不幸な不平家
『地の生ける子なんぞ不平を言うべけんや? 人おのれの罪の罰せらる為不平を言うべけんや? 我ら自らの道をしらべ,かつ良く省みてヤウェに帰るべし。』― エレミヤ哀歌 3:39,40,ロザ訳。
1 エホバは人間の心について何を知って居ますか? そして,人間は世の悩みにも拘らず,現在どの様に幸となれますか?
エホバは人の心を知つて居られます。エホバは人間が正しく考える様に自分の心を訓練しないならば不幸になるという事を知つて居ります。此の世の考と行の道は正しくありません。何故なら,それは聖書に示されて居る神の考え方に基いて居ないからです。然し,人類の或者達は,我々が何故罪の中に生まれ,何故不正の中に孕まれたか知つて居ます。その様な人々は,自分達がその現状から救われる為にエホバに従つて居ります。彼らは知つて居ます。即ち『地の生ける子』の耐える苦悩と歎きとは人類の父祖アダムの所為であるから不平を言うべきでないという事を知つて居るのです。エホバの証者達は聖書をしらべて来ました。そして,罪に生れ,不正な考えをする事について真理を知つて居ます。同時に,その真理を得たからといつてクリスチャンが現在間違つたことをしても良いと言う理由にならない事も良く知つて居ます。彼らは,クリスチャンとして,自ら省みて自分達のとつて来た道をしらべ,現在までどの様に歩んで来たかを反省して,将来の行動を決定しなければなりません。彼らは『ヤウェに帰るべし,』という結論を得ました。それ故に,彼らは自分の一生をエホバへの奉仕に捧げたのであります。悲しみや病気や死が彼らにもたらされたのは,最初の両親アダムとエバの為であると知つても,彼らは自分達の悲境について不平を言いません。寧ろ,どう考えても,幸福になれるのです。というのは彼らは,この苦悩より脱出する道を知つて居るのです。何故なら,神は救いの為御準備して下さつたからです。あなた方も『幸の神』エホバから脱出の道を教えられることが出来るのです。そして,エホバは御自分の造つたものが幸になることを望んで居られるのです。
2 詩篇 1篇によれば,この世の真中に在つて幸福な者は,誰ですか?
2 貴方も一個人として幸を得ることが出来るのです。たくさんの幸福な人々が一緒に集つて幸福な会衆を形成しますが,あなたは幸福を持つために必ずしも大会衆内に入る必要はないのです。一人の神の僕は世界到る処に居ります。たとえその人が,宣教者宅から遠く離れた所に居ようとも,或は全く孤立した所に居ようとも,必ず幸を持つことが出来るのです。人間は正しい見解を持てば詩篇記者の語つて居る様な人と同じ感じをもてるのです。ロザハム訳はエホバの名の代りにヤウェの名を使つて居ますが,次の様に記述して居ります ―『不法な者の謀略にあゆまず,つみ人の道にたたず,嘲ける者の座にすわらぬ者はさいわいなり。かかる人はヤウェの法をよろこびて,その法について昼も夜も自分に語る。』(詩 1:1,2,ロザ)これは何と本当なのでしよう! 何故なら人間が罪人と共に座を占めるなら不幸になるからです。一寸この世を見つめ,その状態を考えてごらんなさい。人々は本当に満足しては居りません。彼らが満足出来る筈もございません。何故なら世は悪で満たされて居るからです。彼らは,神を無視し,生命への神の御準備をかえりみません。その結果,彼らは,個人的にも,集団的にも幸福でありません。世を避ける者こそ幸であります。
3 その様な人は,どの様にして自分に語るのですか? そして何について語るのですか?
3 その人は『日も夜もこれを自分に語る』と詩篇記者が申して居ります。これは一寸奇妙な表現でしよう? でもその人が沈思熟考することを意味して居るのです。では何について沈思熟考するのでしよう? 彼は自分の為に神が備え給うた物,つまり聖書中に示されて居る神の御準備について沈思熟考するのです。それは,丁度ヨシュアが神の御言葉について沈思熟考した如くです。神はヨシュアに言いました ―『この律法の書を汝の口より離すべからず,夜も昼もこれを念いて其の中に録したる所をことごとく守り行え。然ば汝の途福利を得,汝かならず勝利を得べし。』(ヨシュア 1:8)ヨシュアは夜も昼も自分に語るのでした。彼は,神がモーセに語つた真理について沈思熟考するのでした。それらの真理は書に記されて居ました。そして彼はそれらの真理に従つて生き,幸福を得たでありましよう。そうです,幸福は正しい事をする者の上におとずれるのです。そして,至上者に対する個々の奉仕は正しい事であります。何故なら,それは神を礼拝することだからです。
4 エホバを神とした国民はどの民ですか? 此の事実にも拘らず,彼らが幸福への機会を余り持てなかつたのは何故ですか?
4 至上の神は,幸福を個人にのみ限定しては居りません。彼は一国民全体とも交り,それを幸福な国民にします。『ヤウェをおのが神とする国たみは幸なり,ヤウェ嗣業にせんとて撰び給えるその民は幸なり!』(詩 33:12,ロザ)その撰ばれた国民は,イスラエルでありました。神はイスラエル民族の父祖であるアブラハム,イサク,ヤコブと契約を結びました。その国たみはどう考えても幸福でありました。何故なら,彼らの神は全宇宙の至上者エホバであつたからです。然し,彼らは,神の賢明な勧吾に屢々背中を向けたのです。そして彼らは罪の深い道をとり,神を無視しました。その結果,彼ら全国民は幸運のもとを失つてしまいました。我々は,その国民に関する聖書記事より次の事が分ります。即ち,彼らには幸福への機会が余りなかつたことです。それは,彼らが,強情な国民で,小言好みの国民だつたからです。彼らはエホバを真に礼拝しませんでした。それ故神の祝福は手近かに用意されなかつたのです。イエスは次の様に言つた時,その事柄を正しく説明しました ―『もし人が私を愛するならば,私の言葉を守るであろう。そして私の父はその人を愛するであろう。そして,私達は父のもとに行つて,みそばに住むであろう。』(ヨハネ 14:23,口語訳)イスラエル民族は,エホバのみそばに自分達の住居を持つことを余りにも度々拒んだのであります。そして彼らの望みはエジプトへ帰つて,異教の神々を礼拝することだつたのです。
5,6 現在幸福な国たみは誰ですか? そして彼らの幸福は何の為ですか?
5 今日に於いて,エホバのたて給うた国民としてエホバの証者が居ります。彼らは,あらゆる国民,種族,国語から撰び出された撰民であり,幸福な国たみであります。何故でしよう? 何故なら,彼らはイエスの御言葉を守つたからです,その為にエホバは彼らを愛し,彼らはエホバのみそばに住居を与えられたからです。彼らは霊と真をもつて天の父を拝して居ります。彼らは自分達の意の如く事を為そうと考えて居りません。ただ父の御心を行い,神の子イエスキリストの御命令に従おうと一生懸命です。彼らは証となる為,エホバの御国の福音を全世界に宣教する事に大きな幸福を見出して居ります。神が彼らに与えた賜物は真理の知識であります。そして,エホバの証者は,その真理を全世界すべての人々に与えることを大きな幸として居ります。彼らはその真理を自分でひとりじめする様な利己主義者でありません。彼らは聖書,書籍,冊子,雑誌等を印刷し,それを多くの国語により,全世界到る処に遠く広く配布して居ります。
6 世の虚偽の宗教を固守して居る人達は,何故すべてのエホバの証者がそんなに活動的であるのか分りません。だが,彼ら証者達の活動は,至高者に対する彼らの礼拝なのです。エホバの証者達は,幸福な生命を求めて居ります。そして,現に生きて居ながら,幸福を獲得して居ります。彼らは,現代に於ける,この悪い世の中に於いてさえ,幸福となる奥義を見いだしました。彼らは,神の言葉の真理を溢れる程豊かに受けました。そして,その真理を全世界の国民すべてに与える事に,更に多くの幸がある事を自ら体験しました。それ故彼らは自分の受けた物を絶えず与えて居ます。エホバの証者の制度は,幸福な人々で一杯です。彼らは友好的であり,他の人々も彼らと共に幸を得,至高者に対する真の礼拝に加わる様に一生懸命です。それ故に,彼らは家から家へ,町から町へ,国から国へと経歩いて,イエスの次の命令を遂行して居るのです ―「み国のこの福音は証明となる為全世界に宣べ伝えられねばならない。」一国民としてのエホバの証者は,エホバを自分達の神として居るから,幸であります。
7 制度内の或人々が,再びこの世へ戻り,幸福を失うのは何の為ですか?
7 時に,制度内に於いて此処に一人かしこに一人と再び悪の世へもどる者を見受けます。これは何故でしよう? 理由は簡単です。その人が宣教を止めた為です。与える事を止めた為です。人が若し神を礼拝して居ないならば,その人は神の制度に居る処がありません。若し人が礼拝を止めるなら,その人は自分を神の制度外につき出して居るのです。真理の研究を止め,エホバを棄てるなら,その人はもはや他の人に与える何物をも持つて居ません。その人には真理がありません。エホバの制度内に居る為には,研究こそ欠くことの出来ない要素であります。若し人が真理を絶えず取りいれないならば,そして次第に光を増して真昼の輝きにまで達する光を絶えず受けないならば,やがてその人は御国の善い便りを宣教する特権に無頓着となるでありましよう。そして間もなく,自分が人々に告げる物を何も持つて居ない事に気づくでありましよう。そうなつた理由は,彼が自分の心を怠けさせた為なのです。結局彼はこう言います ―「私はもうエホバの食卓から何も戴きません」と。そして,彼は自分の持つて居る知識を使わなくなり,それを他の人に与えません。やがて彼の幸福は消え失せます。幸福は与える事を通じて大きくもたらされるのです。
典型的な実例
8 イスラエル民族は,エジプトより救い出されたにも拘らず,何故幸福を保てなかつたのですか?
8 イスラエルの子らが荒野に居た時の事を一見して下さい。エホバが彼らをエジプトから救う為に何を為されたか考えて下さい。彼らはエジプトに於いて圧制的奴隷制度のもとに苦しんで居りました。然し天の神エホバは彼らを救い出し荒野へ導きいれて下さいました。エホバはその大いなる御力をお用いになつて,彼らをエジプトから紅海を経て荒野へと導き下さつたのです。彼は,イスラエル人がその未知の土地をさまよい歩いた40年間,彼らに食を与え給うたのです。神がそれらの民を約束の地へ導かれた大きな愛を考えてもごらんなさい。然し,この大きな愛すべてを受け,その上苦悩の中より救い出されたにも拘らず,イスラエル民族は未だに不満を懐いて居たのです。彼らは愛を欠いて居ました。彼らは一国民として神を真に礼拝して居ませんでした。そして幸福でありませんでした。
9 人々は,時に自分の務を何故重荷と感じますか? モーセはこの事はどの様に例証しましたか?
9 しかし乍ら,その国たみの中には,神に仕える歓びを持ち,与えられた教訓に忠実であつた者がたくさん居りました。時には,その様に忠実な者でさえも,自分達に課せられた責務を重荷と感ずるのであります。その様な場合,彼らは神の御準備に対する信仰を欠いて居ります。一例をあげるなら,モーセは神とイスラエルの仲保者として仕えました。然し,或時自分が余りに多くを要求されて居ると考えたのです。イスラエルの子らは,ぶつぶつ不平を言い,あら探しをし,肉を欲しがりました。そこで彼らは大略次の様に言いました。「神が我々に与え,毎朝集めよと申されたこのマナでは満足出来ない。我々は肉を望んで居るのであり,肉がほしくてたまらない」と言つたのです。彼らは肉を与えよとモーセにせまりました。彼らは前から屢々不平を言つて来ました。今や不幸な精神状態におちいり,彼らの不平は遂にモーセをも同様な精神状態におとしいれてしまいました。その記事全体を理解する為に,民数紀略 11章,11節から15節を読んで下さい。モーセはこう申して居ります ―『汝なんぞ僕を悪しくし給うや? いかなれば我なんじの前に恩を得ずして汝かく此のすべての民を我が任となして我に負わせ給うや? このすべての民は我が姙みし者ならんや? 我が生みし者ならんや? 然るに汝なんぞ我に慈父の乳哺子を抱くがごとくに彼らを懐に抱きて汝が昔かれらの先祖たちに誓い給いて地に至れと言い給うや? 我何処より肉を得てこの総体の民に与えんや? 彼らは我にむかいて哭き,我らに肉を与えて食わしめよと言うなり。我は一人にてはこのすべての民を我が任として負うことあたわず,これは我には重きに過ぐればなり。我もし汝の前にめぐみをえば,請う斯く我を為んよりは,寧ろ直ちに我を殺し給え。我をして我が困苦を見せしめ給う勿れ。』
10 モーセが余り重い責務だと感じた時,彼は何故幸福でなかつたですか?
10 これは幸福な心の状態ではありません。モーセの信仰は弱まつて居ました。エホバに対する彼の確信はくずれだしました。モーセにとつて,その様な民と共にあつた事は,非常に苦しかつたに違ありません。その為に彼は神に殺されることを望む程になりました。それは,彼がその苦しみより解放されたい為でした。モーセは,そのはげしい試煉下に於いて,誤つた精神〔霊〕を表明したのです。彼は神より受けた自分の責務を遂行したくなかつたのです。それ故それに加えて彼はエホバ神に完全な信頼をよせて居なかつたのです。モーセは非常に悪く感じました。そして,大勢の民を見た時,彼は,本当に神の力を疑つたのです。彼は神が過去に為し給うた素晴しい事柄を考えるべきでした。モーセはエホバを待ち望み,エホバに祈つて『私は何をしたらよいでしようか? あなたは此の民の為に何を為して下さいますか?』と尋ねた方がまだまだよかつたことでしよう。モーセはそれらの民に与えるのを欲しませんでした。そして誰もそれを望むべきでないと考えました。彼が幸福でなかつた事は確かであります。
11 こゝでモーセは信仰に乏しかつたことをどの様に示しましたか? 今日に於けるどんな態度がそれに相当しますか?
11 神はイスラエル人に肉を与えるとモーセに言いました。1日や2日や5日や10日や20日ならず丸一月の間『遂に汝らの鼻より出』でて,それを忌み嫌うに至るまで与えると申しました。『これ汝ら己の中にいますエホバを軽んじてその前に哭きたればなり。』(民数 11:18-20,ア訳,ア標)モーセは実際こう言いました ―「私がともに居る民は歩卒のみにても六十万居る。女も子供も皆あわせれば二百万或はそれ以上居る。あなたにはそれらの民すべてに食べさせる為肉を供給することは出来ません。何故なら,それらの民に食べさせるに充分な程の鳥は天にも居ない。羊と牛の群すべてを宰るとも彼らすべてに飽かしむる程充分ではない。神よ,あなたは彼らを知らない。私は彼らがどんな人間であるか知つて居る。彼らは最も利己的,最も強情,最も不幸,最もはげしく不平を言う者達である。おお,私は死んで居た方がましであつたろうに。」然しエホバはモーセにこう申しました ―「エホバの力がその様に限られて居ると思うのか? お前は,私の言葉が本当に実現するかどうか今分るであろう。」(民数 11:23,ア訳,ア標)神を疑い,神は自ら行うと仰せられた事をする事が出来ないと言う様な人を貴方は想像できますか? モーセはここで神の御力を疑つて居たのです。これは今日或人々が次の様に言つて居るのと全く同じです。即ち神がハルマゲドン戦争の時に御自分の民を護り,新しい世界に入れることは出来ない,それは余りに大きな仕事であると言うのと同じです。では貴方は次の事を考えた事がおありですか? つまり,エホバが大洪水の時ノアとその家族を『その時にあつた世』より連れ出し,現在のこの悪い世に入れ給うた事を考えたことがありますか? それは歴史であり,神の御力が既に立証された事を示して居ます。あなた方は,神が再びその事を行い得ると信じませんか? あなたの信仰は何処にありますか? モーセは神の御力に限があると考えました。エホバは天に於いて地に於いてすべての力を持つて居られます。彼はその様な大きな力を御子にさえ与えました。―マタイ 28:18。
12 神の為された奇蹟が,結果として多くのイスラエル人に幸とならなかつたのは何故ですか? この歴史的な実例は,我々の為にどんな目的を果すべきですか?
12 確かに,荒野に於いて生じた事柄は,我々に強い感銘を与え,我々は神の御言葉を決して疑わぬ様になるべきです。我々は,神がヘブル語及びギリシャ語両聖書中におさめられた御言葉を読む時,それを完全に正しく,完全に真実なものとして受け容れるべきです。神は我々に真の生命について語り給います。即ち,その生命が何世紀も前に存在して居た通りに語り,それを現代に起ろうとして居る事の範例に適用して居られます。あの偉大な仲保者モーセでさえも間違いをしたという理由で,我々もエホバを疑い,同じ様な間違をすべきではありません。この為に,古くからそれらの事柄が我らの訓戒と教えの為書き記されたのです。とにかく,後にイスラエル人が彼らの幕屋の外で捕えた鶉は山なす程沢山でした。エホバはそれらを何処からか集め寄せ,彼らの食べ得る限りすべてを与えたのでした。然し,彼らは神の行われた事に感謝しませんでした。イスラエル人はそれらの御準備を慾張つて使いました。神は彼らの貪慾の為不快になられました。その時エホバは与える者,惜しみなく豊かに与える者でありました。然しイスラエル人はそれに対する認識と感謝の欠乏を表明したのです。エホバは,御自分の御言葉が正しく信頼出来るものであることをモーセに証明しました。そして御力をモーセに示されました。エホバの御力は短く限られて居ませんでした。彼は御自分の至上権を証明しました。若しイスラエル人が,エホバの行い給うた尊い事の為に,エホバを讃美したならば,彼らは自分達の生活に幸福を得たことでありましよう。―民数 11:31-35。
13 アロンとミリアムの場合に示されて居る如く,我々は何故不平家となるべきでありませんか?
13 それから,聖書には不平家ミリアムとアロンに関する記事があります。彼らはモーセに反抗して語りました。『彼らすなわち言いけるは,エホバただモーセによりてのみ語り給わんや? また我らによりても語り給うにあらずや?』(民数 12:2)前の時に於いて,アロンが真の礼拝をしそこねた時,モーセは自分の兄弟アロンの生命を救いました。申命記 9章20節に於いてモーセはこう言いました ―『エホバまたいたくアロンを怒りて,これを滅さんとし給いしかば,我その時またアロンの為に祈れり。』さて,イスラエルに於ける前記二人の著明な者,即ちモーセの兄弟と姉妹は,神が自分達の代弁者としてモーセを与えた事に不満の意を表明しました。彼らは神の処置法を好みませんでした。そして彼らの不平の結果,ミリアムは癩病に冒されました。モーセはその姉妹の為に祈りをもつてとりなしをしました。そこで,彼女は幕屋の外に連れ出されて,律法通りに潔められた後,その忌わしい有様から救われたのです。(民数 12:9-15)それ故,神が我々の欲する通りに為されないからとて,如何なる者も神に不平を言うべきでないという事が分ります。エホバは全宇宙の至上主権者であるという事を銘記して下さい。エホバは自分に仕える者よりも,遙に良く自分の制度と仕事の処理法を存じて居られるのです。エホバは御自分の制度と奉仕に於いて,すべての者を御心の如く配置して居られます。すべてはエホバの授け給うた立場にあつて幸となるべきです。神が我らに要求して居られる事は,神に対する我らの忠誠であります。そして若し我々がそれを表明するならば,我々は幸福を得るでしよう。
信仰の欠乏
14 12人の者が約束の地の偵察から帰つた時,信仰の欠乏がどの様に示されましたか? そしてその結果はどうなりましたか?
14 モーセは,神がイスラエルに約束された嗣業を偵察する為に,12人のスパイをカナンの地へ遣しました。その時もう一つの著しい実例が生じました。モーセは12の族から一人ずつ撰びカナンの地を偵察する為遣しました。神が彼らに告げた事をおぼえて下さい ―「私はお前達にあの土地を与えようとして居る。お前達が嗣業として受けようとして居る処は,その辺に於いて一番善い土地である。」然し,12人が帰つた時,その10人はこう言いました。「いいえ,私達は其処へ行きたくありません。其処は巨人の住む恐ろしい国です。エジプトへ戻つて,再び奴隷になつた方がまだましです。行つて起ることは,ただ我々が滅されるという事だけです。何故なら,その国の人々は我々よりも強いからです。」神がイスラエルに与えた土地に関する報告は悪い報告でした。12人のスパイの中,善い報告を持つて来たのは,カルブとヨシュアの二人だけでした。彼ら二人は,神が備えて下さつた物を深く感謝しました。そして,其処が非常に豊沃な土地であるという証拠を持つて来ました。彼らはこう忠告しました ―「さあ,直ぐに其処へのぼりゆこう」と。然し,大部分の者はこう言つたのです ―「おお,いやいや我らは此処に留つて居ようや。我々は,今あるがままの物で満足して居る」と。イスラエル人と,其の土地をうかがつた10人のスパイは,神が自分達に約束してくださつた嗣業の為に働くことには,余りに無頓着でありました。信仰の浅い10人のスパイは,全国民に影響を及ぼしたのです。その結果,年長者達は決して約束の地に入れませんでした。そしてその約束を受けた者は,それら年長者の子供達であつたのです。しかしカルブとヨシュアは彼らと共に約束の地に入りました。何故なら,その二人は忠実で,本当の報告をしたからであります。
15 従つて今日の我々にどんな適切な質問がなされますか? 我々はそれにどう答えますか?
15 あなた方は,今日に於ける神の御準備に信仰をお持ちですか? あなた方は,神の御指示のもとに,喜んで前進しますか? それとも,此の古い死滅すべき堕落した世の中に留つて居たいですか? 或は,寧ろカルブやヨシュアの様な人々と交りますか? 即ち前途を望む新しい世の闘士と交りますか? 若し,あなた方がエホバの御指示に従うことを望むなら,御国のこの福音を証明となる為全世界に宣べ伝えて下さい,そして至高者に対する真の礼拝を実践して下さい。―民数 13:1-33; 14:1-3。
16 イスラエル人はカデシでどの様に不平をこぼしましたか? 何故ですか?
16 イスラエル人の旅の第40年目の事,カデシに於ける不平にもう一度耳を傾けて下さい。『汝らなんぞ我らをエジプトよりのぼらしめてこの悪しき処に導きいりしや? ここには種を播くべきところなく,無花果もなく,葡萄もなく石榴も無くまた飲むべき水も無し。』(民数 20:5)イスラエルはその旅路に於いて,それまで食物に飢えなかつたのです。彼らの靴もすりきれませんでした。また渇いて死ぬこともありませんでした。然し彼らは再び其処で不平を言つて居たのです。全くです,彼らはエホバに待ち望むことが出来なかつたのです。大きな問題は水の問題でありました。彼らはたくさんの水を欲したのです。それを自分達自身と彼らの家畜の為,直ちに欲したのです。そこで彼らは不平を言つたのです。
17 今日,真理を受けて間もない人々は,信仰の不足を如何に示しますか? 彼らは何故幸福でないのですか?
17 我々は今日その様な人々を見受けます。神の制度と交つて居ながらもそうなのです。或者は制度と6ヶ月或は1年程交り,間もなく不平を言い,次の様に言い出します。「何も起りやしない。あなたはハルマゲドンが間近に迫つて居ると,言つたと思います。何故つて,私は丸1年これを知つて居ました。それでハルマゲドンは未だ来ませんでした。あなたは,私が一生この制度について居るとお思いなのですか?」 少数の者は,神が自分達の欲する通り事を運んでくれない限り,神の制度について行かないという態度をとつて居ます。然し,神は,我々が神に忠告する様にとは申しませんでした。我々は,神が我らにくださつた物に関し,エホバに深く感謝すべきであります。我々は,神の真理を理解し,御約束を正しく知り,それを信じます。我々は,自分達の奉仕と礼拝に於いて幸であります。そして善意ある人々に,多くの慰めをもたらす特権を受けます。この事が分る人々は,現在喜んで活動して居ります。一方初心者や批判的な人は未だそれを知らないでしよう。恐らく研究する時間をとつて居ないでしよう。その人はただ不平だけを言いたがるのです。その様な人々は,決してエホバに待ち望むことの出来なかつたイスラエル人と全く同様であります。その結果,彼らは幸福を全く有たず,神の御準備を正しく知ることも出来ません。神は過去に於いて,また現在に於いても色々御準備して居られます。だが彼らは,神の御心の如くでなく自分達の思う通り事が為される様に望んで居るのです。
18 モーセは何故約束の地に入れなかつたのですか? それは今日の我々にどんな警告を与えますか?
18 イスラエルの記事に再びもどりましよう。彼らは水不足について不平を言いました。その時モーセは,彼らに直ぐに水を与えられると言いました。然し,モーセは「自分」に水を出す力を与えた方を讃美しませんでした。民数紀略 20章10節から13節の記事を読んで下さい。『モーセ……アロンと共に会衆を磐の前に集めて之に言いけるは汝ら背く者どもよ,聴け我ら水をしてこの磐より汝らの為に出でしめんかと。モーセ其の手を挙げ杖をもて磐を二度うちけるに水多く湧き出でたれば,会衆とそのけものともに飲めり。時にエホバ,モーセとアロンに言い給いけるは,汝らは我を信ぜずしてイスラエルの子孫の目の前に我の聖きを遍さざりしによりてこの会衆をわが之を与えし地に導き入ることを得じと。是をメリバ(争論)の水と呼べり。イスラエルの子孫これが為にエホバにむかいて争いたりしかばエホバ遂にその聖きことを顕し給えり。』モーセは,その時不平を言つたイスラエル人の前でエホバを崇めなかつた為に,エホバの約束された嗣業を受けませんでした。今日に於いても,神のやり方に不平をこぼし,栄光を神に与えない者は,新しい世の祝福を受け嗣ぎません。新しい世は非常に近づいて居るが,彼らはその前に敗北するでしよう。
19,20 神が更に多く『真理の水』を人々に与える事についてエホバの証者の態度はどうあるべきですか,そして事実どうですか?
19 会衆の前に神の僕として立つたモーセは,その時エホバを讃美し,イスラエル人の心を唯一の真の神へ導く素晴しい機会<チヤンス>を与えられました。然し,モーセはその民を非常に不快に思いました。モーセは彼らを背反者と考え,彼らと交つて居るということを忘れてしまいました。モーセは,あの様に彼らを非難すべきでありませんでした。たとえ彼らが不平家であつても,彼らは神の制度であり,彼らを意の如くに処理するのはエホバであつたのです。若しエホバがイスラエルに水を与えたいと思うなら,それはエホバの責務でモーセが神の処理を無視する場ではありません。若し今日に於いて,人々がハルマゲドンの到来する前に生命への道を学び得る為,真理を与える機会をもつと多くの人に与えたいとエホバが御望みなら,我々は誰も不平を言つてはなりません。寧ろ,我々は福音を宣教する機会が多くなつた事を歓ぶべきであります。勿論或人々は神がおそいと言うでしよう。然しこの末の日に於いて,何千何万もの人々が救について学び得たのは,エホバの御忍耐によるのではありませんか? ペテロ後書 3章15節の記事を御自分でお読み下さい。
20 不平を言いあら探しをする者は常に幾人か居ります。だが,何故不平家と交際して,彼らと同じ様な気持になるのですか? 若し神が真理をもつと多くの人々に与えもつと多くの他の羊を集めたいとお望みならば,我々はそれを歓ぶべきであります。現代に於けるエホバの証者は,善い便りを宣教する機会を有し非常に幸福であります。エホバの証者が,もつと多く宣教する時間を有するからと言つて不平を言う理由はありません。寧ろ,真の礼拝をつづけるのを許されて幸福な筈です。彼らは歓びをもつて,「我々は無代償で受けたのであるから,無代償で与えましよう」と言うべきです。