イスラエルは神の前にどんな立場を持つか
『されば汝等もし善く我が言を聴きわが契約を守らば汝等はもろもろの民にまさりてわが宝となるべし。全地はわが所有なればなり。汝等は我に対して祭司の国となり聖き民となるべし』― 出エジプト 19:5,6。
1 シナイ山のまわりに集まつた人々は,なぜ特権に恵まれた民でしたか。
キリスト前1513年のある朝,シナイ山のふもとに集まつた200万人以上の人々は特権に恵まれた民でした。神の臨在が眼に見える恐るべきさまで表わされたのを見ただけでなく,彼らは全地の民のうちから神に選ばれて神の民,神に属する特別なものとなつたことを聞いたのです。彼らは神の御名を持ち,地上において神の崇拝を擁護し,神の律法に支配されることになりました。この民,すなわちイスラエル人たちはこのようにして清い民族となりました。全能の神ヱホバの与えられた律法と教えをことごとく守るならば,彼らはこの特権を得るのです。
2-4 (イ)どんな規定の下にイスラエル人は神の民となりますか。神の言われたことに対して彼らはどう答えましたか。(ロ)その結果,彼らは何を与えられましたか。
2 シナイ山で結ばれた合意すなわち契約は,両方の側に,ある事柄が課せられていた双務契約でした。神の側について言えば,神はこれらの人々を御自身の民とし,彼らが契約における彼らの分,すなわち神に従順を守るときに祝福を与えられるでしよう。人々がその分を果さないならば,神も御自分の分を果す義務を持ちません。
3 シナイ山の頂から下つたモーセが人々にヱホバの御命令を伝えたとき,彼らはヱホバの命ぜられることをすべて喜んで行うと言い表わしました。『ここにおいてモーセ来りて民の長老たちを呼びヱホバの己に命じたまいし言をことごとくその前に述べたれば,民皆ひとしく答えて言いけるは,ヱホバの言いたまいし所は皆われら之を為すべしと。モーセすなわち民の言をヱホバに告ぐ。』― 出エジプト 19:7,8。
4 人々は従順に従うことに同意したので,ヱホバは彼らの行いを律する正義の律法を与えられました。これが有名な律法契約あるいはモーセの律法です。
5,6 律法契約はどのように成立しましたか。
5 人々が律法を聞き,律法の命ずることをすべて行うと同意した後,モーセはそれらの言葉を書きしるし,その契約書に動物の血をふりかけました。(出エジプト 24:3-8)この手続によつて,契約は有効となりました。すなわち,契約は施行されて,法的な拘束力を持つようになつたのです。『それ契約は必ず契約者の死を要す。契約は契約者死にてのち始めて効あり,契約者の生くる間は効なきなり。この故に初めの契約も血なくして立てしにあらず。モーセの律法に従いてもろもろの戒めをすべての民に告げてのち,犢と山羊との血,また水と緋色の毛とヒソプをとりて書および凡ての民にそそぎて言う,「これ神の汝らに命じたまう契約の血なり」と。』― ヘブル 9:16-20,欄外。
6 この契約のなかだち,モーセに代るものとして動物の犠牲が用いられました。このように,モーセの血に代つて使われた動物の血により,律法契約は有効となり,施行されたのです。
一国民の誕生
7 律法契約により,イスラエル人はどのように独特な民となりましたか。
7 この合意すなわち契約によつて,イスラエル人はヱホバ神をその王とする国民になりました。ヱホバの戒めは彼らの律法でした。このために,彼らは他のすべての民族と全く異なる特別な民になつたのです。地上の国民のうち,人類の創造主とこの密接な関係を持つた民は他にありません。『我契約をなす。我いまだ全地に行われし事あらず何れの国民の中にも行われし事あらざるところの奇跡を汝のすべての民の前に行うべし。汝が住むところの国の民みなヱホバのわざを見ん。我が汝をもて為すところの事は恐るべきものなればなり。』― 出エジプト 34:10。
8,9 彼らのために神はどんな驚くべきことをされましたか。この事によつて,彼らが神の選民であることはどう証明されましたか。
8 この記念すべき集まりがシナイ山で行われた後の年月,ヱホバ神はこれらの人々のために多くの奇跡を行われました。荒野を旅行した40年の間にも,彼らの靴と衣服はすり切れなかつたばかりでなく,奇跡的に与えられたマナが食物となりました。(申命 29:5。詩 78:24)敵対する民族の軍隊に立ち向つたときには,神が彼らのために戦つて勝利を与えられたのです。神は願わしい土地に彼らを導き入れ,その土地を彼らに与えてその領土とされました。神は預言者によつて彼らとの交わりを保ち,将来の出来事を彼らに知らせました。これやまた他にも多くのすばらしい出来事が,彼らのために行われました。
9 選ばれた神の民として,イスラエル人は何百年ものあいだ神に認められていました。そのときには,このように特別に分けられて幸いを楽しんだ人々は他にありません。イスラエル民族の見た大きなわざが眼の前に行われるのを見た者はなく,彼らの聞いたことを耳にした者はなかつたのです。『かつて人神が火の中よりものいう声を汝らが聞けるごとくに聞きて尚生ける者ありしや。汝らの神ヱホバがエジプトにおいて汝らの目の前にて汝らのために諸の事を為し給いし如く曾て試みと徴と奇蹟と戦いと強き手と伸たる腕と大いなる恐嚇をもて来たりこの民をかの民の中よりひき出さんとせし神ありや。』『地のもろもろの族の中にて我ただ汝らのみを知れり。』― 申命 4:33,34。アモス 3:2。
イスラエルの復帰
10 イスラエル民族に与えられた恵みのゆえに,キリスト教国の多くの人は何と結論しますか。
10 これは神の恵みの歴史であるゆえに,現代のユダヤ人のパレスチナ復帰が神の支援によるものと信ずる人々は,キリスト教国に大勢います。1948年5月14日のイスラエル国家の設立は神の手になるものと,彼らは信じているのです。また,終りの時代になつて,キリストを信じないユダヤ人は,故国に帰りイエスの出現で信仰を得るとも信じられています。この見解を支持するものは聖書の中に見出すことができません。イエス御自身が言われたように,ヨナのしるしの他には何のしるしもユダヤ人に与えられないのです。ヨナは殆ど3日のあいだ,墓にも似た状態にいました。イエスが墓に入り,3日目によみがえされた時,ユダヤ人はしるしを与えられました。これがユダヤ人に与えられる唯一のしるしであり,これによつてもユダヤ人が立ちかえらなかつた以上,彼らを改宗させるために最初のしるしにつぐ別のしるしが与えられるとは,とうてい言えません。
11 現代におけるユダヤ人のパレスチナへの復帰は,ユダヤ人の復帰に関する預言の成就ですか。説明しなさい。
11 ユダヤ人が故国に帰ることを述べている預言は数多くあります。しかし,これらの預言は現代のイスラエル国家にその成就を見ていません。これらの預言が成就したのはキリストより500年以上の昔,ユダヤ人の残れる者がバビロンから帰つて,荒れはてたエルサレムに再び住んだ時でした。これはキリスト前537年のことで,バビロンの強大な軍勢がエルサレムを荒廃させてから70年後のことです。
12,13 約束の地はなぜ荒れはてましたか。
12 これは指摘しておくべきことですが,シナイ山で結ばれた契約の中で彼らの分を果したならば,その土地が異教の侵略者の手にかかつて荒れはてることはなかつたでしよう。ヱホバの言われたすべてのことを行うと約束しても,彼らはそれを果さなかつたのです。彼らが自分たちを支配した神の律法を破つたことも度々でした。彼らは幾度となく罰せられて敵の手に渡されましたが,それでも清く汚れのない崇拝を守ることができなかつたのです。
13 彼らは災に追いやられ,エルサレムとユダはバビロン人の手にかかつて70年のあいだ荒廃しましたが,預言者エレミヤはこの事をずつと前に預言しました。『主その僕なる預言者を汝らに遺わし,しきりに遺わしたまいけれども汝らはきかず又きかんとて耳を傾けざりき。彼らいえり汝等おのおのいま其悪しき道とその悪しき行いを捨てよ,さらばヱホバが汝らと汝らの先祖に与え給いし地に永遠より永遠にいたるまで住むことをえん。汝ら他の神に従い,これに仕えこれを拝み汝らの手にて作りし物をもて我を怒らするなかれ。さらば我汝らを害わじ。されど汝らは我にきかず汝らの手にて作りし物をもて我を怒らせて自ら害えりと主いい給う。みよ我北のすべての族とわが僕なるバビロンの王ネブカデネザルを招きよせ,この地とその民とそのまわりの国々を攻め滅ぼさしめて之を驚くべきものとなし,人の笑いとなし永遠の荒地となさんと主いい給う。この地はみな荒地となり驚くべきものとならん。又その国々は七十年の間バビロンの王につかうべし。』― エレミヤ 25:4-7,9,11,欽定訳。
14 バビロンからの復帰と現代の復帰とを比べるとき,どんな相違がありますか。
14 この荒廃の期間が終つたとき,ユダヤ人の残れる者は故国に帰り復興にとりかかりました。神は人間も家畜もその土地に住まわせなかつたため,彼らがもどつたのは何も住んでいない土地でした。しかし,このことは現代のユダヤ人のパレスチナ復帰運動に見られませんでした。復帰の動機にも何ら相似たものはありません。バビロンから復帰した残れる者は不信仰ではなくてむしろ信仰を持ち,ヱホバの崇拝に献身していたゆえに,荒れた故国にヱホバの崇拝を再び建て起そうと望みました。しかし,現代において復帰した人々はそうではありません。彼らがパレスチナに行くのは,ヱホバの汚れない崇拝を復興するためでもなく,ヱホバの宮を再建するためでもないのです。
15 宮を再建することや律法による祭司の務めを行うことができないのはなぜですか。
15 神の定められた場所に宮の再建を望んだとしても,それは出来ないことです。その場所にはマホメット教の寺院が立つています。また,正しい祭司制度も欠けています。西暦70年に家系の記録が滅ぼされたため,現代のユダヤ人がモーセの律法の命ずる祭司の務めを行うためにアロンの祭司制度を復興しようとしても,それは不可能です。
16,17 イスラエル共和国は承認と援助を誰に求めていますか。どのようにこれは神の教えに反していますか。
16 イスラエル共和国はこの世の諸強国から出たもので,それら諸強国の承認を得ようと求め,この世の組織制度の一部となりました。これは神が彼らの先祖に与えられた教えと全く反対です。エジプトの助けを求めてはならないと,神は命ぜられました。エジプトは世を象徴しています。『助けをえんとてエジプトにくだり,馬によりたのむものは禍なるかな,戦車おおきが故に之にたのみ騎兵はなはだ強きがゆえにこれにたのむ,されどイスラエルの聖者を仰がずヱホバを求むることをせざるなり。』― イザヤ 31:1。
17 戦車や騎兵の代りに,現代のイスラエル国家はタンク,ジエット機,自動車部隊などを頼りにしています。そして,神御自身の政府と神の選ばれた御子が地を支配するという神の御目的には少しの考慮も払つていません。一世紀のイスラエル人がカイザルを選んでこの王を拒絶したのと同じく,20世紀のイスラエル人もこの王を拒絶しています。従つて,現代のイスラエル人のパレスチナ復帰を見て,神がそれを支持されていると考えるのは間違いです。
肉のユダヤ人は捨てらる
18,19 神はなぜイスラエル民族を捨てられましたか。
18 神の是認を得て祭司の国となる最後の機会が与えられたとき,これを受け入れなかつたイスラエル民族は神に捨てられました。イスラエル人は,もはや神の選民が持つ恵みを要求できません。彼らはシナイ山で結ばれた国家契約を守らず,汚れのない神の崇拝を保つかわりに人間の言い伝えと人間の哲学でそれを汚しました。また,神の約束によつて遣わされた者を受け入れず,カイザルを選んで彼を拒絶したばかりか,その死をはかりました。これらの理由のために,彼らは捨てられて神の聖なる国ではなくなつたのです。イエスの言われた通り,彼らが崇拝を行つた物質の宮は神から捨てられました。
19 『ああ,エルサレムよ,エルサレム,預言者たちを殺し,おまえにつかわれた人たちを石で打ち殺す者よ。ちようど,めんどりが翼の下にそのひなを集めるように,わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに,おまえたちは応じようとしなかつた。見よ,おまえたちの家は見捨てられてしまう。』― マタイ 23:37,38,新口。
20 イスラエルが神から捨てられたことを示す,見える一つの証拠は何ですか。
20 このように捨てられたことは,西暦70年,エルサレムが滅びて宮が最後的に破壊されたときに証明されました。ヱホバの選ばれた場所で,また律法契約に定められた方法でヱホバの崇拝を続けることはもはや出来なくなつたのです。西暦136年,ローマ皇帝ハドリアンが宮の跡に建てた神殿はジュピター・キャピトリナスに捧げられ,西暦691年にはアド・アリ・マリクの手によつてその場所にマホメット教の寺院が建てられました。この回教寺院,岩の円屋根は今でもそこに立つています。
霊的なイスラエル
21,22 (イ)なぜ,神は新しい国民のうえに恵みを置かれましたか。この国民は何から成り立つていますか。(ロ)ユダヤ人がアブラハムとの血縁を指摘して,アブラハムの裔であることを証明できないのはなぜですか。
21 神が恵みを与えられた新しい民族は,肉のイスラエル人ではなくて霊的なイスラエル人から成り立つています。肉のイスラエルが示すことのできなかつたアブラハムの信仰を,彼らは示します。彼らは本当に『アブラハムの子たち』であつて,アブラハムに与えられた約束をうけつぐことについては,この族長の血をひくと主張する人々よりもまさつた権利を持つているのです。『しかし,神の言が無効になつたというわけではない。なぜなら,イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく,また,アブラハムの子孫だからといつて,その全部が子であるのではないからである。かえつて「イサクから出る者が,あなたの子孫と呼ばれるであろう。」すなわち,肉の子がそのまま神の子なのではなく,むしろ約束の子が子孫として認められるのである。』(ロマ 9:6-8,新口)すなわち,生まれながらのユダヤ人がアブラハムとの血のつながりを指摘しても,彼らがアブラハムの子孫であるという証明にはならないのです。肉によればアブラハムの子であつたイシマエルも,しりぞけられたことを心に留めて下さい。従つて,血のつながりや肉の割礼より以上のものが要求されています。なくてはならぬものは信仰と心の割礼です。
22 モーセはこの事実を明らかにして次のように述べました,『されば汝ら心に割礼を行え,重ねて項を強くするなかれ。』(申命 10:16)使徒パウロもこの同じ点を説明しました。『というのは,外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえつて,隠れたユダヤ人がユダヤ人であり,また,文字によらず霊による心の割礼こそ割礼である。』― ロマ 2:28,29,新口。
23 新しい国民の成員が言葉の真の意味でユダヤ人であるのはなぜですか。
23 ヱホバの御名を担う新しい国民がこの種の割礼を持つています。信仰と従順によつて神に賛美をもたらしているゆえに,その民こそ本当の意味でユダヤ人です。シナイ山を離れてより,不従順とかたくなの道をたどつた肉のイスラエル人と比べて,彼らは全くの対照をなしています。
24 西暦29年以後,肉のイスラエルはどのように特別な恵みを示されましたか。そしてどれだけの期間?
24 西暦29年,神はこの新しい国民になる人々を選び始められました。今日ではこの国民のうちで僅かな残れる者が地上に生きているに過ぎません。キリストがクリスチャン宣教を始めてより7年のあいだ,霊的なイスラエル人であるこの国民の成員になるようにとの招待は肉的なユダヤ人だけに差しのべられました。生来のユダヤ人の上に置かれた御自身の御名のゆえに,また彼らの先祖に対する御約束のゆえに,神は,アブラハムの霊的な子となる機会を先ずユダヤ人に与えられました。―申命 7:6-8。
25 肉のイスラエルの信仰はどのようにためされましたか。
25 この招待はキリストを通して差しのべられたために,彼らの信仰はためされました。モーセや預言者たちを通して与えられた神の御約束に信仰を持つていたならば,彼らは正しくキリストを認めて彼を受け入れたことでしよう。また,神がその到来をモーセに約束された大いなる預言者として彼を認めたでしよう。神はモーセに約束されました,『我かれら兄弟の中より汝のごとき一人の預言者を彼らのために興し,わが言をその口に授けん。わが彼に命ずる言を彼ことごとく彼らに告ぐべし。』(申命 18:18)キリストは彼らにはつきりと告げられました,『もし,あなたがたがモーセを信じたならば,わたしをも信じたであろう。モーセは,わたしについて書いたのである。』(ヨハネ 5:46,新口)しかし,ユダヤ民族は必要とするこの信仰を働かせなかつたのです。
26 何によつて正しいとされますか。肉のイスラエルはどのようにこの事を悟りませんでしたか。
26 自らを義とした彼らは,律法の行いによつて神の恵みと祝福を得られると感じていました。自分を義としたために彼らは盲目になり,アブラハムが信仰のゆえに神の是認を受けた事実を悟りませんでした。神の目に正しいとされるのは,律法の行いによるのではなく,信仰によるのです,『律法によりて神の前に義とせらるる事なきは明らかなり。「義人は信仰によりて生くべし」とあればなり。されば律法は何のためぞ。これ罪のために加え給いしものにて,約束を与えられたる裔の来たらん時にまで及ぶなり。』(ガラテヤ 3:11,19)しかし,約束の裔が現われたとき,彼は人々の眼の前で不思議を行い知恵の言葉を語つたにも拘らず,その国民は彼を受け入れませんでした。
27 (イ)肉のイスラエルの全部の人が信仰を示しませんでしたか。(ロ)新しい契約はどのように異なりますか。その成立によつて律法契約はどうなりましたか。
27 しかし,その国民の中の残れる者は信仰を働かせました。その人々は最初の霊的なイスラエル人となり,ヱホバ神との新しい契約に入れられたのです。シナイ山で結ばれ,約束の裔が来るまでイスラエル人を導くために与えられた契約は,この契約によつて置き代えられました。エレミヤはこの新しい契約を預言し,それが異なつた契約であることを述べました。石板の上にしるされたのではなくて,それは心の上にしるされたのです。―エレミヤ 31:31-33。
28 ユダヤ人の残れる者は何を経験しましたか。
28 ユダヤ民族の残れる者で信仰を働かせた人々は,この新しい契約に入れられました。心に割礼を受けた彼らは,神の命ぜられるままに従うことを心に願い,神の眼に正しく行動する動機を心の中に持つていたのです。書きしるされた神の言葉の正確な知識を得て,神の御心を行おうとする願いを持つゆえに,してはならない多くのことを命じた消極的な律法は彼らには必要ありませんでした。従つて,西暦33年の五旬節に新しい契約が成立したとき,シナイ山で与えられた古い律法契約はもはや拘束力を持つていなかつたのです。それは既に廃止されました。キリストはその目的を成就して,それを終らせました。
29 新しい契約はどのように成立しましたか。それが律法契約にまさるのはなぜですか。
29 古い契約と同じく,新しい契約を成立させるためにも犠牲が必要でした。しかし,動物の血にまさるものによつて,新しい契約は有効とされました。それはキリストの完全な生命の血によつて有効とされたのです。このゆえに,新しい契約は古い契約よりもすぐれたものです。また,それはすぐれた祭司職,完全な仲立,もつと良い約束を持つために,この点においてもすぐれています。『ところがキリストは,はるかにすぐれた務を得られたのである。それは,さらにまさつた約束に基いて立てられた,さらにまさつた契約の仲保者となられたことによる。』― ヘブル 8:6,新口。
30,31 アブラハムの真の裔は誰ですか。彼らはなぜ浜の砂にたとえられましたか。
30 この契約に入れられた人々が神の真のイスラエルであり,アブラハムの真の裔です。創世紀 22章17,18節に記録されている,アブラハムへの約束はこの人々に適用されるのであつて,肉によるアブラハムの子孫には適用されません。民族として言えば,彼らは神に聞かなかつたうえに,その族長と同じ従順と信仰を示さなかつたのです。約束が預言しているように,その人々は王族となり,アブラハムの主なる裔キリスト・イエスと共になります。
31 アブラハムの時代に,霊的なイスラエルを構成する人々の数を明らかにすることは神の御心でなかつたゆえに,神はその数を不定のままにしておかれました。その数は明らかにされなかつたのです。神は言われました。『汝の子孫を増して天の星の如く,浜の沙の如くならしむべし。』星や砂を数えることがきないのと同じく,霊的なイスラエルも数えることができませんでした。神がその数を未だ明らかにされていなかつたからです。
32 霊的イスラエルの数は聖書のどこにしるされていますか。
32 新しい契約が成立して後,この秘密は初めて明らかにされました。その数は黙示録 14章1節にしるされており,霊的なイスラエルは主なる裔キリスト・イエスと共に天のシオンの山に立つていることが描写されています。『なお,わたしが見ていると,見よ,小羊がシオンの山に立つていた。また,十四万四千の人人が小羊と共におり,その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。』このように,霊的なイスラエルは大祭司キリスト・イエスの下に僅か14万4000人の成員から成り立つています。この人々だけが新しい契約に入れられて,ヱホバの御名を担う新しい国民となるのです。
33,34 ユダヤ民族の崇拝の家が捨てられたことは,各ユダヤ人が神の恵みを得られないという意味ですか。なぜ?
33 肉のイスラエル人ではなくして,この新しい国民の上に今やヱホバの恵みがとどまつています。しかし,ユダヤ人の崇拝の家が捨てられたと言つても,個々のユダヤ人が神の恵みに入ることができないという意味ではありません。その国民は見捨てられましたが,その中の個人全部が捨てられたのではありませんでした。その国民の残れる者は信仰を働かせて新しい契約に入れられたからです。(ロマ 9:27)神と神の御子に信仰を働かせたこの残れる者が神の恵みを得たのと同じく,今日のユダヤ人各人も同じ手段によつて神の恵みを得ることができます。神は古い律法契約を新しい,まさつた契約に替えられたことを,彼らは認めなければなりません。また,新しい契約のまさつた犠牲,人間としてのキリスト,またアダムから相続した罪がキリストの血によつて如何にして永遠に清められたかを認めなければなりません。さらに,神の任命された王であるキリストを認め,神の真のイスラエルである霊的なイスラエルを認めることも必要です。いいかえれば,各ユダヤ人はユダヤ人でない人と同じ仕方で神の恵みを受けることができます。
34 いまここで学んだ事に照らして明らかなように,肉のイスラエルは神の前に恵まれた立場を持つていません。かたくな,不従順,愛ある御親切から神のなされた事を拒絶したことのゆえに,肉のイスラエルは散らされ,神に捨てられました。彼らは神の聖なる国民ではありません。神の前に恵まれた立場を持つイスラエルは霊的なイスラエルです。選ばれて霊的なイスラエルを作り上げる人々は,アブラハムの信仰と従順を表わしたゆえにアブラハムの真の子供たちなのです。従つて,救われるのは霊的なイスラエルのすべてであつて,肉のイスラエルではありません。霊的なイスラエルこそ神に属する特別な民,祭司の国,聖なる国民となつて,その祝福を受ける人々です。