそう言われたのでしょうか。イエスは,わたしたちがこの事物の体制の存在する間にこの点に関して従うべきなんらかの模範を残されましたか。これは今日わたしたち個人にとって何を意味しますか。当然こうした疑問が生じます。次の記事でこれらの疑問が取り上げられるのを楽しみにしましょう。