真実を語る者は誓いを加える
1,2 (イ)十戒を与えたかたはなぜ偽ることができませんでしたか。(ロ)たとえば像の使用に関することなど,人間はどんなことを付け加えてみずから偽り者となりましたか。
エホバ神がご自分の預言者モーセをとおして発表された十戒の第9番目はこうです。「あなたは隣人について,偽証してはならない」。(出エジプト 20:16)偽ることを戒めたこのおきてによって,偉大な立法者はご自身を偽り者と対立させておられます。それゆえ,偉大な立法者ご自身は偽ることができません。偽るなら,ご自身の定めを破ることになるからです。(ロマ 1:21-25)偉大な立法者は偽りを憎まれ,偽りの父となられたことはありません。そのことばは精練された純金にもたとえられ,わずかのかすをも含んでいません。それゆえ,紀元前の最大の賢者はこう言いました,「神の言葉はみな真実である。神は彼に寄り頼む者の盾である。その言葉に付け加えてはならない,彼があなたを責め,あなたを偽り者とされないためだ」― 箴言 30:5,6。
2 宗教指導者の多くは神の清いことばに人間の言い伝えや戒めを付け加えて,記録された神のことばの教えや戒めに逆らう偽り者となりました。(マタイ 15:1-9)妥協的な宗教指導者は,像を使って相対的に神を崇拝することができるという教えを記録された神のことばに付け加え,自分に従う宗教的な人々を偶像崇拝者にならせています。こうして人間の造った像を使って崇拝する人々はすべて,自らをロマ書 1章25節に語られた者たちとするのです。「彼らは神の真理を変えて虚偽とし,創造者の代りに被造物を拝み,これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである」。このような被造物ないし人間製の宗教的な像は虚偽です。こうした像が創造者なる神に立てるのは偽りの証しです。それゆえ神はこのような像を決して是認されません。
3 (イ)神のことばはそれ自体が真実であり,偽りではありません。そのことを説明しなさい。(ロ)しかし神は,ご自分のことばに時にはどんなものを加えることをよしとされましたか。
3 神の清いことばはそれ自体が真理です。ヨハネ第一書 2章21節が述べるとおり,「すべての偽りは真理から出るものでない」のですから,神のことばが偽りであるはずはありません。神のことばはいつも真実であり,その述べるところが実現しないことはありません。神の約束や預言は必ず果たされます。それゆえ,どんな神のことばもそれ自体を真実なものとして信頼することができ,真理としてのその価値が少しでも失われることはありません。しかし,時にエホバ神はご自身の約束や預言のことばに,あるものを加えることをよしとされました。それは矛盾を加えるのではなく,語ることがらを強めるための付け加えです。それは何ですか。それは神の誓い,神の誓いのことばです。神はご自分のことばに誓いを加えられるのです。
4 誓った人として聖書の中で最初に出てくるのはだれですか。その時の事情を説明しなさい。
4 聖書の中で,誓いをした人として最初に出てくるのは神ご自身の友アブラハムです。(ヤコブ 2:23。イザヤ 41:8。歴代下 20:7)それは紀元前20世紀のことでした。族長アブラハムは略奪者である4人の王を敗走させ,おいのロトとその家族を連れ戻し,ソドムの町から持ち去られた物を取りかえしました。ロトが住んでいたのはソドムの近くです。アブラハムがソドムの王の持ち物をすべて返すことを申し出た時,王は言いました。「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」。しかしアブラハムはこう答えました。「天地の主なるいと高き神,〔エホバ〕に手をあげて,わたしは誓います。わたしは糸一本でも,くつひも一本でも,あなたのものは何も受けません。アブラハムを富ませたのはわたしだと,あなたが言わないように」。(創世 14:11-24,〔文語〕)こうしてアブラハムは生きた最高のかたをさして誓いました。これ以上高いかたに誓うことはできません。
5 (イ)ソドムの王にアブラハムが誓ったことはどんなしぐさによって示されましたか。(ロ)二つのヘブル語が使用されたことにも示されるとおり,どんな2種類の誓いがありましたか。
5 ソドム王の申し出に答えた時,アブラハムは手を上げて自分の誓いのしるしとしました。アブラハムは「天地の主なるいと高き神,〔エホバ〕」をさして手を上げたのです。これは誓うことの意味をよく示しています。あるくわしい聖書百科辞典は「誓い」についてこう説明しています。
(ユダヤ教),神,あるいは個々の誓願人が権威者と見なす者,あるいはどんなものでも神聖であるとみなされるものに対する訴えであり,語ったことがらに対する保証,ないしは約束したことがら,また引き受けた務めに対する確証として行なわれる。……「誓い」はヘブル語の二つのことばアーラー(אלה)とシャブーアー(שכזצה)に対する欽定訳の訳語である。これらの二つのことばはいずれも三つの意味で使われる。
1 語ったことがらの真実さに対する保証として神に訴えるときの「誓い」(ネヘミヤ 10:30。出エジプト 22:10),
2 「誓ったことば」(創世 26:28。サムエル後 21:7),
3 「のろい,またはのろうこと」(民数 5:21。ダニエル 9:11)……
しかし,アーラーとシャブーアーの2語は同意語ではない。これらは二つの誓い方,もしくは2種類の誓いをあらわしている。すなわちアーラー(「嘆く」「泣き悲しむ」「悲痛な気持ちをあらわす」……などの意味をもつアラルから派生)は正確には「自分の身にわざわいを祈願すること」を意味し,断言したことがらが果たされない場合,当事者に神の報復を求めるような誓いをあらわすために用いられる。他方,シャブーアー(「7」を意味するシェバから派生)は字義的には「自分を七つにする」「七つ生み出す」,すなわち七つの犠牲ないしは7人の証人によって宣言の真実さを保証することをあらわしている。昔,互いに約束をかわし,盟約を結ぶときに7ひきの動物が使われたからである。(創世 21:28-30)……それゆえ,二つの誓いの根本的な相違は,前者〔アーラー〕にのろいが関係するのに対し,後者〔シャブーアー〕にのろいは問題にならないことである」。a
6,7 (イ)聖書の中でほかのだれよりも多くの誓いをたてているのはだれですか。(ロ)誓いをたてる時,エホバ神がご自身に災いを求める必要がないのはなぜですか。
6 聖書の中で,ほかのだれよりも多くの誓いを立てているのは神ご自身です。そのことをごぞんじですか。霊感されたヘブル語聖書の中にはエホバ神の誓いに関する記述が全部で70回,あるいはそれ以上出てきます。しかしながら,エホバ神に関してヘブル語アーラー,すなわち,違約に対して神ののろいを求めて約束の保証をするような誓いをあらわすことばは一度も使われていません。エホバ神が誓いを立てる時,そのことばが真実でない場合,またその約束や預言を果たせず,あるいは引き受けた務を怠る場合などを想定し,その場合に自分の身に災いを求める必要はありません。
7 そのようなことは決して起こりません。それゆえ自分のことばが偽りとなる場合,また自分のことばを果たせず,あるいは実行できない場合に対して,エホバ神がご自身の身に災やくを求める必要はありません。エホバ神はご自身についてそのようなことを暗示することさえできません。それゆえ,ヘブル語聖書が神の誓いについて述べるところでは,いつでもヘブル語シャーバーが再帰的なかたちで使われています。このことばには「自分を七つにする」という意味があるからです。聖書の中で7という数字は物事の度合が完全であることを示すために使われており,前記のことばは人が完全を期することを意味しています。
8 (イ)聖書の中で神が最初に誓いをたてたのはいつですか。(ロ)その時の誓いのことばにはどんな重要さがありましたか。
8 先にあげた聖書に記録される最初の誓いの中で,神の友アブラハムは神の名をさして誓いました。他方,聖書に出てくるいと高き神の最初の誓いはご自分の友アブラハムに関するものでした。「真実の神」であるいと高き神が誓いの必要を認められたのですから,それは異例な,また特別な事態であったに違いありません。そして実際にそうでした。そのうえ,神がアブラハムに語られた誓いのことばには世の初めから今日にいたるまで,そう,人間の最後の赤子が生まれるまで,全人類に重要な意味がありました。そしてこの時の神のことばは19世紀後,地上に現われ始めることになっていた人類のうちの14万4000人に特別の意味をもつものでした。それでは神はなにを誓われたのですか。それはどのような事情で行なわれたのですか。
9 その誓いのことばが語られたのはいつ,またどこですか。アブラハムはなにを中止させられましたか。
9 誓約がなされたのは紀元前19世紀であり,モリヤ山においてでした。当時,サレム(のちのエルサレム)の城壁はモリヤ山の頂上を囲んでいませんでした。そこに祭壇が設けられていましたが,それはエルサレムのソロモン王が建てた宮の祭壇ではありません。その宮がモリヤ山上に建てられたのは紀元前11世紀だからです。それはエホバ神への人間の犠牲として自分の息子イサクをささげるため,アブラハムが石を積み重ねて作った祭壇でした。神の命令に従ったアブラハムは自分の妻サラによる一人子イサクをいけにえとするための準備を進めていました。しかし,ひもでしばられ,祭壇のたきぎの上に寝かされたイサクをアブラハムがまさに殺そうとした時,神の使いがアブラハムの名を呼んで言いました。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子,あなたのひとり子をさえ,わたしのために惜しまないので,あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
10 エホバが誓いをたてたのはどんなことばに対してですか。
10 アブラハムは近くの茂みに一頭の雄羊がかかっているのを見ました。神のそなえられた物とみなしたアブラハムは,この動物をとってイサクにかわるいけにえとしました。「〔エホバ〕の使は再び天からアブラハムを呼んで,言った,『〔エホバ〕は言われた,「わたしは自分をさして誓う〔シャーバー〕。あなたがこの事をし,あなたの子,あなたのひとり子をも惜しまなかったので,わたしは大いにあなたを祝福し,大いにあなたの子孫をふやして,天の星のように,浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り,また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」』」― 創世 22:1-18,〔新世〕。
11 この誓いのことばが世界的に重要であると言えるのはなぜですか。しかし,その成就に関してある人はどのように異議を唱えますか。
11 あなたはどう考えますか。この時『エホバが言われた』ことは世界的に重要でしたか。そうです。なぜならそれは今日の国民をも含め「地のもろもろの国民」を考慮に入れているからです。わたしたちがどこの国の国民であろうと,この約束の成就はわたしたちの祝福となるのです。ひとり残らず,わたしたちのすべてがこれに関心をもち,約束されたアブラハムの子孫によって祝福を得るために何をしたらよいかを考えるべきです。しかし,こんなふうに言う人があるかもしれません。エホバがこのことばを語ってからもう39世紀近くになるのに,地上の人々はいまだにイサクによるアブラハムの子孫から祝福を得ていない。なぜなら,今日の悲惨な国際情勢を見てごらんなさい。そして,生まれながらにアブラハムの子孫であると唱えている,割礼を受けた生来のユダヤ人の現状を見てごらんなさい。
12 もろもろの国民が祝福を得ることに関して反対者はなにを見落していますか。
12 しかし,こう言って反対する人はあることを見落しています。そうではありませんか。その人が見落しているのは,地のもろもろの国民がすでに19世紀前に約束されたアブラハムの子孫によって祝福を得はじめたという事実です。しかもこれは割礼を受けた生来のイスラエル人がエホバ神にすてられたにもかかわらず行なわれたのです。そして今日,約200ヵ国に住む100万以上の人々はアブラハムの真の子孫によって祝福を得ています。どうしてそのようなことがありますか。霊感を受けた聖書記述者の一人,使徒パウロの説明によればそうです。パウロが書いたのは1世紀の中ごろです。
13 (イ)使徒パウロがガラテヤ人に悟らせたとおり,アブラハムの子孫とはまずだれですか。(ロ)しかしアブラハムの子孫はどのように多くなりますか。
13 そのとき使徒パウロはローマの属州,小アジアのガラテヤ地方にあった,クリスチャンの諸会衆に手紙を書いていました。この地方の非イスラエル人の信者の中にはまちがったことを教えられ,割礼を受けてユダヤ人となり,神が預言者モーセを通して与えられた昔の律法に従わねばならないと考える者が多くいました。使徒パウロはその考えを正すために手紙を書きました。パウロは,イエス・キリストが約束されたアブラハムの子孫の主要な者であることを人々に悟らせました。このイエスは実際には神のひとり子であり,エホバ神は族長アブラハムと同じように,このひとり子を人間の犠牲としてささげられたのです。それはエルサレムの北の城壁の外側,すなわちアブラハムがイサクをささげたモリヤ山の近くでした。しかし,アブラハムの真の子孫は一人ではなく多くいるとエホバ神は言われました。天の星,また浜べの砂のようにその数は当時わかりませんでした。
14 (イ)約束は文字どおりアブラハムの血筋上の後裔に成就しなければなりませんでしたか。(ロ)アブラハムの真の子となるため,約束の子孫に加わる人々はどんな者でなければなりませんか。またどんな過程を経なければなりませんか。
14 神の子イエス・キリストは,ユダヤ人として生まれ,ユダヤ人として割礼を受けていましたから,たしかに生来のアブラハムの後裔でした。それゆえ,地のもろもろの国民が祝福を得ることに関する約束はイエスについてはまさに文字どおりの意味で果たされることになりました。残りのアブラハムの子孫は血筋の面で生来のユダヤ人である必要はありません。なぜ? なぜなら残りのアブラハムの子孫のすべてに必要なのは,信仰によってアブラハムの子となることだからです。アブラハムはエホバ神に対する信仰の人でした。アブラハムが割礼を受けたのは99歳の時でしたが,信仰によって神の目に義とされ,あるいは義と認められたのはそれ以前です。(ロマ 4:9-22)アブラハムの真の子となり,約束された子孫となる者はエホバ神に信仰をもたねばなりません。それはアブラハムと同じように信仰によって義とされるためです。義とされ,あるいは義と認められたのちはじめて,この者たちは聖霊によって神から生まれた者となり,神の友アブラハムの予表したエホバ神の子となるのです。
15 アブラハムの血筋に生まれた者ではあっても,イエスは他の子孫と同じくなににならねばなりませんでしたか。
15 こうしてこの者たちは大いなるアブラハムすなわちエホバ神の霊的な子となり,約束されたアブラハムの子孫として数えられます。生まれながらにアブラハムを地上の先祖としたイエス・キリストさえ,神の霊によって生まれて大いなるアブラハムの霊的な子となりました。このことが起きたのは浸礼を受けて水から上がったイエスに神の霊が下り,この者が霊的な子であると神が発表された時です。そのときのイエスに対する発表のことばはこうです。「これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である」。(マタイ 3:13-17)地のもろもろの国民に祝福となるアブラハムの子孫のすべては最終的には霊的な級となります。
16 アブラハムの子孫とされることは祝福でしたか。そのような祝福はだれをとおして来ましたか。最初だれに?
16 神の霊によって生み出され,イエス・キリストと共に約束されたアブラハムの子孫の一人となることは,だれにとってもことばで言いつくせない祝福です。この祝福は大いなるイサクである神のひとり子イエスをとおし,大いなるアブラハムである父エホバ神からきます。アブラハムの子孫として数えられる者になるというこの祝福を最初に受け,さらに他の人々に対する祝福ともなったのは生来のユダヤ人であり,中でも西暦33年の五旬節の日の120人がその最初でした。のちにユダヤ教への改宗者やサマリヤ人などがこれに加わりました。しかし,アブラハムの祝福はユダヤ人だけでなく,割礼を受けていないもろもろの国人にも及ぶと発表されていました。
17 神の定めの時に,このとくべつの祝福はだれに及びましたか。こうして祝福を得た人々はなにになりましたか。
17 このことにふさわしく,西暦33年の五旬節から3年半後,祝福は割礼のない異邦人にもさしのべられました。アブラハムの祝福を受けた最初の異邦人はユダヤのカイザリヤにいたイタリヤ人です。これによってもろもろの国人がへだてなく祝福を得る道が開かれました。こうしてこれらの人々はアブラハムの子孫によって祝福を得,大いなるアブラハムであるエホバ神の聖霊によって生み出され,アブラハムの子孫を構成する者となりました。このことは今日まで続いています。それゆえ神はアブラハムに対する誓約を守られました。
18,19 (イ)律法の行ないに頼る者はアブラハムの祝福にあずかりましたか。(ロ)アブラハムにならうことにより,人はどんな点でアブラハムの子孫となりますか。
18 さて,共に子孫となるガラテヤの人々に手紙を書いたパウロがこのことをどう説明しているかに注目してください。パウロは自分のことを「あなたがたにみ霊をもたせ,あなたがたの中で力あるわざを行なう者」と述べたのち,こう問いかけています。
19 「〔その者がそれを行なうのは〕律法を行なったからか,それとも,聞いて信じたからか。このように,アブラハムは『〔エホバ〕を信じた。それによって,彼は義と認められた』のである。だから,信仰による者こそアブラハムの子であることを,知るべきである。聖書は,神が〔諸国の人々〕を信仰によって義とされることを,あらかじめ知って,アブラハムに,『あなたによって,すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを,予告したのである。このように,信仰による者は,信仰の人アブラハムと共に,祝福を受けるのである。いったい,律法の行ないによる者は,皆のろいの下にある。『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず,これを行なわない者は,皆のろわれる』と書いてあるからである。それは,アブラハムの受けた祝福が,イエス・キリストにあって〔諸国民〕に及ぶためであり,約束された御霊を,わたしたちが信仰によって受けるためである。
20 契約を変えることができますか。いくつの子孫があるかについてアブラハムに約束がなされましたか。
20 「兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言(契約,文語)でさえ,いったん作成されたら,これを無効にしたり,これに付け加えたりすることは,だれにもできない。さて,約束は,アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは,多数をさして『子孫たちとに』と言わずに,ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは,キリストのことである。
21 多くの人々からなるのに子孫は一つであると言えるのはなぜですか。
21 「あなたがたはみな,キリスト・イエスにある信仰によって,神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは,皆キリストを着たのである。もはや,ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら,あなたがたはアブラハムの子孫であり,約束による相続人なのである。
22 使徒パウロの兄弟たちはなぜイサクのような「子」ですか。
22 「兄弟たちよ。あなたがたは,イサクのように,約束の子である」― ガラテヤ 3:5-10,14-16,26-29; 4:28,一部新世。
23,24 (イ)アブラハムの子孫となる者はいま何人いるはずですか。(ロ)子孫の最大数はなにからわかりますか。それらの者のすべてが死にいたるまで忠実でなければならないのはなぜですか。
23 1966年を迎えた今までに,1世紀以来の人々をも数えてこのアブラハムの子孫となる者は全部で何人いるはずですか。聖書にしたがって答えれば,そうしたアブラハムの霊的な子は14万4000人を越えません。この明確な数字は聖書の最後の本にでています。14万4000というこの数は,科学者がこれまでに数えた星の数とはとうてい比較になりません。しかし,使徒パウロがガラテヤ地方のクリスチャン会衆に手紙を書いてから40年,あるいはそれ以上の間,実際の数はクリスチャンにわかりませんでした。それは自分の目で見た星の数がアブラハムにわからなかったのと同じです。
24 しかし西暦96年ごろ,使徒ヨハネが黙示録に記録した幻のうちその二つの中で,アブラハムの主要な子孫に加わるアブラハムの霊的な子孫の正確な数が示されました。それは完全につりあいの取れた14万4000という数です。(黙示 7:1-8; 14:1-3)「主要な子孫」イエス・キリストに従う,これら霊によって生み出される14万4000の人々はすべて,キリストと共に地上で犠牲とならねばなりません。自分の肉体の死にいたるまで忠実な態度を保つことによって,これらの者たちは死人の中からよみがえらされ,天の御国においてキリストと共同の相続者となるのです。―コリント前 15:29-57。コリント後 5:1-9。
25 1965年の主の晩さん式でパンとぶどう酒を食べた1万1500人の人々は何を示しましたか。アブラハムに対する神の誓いはこれらの人々にどう影響するはずですか。
25 こうして1965年ニサン14日の主の晩さん式の時に象徴物であるパンとぶどう酒を食べて,アブラハムの霊的な子孫に属する者であり,主要な子孫イエス・キリストと一緒に天のものを相続する者であることを示した人は1万1500人いました。(ルカ 22:14-30。コリント前 11:20-32)14万4000人のうちの残りの者であるこれらの人々にとって,エホバ神がモリヤ山上においてアブラハムに対する自分の約束に付け加えた誓いは,特別の慰め,また励ましとなり,忠実さを保たせるものとなるはずです。なぜですか。
誓いの目的
26 ヘブル書 6章18節にあるとおり誓いにはどんな目的がありますか。
26 それでは誓うことにはどんな目的がありますか。そのことについてはヘブル書 6章16節に霊感による説明があります。「人間は自分より上のものをさして誓うのであり,そして,その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである」。
27 それゆえアブラハムに対するエホバの誓いはどんな反対論を封じるものとなりましたか。
27 それゆえ,エホバ神が「わたしは自分をさして誓う」と言われたとき,それは宇宙の至上の審判者の特別の保証となりました。またそれは,アブラハムの血筋上の子孫だけでなく地上の他の家族すべてにも,すなわち地のもろもろの国民に祝福が及ぶかどうかについて,今日のわたしたちも含めた全人類の反対論をすべて封ずるものとなりました。―創世 12:1-3; 22:16-18。
28 神の誓いに関するどんな事実から,わたしたちはいっそうの確信を得るべきですか。
28 だれにしてもわたしたちはどうしてこのことに反対論を唱えるべきですか。また,これを疑うどんな理由がありますか,むしろわたしたちは,神ご自身がすすんで誓いをされたのですから,いよいよわたしたちの確信を強くしましょう。祝福の子孫についてアブラハムになされた約束の真実さに関して,エホバ神が誓いを立てなければならなかったわけではありません。アブラハムには神に誓いを求める権利はありませんでした。神は自らすすんでご自身をさして誓われたのであり,それには愛に基づく理由がありました。パウロはそのことをこう説明します。
29 アブラハムに約束した時,神はどんな目的で誓いを加えられましたか。それゆえ,わたしたちは怠ることなく,なにになるべきですか。
29 「怠ることがなく,信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように,と願ってやまない。さて,神がアブラハムに対して約束されたとき,さして誓うのに,ご自分よりも上のものがないので,ご自分をさして誓って,『わたしは,必ずあなたを祝福し,必ずあなたの子孫をふやす』と言われた。このようにして,アブラハムは忍耐強く待ったので,約束のものを得たのである。いったい,人間は自分より上のものをさして誓うのであり,そして,その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである」。「このように神は,約束を継ぐ者たちにみ旨の変わらないことをさらに十分に示そうとされた時,誓いを加えられた。それは神が偽ることのできない,二つの不変の事柄によって,自分の前に置かれた希望をとらえるためにのがれた我々に強い奨励を与えるためである」。この望みは,わたしたちにとって,いわば,たましいを安全にし不動にする錨であり,かつ『幕の内』に〔聖所に〕はいり行かせるものである。その幕の内に,イエスは,永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として,わたしたちのためにさきがけとなって,はいられたのである」― ヘブル 6:12-20,一部新世。
30 残れる者の望みはなぜ安全で不動であるべきですか。どんな目的のため?
30 そのため,約束されたアブラハムの子孫14万4000人のうち今日なお地上に残る少数の人々は,「真実の神」であるがゆえに誓いを破ることのない至上の神の誓いから強い奨励を得ています。至聖所すなわちエホバ神の天の聖所に錨をおいた残れる者の望みは,いつも安全かつ不動であり,そのゆえに彼らは昔のアブラハム,イサク,ヤコブがしたと同じように忍耐しつづけることができます。
31 今日,約束に対する神の誓いから強い奨励を得ることができるのはほかにだれですか。ヨハネに与えられたどんな幻がそれを説明していますか。
31 しかし今日,神の約束を拘束する神の誓いから強い奨励を得ているのは,まだ肉体でいる14万4000人の残れる者だけではありません。今日,神と神の小羊イエス・キリストを信ずる人々の大群衆が他にあり,それらの人々もそうすることを許されているのです。なぜそう言えますか。アブラハムの霊的な子孫の正確な数を聖書の中で初めて記録した黙示録 7章はそののちこう述べています。「その後,わたしが見ていると,見よ,あらゆる国民,部族,民族,国語のうちから,数えきれないほどの大ぜいの群衆が,白い衣を身にまとい,しゅろの枝を手に持って,御座と小羊との前に立ち,大声で叫んで言った,「救は,御座にいますわれらの神と小羊からきたる』」。(黙示 7:9,10)そうです,誓いで保証されたアブラハムに対する神の約束は,アブラハムの霊的な子となる14万4000人の人々にのみ成就するのではありませんでした。それは地上の諸国民や諸民族のうち,イエス・キリストおよびイエスと共同の相続者14万4000人から成る,この約束の子孫以外の人々にも成就するはずでした。その中には今日生きている人々だけでなく,死んだ人々も含まれます。
32 「大ぜいの群衆」が救いを神とその小羊に帰していることから,どんなことがあきらかですか。
32 すでに,あらゆる国民,部族,民族,国語の中からきた,この信者の「大ぜいの群衆」はアブラハムの子孫による祝福にはいり始めています。これらの人々は,残れる者が天の御国に移される前の今すでに,自分たちが大いなるアブラハムであるエホバ神の約束の子孫をとおして貴重な祝福を受けていることを知っています。そのため多くの人種,国籍,部族,言語の人々を集めたこの「大ぜいの群衆」は,自分たちの救いを天の御座にいるエホバ神と,その小羊であり,アブラハムの子孫の主要な者であるイエス・キリストに帰しています。
33 この「大ぜいの群衆」も奨励を必要とするのはなぜですか。彼らもまたどんなことを心にとめねばなりませんか。
33 大いなるバビロンの滅び,「全能の神の大なる日の戦闘」は起きておらず,悪魔サタンと配下の悪霊たちもつながれず,拘束されていません。また見えるものも見えないものも含め敵対者や迫害者はまだ除去されていません。それゆえ,神の国の下の地上の楽園に希望を置く,この「大ぜいの群衆」は,霊的な残れる者と同じく,怠ることなく,信仰と忍耐を保つための奨励を心要としています。このため「大ぜいの群衆」はご自身をさしてなされた神の誓いを心に留めておかねばなりません。その誓いは彼らの永遠の祝福の約束を固くするためになされたのです。
34 (イ)どんな二つの事柄によってエホバのみ旨は不変のものとされていますか。(ロ)エホバはご自身がどんな神であることをすでに立証しておられますか。パウロと共に,わたしたちは神に対してどんな態度を取ることを宣言しますか。
34 神のことばは不変です。神の誓いは不変です。これら二つの事がら,すなわち神のことばと神の誓いとは,神がわたしたちに啓示された神のみ旨に関連して与えられています。これによって神のみ旨も不変です。啓示したご自身のみ旨に関して至上の神エホバがすでになされたことによって,神の正しさは今でさえ全天全地に立証されています。悪霊がそれを否定しても,悪霊の配下にある人々すべてがそれを否定し,それを信じなくても,至上の神エホバが「真実の神」であることは明らかにされ,実証されているのです。この世の大部分の人々が不信者であっても,それはわたしたちになんの問題にもなりません。わたしたちはその真実さのゆえに神のことばを受け入れ,それを信じます。わたしたちはまた,あらゆる存在のうち最高にして最も偉大なかたをさしてなされた神の誓いが必ず果たされることを認めます。それゆえわたしたちは,「たとえすべての人の偽り者であることがわかっても,神の真実なことを見出しなさい」と書いたクリスチャン使徒パウロと同じ態度を取ることを明確に宣言します。―ロマ 3:4,新世。
[脚注]
a マクリントックとストロングの「百科辞典」(Cyclopoedia)1891年版 第7巻 256頁「誓い」(Oath)の項。
[177ページの図版]
神はアブラハムに誓う