読者よりの質問
● マタイ伝 12章43-45節にあるイエスの言葉の意味を説明して下さい。―アメリカの一読者より
「汚れた霊が人から出ると,休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが,見つからない。そこで,出てきた元の家に帰ろうと言って帰ってみると,その家はあいていて,そうじがしてある上,飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って,自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり,そこに住み込む。そうすると,その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も,このようになるであろうし。―マタイ 12:43-45,新口。ルカ 11:24-26。
悪鬼につかれていた人から悪鬼が出た場合,空白状態が残ります。悪鬼の出た後に残ったこの空白の状態を主の御霊でみたし,神のことばと一致した行いの伴う信仰でみたさなければなりません。そうすれば悪鬼が戻ってきても,悪鬼の住み家にたとえられているその人の状態が,「あいていて,そうじがしてある上,飾りつけがしてあった」のを見ることはありません。かえって悪鬼は自分の出た後にもっと強い霊すなわちエホバの活動力がみちているのを見て,その人に再びつくことをしないでしょう。イエスがここに言われた人の場合,この人は悪鬼の出た後の空白をみたさなかったに相違ありません。この人はエホバへの奉仕を始めず,エホバの御霊を受ける生活をしませんでした。むしろ自分を清めたに過ぎず,敬虔ぶって自分を飾りました。このような人は悪鬼の戻るのを防ぐことができません。そして再び悪鬼につかれた時の状態は前よりも悪くなることでしょう。今度はもっと多くの悪鬼がつくからです。
この原則を一般的にあてはめると,次のことが言えます。滅びに定められ,神から離れた世の一部だった人が真理の知識を得,この世とサタンの悪い精神を捨てたとします。しかしその後も神の道を歩みつづけることをしない場合,その人は神の御霊を受けません。また御霊に導かれて良いわざを行ない,御霊にみたされようとしないために,御霊を受け入れる余地がありません。その人は神の御霊を消してしまい,以前の世の汚れを捨てたのちに見せかけだけの敬虔に満足して空白の状態を残します。認識と奉仕,神の御霊に導かれたよいわざに欠けるこの人は,再びサタンの悪い影響に身をさらすことになります。そして悪鬼は以前にもましてその人の生活をもっと完全に,巧妙に支配します。―ヘブル 6:4-8; 10:26,27。ペテロ後 2:20-22。
イスラエルの民族の場合にも,このことが見られました。この国民は異邦の民から分けられ,サタンの支配を離れたにもかかわらず,間もなくエホバの律法と契約という大切な事柄を忘れ,エホバの御霊に導かれた奉仕にいそしむかわりに小さな問題や言伝え,見せかけだけの敬虔,儀式による清めなどに心を奪われました。イエスが来られた時,ユダヤ人の悪しき世代はサタンに全く支配されており,メシヤを拒絶しました。神を知っただけに責任の重かったこの国民の終りは,そのはじめより悪いものでした。
サウル王の例を見てもわかるように,エホバの御霊でみたされていない人は,往々にして悪鬼にとりつかれます。悪しき王サウルのかわりにダビデが王として油そそがれ,エホバの御霊はダビデの上に留まりました。そのときサウルはどうなりましたか。「かくてエホバの霊サウルを離れエホバより来る悪鬼これを悩せり」。(サムエル前 16:13,14)エホバが実際に悪鬼を送ってサウルを悩ませたのではありません。エホバが御霊をとり去ってのち,今度は悪鬼が代りにとりついたのです。エホバが御霊を取り去ったため,悪鬼はサウロにつくことができました。それでエホバから悪鬼が来たように書かれています。
エホバがパロの心をかたくなにしたと述べている聖句の場合も同様に理解できます。エホバがそうしたのではなく,エホバの音信を聞いてパロが自分で心をかたくなにしたのです。エホバの音信と,エホバがエジプト人に対して行なわれたことのために,パロは怒り,心をかたくなにして行動しました。そしてパロの聞いた音信と,エジプト人のこうむった災はエホバからのものでしたから,エホバは間接にパロの心をかたくなにされたと言えます。(出エジプト 7:3; 8:15,32)エホバがイザヤに告げられた次の言葉も,この原則を示す別の例です。「あなたはこの民の心を鈍くし,その耳を聞えにくくし,その目を閉ざしなさい」。(イザヤ 6:10,新口)イザヤが文字通りにこの事をするのではありません。イザヤは音信を宣べ伝えました。しかしそれを好まなかった反逆者たちが音信に対して耳を閉ざしたのです。このようにエホバがサウロから御霊を除いたとき,悪鬼は空いた家にはいり込むようにサウロにとりつきました。
● 数人の聖書学者が集まって,色々な聖書のほん訳を比較したそうですが,「新世訳聖書」もその中に含まれていますか。―アメリカの一読者より
お手紙にあるのは,アーネスト・カドマン・コルウェル教授による,「一番すぐれた新約聖書はどれか」,という題名の本の事と思います。これは,シカゴ大学出版局の発行で,印刷初版は1952年です。コルウェル教授が,色々なほん訳を集め,ヨハネ伝の中から64の言葉を引用して,比較研究したのは1947年です。この本は,その64の引用句一つ一つについて,どの聖書がいちばん正確に訳出しているか,コルウェル教授の意見をのせています。「新世訳聖書」が発表されたのは1950年です。したがって,コルウェル教授は,このほん訳を資料として使うことはできませんでした。
しかし,読者がそれら64の引用聖句についてコルウェル教授が述べている事を調べ,それぞれを「新世訳聖書」とくらべてみれば,その本が満点をつけているグッドスピード博士のほん訳によるクリスチャン・ギリシャ語聖書と並んて,「新世訳聖書」が64点の満点にふさわしいことが分かるでしょう。前述の通り,コルウェル教授の本の初版は1953年であり,これが利用できるようになったのは,「新世訳聖書」が発表されたニューヨーク大会のあった1950年より2年後のことです。それで,「クリスチャン・ギリシャ語聖書の新世界訳」を作る際に,新世訳聖書翻訳委員会は,コルウェル教授の本を参照にしませんでした。