一番難しい言葉
「妻がかわいそうでなりませんでした。若い数人の友人のためにそれはもう一生懸命昼食の準備をしたのです。ところが,約束の時間になっても,だれ一人現われません。最初は少し気が立っている程度だったのが,次には腹を立て,だんだん涙を流して怒りをあらわにするほどになってしまいました。妻が昼食に作った“ごちそう”はこげ始めました。ところが,一人として遅れた理由を説明する電話を入れてこなかったのです」,思いやり深い夫はこう語り,さらに言葉を続けました。「こうした状況に置かれると,最悪の事態を心配するようになります。(どうしたのだろう。事故にでも遭ったのではなかろうか。)結局,そのうちの二人がやっと姿を現わしましたが,他の人たちは来ませんでした」。
友だちとしての縁がこれで切れる,という場合もありますが,幸いにもクリスチャンの振舞いが勝ちを制しました。その夫はこう語っています。「翌日,3人の忘れっぽい友人に会った時,妻は相手が涙を浮かべてあやまるものと考えていました。ところが,苦笑いと早口のあいさつしかありませんでした。それから数日がたちました。妻が自分の方から友人たちに近付くことに決めたので,私も誇らしく思いました。涙が流れ,何度か抱き合って,事は一件落着しました。それでも私の頭の中には,『「ごめんなさい」の一言が言えなかったのだろうか』という疑問が残りました」。
「ごめんなさいは多分一番難しい言葉」という,ポピュラーソングの反復句は真理を語っています。どうしてこうした事態が見られるのでしょうか。「ごめんなさい」という言葉は自分の非を認める言葉だからでしょう。確かに,総じて,自分たちの誤りを認めることに問題はなさそうです。ある人に,「あなたは不完全だ!」と言えば,「だれでもそうではないですか」という答えが返って来るでしょう。しかし,その人が自分勝手だとか,誇り高いとか,ごう慢だとか,鈍感だとか,子供っぽいとかいまいましいとか言えば,相手の神経を逆なですることになるでしょう。聖書が他の人の誤りを見過ごし,忍び,許すよう助言しているのももっともなことです。―箴言 17:9。エフェソス 4:32。コロサイ 3:13。
昼食に遅れるのはささいなことに思えますが,人と人との間に克服し難く見える壁を作ってしまいがちなのはそのようなちょっとした不幸な出来事なのです。争いのバリケードは,「ごめんなさい」の一言で崩されることが多いのです。
でも,だれが最初にそれを言うのですか。「私は言わない」と言われるでしょう。状況を分析し,自分は「罪がない」と判断しました。「どちらかが正しいはずだ」と主張するでしょう。しかし,そのような論法は“相手”が物事を別の観点から見ているかもしれないという点を見落しています。(箴言 18:17)そのため膠着状態になってしまいます。あやまるのは敗北と見て,双方とも言わばざんごうを掘って,長期戦に備えます。
しかし,人々が進んで自分の誇りを捨てる気になれば,長期に及ぶ憎しみにさえけりがつくことを聖書は示しています。族長ヤコブの例を考えてみましょう。ヤコブはいさかいを終わらせるために誇りを捨てる以上のことを進んで行ないました。双子の兄であるエサウとの相克は二人の誕生の時にまでさかのぼります。エサウが一なべの煮物のためにヤコブに売った家督の権を,ヤコブが事を巧みに操って受け取った時に,その相克は激しい憎しみとなって爆発しました。(創世記 25:22-34; 27:1-41)ヤコブは命からがら逃げ出しました。長い年月の経過もヤコブに対するエサウの憎しみを和らげるものとはなりませんでした。
やがて,二人が相対する日がやってきました。ヤコブは謙虚に使者を送り,エサウと会うことを求めました。創世記 32章と33章の記述を読むと,家畜の群れと子供たちとを連れたヤコブに,400人の手勢を連れたエサウという反目する兄弟同士が顔を合わせる備えをするにつれ,緊張が高まってゆくのを感じ取れるでしょう。エサウにはまぎれもなく殺意があります。一方,ヤコブは平和な関係を結ぼうと決意しており,謙遜に友好の意思表示をします。それがまたなかなかのものです。幾百頭もの貴重なヤギや羊,多くの雌牛やラクダや雄牛が平和の捧げ物としてヤコブの僕たちの手で届けられたのです。この寛大さの表われを見た時のエサウの驚きを想像してみてください。
しかし,平和を得るにはそれ以上のことが求められます。エサウと面と向かった時に,ヤコブはどうするでしょうか。「そして自分自身は彼らの前を進み,自分の兄弟に近づくまで七回地に身をかがめた」。自分よりも上位の者の権威を認めるかのように,こうしたしぐさをしたのです。どんな結果になりましたか。「するとエサウは走り寄って彼を迎え,抱擁し,その首を抱いて口づけするのであった。そしてふたりは涙を流して泣いた」― 創世記 32:13-15; 33:1-4,新。
どんな教訓が引き出せますか。個人的ないさかいの場合に,だれが“正しい”か“間違っている”かよりも重要な事柄があります。平和な関係を取り戻すことが重要なのです。ですから,意見の不一致があった場合に,こう自問してみましょう。「自分は相手の見方で物事を見ているだろうか。クリスチャンらしく物事を扱っただろうか。進んで謙遜になろうとしているだろうか。相手に幾らかきまりの悪い思いをさせたのだから,こちらから『ごめんなさい』と言えるだろうか」。
「ごめんなさいはたったの一言」という言葉があります。しかし,それは力のある言葉です。最初にそれを言う側になるよう努力しましょう。―マタイ 5:9,23,24。