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神の目的とエホバの証者(その17)ものみの塔 1961 | 5月1日
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ルサフォード兄弟が前科者でないと証明した事実は,後になって彼がアメリカ合衆国の最高裁判所に弁護士としてはいれたことからでもわかります。もし彼が刑務所で服役した記録をもつ者と考えられていたなら,これは不可能なことだったでしょう。それでこのようなことを言う人は,全然事実を知らないか,それともルサフォード兄弟のことをわざとわるく言おうとしているかのどちらかです。
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読者よりの質問ものみの塔 1961 | 5月1日
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読者よりの質問
● 輸血によって人間のからだに血を取りいれることの重大さを考えるとき,献身して洗礼を受けた者が輸血を受け,この点で聖書にそむいた場合,その人はクリスチャン会衆から排斥されますか。
霊感された聖書は排斥されると答えています。西暦第1世紀の中頃,キリストの12弟子は,ユダヤ人でない人々をクリスチャン会衆に受け入れるための聖書的必要条件を決定するため,エルサレムの会衆の他の円熟した兄弟たちと共に集まりました。この重要な問題を決定するために集まった12使徒とエルサレムの会衆の他の円熟した代表者たちは,ユダヤ人もしくは割礼を受けた改宗者たちでした。それで彼らは,西暦33年のペンテコストまでは,モーセの律法の一部であった,動物の血を飲んだり食べたりすることを禁止する律法のもとにいました。そのモーセの律法の,レビ記 17章10節から12節で,神はユダヤ人にこういわれました,「イスラエルの家の者,またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも,血を食べるならば,わたしはその血を食べる人に敵して,わたしの顔を向け,これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである。このゆえに,わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち,だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない」。
それらユダヤ人のクリスチャンたちはいまや,神と人との仲保者イエス・キリストの血が死によってそそぎ出されることにより有効とされた新しい契約にはいりました。では彼らは,異邦人の信者をクリスチャン会衆に受け入れるために,どのような条件を彼らに課すことを決定したでしょうか。彼らの決定を示した命令はつぎのとおりです。「使徒たちと古い兄弟たちから,アンテオケ,シリヤ,キリキヤにいる異邦人の兄弟たちにあいさつを送る。……聖霊と私たちは次の必要なこと以外にはあなたがたにこれ以上の重荷を加えないことにする。すなわち偶像にささげられた犠牲と,血と,血を取りださずに殺したものと,淫行とを避けることである。注意してこれらのものから遠ざかるなら,あなたがたは栄えるであろう。ではお元気で」。(使行 15:23-29,新世)それで,すべてのクリスチャンにとって「必要な」事項のなかには,血と,血を出さずに殺したものを避けることが含まれていると,使徒の命令は,神の聖霊のみちびきのもとに述べています。使徒行伝 21章の25節によると,なん年かあとでも,その決定はクリスチャンに対して効力をもっていました。その決定は神がなされたものですから,廃止されたことは全くなく,今日も,献身し洗礼を受け1900年まえにユダヤ人として生まれたイエス・キリストの足跡に忠実に従うクリスチャンに適用します。
預言者モーセの中だちによってイスラエル民族に与えられた神の律法のもとでは,動物の血を食べたり飲んだりすることを禁ずる律法を犯したユダヤ人もしくは改宗者は,神の選民から切り離されることになっていました。エルサレムでのあの会議から出された使徒の命令によると,クリスチャン会衆は,動物の血を食べるか飲むかした者に対して同じことをする責任がありました。使徒の時代には,輸血は流行していませんでした。しかし,12使徒とエルサレムの会衆の彼らの仲間のメンバーが,現代の輸血などを考慮に入れていなかったにせよ,それは,彼らの出した命令の範囲にはいっています。命を救うには輸血が必要だと医師はいいます。その輸血が,ほかの人のあるいは人々の血で,人間の血管を通し直接養うものであることを医学は認めています。
神の律法は,人間の魂がその血の中にあることをはっきり述べています。ですから輸血を受ける者は,自分と同じ人間あるいは人々の血液にある神から与えられた魂を食べているのです。それは,クリスチャンに対する神のいましめを破ることです。それは重大なことであって,各自が良心に従って随意に決定すべきものとして見すごしたり軽視すべき事がらではありません。エルサレムの使徒たちの命令は,「注意してこれらのものから遠ざかるなら,あなたがたは栄えるであろう」と述べています。したがって,意識して輸血を受けて,血を避けないクリスチャンは,霊的に栄えないでしょう。来たるべき事がらの影を示すモーセの律法によると,輸血を受ける者は,排斥によって神の民から切り離されなければなりません。
もし,献身して洗礼を受けたクリスチャンが,クリスチャンとしての円熟性と安定性に欠けていたがために輸血を受けるという罪を初めておかして,その誤りを認めて深く悲しみ,悔い改めて神と神の地上の会衆のゆるしを乞うなら,彼にあわれみをさしのべねばなりません。そして彼を排斥する必要はありません。その人は監視のもとにおかれて,この問題に関し,聖書に基づいて十分に教えられる必要があります。それによってその人は,将来同じような事件が起きたとき,クリスチャンの標準にしたがって決定が下せる力を養うのを援助されます。
しかしがなら,その人がもし,要求されているクリスチャンの標準にしたがわなかったことを認めず,クリスチャン会衆の中でその事について問題を起こし,自分を支持させるために会衆内の他の者を感化しようとするなら,あるいは,将来輸血を受けることや,他の者にこの医療を施すための血を供結することをやめないなら,その人は心から悔い改めたのではなくて,神の要求に故意にそむいたことを示します。それで反逆者,クリスチャン会衆内の他の者に対する不忠実の例として彼を排斥し,会衆から切り離さねばなりません。
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