心と耳に割礼を受ける
「項強くして心と耳とに割礼なき者よ,汝らは常に聖霊に逆ふ」― 使行 7:51。
1 割礼には早くからどんな意義が付されましたか。なぜですか。
割礼は物事の記録と同じほどに古くから行なわれ,また知られており,同時に健康および宗教上の見地から多大の関心の対象ともされてきました。割礼はまず第一に完全性からの人間の堕落のゆえに医学的な理由で必要になったと考えられます。いずれにしても,それがいつから行なわれたにせよ,ほどなくして宗教的な意義が付されたのは明らかです。このことは聖書の記録からもわかります。堕落した人間は「造物主を措きて造られたる物を拝し,且これに(事)」えたのです。(ロマ 1:25)その結果,性と多産その他このことに関連する物事すべてに不当な注意また崇拝さえ向けられるに至ったのは当然です。字義どおりには「まわりを切る」という意味の割礼は,生殖器に関係する事柄で,終身身分を証明するしるし,また社会的あるいは宗教的集団へ加入したことの証明のしるしともなります。しかし,割礼は真の宗教において正しい位置を占めるものでしょうか。もしそうであれば,正しい理解に基づいてこの問題にしかるべき注意を払いたいと考えます。そうした正しい理解を得るには,信頼できる情報の唯一の源である神のことば,聖書に行かねばなりません。
2 神はいつまただれを相手にして割礼の要求を定められましたか。その詳細に関してどんなことがしるされていますか。
2 聖書の中で,割礼が最初に指摘されたのは,神がアブラハムとの契約を結ぶ,もしくは確認したときのことです。当時,アブラハムは99歳でした。神はアブラハムに言われました。「汝等の中の男子は咸割礼を受くべし是は我と汝等および汝の後の子孫の間の我が契約にして……汝等其陽の皮を割べし是我と汝等の間の契約の徴なり」。さらにこう詳しくしるされています。「男子は家に生れたる者も……金にて買ひたる…者も皆生れて八日に至らば割礼を受べし……割礼を受ざる男児即ち其陽の皮を割ざる者はわが契約を破るによりて其人其民の中より絶るべし」。したがって,この要求を故意に拒絶する者は,むすこであれ奴隷の男であれ,単に家から放逐されるどころか,死に処されたのです。―創世 17:10-14,22-27。
3 創世記 17章10-14節の記録からどんな二つの疑問が生じますか。
3 ここで二つの疑問が生じます。このことで神の権利については問題はないにしても,特に人間的な見地からすれば,それを施すにはある程度の苦痛や当惑を伴うのに,どうして割礼がしるしとして選ばれたのだろうかと疑問に思われるでしょう。神がしるしや象徴を与えて,その規定を守らせる場合,エホバに対する献身の象徴としての水の浸礼のように,それがふさわしいものであることはたいてい容易にわかります。もう一つの疑問は,男子の奴隷すべてを含め,一家全体が関係したのはなぜかということです。実際に契約関係にあったのはアブラハムとその子孫だけではなかったのですか。神のことばがこうした問題に光を投げかけているかどうかを調べるのは興味深いことです。
4 (イ)ヨシュア記 5章2-7節に述べられている神の命令を必要とするどんな事態が生じましたか。(ロ)ヨシュア記 5章9節のエホバのことばはどのように特別の意義を持つものとなっていますか。
4 ヘブル語聖書はアブラハムの子孫であるイスラエル民族が前述の要求を守り続けたことを示しています。それは新しい戒めとして与えられたのではありませんが,モーセを通して与えられた律法に含まれました。(レビ 12:3)しかしながら,荒野を放浪した40年間,当時生まれた男の赤子には割礼が施されませんでした。最後にヨルダン川を渡って約束の地にはいったのは新しい世代の人々でした。次いでエホバはイスラエルの男子すべてに割礼を施すようヨシュアに命ぜられました。その命令が遂行されたとき,エホバは意味深いことに,こう言われました。「我今日エジプトの羞辱を汝らの上より転ばし去り」。(ヨシュア 5:2-9)証拠が示すところによれば,エジプト人は割礼を行なっていましたから,今や彼らは,多数の男子が割礼を受けていないとしてイスラエルをはずかしめる根拠を失ったと言えるでしょう。同時にエホバの民の若い世代の者たちは今や,少なくとも象徴においてであれ,エジプトまたその偽りの神々および汚れた崇拝とのいかなる結びつきからも,その最後のこん跡からも切り離されました。ここで初めてわたしたちは,アブラハムに与えられた「契約の徴」としての割礼がアブラハムの場合にもやはり清い崇拝の適切な象徴であったこと,そしてそれはエホバとの契約関係にある人々を特異な民としてしるしづけるものであることを正しく認識できます。ギルガルの時以来,この要求はユダヤ人として知られるようになったイスラエル民族の守るべき事柄として存続しました。
5 律法の字句と精神の場合のように聖書は二分されてしかるべきですか。
5 クリスチャン・ギリシア語聖書を調べると,類似の要求がやはり守られていることに気づきますが,今度はロマ書 2章29節にあるように心の割礼についてしるされています。中には,それがこの問題に言及している最初の箇所と考えて,これで字義どおりの見地,つまり律法の字句からのがれうるとして安心し,今や内面的な意義,つまり律法の精神を理解できると期待する人がいるかもしれません。ところが,それが最初ではないのです。心の割礼について最初に述べたのはモーセで,そのことばを調べると,基本的な意味がわかります。
6 (イ)モーセは何に関連して心の割礼のことを述べていますか。(ロ)モーセは,耳が関係していることをどのように示していますか。これはどんな教訓を教えるものですか。
6 モーセは書きました。「汝ら心に割礼を行へ重て項を強くする勿れ」。これは,儀式上の要求つまり律法の字句ではなく,次の懇請のことばに明示されている,真の愛に基づく基本的な要求を履行するために必要でした。「イスラエルよ今汝の神エホバの汝に要めたまふ事は何ぞや惟是のみ即ち汝がその神エホバを畏れその一切の道に歩み之を愛し心を尽し〔魂〕を尽して汝の神エホバに事へ(ることのみ)」。のちに再び懇請したモーセは,心と耳がいずれもこのことに関係していることを示して言いました。「汝の神エホバ汝の心と汝の子等の心に割礼を施こし汝をして心を尽し〔魂〕をつくして汝の神エホバを愛せしめ斯して汝に生命を得させたまふべし」。モーセは彼らに選択の機会を差し伸べます。エホバを愛し,エホバに服従すべく『もし彼らが…彼らの神エホバの戒めを聴くならば』彼らはエホバの豊かな祝福を得ます。「しかし,もしあなたの心がそれて,あなたが聴かず,またあなたが実際に誘惑されて他の神々を拝し,彼らに仕えるならば……あなたがたは確かに滅びるでしょう」と告げます。言いかえれば,割礼を受けた心また耳とは謙遜な心,つまり誠実そのもので進んで,しかも熱心に聴き,かつ守って人を清い崇拝の道に留まらせる心を意味しています。しかし,もし当人の心がとかくそれがちで,こわばった堅い項で暗示されている誇りのために,ともすれば全く耳を傾けさせようとしないのであれば,その人は必ず偽りの宗教のわなに陥って失敗するでしょう。―申命 10:12,16〔新〕; 30:6〔新〕,15-18,新。またヨシュア 24:14,15,19をも見なさい。
7 この同じ事柄についてエレミヤはどのように述べましたか。
7 この問題にかんするエレミヤの明確なことばに注目してください。「我たれに語り誰を警めてきかしめんや視よその耳は割礼をうけざるによりて聴えず彼らはエホバの言を嘲けりこれを悦ばず」。ユダとイスラエルがともに不忠実をきわめた時,エレミヤは肉と霊の割礼を対比させてエホバの音信をこう報じました。「われすべて陽の皮[つまり肉]に割礼をうけ〔ながら,依然無割礼の〕者すなはちエジプトとユダ…の子孫…を罰(せん)そはすべて異邦人は割礼をうけずまたイスラエルの家も心に割礼をうけざればなり」― エレミヤ 6:10; 9:25,26〔新〕。
8 ステパノはいつ,またどのようにイスラエルの歴史を振り返って述べ,その結果,どんな告発を行ない,それはどんな結末をもたらしましたか。
8 何世紀もの後,クリスチャンの殉教者ステパノは最高法院で弁明してアブラハムについて語り,神は「割礼の契約をアブラハムに与え」られた,と述べました。次いでモーセのことを述べて言いました。「我らの先祖たちは此の人に従ふことを好まず,反つて之を押退け,その心エジプトに還りてアロンに言ふ『我らに先だち往くべき神々を造れ』」。最後にステパノはそれら父祖たちとエルサレムの最高法院(彼の弁明を直接聞いた者たち)とを結びつけて言いました。「項強くして心と耳とに割礼なき者よ,汝らは常に聖霊に逆ふ,その先祖等のごとく汝らも然り」。また,「汝らは今この義人[イエス]を売り,かつ殺す者となれり」といってイエスに言及しました。最高法院はどんな反応を示しましたか。「彼らは自分たちの心まで切られる[割礼の場合とは異なり,王国行間逐語訳では『ひき切られる』]ように感じ」ました。彼らの耳には,文字どおりの割礼を必要とする余分の肉はなかったのです。それで彼らはどうしましたか。彼らは「耳を掩ひ心を一つにして駆け寄り」石打ちにしてステパノを殺しました。―使行 7:8,39-43,51-53,54,新,55-58。
9 心と耳に割礼を受けていない状態は何に起因するものですか,どんな結果をもたらしますか。
9 これはそれら宗教指導者たちにとってなんと恐るべき告発だったのでしょう。割礼を受けていない心と耳は,無感覚で強情かつ頑固な人々,また厚かましい無情な顔,無情な心そしてこわばった項の持ち主を連想させるような人々のことを暗示しています。(箴言 21:29; 28:14; 29:1)その根本原因は誇りであり,これは人を徐々に悪に進ませるものです。ダニエルがネブカデネザルについて,「彼心に高ぶり気を剛愎にして驕(れ)り」と述べたとおりです。パロについても同じことが言えます。―ダニエル 5:20。出エジプト 7:22; 9:7。またヘブル 3:7-13をも見てください。
10 (イ)思いと心はどのように区別できますか。(ロ)どうすれば,心に割礼を施せますか。
10 割礼を受けた心をいだくのはなんと重要かつ望ましいことなのでしょう。それにはどうすればよいのですか。取り入れる情報について考え,かつ推論する思いとは全く異なり,心は愛情や欲求と密接に結びついており,動機づけの源もしくは中心をなすところです。それは感情面の強大な力を蔵しており,ある行動に人をかり立てる,もしくは鼓舞することができます。(出エジプト 35:21)心は容易に思いを制しえます。心はあなたのひととなり全体,つまり人格のほかならぬ核心もしくは主因です。それは内面の真の自己,「心のうちの隠れたる人」「中なる人」なのです。(ペテロ前 3:4。ロマ 7:22)どのようにして心に割礼を施すことができるのですか。文字どおりの割礼のさいになされることを考えれば,それがわかります。健康上の危険性ゆえに割礼が必要になる場合,切り捨てられる肉は余分のもの,あるいは清潔かつ健康な状態を維持するさいの障害物とみなされます。したがって,心の割礼とは,わたしたちの欲求もしくは動機のうちにエホバの欲求に反するものが少しでもあれば,それを取り除く,もしくはすっかり切り取ることを意味します。エホバおよびその懇請,またそのみことばに答え応じさせまいとする誇りなどのような障害物の働きをするものが少しでもあれば,それを完全に除去することを意味しています。
11 (イ)割礼を受けた心と耳にかんするどんなすぐれた実例が記録されていますか。(ロ)この霊的な手術はどのようにして施せますか。
11 心と耳に割礼を受けた人のすぐれた実例としては,「神を敬ふルデヤと云ふ女きき居りしが,〔エホバ〕その心をひらき謹みてパウロの語る言をきかしめ給ふ」とルカが報じたルデヤの例があります。(使行 16:14,〔新〕)その心には確かに障害物はありませんでした。こうしたいわば霊的な手術は人間の力や知恵で施せるものではありません。パウロは,「霊による心の割礼」を受けた真のユダヤ人について述べています。そうです,わたしたちは神の霊を必要としています。しかも神は,新しい態度をどのように祈り求めるべきかをも告げておられます。「ああ神よ,わたしのうちに純粋な心をも創造してください。わたしの内部に新しい霊,しっかりした霊を置いてください」。―ロマ 2:29。詩 51:10,新。
新しい人格
12 古い人格を脱ぎすてて新しい人格を身につけることにはどんな事柄が関係していますか。
12 神はご自分の霊,つまり目に見えないその活動力を自動的にわたしたちのうちに置くわけではありません。わたしたちは自分自身の霊もしくは精神的また感情的性向を,みことばを通して働く神の霊の影響力またその働きに服させて協力しなければなりません。そうすれば,「真理がイエスのうちにあるとおり」正確な知識に基づくあなたの清い心のうちに新しい,しっかりした霊を持てるのです。そして,「あなたがたの思いを発動させる力において新たにされ」て,『あなたがたの以前の行状にのっとった古い人格を脱ぎすてる』よう助けられるでしょう。そのかわりに,あなたは「神の意志にしたがって真の義と忠節のうちに創造された新しい人格」を身につける方法を学ぶでしょう。こうした歩みを追い求める人たちは「神に効ふ者」となって,良いことを見習うのです。―エペソ 4:20-24,新; 5:1。
13 そうするには,全く別の人格を身につけねばならないのですか。この点をどのように例を用いて説明できますか。
13 それは言うのはやすいが行なうのは困難だと感ずる人がいるかもしれませんので,この問題のある面を考慮したいと思います。一つには,新しい人格を身につけるとは,自分自身を識別できなくなるような全く別の人格を身につけるという意味ではありません。わたしたちの心また実生活の双方に見られる悪いものは確かに突き刺す,もしくは殺さねばなりません。(ガラテヤ 5:24。コロサイ 3:5)しかしながら,ある種の特質や能力は,制御されないと有害ではあっても,それを制御し,正しい方向に発揮させると,多大の益を成し遂げるものとなります。たとえば,短気は強力な感情を伴う思いの敏しょうな働きであり,制御されないと,容易に害をもたらします。しかし,素早く考え,同感の念もしくは熱意を思わず知らず発するその同じ能力も,良い動機で制御されれば,特に他の人々に証言するさいには大いに役だちます。それには自制を含め,ねばり強さが必要です。「全き律法,すなわち自由の律法を懇ろに見て離れぬ者」は,「聞きて忘るる者にあらず,その行為によりて幸福ならん」とヤコブが述べるとおりです。―ヤコブ 1:25。
14 生来の才能を発揮させる能力はどのようにして善用できますか。
14 あるいは,なすべき膨大な仕事があることからすれば,音楽や詩歌その他の生来の才能は人を空想にふけらせて気を散らすので,抑制されてしかるべきだと感ずる人がいるかもしれません。もし,そうした才能が制御されないとすれば,あるいはそう言えるかもしれませんが,その種の才能を備えた特別な能力は善用することもできるのです。たとえば交響曲は綿密に組み立てられた,いろいろな楽章で構成されており,それら楽章は整然とした対照をなし,調和した美しいしらべを備えており,単調な反復は全然なく,楽曲全体にはすぐれた転調が見られます。真理にかんする講演を準備して話すさいにも全く同じことが言えるでしょう。神のことば聖書の構造,また,ものみの塔協会発行の聖書研究の手引きの内容を正しく理解すればするほど,自分自身を益するとともに他の人々を助けうるものをますます多く取り入れられますし,その報いもいっそう大きくなります。音楽の場合,感情に訴える要素が主役を演ずる一方,真理つまり王国の音信を述べるさいには,理知および感情に訴える要素の間には適正な均衡が見られます。なかんずく,それは物事の偉大な構成者エホバに誉れをもたらします。
15 (イ)失意をもたらす原因の幾つかを上げなさい。(ロ)同様の気持ちを確かに味わった人たちがいます,それはだれですか。それらの人たちから何を学べますか。
15 新しい人格を身につけるよう努力するさい時には落胆する場合があります。深く根ざした種々の習慣を備えた古い人格,内面的な圧力,またサタンの世からの外面的な圧力は言うに及ばず ― こうしたものに圧倒されてしまうのです。パウロは,霊と肉は「互に相戻れば……汝らの欲する所をなし得ざらしめん」と言いながらも,「御霊によりて歩め,さらば肉の慾を遂げざるべし」と述べました。(ガラテヤ 5:16,17)それで,悪い道に屈するとき,心の打ちひしがれるのを感じますが,これはわたしたちだけではありません。決してしませんと断言したこと,すなわち自分の愛する主人を否認することをさえしてしまった自分に気づいたペテロがどのように感じたかを想像してください。また,責任の立場にあって何年も奉仕したのちに,パウロから公に叱責されたとき,ペテロがどう感じたかを想像してごらんなさい。パウロについて言えば,サウロとして「主の弟子たちに対して…恐喝と殺害との気を充たし」ていたとき,真の実情を突如,容赦なく痛烈に語らされた彼がどう感じたかをちょっと想像してみてください。(マタイ 26:35,75。ガラテヤ 2:11-14。使行 9:1-9)しかしながら,それらのしもべたちは意気消沈しませんでした。もっと重要なことに,彼らは心をかたくなにしなかったのです。わたしたちもそうすべきではありません。ヨハネのしるしたことばはなんと人を慰めるものでしょう。「之に由りて…われらの心われらを責むるとも,神の前に心を安んずべし。神は我らの心よりも大にして一切のことを知り給へばなり」。このことはどのように真実なのでしょうか。―ヨハネ第一 3:19,20。
来るように招かれる
16 (イ)今だれがわたしたちを招いていますか。わたしたちはそれに答え応じることを余儀なくされていますか。(ロ)選択するにあたって,エホバはどのように優先権を持っておられますか。それはどんな励みを与えるものですか。
16 ある人の家に来るよう初めて招かれて,より密接な友情への道が開かれるのは,なんと気持ちを高揚させる喜ばしいことでしょう。そうした招待はそれ自体,新たな元気を与え,当人を別人のように感じさせます。困難な時期に直面している場合は特にそうではありませんか。ところで,「対処しにくい危機の時代」の今日,エホバは人の心に訴えずにはおかない招待を差し伸べておられます。(テモテ後 3:1,新)しかも,答え応ずることはだれにも強制されてはいません。すでに述べたとおり,人は自分で選択できるのです。しかし,まず第一にエホバが選択を行なわれます。また,それは当然です。ダビデが書いたとおりです。「汝にえらばれ汝にちかづけられて大庭にすまふ者はさいはひなり」。一つには,エホバは,満たされるべき条件を述べて選択を行なわれるのです。(詩 65:4; 24:3,4)また一つには,心の誠実で謙遜な,それどころか心の打ちひしがれた人たちだけに訴えるような招待がなされているのです。これはエホバがわたしたちの心よりも大いなるかたであることを示しています。エホバが言われるとおりです。「我はたかき所きよき所にすみ,亦こゝろ砕けてへりくだる者とともにすみ,謙だるものの霊をいかし砕けたるものの心をいかす」― イザヤ 57:15。歴代下 16:9をも見なさい。
17 どんな点で神にとっても謙遜さが必要ですか。神はこのことをどのように示されましたか。
17 エホバに近づくさいには謙遜でなければなりません。驚くべきことですが,これは双方にあてはまります。罪にさいなまれる人類家族の様子を伺うために神がいわば身をかがめるには謙遜さが必要です。この点を考えたことがありますか。「われらの神エホバにたぐふべき者はたれぞや……[神は]己をひくくして天と地とをかへりみ給ふまづしきものを塵よりあげ(たまふ)」。「なんぢの右手われをさゝへなんぢの謙卑われを大ならしめたまへり」。迷い出た人たちにさえエホバはこう訴えておられます。「[われ]悖れる民をひねもす手をのべて招けり」。またイエスのことばにも耳を傾けてください。「牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく,我なんぢの子どもを集めんと為しこと幾度ぞや,然れど汝らは好まざりき」。こうした寛容と過分の親切はまさしく謙遜さを必要とします。―詩 113:5-7; 18:35。イザヤ 65:2。マタイ 23:37。
18 どこに来るようエホバはわたしたちを招いておられますか,それがどこかを今日どのように明らかにできますか。
18 疑わないでください。あなたは来るよう招かれています。どこにですか。それはエホバが選ばれます。「エホバはシオンを択びておのが居所にせんとのぞみたまへり」とあります。ダビデは清い崇拝の中心地だった地上のシオンのことを考えていました。(詩 132:8,13-18)このことばは西暦1914年,エホバがみ子を王として即位させた,天のシオンの山にその現代の成就を見ています。ヨハネは小羊がそこに立ち,完成したクリスチャン会衆を成す『十四万四千の人がこれと偕に』いるのを幻の中で見ました。地上には今なおそのシオン級の残れる者がいて神の組織を代表しています。大洪水のさい神が設けられた取り決め同様の安全な場所の必要を認める人たちが来るように招かれているのはそこなのです。大洪水当時,神は箱船を設けて,そこに「ノアと他の七人とを[入れて]護り」ました。―詩 2:6。黙示 14:1。創世 7:1。ペテロ後 2:5。
19 (イ)シオンは回復されて以来,その中にどんな状態が見られますか。(ロ)神の組織に来る人々すべてにはどんな要求が課されていますか。
19 霊的なイスラエルのこの残れる者が集められ,1914年から1918年までの期間中,懲らしめられたのち,清さと謙遜さを重視した次のすばらしい約束が成就されました。「シオンよ醒よさめよ汝の力を衣よ聖都エルサレムよなんぢの美しき衣をつけよ今より割礼をうけざる者および潔からざるものふたゝび汝にいること無るべければなり」。「われ柔和にして貧しき民をなんぢの中にのこさん彼らはエホバの名に依頼むべし」。(イザヤ 52:1。ゼパニヤ 3:12)神の組織に,つまりシオン級との密接な交わりのうちに来る人すべては心と耳に割礼を受けねばなりません。さあこれで,アブラハムの一家の奴隷たちでさえ割礼を受けねばならなかった理由がわかります。彼の一家全体は組織された今日の神の民を表わします。「エジプトの羞辱」すべてをころばしのけてその民を清く保たねばなりません。―ヨシュア 5:9。
20 永遠の移転はどのように可能となりましたか。その代価はどれほどですか。
20 単なる訪問ではなく永遠の移転の原理に基づいてシオンに来るよう親切にわたしたちを招かれたエホバになんと感謝すべきでしょう。フットボールその他のスポーツ界で特に優秀な選手が別のチームに移る場合,巨額のお金が支払われます。が,いかに巨額であれ神のみ子が喜んで支払われたご自身の人間としての貴重な犠牲という,エホバの保証される代償とは比べものになりません。「汝らは価をもて買はれたる者なり」とパウロが述べるとおりです。―コリント前 6:20。
21,22 (イ)エホバからの招待に対する感謝をどのようにして表わせますか。(ロ)神のみことばの中で,来なさいとの招待のことばはどんな異なった仕方で述べられていますか。それはわたしたちにどのように影響してしかるべきですか。
21 エホバからの招待に対する感謝はその招待を他の人々に差し伸べることによって表わせますし,また表わすべきです。バプテスマを受けた後,パウロとその同僚に自分の家に来て滞在するよう懇願したルデヤのようになれます。彼女は「強ひて我らを留めた」とルカは述べています。イザヤはこのすばらしいわざを予告してこう述べました。「おほくの民ゆきて相語いはん率われらエホバの山にのぼり(ゆかん)……それ律法はシオンよりいでエホバの言はエルサレムより出べければなり」次の無償の招待のことばにも耳を傾けてください。「噫なんぢら……きたりてかひ求めてくらへきたれ金なく価なくして葡萄酒と乳とをかへ」。地上におられた時,イエスは人々を招いて言われました。「凡て労する者,重荷を負ふ者,われに来れ,われ汝らを休ません」。イエスは,その再来の時,羊のような人々を招くことを予告されました。「わが父に祝せられたる者よ,来りて世の創より汝等のために備へられたる〔王国〕を嗣げ」。事実,神のみことばは,答え応ずる人たちが招待のことばを他の人々に伝えるよう励ます感動的な訴えのことばで結ばれているのです。「御霊も花嫁もいふ『来りたまへ』聞く者も言へ『きたり給へ』と,渇く者はきたれ,望む者は価なくして生命の水を受けよ。これらの事を証する者いひ給ふ『然り,われ速かに到らん』[ヨハネは答えて言う]アァメン,主イエスよ,来りたまへ』」。―使行 16:15。イザヤ 2:3; 55:1。マタイ 11:28; 25:34。黙示 22:17,20。
22 神のみことばには,人の心に訴えずにはおかない,来なさいとの招待のことばが再三述べられているのですから,それはまさに緊急な招待といわねばなりません。あなたは答え応じられませんか。あなたも来て,他の人々にも来るよう招いてはいかがですか。