1975年を待ち望むのはなぜか
1,2 (イ)1975年に異常な関心が寄せられたのはなぜですか。どんな結果が生じていますか。(ロ)しかしどんな質問が提起されていますか。
1975年についてこれほど話し合われているのはいったいなぜですか。最近の月々,熱心な聖書研究生のあいだでは,想像に基づくものも一部にはありますが,この問題にかんする活発な話し合いが,野火のように盛んになってきました。その関心の火は,1975年がアダムの創造以来6000年にわたる人類の歴史の終わりをしるしづける年になるとの確信から燃え上がったのです。このような重大な年代が間近に迫っていることは,確かに想像の焔を燃えたたせ,限りない論議を誘います。
2 しかし待ってください! どんな根拠があって,アダムが約5993年前に創造されたと言えるのですか。誤ることのない歴史的な正確さゆえに絶対の信頼を置ける1冊の本,つまり霊感を受けたエホバのみことば聖書は,そのような結論を支持し,認めますか。
3 数多くの聖書にしるされている,アダムの創造の年代は,霊感による聖書の一部ですか。また,その年代はすべて一致していますか。
3 新教徒の用いる欽定訳聖書の欄外の引照や,カトリック・ドウエイ訳のある版の脚注には,アダムの創造の年代は紀元前4004年としるされています。しかしこの欄外の年代は,霊感を受けた聖書の本文の一部ではありません。その年代が最初に想定されたのは,聖書の最後の筆者の死後,15世紀余ののちであり,西暦1701年前の聖書にはいずれの版にも付記されていません。それは,アイルランド人の高位僧職者,英国国教会の大主教ジェームズ・アッシャー(1581-1656)の得た結論に基づいて挿入されたのです。アッシャーの年代表は,アダムの創造の年代を定めようと過去何世紀ものあいだ行なわれた教多くの誠実な研究の結果の一つにすぎません。100年ばかり前に行なわれた調査によれば,まじめな学者の手で出版された年代表は少なくとも140種に達しました。それら年代表によるアダム創造の年代の算定は,紀元前3616年から紀元前6174年までの多種多様で,ある年代表は紀元前2万年という途方もない憶測を掲げています。世界中の数多くの書物に載せられているこれら矛盾した説明を読んだのでは,前述の質問の答えを求める人はまさに混乱させられるばかりです。
4 前の研究記事でどんなことを学びましたか。したがって,これから何を行なえますか。
4 前の記事では,ある聖書の,霊感に基づかない欄外の注に頼らずに,霊感の記録つまり聖書そのものから,70年間にわたるユダの地の荒廃が紀元前607年10月1日ごろに始まったことを学びました。この70年の期間の始まりは,明らかにその終わり,つまり紀元前539年のバビロンの倒壊と関連しています。それで,紀元前539年という絶対年と同様,現行のグレゴリー暦で十分に確定された紀元前607年という年代を用いれば,過去の時代をさらにさかのぼって,聖書歴史の他の重要な出来事の年代を定めることができます。たとえば,サウル,ダビデ,ソロモンなどが順番に神の選民を治めた年代は,現行の暦法に基づいて定められます。
5 紀元前997年には歴史上重大などんな出来事が生じましたか。
5 ソロモンの死後,その国は二分されました。ユダとベニヤミンの2部族で構成された南の国は,引き続きソロモンの家系の王によって治められ,ユダの国として知られました。イスラエルの国を構成した北方の10部族は,時にその後代の首都にちなんで“サマリヤ”と呼ばれ,ヤラベアムとその後継者の手で治められました。さて,エルサレムの崩壊にかんするエゼキエル書 4章1-9節の預言的な期間390年を計算に入れると,ソロモンの死は紀元前997年だったことがわかります。それは紀元前607年のエルサレム崩壊より390年前のことです。
390年間負われたイスラエルの罪
6,7 エゼキエル書 4章1-9節には,どんな期間のことが述べられていますか。
6 このことにかんして預言者エゼキエルの語ることばに注目してください。
7 「人の子よ 汝磚瓦をとりて汝の前に置き その上にエルサレムの邑をゑがけ しかしてこれを取囲(め)……これすなはちイスラエルの家にあたふるしるしなり また汝左側を下にして臥しイスラエルの家の罪をその上に置よ 汝がかく臥すところの日の数はこれなんぢがその罪を負ふ者なり 我かれが罪を犯せる年を算へて汝のために日の数となす すなはち三百九十日の間 汝イスラエルの家の罪を負ふべし 汝これを終なばまた右側を下にして臥し四十日の間 ユダの家の罪を負ふべし 我汝のために 一日を一年と算ふ……汝 小麦 大麦 豆 あぢ豆 粟および裸麦をとりて これをひとつの器にいれ 汝が横はる日の数にしたがひて これを食とせよ すなはち三百九十日の間これを食ふべし」― エゼキエル 4:1-9。
8 南の国の「罪」を負うことは,いつ終わりましたか。
8 エゼキエル書のこの章は過去の歴史的な出来事を物語っているのではなく,将来にかんする預言を述べているのです。それは,輝かしい都エルサレムが包囲され,その住民が奴隷として連れ去られてゆく将来の時を述べており,そのすべては紀元前607年に生じました。それで,ユダに関して述べられた40年の期間はその年に終わりました。390年にわたって負わねばならないと述べられた,北の国の“罪”は,ユダが40年間負ったそれと比べれば,およそ10倍も大きいものでした。それではこれら390年が終わったのはいつですか。
9 北の国の「罪」を負うこともやはり紀元前607年に終わったと言えるのはなぜですか。
9 それは,サマリアの崩壊した紀元前740年に終わったわけではありません。というのは,エゼキエルがその預言的な劇を演じたのは,「エコニヤ王の擄ゆかれしより第五年」以後のことです。(エゼキエル 1:2)それで問題の期間は,アッシリア軍によるサマリア陥落の127年後,紀元前613年よりも前に終了することは当然あり得ないからです。この預言的な劇は全体としてエルサレムの崩壊を率直にさし示しており,また,イスラエルの家とユダの家とは,実質的には契約下にある不可分の同一民族なのです。その残れる者は,二分された民としてとらわれから帰るのではない以上,二つの家の罪を負うことは,時を同じくして続き,紀元前607年,同時に終わったとするのが,唯一の合理的な結論と言えるでしょう。こうしてユダの地の荒廃の70年間は,両方の家の罪を負う期間の終了した70年後に終わり,二つの家の残れる者はエルサレムの地に復帰できたのです。
10 それで,イスラエルの「罪」を負うことが始まったのはいつですか。
10 もし,「イスラエルの家の罪」を負うことが607年に終わったのであれば,390年前のその始まりは紀元前997年です。その年にソロモン王は死に,ヤラベアムは罪,そうです,重大な罪を犯しました。ヤラベアムは,その国をダビデの家から引き裂かれ,「イスラエルをしてエホバにしたがふことをやめ(させ)」,「大なる罪を犯さ(せ)」ました。―列王下 17:21。
エジプト出国の年,紀元前1513年
11,12 今や人類史上の他のどんな出来事の年代を確定できますか。その助けとして,問題のカギとなるどんな聖句を用いますか。
11 遠い過去を回顧すると,人類の歴史にはもう一つの里程標が見えます。それは,イスラエル民族がモーセに率いられ,エジプトの使役から解放されて出国した,忘れられない出来事です。しかし信頼できるエホバのみことば聖書がなければ,この偉大な出来事の年代を暦で確定することは不可能だったでしょう。というのは,古代エジプトの象形文字の刻文は,最初の世界強国にエホバのもたらされた屈辱的な敗北にかんして明らかに沈黙を守っているからです。しかし聖書の年代表を用いれば,その記念すべき出来事の年代は,比較的に容易に定めることができるのです。
12 列王紀略上 6章1節にはこうしるされています。「イスラエルの子孫のエジプトの地をいでたるのち四百八十年 ソロモンのイスラエルに王たる第四年ジフの月すなはち二月にソロモン,エホバのために家を建ることを始めたり」。
13,14 (イ)グレゴリー暦によれば,ソロモンが王位についたのはいつですか。(ロ)ソロモンはいつ宮の建立を始めましたか。
13 この資料があるので,あとは,ソロモンが宮の建立を始めた年を暦で定めればよいのです。そうすれば,パロの軍隊が紅海で滅ぼされた年代は容易に計算できます。
14 「ソロモンのエルサレムにてイスラエルの全地を治めたる日は四十年なりき」。(列王上 11:42)このことは,ソロモン在位の最後の年が紀元前997年の春に終わったことを示します。a 997に40を加えれば紀元前1037年となります。これはソロモンが平和な統治を開始した年です。しかし記録の示すとおり,ソロモンはその治世第4年の第2の月に至るまでは宮の建立を始めませんでした。つまりその時までに満3年と1か月治めたのです。それで1037年から3年を引けば,紀元前1034年となり,この年に宮の建立が始まりました。その時期は第2の月ジフ,4月ないし5月のころでした。この時が聖書によれば,イスラエル民族のエジプト出国後「(第)四百八十年」にあたります。
15 (イ)基数と序数の違いを説明しなさい。(ロ)それでイスラエル民族はいつエジプトを去りましたか。
15 “第”という字を数字の前に用いる場合は,たとえば10に“第”を付して“第10”と言うように,その数は基数から序数に変わります。ですから,野球の試合で(第)10回のプレーと言えば,9回の表と裏はすでに終わり,(第)10回にはいっており,この回はまだ完了していないという意味です。同様に,聖書は序数を用いて,宮の建立はイスラエル民族のエジプト出国後,第480年に始められたと述べており,その年は現行の暦で紀元前1034年ですから,(480年ではなく)満479年を1034年に加えると,紀元前1513年という年代に達します。これがエジプト出国の年で,日付は春の過ぎ越しの時,つまりニサンの月の14日でした。
大洪水以来何年を経たか
16 これまでに歴史をどれほどさかのぼれましたか。さらに遠くさかのぼることができますか。
16 これで,今年西暦1968年の春から紀元前1513年の春までの年数を,聖書の助けを借りて正確に逆算できましたが,それは合計3480年です。しかしエホバのことば聖書の正確な歴史的記録を用い,その筆者の信頼できる記憶に従えば,さらに遠い過去,ノアの大洪水の日までもさかのぼれます。
17 イスラエル民族の経験を述べたステパノは,どんな出来事および期間について言及していますか。
17 イエス・キリストの追随者で最初の殉教者となったステパノは,エホバの述べられた,アブラハムの子孫の遭遇する事柄について次のように言及しました。「神またその裔はほかの国に寄寓人となり,その国人はこれを四百年のあひだ奴隷となして苦しめんことを告げ給へり」。(使行 7:6。創世 15:13)ここでステパノは,イスラエル民族が外国の地で寄留者となり,奴隷として使役され,また民族として400年間苦渋を味わった,3つの昔の経験を述べています。
18 それらの出来事は順番に続いて起こったそれぞれ別個の経験であるとする結論は,なぜまちがっていますか。
18 これら3つの経験が同じ期間にわたるとか,それぞれ別個のもので順番に続いて生じたと見なすのはまちがいです。奴隷にされたのは,異国人としてエジプトに移住して70年余ののち,つまりヨセフの死後しばらくしてからでした。それでステパノは,彼らの苦しんだ400年の期間に奴隷となり,また外人居留者であったことを述べたのです。
19 イスラエル人はエジプトに移住する前から“外人居留者”だったとどうして言えますか。
19 彼らが「ほかの国に寄寓人となり……四百年のあひだ…苦し(ま)ん」とステパノが語ったとき,彼らはエジプト入国前,外人居留者でなかったと言ってもおらず,意味してもいないことに注意してください。それで,この聖句はイスラエル民族がエジプトに400年間居住したことを証明するとの主張は誤りです。ヨセフの兄弟たちがエジプトにはいり,初めてパロの前に出たとき,「この国にやどらんとて我らはきたる」と語ったのは真実です。しかし,その時までは外人居留者ではないと言ったのでもなく,また意味したのでもありません。というのは,彼らの父ヤコブはその同じ時に,パロに自分の年を尋ねられ,こう答えたからです。「わが旅路[外人居留者として]の年月は百三十年にいたる」。ヤコブは,エジプトに下る前にその生涯をほとんど外人居留者として過ごしただけでなく,その先祖もまた外人居留者だったとパロに告げました。―創世 47:4-9,[新世訳]。
20 その400年の期間はいつ終わりましたか。また始まったのはいつですか。
20 イスラエル人の苦難は紀元前1513年に終わったのですから,その始まりは400年前の1913年です。その年は,イサクが乳離れをして,イシマエルから「笑(われた)」時にあたります。当時,イサクは5歳でした。それでこれはイスラエル人がエジプトに移住した時よりはるか昔の出来事でした。―創世 21:8,9。
21,22 イスラエル人は満430年間エジプトにいましたか。昔のある写本はこの点をどのように明らかにしていますか。
21 では,イスラエル人が外人居留者としてエジプトにとどまったのは,どれほどの期間でしたか。出エジプト記 12章40,41節はこう述べています。「さてイスラエルの子孫のエジプトに住居しその住居の間は四百三十年なりき 四百三十年の終にいたり すなはちその日にエホバの軍隊みなエジプトの国よりいでたり」。
22 この40節は「七十人訳」によれば次のとおりです。「しかしイスラエルの子孫[とその先祖,アレキサンドリア写本]がエジプトとカナンの地に居住したその居住の間は四百三十年[であった]」。サマリアの「五書」には,「カナンの地とエジプトの地で」とあります。それでユダヤ聖書評釈者写本よりも古いヘブル語写本に基づくこれら二つの写本には,“エジプト”ということばとともに,“カナンの地で”ということばが用いられているのです。
23 (イ)それでイスラエル人が実際にエジプトにいたのはどれほどの期間ですか。パウロはこの点をどう確証していますか。(ロ)聖書にしるされている400年と430年の期間の違いを説明しなさい。
23 アブラハムがカナンの地にはいった時から,イサク誕生までは25年,b その時からヤコブの誕生までが60年,その後ヤコブがエジプトに移住するまでが130年,合計215年となり,これはその430年の丁度半分で,エジプトに移る前,カナンの地で費やされた年数です。(創世 12:4; 21:5; 25:26; 47:9)使徒パウロもまた霊感の下に,族長アブラハムがカナンの地にはいった時にアブラハムの契約が結ばれ,その後430年を経て律法契約が制定されたことを確証しています。―ガラテヤ 3:17。
24,25 大洪水が始まったのは紀元前何年ですか。それはアブラハムがカナンの地にはいる何年前でしたか。
24 この430年を1513年に加えれば,紀元前1943年に到達します。この年に,アブラハムは初めてカナンの地にはいりました。それはメソポタミアのハランでその父テラの死去したのちのことです。これで,ノアの洪水の起こった年代を確定するのに必要なのは,幾つかの世代の年を加算することだけです。その数字は創世記 11章と12章にしるされており,次のようにまとめられます。
大洪水の始めから
アルパクサデの誕生まで(創世 11:10) 2年
シラの誕生まで(11:12) 35〃
エベルの誕生まで(11:14) 30〃
ペレグの誕生まで(11:16) 34〃
リウの誕生まで(11:18) 30〃
セルグの誕生まで(11:20) 32〃
ナホルの誕生まで(11:22) 30〃
テラの誕生まで(11:24) 29〃
ハランにおけるテラの死,そして75歳のアブラムがカナンに向かって出発する時まで(11:32; 12:4) 205〃
合計,427年
25 これら427年を紀元前1943年に加えれば,大洪水の始まりは,4337年の昔,すなわち紀元前2370年となります。
アダム創造以来6000年
26,27 (イ)アダムが創造されたのは大洪水の何年前でしたか。それは紀元前何年ですか。(ロ)アダムがその年の秋に創造されたと言えるのはなぜですか。
26 さて,アダムの創造の年代を知るには,大洪水前の10代の先祖に関する年数を同様に加算すればよいのです。それは次のとおりです。
アダムの創造から
セツの誕生まで(創世 5:3) 130年
エノスの誕生まで(5:6) 105〃
カイナンの誕生まで(5:9) 90〃
マハラレルの誕生まで(5:12) 70〃
ヤレドの誕生まで(5:15) 65〃
エノクの誕生まで(5:18) 162〃
メトセラの誕生まで(5:21) 65〃
レメクの誕生まで(5:25) 187〃
ノアの誕生まで(5:28,29) 182〃
大洪水の始まる時まで(7:6) 600〃
合計1656年
27 この1656年を2370年に加えれば,アダムの創造された年,グレゴリー暦紀元前4026年が得られます。人間がその始まりから時を数えるのは自然なことであり,また古代の暦はたいてい秋を年の始めとしているので,最初の人間アダムの創造をその年の秋と見なすのは妥当でしょう。
28 この年代表はアダムの創造に関してアッシャーのそれとどれほど違っていますか。
28 こうして,多年この問題を究明し,またキリスト教国の一部の伝統的な年代計算に盲従しなかった多数の献身した聖書学者の綿密な独自の研究により,アッシャーの計算よりもさらに22年過去にさかのぼるアダム創造の年代が得られました。
29 アダムの創造の年代に関心をいだいているのはなぜですか。
29 数多くの計算を行ない,系図を調べて得たこの知識は,今日のわたしたちにとっていったいどれほど有益ですか。調べたのはすべて過去の歴史にすぎず,墓地を歩き回って,墓石に刻まれた日付を書きとめるようなむだぼねおりではありませんか。アダムの創造の年代を調べるのは,ツタンカメン王の誕生の年を調べることよりも興味深いでしょうか。確かに興味深い事柄です。その一つとして,4026に1968を加えると(紀元前1年と西暦1年の間に零年のないことを考慮すれば),アダムの創造以来,今年の秋で合計5993年の歳月を経たことになります。つまり,今からおよそ7年先,1975年の秋で,全人類の父アダムの創造以来6000年を経ることになるのです!(その年は,もしアッシャーの計算が正しければ1997年ですが,そうではありません)
アダムは“第六日”の終わりに創造された
30 1975年の前に何が起こり得ますか。しかしわたしたちはどんな態度をとるべきですか。
30 以上の研究から推して,ハルマゲドンの戦いは1975年の秋までに終わり,また待望のキリストの千年統治がその時までに始まると考えられるでしょうか。それはあり得ることです。しかし,人類生存の第7番目の千年期が,安息日に似たキリストの統治する千年期とどの程度厳密に合致するかをもう少し検討してみましょう。これら二つの期間が暦年において互いに一致するとすれば,それは単なる偶然ではなく,時にかなったエホバ神の愛ある御目的による事柄です。しかし,わたしたちの年代表はかなり正確ですが(絶対に誤りがないと言うことはできないので),地上における人類生存の6000年が1975年の秋に終わるとせいぜい指摘できるにすぎません。これはエホバの創造の第7番目の“日”の最初の6000年が1975年に終わることを必ずしも意味するものではありません。なぜですか。なぜなら,アダムは,創造されたのちに,その“第六日”内のある期間生活したので,その未知の時間をアダムの生涯930年から引かなければ,第6番目の7000年の期間もしくは“日”がいつ終わったか,またアダムは“第七日”にはいってどれほどの期間生きたかを定められないからです。しかし,創造の第6番目の“日”は,グレゴリー暦によるアダム創造の年以内に終わったと考えられます。その差は何年ではなく,おそらく何週間か何か月でしょう。
31 創世記の最初の二つの章から何がわかりますか。
31 アダムの創造に関しては,聖書の述べるところを注意深く調べるのは大切なことです。創世記を編さんしたモーセは,大洪水前にしるされた記録文書もしくは“歴史”に言及しています。その最初のものは創世記 1章1節から始まって,創世記 2章4節の次のことばで終わっています。「これは……天と地……の歴史である」。第2番目の歴史的な記録文書は,創世記 2章5節から始まって,5章2節で終わっています。したがって,幾らか異なった見地に立ってしるされた,創世にかんする二つの別個の記録があるわけです。その2番目の記録の創世記 2章19節(新世訳)で,“造っておられ(た)”と訳されている原文のヘブル語の動詞の時制は未完了つまり進行形です。それは,アダムの創造されたのちに動物や鳥が創造されたという意味ではありません。そうでないことは創世記 1章20-28節からわかります。それで創世記 2章19,20節は,1章と2章に食い違いを生じさせないために,人間の“助け手”を創造する必要を説明した単なる挿入句と見るべきでしょう。ですから進行形のそのヘブル語の動詞は,「かつて造り続けられ(た)」とも訳せるのです。―ロザハム訳およびリーサー訳(いずれも英文)を調べてください。
32 創造の第6日はアダムの創造の直後に終わったのではないとどうして言えますか。
32 創造にかんする創世記の中のこれら二つの記録は,資料の取り扱い方に幾らかの違いはあっても,エバがアダムののちに創造された事実をも含めて,あらゆる点で互いに全く調和しています。それで創造の第6日は,エバの創造という出来事ののちに終わったのです。それが,アダム創造ののちのいつかは述べられていません。こうしるされています。「その[アダムとエバの創造の]のち,神はお造りになったものすべてをごらんになった。すると,見よ,それは非常に良かった。晩が来て,朝が来た。第六日である」。(創世 1:31,新世訳)創造の第6日が終わると,第7日が始まります。
33 (イ)創造の第6日は,アダムの創造後まもなく終わったとどうして言えますか。(ロ)創世記 1章31節のことばは,アダムとエバが罪を犯す以前に第6日が終わったことをどのように証明していますか。
33 アダムの創造から,安息の日つまり第7日の始まりまでの時間は必ずしも長時間でなかったことに注意してください。アダムは動物に名前をつけ,また自分の伴侶がいないことを知りましたが,それには長時間を要しませんでした。動物はみなアダムに服しており,おとなしく,また神の指示の下に連れてこられたので,追いかけて捕える必要はなかったのです。ノアがその同じ種類の動物の雄と雌を取って箱舟に入れるのに要したのはわずか7日でした。(創世 7:1-4)また,エバの創造は,「アダム(の)睡…りし時」のつかのまに成し遂げられました。(創世 2:21)それで,アダムの創造と,創造の第6日の終わりとの時間的な隔たりは,どれほどかわかりませんが,比較的に短かったと考えられます。また,第六日の終わりには次のような宣言が述べられました。「神はお造りになったものすべてをごらんになった。すると,見よ,それは非常に良かった」。このことばは,アダムとエバが罪を犯し,エデンの園から追放される以前に創造の週の偉大な第7日がすでに始まったことを証明しています。
1975年!……さらにその先の将来!
34 聖書の年代表にかんするより深い知識はどのようにして得られましたか。
34 聖書の年代学は,歴史上有名な出来事を,時の流れの中で,起こった順に位置づける助けとなる興味深い学問です。多年,ものみの塔協会は,聖書の中の歴史的かつ預言的な出来事を証明する最新の研究に,協会内の研究者が,遅れずについてゆけるよう取り計らってきました。そして聖書年代表上の主要な問題点は,聖書預言の成就や考古学上の発見,あるいは原語の文章を一層明確に訳出した,よりすぐれた聖書翻訳によって解決されてきました。しかし,あまり重要ではありませんが,幾つかのむずかしい年代上の問題はまだ解決されていません。たとえばエジプト出国の際,エホバは年の初めを政暦の秋から,教暦の春に変えられました。ではユダヤ人の暦に6か月が加算されましたか,それとも引かれましたか。―出エジプト 12:1,2。
35 なぜ今は,無関心でいたり,満足感にひたったりすべき時ではありませんか。
35 絶対に確実なことが一つあります。それは,聖書預言の成就によってさらに強力な裏付けを得た,聖書の年代表によれば,人類生存の6000年間がまもなく,そうです,この世代のうちに終わるということです!(マタイ 24:34)ゆえに今は,無関心でいたり,満足感にひたったりすべき時ではありません。「その日その時を知る者なし,天の使たちも知らず,ただ父のみ知り給ふ」と言われたイエスのことばをもてあそぶ時でもありません。(マタイ 24:36)それどころか,今は,現在の事物の制度の悲惨な終わりが足ばやに迫っている事実に十分目ざめるべき時です。まちがわないでください。天の御父ご自身は「その日その時」のいずれをも知っておられますが,それで十分なのです!
36 この点で使徒たちはどんな有益な手本を残していますか。
36 1975年より先の将来を見通すことはたとえできないにしても,そのために手をゆるめてもよいと言えますか。使徒たちはこの年まで見通すことさえできず,1975年については何一つ知らなかったのです。彼らは,割り当てられたわざを成し遂げるのに,わずかの時間しか残されていないことを見通し得ただけです。(ペテロ前 4:7)したがって,その筆になる記録にはすべて,事の急を告げる響きがあふれています。(使行 20:20。テモテ後 4:2)また,それは正しいことでした。もし手をゆるめ,あるいはぐずぐずして,終わりは何千年も先のことだと考え,気をゆるめたのであれば,自分の前に置かれたレースを決して走り抜くことはできなかったでしょう。しかしそうではありませんでした。彼らは懸命に,しかも早く走り,そして勝利を得たのです! それは彼らにとって生か死かの問題でした。―コリント前 9:24。テモテ後 4:7。ヘブル 12:1。
37 では,今から1975年まであなたは何を行なってゆきますか。またその先の将来はいかがですか。
37 この20世紀後半のエホバの忠実な証人についても同じです。証人たちはクリスチャンとしての正しい見方を持っています。たゆまず続けられるその福音伝道の活動は,ここ10年間に見られる特異な事柄ではありません。証人たちは,単に1975年までエホバに奉仕するために献身したのではありません。キリスト・イエスが,「我に従ひきたれ」とその弟子たちに命ぜられ,歩むべき道を明らかに示されて以来,クリスチャンはいつもこの道を走ってきました。それで,キリスト・イエスのいだかれたと同じ心構えを保ってください。何事であれ,そのために手をゆるめたり,疲れはてたり,また,あきらめたりすることのないようにしましょう。大いなるバビロンや,サタンの支配する現在の事物の制度をのがれる人々は,今や命を目ざし,また神の国を目ざして走っており,1975年が訪れても,走り続けるでしょう。決してとまることはありません! 彼らは賛美と奉仕をとわにエホバにささげつつ,永遠の命に通ずるこの輝かしい道を走り続けるでしょう!
[脚注]
a 「王の在位の年の計算は,春に始まる即位紀元に基づいており,これはまた,バビロニア人の計算と同じである。バビロニアではこの方法がおもに用いられていた」― シャッフ,ヘルゾグ共編「新宗教知識百科辞典」,1957年版,第12巻,474頁。
b ついでですが,その25年にもう5年を加えると,合計30年となりますが,その年にイサクは乳離れをしました。この点から,400年の期間(創世 15:13。使行 7:6)と430年の期間(出エジプト 12:40。ガラテヤ 3:17)の違いを説明できます。