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人の身になって考えるものみの塔 1963 | 10月1日
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ます。労働組合も経営者側も相手の身になって考えることをしないため,時にはストが何週間にも何ヵ月にもわたります。人種また宗教の差別問題などは,これらの点で異なる人の身になって考えさえすれば,決して起らない問題です。
人にものを頼む場合でも,あるいは叱る場合でも,相手の身になって考えればはるかに効果的です。イエスはこの事をされました。それでペテロがイエスを3回否定したときにも,イエスはペテロを叱りませんでした。じっと見るだけで十分だったのです。「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは」イエスをいなむであろうと言われた「主のお言葉を思い出した。そして外へ出て,激しく泣いた」。時には叱責の目つき,時には懇願の口調 ― エホバは何回となくご自分の民をこのようにさとされました ― 時にはあやまちを犯した者と静かに話し合うことのほうが,大きな声を出して沢山の事を言うよりも効果的です。―ルカ 22:60-62,新口。ガラテヤ 6:10。
使徒パウロはこの点においても主イエスにならいました。他の人々の考え方,感じ方に無頓着ならば不必要に人を怒らせることを,パウロは知っていました。相手が間違っていると思う人は,往々にして相手の誠意また知性を疑っているかのような素振りをしやすいからです。パウロはできる限り多くの人を救うために,いわば「すべての人の奴隷」になりました。「ユダヤ人には,ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである……弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては,すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである」。このようにパウロは述べました。パウロは人の身になって考えることを知っていました。その事に間違いはありません。―コリント前 9:19-22,新口。
人の身になって考えることのできる人は,不必要に人を怒らせないだけでなく,利己主義に過ぎる行いをしたり,罪を犯すことから自分の身を守ります。不品行や犯罪のおもな原因は貪欲つまり他の人のものをむさぼる心です。しかし人の身になって考えるならば,人の自動車,仕事,妻その他の所有物をむさぼることはしないでしょう。自分がそれらのものを持っているならば,それを奪われたいとは決して思わないからです。―申命 5:21。
もちろん人の身になって考えると言っても,そのような取扱いを受けるに値しない人との交渉において,感情に左右されることではありません。またそうすることが自分の義務であり,また相手の最善の益になるならば,叱責をさしひかえるべきではありません。自分のために最善のことを望むのと同じく,他の人のためにもその人にとって最善のことを願うべきです。
人の身になって考えることをすれば,他の人との関係はずっとよくなり,自分も正しい事をするようになります。イエスの次の言葉は,まさしくこの事を言われたものです,「だから,何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」。―マタイ 7:12,新口。
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「いやしからぬ市」ものみの塔 1963 | 10月1日
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「いやしからぬ市」
◆ 兵士たちが使徒パウロを怒り狂ったエルサレムの暴徒の手から救い出した後,軍の指揮官は,当時世間を騒がせたエジプトの動乱煽動者とはこのパウロのことではないか,とたずねました。パウロはそれを否定し,さらに,「我はキリキヤなるタルソのユダヤ人,いやしからぬ市の市民なり」,と答えました。(使行 21:39)タルソの市民にとっても,あるいは外部の人々にとっても,この町は決していわれのない,いやしい町ではありませんでした。タルソは,商業界の重要な中心であったばかりでなく,有名な大学を持つ学問の中心でもありました。第1世紀のギリシャの地理学者ストラボは,自著「ジオグラフィー」(地理)の中で次のように書いています。「タルソの住民は,たんに哲学だけでなく,教育全般に対して実に熱心に専念し,アテネやアレクサンドリアなど,学校や哲学者の講義があったことで知られるどの町をもしのいだ」。また,タルソのことを,「偉大にして驚くべきキリキヤの中心」と呼んだ刻文も発掘されています。タルソで使用された硬貨の多くには,「タルソ市,第一にして,最も美わしく,最高の都」と刻まれていました。―「歴史と聖書」,380頁。「古代世界からの光」,255頁。「聖書は正しい」,24章。
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