-
「ことば」を紹介する愛されたヨハネものみの塔 1976 | 4月1日
-
-
多くの言語に翻訳されています。ヨハネの福音書について言えば,イエスの最初の奇跡の時と同じように,最上等のぶどう酒が最後に出てきたかのようです。―ヨハネ 2:10。
イエスの生涯と業に関して,四つの異なった記録があるのは,何と感謝すべきことでしょう。マタイは,イエスをヘブライ語聖書の預言を成就する約束のメシアとして紹介しています。マルコは,驚くべき奇跡を次から次に述べて,イエスを行動の人として描いています。ルカは,イエスを同情心に富む,情け深い救い主として示しています。そして,愛されたヨハネは,イエスをことば,つまり真理について証しするために天から下って来た,人類に対する神の愛ある贈り物として,また愛のこもった羊飼いとして紹介しています。神がこのすべてを書き記させたのは,『イエスが神の子キリストであることをわたしたちが信じるため,そして,信じるゆえにその名によって命を持つため』です。その命を持つために,わたしたちはイエスの命令された事柄を行なって,自分がイエスの友であることを示さねばなりません。―ヨハネ 20:31; 15:14。
-
-
他の人との平和な関係 幸福な生活に欠かせないものものみの塔 1976 | 4月1日
-
-
他の人との平和な関係 幸福な生活に欠かせないもの
霊感を受けた昔の一詩人は次のように書きました。「見よ,兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう……ヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは[エホバ,文]がかしこに祝福を命じ,とこしえに命を与えられたからである」― 詩 133:1-3,口。
他の人との平和な関係は,確かに幸福な生活に欠かせないものです。神は平和を高く評価しておられます。そうした平和を享受するには,隣人を公正に扱わねばなりません。クリスチャンを自認する人は,だれにもまして,愛と正直さをもって人々に接し,平和を求めるべきです。
地上におられた時イエス・キリストは,個人間の問題についてユダヤ人の群衆にこう言われました。「それで,供え物を祭壇に持って来て,兄弟が自分に対して何か反感をいだいていることをそこで思い出したなら,あなたの供え物をそこ,祭壇の前に残しておいて,出かけて行きなさい。まず自分の兄弟と和ぼくし,それから,戻って来たときに,あなたの供え物をささげなさい」― マタイ 5:23,24。
昔の戒めとも調和している
この言葉を語られた際,イエスはレビ記 6章2節から7節(口)に記されている神の律法を思いにとどめておられたに違いありません。そこにはこう書かれています。
「もし人が罪を犯し,[エホバ,新]に対して不正をなしたとき,すなわち預かり物,手にした質草,またはかすめた物について,その隣人を欺き,あるいはその隣人をしえたげ,あるいは落し物を拾い,それについて欺き,偽って誓うなど,すべて人がそれをなして罪となることの一つについて,罪を犯し,とがを得たならば,彼はそのかすめた物,しえたげて取った物,預かった物,拾った落し物,または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。すなわち残りなく償い,更にその五分の一をこれに加え,彼が愆祭をささげる日に,これをその元の持ち主に渡さなければならない。彼はその償いとして,あなたの値積りにしたがい,雄羊の全きものを,群れの中から取り,これを祭司のもとに携えてきて,愆祭として[エホバ,新]にささげなければならない。こうして,祭司が[エホバ,新]の前で彼のためにあがないをするならば,彼はそのいずれを行ってとがを得てもゆるされるであろう」。
この律法の中では,イスラエル人が仲間に対して重大なある種の詐欺行為を働いた例が挙げられています。悪行を働いたこのイスラエル人は,害を受けた仲間が自分に悪感情を抱いていることを知っていました。ここで取り上げられているのは,実際の悪行であり,単なる想像上の悪行ではありません。エホバへの崇拝と奉仕を行なうと称して,犠牲をささげるために神殿に行ったとしても,その者が盗人や偽り者,ゆすり取る者としてエホバのみ前に行ったのであれば,そうした犠牲はどれほど価値があるのでしょうか。神はそのようなささげ物を是認されたり,祝福されたりはしません。後日,預言者サムエルを通して,神がサウル王に語られたとおりです。「エホバは,エホバの声に聞き従うほどに焼燔の捧げ物や犠牲を喜ばれるでしょうか。ご覧なさい,聞き従うことは犠牲に勝り,注意を払うことは雄羊の脂肪に勝ります」― サムエル前 15:22,新。
同じ理由から,イエスは書士とパリサイ人たちを厳しい口調でとがめ,こう言われました。「偽善者なる書士とパリサイ人たちよ,あなたがたには災いが来ます! あなたがたは,はっか・いのんど・クミンの十分の一を納めながら,律法のより重大な事がら,すなわち公正とあわれみと忠実を無視しているからです」― マタイ 23:23。
だまし取られたり,ゆすり取られたりした物品に関するこの律法には,神のあわれみが反映されていました。その律法は,被害者の益を図るものでしたが,また良心に動かされて自分の罪を法廷の裁き人の前で告白し,またそれを認め,その悪行を正そうとする加害者の益を図るものでもありました。それゆえ,律法のこの規定をあえて無視する者には,神の許しはもはや示されなかったことでしょう。―出エジプト 22:1,4,7。レビ 6:2-7。
時たつうちに被害者が死亡した場合,その最近親者が賠償金の支払いを受けることになっていたという事実は,悔い改めた悪行者が誠意を示さねばならなかったことを表わしています。―民数 5:7,8。
仲間のクリスチャンとの平和な関係を保つ
同様に今日でも,自分の犯した悪行 ― 単なる想像上のものではなく,実際の悪行 ― ゆえに,他のクリスチャン兄弟が自分に悪感情を抱いていることを知っているのであれば(だまされた兄弟がその悪行に気付いていなくても),まずその兄弟に対する悪行を正さないかぎり,自分の奉仕が神に受け入れられると期待することはできません。イスラエルの場合,だまし取ったり,ゆすり取ったりした品物に相当する価格に20%加えたものを被害者に返さねばなりませんでした。それは,だまし取られていなければ,それを用いて持ち主が収益を上げていたかもしれないからです。またそれは,加害者が同様の不正行為を重ねるのを抑止する力ともなりました。さらに悪行者には,当時のイスラエル人にとってはかなり高価な家畜であった雄羊を犠牲としてささげることが求められました。これは,自分の罪の結果として余分の出費となりました。
ですから今日でも,事態を正そうとするクリスチャンは当然,物惜しそうに,また不承不承にそうするのではなく,謙遜で物惜しみのない,誠意のある態度で自分の悪行を全面的に認めようとするはずです。加害者は自分に資力があるなら,被害者が金銭や他の価値のある物をある期間奪われていたために損失を被ることがないような仕方でその問題を解決することでしょう。また,神が自分に憐れみを示してくださり,悪行を正す猶予を与えてくださったことを喜び,そしてまず第一に神と,次いで隣人との間の正しい立場に戻るよう魂を込めて努力したいと願うでしょう。律法に指摘されているとおり,そのような律法違犯者は,まず第一に『エホバにむかって』不忠実に振舞ったことになるからです。―レビ 6:2。
事態を正そうとするそうした誠実な態度は,重大な悪行を真に悔い改め,正しい事柄を行ないたいという新たな願いを示すものとなります。
兄弟に対する自分の悪行を認め,それを正すという行動は,神とクリスチャン会衆の双方にとって,当人が誠実に悔い改めている証拠となり,憐れみある処置が講じられます。一方,律法のもとにおける場合と同様,盗みやゆすりを働いてその罪を隠そうとしていた者の悪事があばかれ,しかも
-