聖書理解の助け ― アブラハム
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
この記事は,ものみの塔協会発行の「聖書理解の助け」(英文)の資料を翻訳したものです。この本の中の項目のいくつかを抜粋して,本誌にしばらくの間掲載する予定です。
アブラハム[多くの人の父]。これはアブラム[高められた父の意]が99歳の時にエホバから与えられた名です。それは,アブラハムの子孫が多くなるという約束を神が再度言明された時のことでした。―創世 17:5。
一族の起こりと初期の歴史
アブラハムはノアから数えて十代目に当たり,セムの子孫として,大洪水の352年後,西暦前2018年ごろに生まれました。創世記 11章26節ではテラの三人の息子の筆頭に挙げられてはいますが,アブラハムは長子ではありませんでした。聖書によると長子が生まれた時テラは70歳であり,アブラハムはその60年後,父テラが130歳の時に生まれています。(創世 11:32; 12:4)アブラハムがその父の子らの中で最初に挙げられているのはその際立った忠実さ,また聖書の中で抜きんでた人物となったためでしょう。このような記述の仕方は,セム,イサクなど聖書中の他の際立った人物についても見られます。―創世 5:32; 11:10。歴代上 1:28。
アブラハムはカルデアの都市ウルで生まれました。ウルはシナルの地の主要都市としてにぎわい,チグリス,ユーフラテス両河の現在の合流点近くに位置していました。それは,未完成に終わったバベルの塔で知られる,ニムロデのかつての王都バベルもしくはバビロンの南東約240キロの地点です。そのおよそ170年後のアブラハムの時代にも,ウル市は依然バビロン的偶像礼拝と市の守護神である月の神シンへの崇拝にひたっていました。(ヨシュア 24:2,14,15)しかしアブラハムは,父祖のセム,ノアなどと同じくエホバ神への信仰の人となり,そのために「信仰を持つ者すべての父」と呼ばれるようになりました。(ローマ 4:11)真の信仰は正確な知識に基づきますから,アブラハムはセムと身近に接することによって必要な理解を与えられたものと思われます。(この二人の生涯には時代的に150年の重なりがあります。)アブラハムはエホバの名を知り,それを用いました。彼の言葉を次に引用します。「至高の神エホバ,天と地を産み出された方」,「天の神,地の神エホバ」。―創世 14:22; 24:3,新。
アブラハムが「ハランに居を定める前」,まだウルに住んでいた時に,エホバは,友人親族から離れて見知らぬ土地に移り住むことを彼に命じました。(使徒 7:2-4。創世 15:7。ネヘミヤ 9:7)ご自分が示すその国でアブラハムから大きな国民を作り出すと神は言われたのです。その時アブラハムは自分の異母妹サラと結婚していましたが,二人には子供がなく,共に年老いていました。ですから,その命令に従うには大きな信仰が必要でした。しかし彼は従いました。
テラはこの時200歳ほどになっていましたが依然その一族の長であり,族長としてアブラハムとサラのこの長い旅に同行することに同意しました。テラが父親としてカナンへの移動を決めたように述べられているのはそのためです。(創世 11:31)父を亡くしたロトはアブラハムのおいでしたが,子供のいないこのおじとおばの養子となっていたようです。そのためロトも旅に同行したのでしょう。一行は北西に約一千キロ進み,やがてハランに着きました。ハランは東西交易路の重要な中継点であり,ユーフラテス川の支流ベリク川を105㌔ほどさかのぼったところにありました。アブラハムは父テラの死までそこにとどまりました。
カナンでの寄留の生活
アブラハムはいま75歳になっていましたが,自分の家の者たちをハランからカナンに移動させ,このカナンの地でその後の百年,各地に移り住む寄留の天幕生活者として過ごすことになりました。エホバとアブラハムとの契約が有効になったのはこの時であり,イスラエルとの律法契約が立てられるまでの430年の寄留の期間はこの時に始まりました。―出エジプト 12:40-42。ガラテア 3:17。
アブラハムは父テラの死後,西暦前1943年にハランを出てユーフラテス川を渡りました。それは後にニサンと呼ばれるようになった月の14日であったと思われます。(創世 11:32。出エジプト 12:40-43,七十人訳)もし創世記 5章と11章に年齢を挙げられている人々のその年の数をすべて(古代の多くの暦法にしたがって)厳密に秋から秋までの区切りで数えるとすれば,テラの205年目の年,その最後の満一年は西暦前1944年の秋に終わったことになり,それはアブラハムがハランを旅立った年とは異なります。これは,西暦前1944年の秋に,アダム創造以来2,083年の人間存在の期間が終わったということになり,これに従うと,この年からアダムの創造にさかのぼるすべての出来事についてこの出版物(助けの本)に示される紀元前の年号に一年ずつ加えてゆかねばならないことになり,アダムの創造も西暦前4027年になります。テラが自分の205年目を超えてあと何か月生きたかは述べられていません。聖書はアブラハムがどの月に満75歳になったかも示していません。しかしアブラハムは父の死後,春にハランを旅立つまで相当の期間ハランにとどまったと考えられ,創世記 12章4節は,「アブラハムはハランを出た時七十五歳であった」と述べています。
アブラハムは羊や牛の群れを連れダマスカス経由で南に下ったものと思われます。やがてシケム(今日のナブルスのある所)に着きました。ここはエルサレムの北48キロに位置し,近くにモレの大木林がありました。ここでエホバは再びアブラハムに現われ,「あなたの胤にこの地を与える」と言明してさきの契約を確認し,かつ敷衍されました。(創世 12:7,新)アブラハムはその所にエホバへの祭壇を築きましたが,パレスチナ南部に向かってその地を南下しつつ他の所にも幾つか祭壇を築いて,エホバの名を呼び求めました。(創世 12:8,9)やがて厳しい飢きんが起きてアブラハムは一時エジプトに移らざるを得ませんでした。そして,自分の命を守るためサラを自分の妹として説明しましたが,アブラハムの懸念したとおり,ファラオは美しいサラを自分の家に召し入れて妻にならせようとしました。しかし,ファラオがサラを犯す前にエホバはファラオを動かしてサラを返させました。この後アブラハムはカナンの地,ベテルとアイの間の宿営地に戻り,そこで再度「エホバの名を」呼び求めました。―創世 12:10–13:4,新。
やがて,羊や牛の群れが増大してアブラハムとロトの別れることが必要になりました。ロトは下部ヨルダンのくぼ地を選びました。そこはよく潤った地域であり,「エホバの園のよう」でした。後にロトはソドムの近くに宿営を設けました。(創世 13:5-13,新)一方アブラハムは,その地を広く行き巡るように命じられ,後にエルサレムの南西32㌔にあるヘブロンのマムレの大木林のところに来てそこに住みました。―創世 13:14-18。
メソポタミアの王ケダラオメルの率いる四王同盟軍がカナンの五人の王の反乱を鎮圧した時,ソドムとゴモラもじゅうりんされ,ロトは自分のすべての財産とともにとりこにされました。アブラハムはそれを知ると,訓練した家僕318人をすぐに集め,ダマスカスの北まで240㌔以上も追撃し,エホバの助けによってはるかに強力な軍勢を撃ち破りました。こうしてロトは救出され,奪われた資産も取り戻されました。(創世 14:1-16)アブラハムがこの大勝利から帰って来た時,「至高の神の祭司」でサレムの王でもあったメルキゼデクが出て来て彼を祝福し,アブラハムは「すべての物の十分の一」を彼に与えました。―創世 14:17-20,新。
約束された胤の出現
サラはその後もうまずめであったため,ダマスカス出身の忠実な家令エリエゼルがアブラハムの遺産を相続することになるかと思えました。しかしエホバは,アブラハム自身の子孫が天の星のように数え切れないほど多くなることを再度保証されました。アブラハムは「エホバに信仰を置き,神は彼に対してそれを義とみなされ」ました。これは彼が割礼を受ける幾年も前でした。(創世 15:1-6。ローマ 4:11)エホバはこのとき動物の犠牲を用いてアブラハムと正式に契約を結び,同時にアブラハムの子孫が四百年間苦しみに遭い,奴隷となることをも啓示されました。―創世 15:7-21。
時は過ぎました。彼らがカナンに来て十年たちましたが,サラは依然うまずめでした。そのためサラは,自分のエジプト人の仕え女ハガルを身代りとし,ハガルによって自分の子供を得ようとしました。アブラハムはこれに同意しました。こうして西暦前1932年,イシマエルが生まれました。その時アブラハムは86歳でした。(創世 16:3,15,16)時はさらに過ぎました。西暦前1919年,アブラハムは99歳になっていました。この時エホバはご自分とアブラハムとの間の特別な契約関係のしるしまたは証印として,アブラハムの家のすべての男子が割礼を受けることを命じました。同時にエホバはアブラムの名をアブラハムに変え,「わたしはあなたを多くの国民の父とするからである」と言われました。(創世 17:5,9-27,新)そのしばらく後,化肉した三人のみ使いが現われ,アブラハムはエホバの名においてこれを手厚く迎えましたが,そのみ使いたちは,サラが身ごもって一年以内に男の子を産むことを約束したのです。―創世 18:1-15。
それは何と出来事の多い年だったのでしょう。ソドムとゴモラは滅ぼされました。アブラハムのおいとその二人の娘はかろうじて生き延びました。飢きんが起き,アブラハムは既に妊娠していたであろうサラと共にゲラルに身を寄せましたが,それはそのペリシテの都市の王がサラを自分の後宮に召しかかえるという結果になりました。エホバが介入され,サラは自由にされました。次いで,西暦前1918年の定めの時,アブラハムは100歳,サラは90歳になっていましたが,長く待ち望んだ相続者イサクが生まれたのです。(創世 18:16–21:7)5年後,19歳になる異母兄イシマエルがイサクをからかった時,アブラハムはやむなくイシマエルとその母ハガルを去らせました。アブラハムの子孫に対する400年の苦もんの期間が始まったのはその時,つまり西暦前1913年です。―創世 21:8-21; 15:13。
アブラハムの信仰の最大の試みはその約20年後に臨みました。イサクは今,強健な25歳ほどの若者に成長していました。エホバの指示に従順に従ったアブラハムはイサクを連れて北に旅し,ネゲブのベエルシバからサレムの真北に位置するモリア山に進みました。その所で彼は祭壇を築き,約束の胤であるイサクを焼燔の犠牲として捧げる用意をしました。確かにアブラハムは「イサクをささげたも同然」でした。「神は死人の中からでもイサクをよみがえらせることができると考え(た)」のです。その最後の瞬間にエホバは介入され,犠牲の祭壇上のイサクに代わるべき雄羊を与えられました。ですから,完全な従順に裏打ちされたこの絶対の信仰が示された時に,エホバは特別の法的保証である誓いをもってアブラハムとの契約を強化されたのです。―創世 22:1-18。ヘブライ 6:13-18; 11:17-19。
西暦前1881年,サラがヘブロンにおいて127歳で死ぬと,アブラハムは埋葬地を買い受けることが必要になりました。彼はカナンにあって地所を持たない寄留者でしかなかったからです。それで彼はマムレに近いマクペラの洞くつとその野をヘテの子らから買い取りました。(創世 23:1-20)三年後,イサクが40歳になった時,アブラハムは息子のふさわしい妻として同じくエホバの真の崇拝者である人を見つけるため,エリエゼルをメソポタミアに遣わしました。こうしてリベカ,アブラハムにはおいの娘に当たる人がエホバの選びを受けました。―創世 24:1-67。
「その後さらに,アブラハムは再び妻を」,ケトラをめとり,六人の息子をもうけました。その結果アブラハムからはイスラエル人,イシマエル人,エドム人だけでなく,メダン人,ミデアン人なども生まれ出ました。(創世 25:1,2,新。歴代上 1:28,32,34)こうして,「あなたを多くの国民の父とする」というエホバの預言的な言葉がアブラハムに果たされたのです。(創世 17:5,新)ついに西暦前1843年,175歳という良いよわいに達してアブラハムは死に,その息子イサクとイシマエルがこれをマクペラの洞くつに葬りました。(創世 25:7-10)アブラハムは自分の死に先だって第二の妻たちの子らに贈り物を与えてこれを去らせ,イサクだけが「自分の持つすべての物」の相続者となるようにしました。―創世 25:5,6。
家族の頭また預言者
アブラハムは非常に富裕な人であり,羊や牛の大きな群れ,多量の金銀,数百人の僕を含む大家族を所有していました。(創世 12:5,16; 13:2,6,7; 17:23,27; 20:14; 24:35)このためにカナンの王たちは彼を強力な「長」,平和の契約を結ぶべき相手とみなしました。(創世 23:6,新; 14:13; 21:22,23)それでもアブラハムは決して物質主義的な考えによってエホバとその約束に対する自分の幻を曇らせたり,自ら誇って高慢にあるいは利己的になったりすることはありませんでした。―創世 13:9; 14:21-23。
エノクを初めアブラハムに先行する人々もいましたが,ヘブライ語聖書の中で「預言者」という言葉は最初にアブラハムに関して用いられています。(創世 20:7。ユダ 14)聖書の中で最初にヘブライ人と呼ばれているのもアブラハムです。(創世 14:13)アブラハムはアベル,エノク,ノアなどと同じく信仰の人でした。(ヘブライ 11:4-9)しかし,「エホバに信仰を置く」という表現が最初に用いられているのはアブラハムに関してであり(創世 15:6,新),彼が「信仰を持つ者すべての父(である)」というローマ 4章11節の言葉とも一致しています。
この際立った信仰の人は確かに神と共に歩み,幻や夢,またみ使いの使者を迎え入れるなどして絶えず神との交信を保ちました。(創世 12:1-3,7; 15:1-8,12-21; 18:1-15; 22:11,12,15-18)エホバは宇宙で最も偉大なご自身の名に含まれるすべての意味をその時まだ啓示しておられませんでしたが,それでもアブラハムはこの神の名の持つ意味に深く通じていました。(出エジプト 6:2,3)アブラハムは幾たびも祭壇を築き,自分の神エホバの名において,またその賛美と栄光のために犠牲を捧げました。―創世 12:8; 13:4,18; 21:33; 24:40; 48:15。
家族の頭としてアブラハムは自分の家の中に一切の不敬虔と偶像礼拝を許さず,自分のすべての子らと僕たちに「エホバの道を守って義と裁きとを行なうように」絶えず教えました。(創世 18:19,新)アブラハムの家のすべての男子はエホバの律法の下に割礼を受ける務めを負いました。エジプト人の奴隷女ハガルも祈りの中でエホバの名を呼び求め,家の僕であったダマスカス出身のエリエゼルもエホバへの非常に感動的な祈りの中でアブラハムの神に対する自分の信仰を表明しています。さらに,若年であったイサクも手足を縛られて犠牲の祭壇上に横たわり,エホバに対する自分の信仰と従順を実証しました。―創世 17:10-14,23-27; 16:13; 24:2-56。
史実性
イエスとその弟子たちはその会話や書き残した物の中でアブラハムについて70回以上も述べています。金持ちとラザロの例え話の中でイエスは象徴的な意味でアブラハムに言及しました。(ルカ 16:19-31)敵対者たちが,自分たちはアブラハムの子孫であると誇った時,イエスはすぐその偽善を指摘し,「アブラハムの子どもであるというなら,アブラハムの業を行ないなさい」と言われました。(ヨハネ 8:31-58。マタイ 3:9,10)そうです,大切なのは肉的に子孫であるかどうかではなく,義と宣せられるためにアブラハムのような信仰を持つことであると使徒パウロは述べました。(ローマ 9:6-8; 4:1-12)パウロはまたアブラハムの真の胤を明らかにし,それがキリストおよび「約束に関連した相続人」としてキリストに属する人々であることを述べています。(ガラテア 3:16,29)パウロはまた,見知らぬ人に対するアブラハムの親切ともてなしについても述べ,ヘブライ 11章に傑出したエホバの証人たちを数多く挙げた中でアブラハムについて述べることを忘れませんでした。アブラハムに属した二人の女,サラとハガルがエホバの二つの契約について説明する象徴的ドラマとなっていることを指摘しているのもパウロです。(ガラテア 4:22-31。ヘブライ 11:8)聖書記者ヤコブは,アブラハムが義の業によって自分の信仰を裏打ちし,それにより「エホバの友」として知られるようになったことを付け加えています。―ヤコブ 2:21-23。
考古学的発見も,アブラハムに関し聖書の歴史に述べられる多くのことを確証しています。数多くの場所の地理的位置,また,ヘテ人(ヒッタイト人)からの土地の購入,相続人としてエリエゼルを選んだこと,ハガルに対する扱いなど当時の多くの習慣などはその例です。