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「エホバに向かって激怒しては」ならないものみの塔 1978 | 1月1日
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が見られなくても,感情のままに愚かな行動を取るべきではありません。真理のうちを歩む自分の道がゆがめられることのないよう注意すべきです。さもなければ,神との関係は損なわれ,洞察力は鈍り,その心は「エホバご自身に向かって激怒する」ようになります。
こうした危険を考慮して,神は次のような助言を与えています。「油断することなく,あなたの心を守れ,命の泉は,これから流れ出るからである」。(箴 4:23,口)分別を保ち,思慮に欠けた行動や愚かな考えによって自分の道をゆがめないようにするなら,わたしたちは平衡を保つことができます。(ペテロ第一 1:13)それで,エホバを非難するのではなく,むしろわたしたちを顧みてくださる愛ある神としてエホバを信頼することができます。神はわたしたちに理解を与え,まっすぐで安全な道へ導いてくださるでしょう。―箴 3:5,6。
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読者からの質問ものみの塔 1978 | 1月1日
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読者からの質問
● 信者でない夫が,自分には別の女性がいるとわたしに告白しました。夫の告白は,聖書的な離婚の十分な根拠となりますか。
ある場合,もしクリスチャンの未信者の配偶者が,不道徳を犯したことを認めるならば,それは聖書的な離婚の根拠となり,次いで,罪のないクリスチャンは望むなら自由に再婚できるようになります。
古代のイスラエル国民に対するエホバ神の律法には,さまざまな根拠による離婚の規定がありました。(申命 24:1,2)姦淫,同性愛行為,獣姦などが結婚を解消する根拠となり,有罪者は処刑されねばなりませんでした。(申命 22:22-24。レビ 18:22,23)とはいえ,律法には次のような肝要な要求が述べられていました。「ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない」。(申命 17:6; 19:15。民数 35:30,口)『正義と公平とを愛される方』であるエホバは,そうした事柄が単なる疑念によってではなく,証拠もしくは証人たちによって決定されるよう求められました。(詩 33:5,口)もち論そのことは,死刑を適用することに関して述べられているのであり,離婚の行為に関して述べられているのではありません。
律法の中で取り扱われているもう一つの場合も,証拠の重要さを例証しています。もしある人が自分の妻が姦淫を犯したという疑いを抱き,妻はそのことを否定し,だれも証人のいない場合,その人はどうすべきだったでしょうか。神の律法は取るべき処置を略述していますが,それは,妻が有罪であれば妻に,また妻が無罪であれば夫に対して,永続的な影響をもたらしうる思い切った処置でした。妻は祭司のもとに連れて行かれ,ある特別な水を飲むことを含む所定の行為にあずかるように仕向けられます。もし彼女が有罪であれば,神からの処罰を受け,その「ももはやせて」しまいます。つまりそれは,彼女の生殖器官が萎縮し,妊娠する能力を失うことを意味していたようです。(民数 5:12-31,口)明らかにそのような場合,姦婦は罪を否定し,必要な二人の証人もいなかったために,神からのこうした驚くべき処罰を受けましたが,死刑は執行されませんでした。
今日のクリスチャン会衆における場合はどうですか。聖書的な離婚の根拠となる実際の証拠を得ることができるでしょうか。
イエスご自身は追随者たちに,再婚の自由を与えるものとなる離婚の唯一の根拠は,配偶者がポルネイア,つまり由々しい性の不道徳を犯した場合である,と告げられました。(マタイ 19:9)クリスチャンである妻が,夫に姦淫の罪があることを単に疑うだけで,離婚のための十分な根拠となりますか。いいえ,クリスチャン・ギリシャ語聖書も,平衡の取れた正義感に従って,問題は二人または三人の証人によって決定されるべきであるという原則を引き継いでいるからです。(ヨハネ 8:17,18。テモテ第一 5:19。ヘブライ 10:28)ですから,もし妻が夫の姦淫を単に疑っているだけで,しかも夫はそれを否定し,確証を与える証人がだれもいないなら,彼女には,夫と離婚し,それゆえに自由に再婚する権利があることを,クリスチャン会衆に立証する十分な根拠がないことになります。
しかし,未信者の配偶者が不道徳を告白する場合があります。例えば夫は,妻を侮辱し,傷付けるためにそのことを誇りさえするかもしれません。妻は夫のわがままを見過ごすこともできますが,もしそれができない,あるいは
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