エホバとそのみことばに対して忠節を表わす
1 聖書に関して表明される教会員の見解は,なぜしばしば矛盾していますか。なにが原因でそういう状態が見られますか。
今日の物質主義的な世にあって,聖書の信頼性について疑問を発する人がいても少しも珍しいことではありません。聖書が神のことばであることを信じますかと尋ねられると,教会員は即座に,信じますと答えるかもしれません。しかし,そう言う口の先から,聖書にはどうも信じがたい箇所がある,と答える人がよくあります。問題は知識の欠如か,あるいは,懐疑主義者たちの発言に影響されているのかもしれません。しかし,原因はどうであれ,そのような態度は神と神のみことばに対する忠節を示すものとは言えません。
2 聖書の記述に対して多くの僧職者はどんな態度を表明していますか。例をあげなさい。
2 僧職者自身,聖書に不信を表明するものが多くなっています。しばしば攻撃の的になるのは聖書に記録された奇跡です。そして,その中でも,もっとも嘲笑されるものに,イエスの処女による誕生があります。これに関して英国国教会の一牧師はこう語りました。「20世紀の知識人で……イエスが人間の父親の働きを受けず,全くの処女から生まれたことを信じられる者がいるだろうか。処女による誕生を信じない者すべてに対し,英国国教会から去ることを求めたとすれば,教会は深刻な教師不足に陥り,神学校には教授がほとんどいなくなるであろう」。―「ザ・サンデー・エクスプレス」紙,1967年8月6日付。
3 処女による誕生は今日起こっていません。しかし,それはイエスの処女による誕生を否定する納得のゆく論議とは言えません。なぜですか。
3 しかし,神に信仰を持つと唱える人にとって,ユダヤ人の処女マリヤが神の聖霊により妊娠し,イエスを産んだとしるす聖書の記述がなぜ信じがたいのでしょうか。(ルカ 1:30-35。マタイ 1:18-25)処女による誕生が,今日の女性の間に見られないのは確かです。しかし,それだからといって,信じない十分の理由になりますか。そういう僧職者は,みずから目撃したできごとしか信じないのですか。その場に居合わせなかったというだけの理由で,地球そのものに起源があったことを信じようとしませんか。地上の生物に起源があったという考えを退けますか。
4 処女に子どもを産ませる力を創造者が持っておられると考えるのは,なぜ理にかなっていますか。
4 いったい神にとってどちらがよりむずかしいことですか。生きている処女の胎内に子どもを身ごもらせることですか,それとも,無生の物体から最初の生きた人間を創造することですか。女を設計し,女に産む能力を与えられた全能の神が,ご自分の見えない活動力である聖霊によって,ひとりの女を身ごもらせることも可能であると考えるのは,まったく理にかなっています。処女マリヤの胎内でどのように妊娠が起こったかを詳細に説明できる人はたしかにいません。しかし,驚くには及びません。母親の胎内でどのように妊娠が起こり,どのように胎児が発生するかを,普通の場合でさえ十分に説明し得る人はいないからです。ひとりの人間の成長過程のすべてを示す「青写真」,それに,すべての必要な器官がたったひとつの受精細胞にことごとく含まれているという考え自体,想像に絶するものがあります。(詩 139:14-16)しかし,妊娠が現に起こり,子どもが生まれることをだれが否定し得ますか。
5 イエスの処女による誕生を退けることにより,僧職者は聖書の他のどんな基本的な教えを拒絶していますか。なぜそう言えますか。
5 さらに,イエスが処女から誕生したことを退ける人は,救いの根拠となるあがないの犠牲をも拒絶しています。なぜそう言えますか。なぜなら,人類をあがなうためには,完全なアダムの命に相当する完全な人間の命が必要だったからです。(テモテ前 2:5,6)イエスが単に化肉した霊者にすぎなかったのであれば,その資格にかなわなかったことでしょう。もしイエスの命が人間の父親からのものであったなら,アダムの不完全さを受け継いでいたことでしょう。(ヨブ 14:4)しかし,神がその父であられましたから,イエスの完全さは保証されていました。そして,人間の母から生まれたゆえに,イエスは人間でした。しかも,イエスが処女から誕生することは,何世紀も前に預言者イザヤによって予告されていました。(7:14)つまり,イエスが処女から誕生したことについて聖書の述べるところは,神のことばの他の部分と明らかに調和しています。したがって,論議を少し論理的に進めるだけで,イエスの誕生について聖書の述べるところを信じ,そう信ずるよう他の人を励ます十分な理由のあることがわかります。
6 そうした僧職者たちが,イエスの処女による誕生を信じないほんとうの理由はなんですか。そのことを示すどんな事実がありますか。
6 では,僧職者がイエスの処女による誕生を信じないのはなぜですか。神を信じないために,神が人間の事柄に介入されるという考えを退けるのでしょうか。この質問に対する答えとして,カナダの一牧師が自著「神のいない教会」の中で述べていることに注目してください。「『神はもはやいない』という本を著わしたワーナー・ヘルズは英国国教会の教区牧師である。……『神が存在するとしても,我々はそれを至上者と見ることはできない』と唱えているのは,大学礼拝堂の司祭ジャクソン神父である。また,『無神論的なクリスチャンの福音』という本を書いたトーマス・アルタイザーは,アメリカの大学で聖書学を講ずる准教授である。わたし自身は聖公会のトロントの一教区の指導者である。わたしは自分がクリスチャンであり,聖公会の一員であると唱えている。しかしわたしはまったくまじめに,神はいないと言うことができる」。(39ページ)この態度は僧職者の間の例外ではありません。「ナショナル・オブザーバー」紙は次のように報告しています。「『神は死んでいる』という風潮は,40歳以下のプロテスタント神学者の9割に浸透している」。こうしてみると,僧職者の間に,神とそのみことばに対するまぎれもない不忠節が広まっていることがわかります。しかし,あなたはそうした人々と同じ見方をする必要はありません。
わたしたちの限界を認める
7,8 (イ)エホバとそのみことばに対する真の忠節を証明する唯一の方法はなんですか。(ロ)エホバに関するすべての事柄や,エホバの行なわれたこととして聖書にしるされている事柄すべてが,どのように,またなぜそのように行なわれたのかをことごとく理解できる,と考えるべきですか。
7 エホバとそのみことばに対して忠節であることをほんとうに示したいなら,聖書の内容を知らねばなりません。聖書がほんとうに神の霊感を受けたものであることを確信しなければなりません。神が最高の知恵と愛を持っておられることを示す証拠を聖書の中に見いださねばなりません。それは,子どもでも理解できるようなことばではっきり説明されています。(マタイ 5:44,45。ヨハネ第一 4:8-10)しかし,エホバに関するすべての事柄や,エホバの行なわれたこととして聖書にしるされている事柄すべてが,どのように,また,なぜそのように行なわれたのかをことごとく理解できる,と考えるのは理にかなっていますか。いいえ。人間には限界がありますから,どうしてもわたしたちの心では十分に理解できない事柄があります。ロマ書 11章33節に記録されているように,イエス・キリストのひとりの使徒は賢明にも次のように認めました。「ああ神の知恵と知識との富は深いかな,その審判は測り難く,その途は尋ね難し」。神のさばきをことごとく測り得ると使徒パウロは言っていませんが,それでも,神が創造者としてご自分の御心にかなったことをする権利を持っておられることを誠実に認めています。なぜなら,36節でパウロはこう語っているからです。「すべての物は神より出で神によりて成り,神に帰すればなり,栄光とこしへに神にあれ」。―黙示 4:11もごらんください。
8 したがって,霊感を受けた聖書の記述者は,その神聖な奉仕のために,みずからを神にささげることを勧めています。盲目的に,またその意味を理解しないままそうするのではなく,ロマ書 12章の最初の節(新)が述べる「理性」の力をもって行なうのです。しかし,その理性の力は正しく用いられねばなりません。
9 聖書がわたしたちの個人的な見解に合致することを期待するなら問題が起こります。なぜですか。
9 聖書の研究を始めるに際し,聖書は自分の個人的な見解と合致しなければならない,と考える人がいます。もちろん,そういう考え方を持つなら,聖書に述べられている事柄をじゅうぶんに認識することはむずかしくなります。なぜですか。なぜなら,『神の道はわたしたちの道より高く,神の思いはわたしたちの思いより高い』ことを,聖書は示しているからです。(イザヤ 55:9)わたしたちはみな不完全で,あやまちを犯します。生を受けた人間の中でもっとも賢明な者のひとりであったソロモン王は,その点を認めて「人は罪を犯さない者はない」。と言いました。(列王上 8:46,口語)これが真実であることは,人間の経験が証明しているところです。ですから,不完全な人間の立場から物事を論議していくならば,神のさばきは奇妙に思えるかもしれません。しかし,もし聖書が,限界のあるわたしたち個人個人の人間的な見解と合致するなら,それは神からのものであることを証明するでしょうか。そんなことはありません。―エゼキエル 18:29,30。
10 わたしたちはどのような態度でエホバの道を学ぶべきですか。
10 わたしたちはエホバの道を学ぶにつれて,わたしたちの考えを調整するように心がけねばなりません。ある物事を処置された神の方法について,とやかく論議する代わりに,神の行なわれたことから学ぼうとする意欲をつちかうべきです。わたしたちが正しい意向を示すなら,神は援助してくださるでしょう。神は「謙だるものを〔さばきの決定〕にみちびきたまはん,その道をへりくだる者にしめしたまはん」― 詩 25:9〔新〕。
神の下されたさばきの決定から学ぶ
11 カナン人に下されたエホバのさばきについて,正しい見方をもって学ぶなら,どんな益が得られますか。
11 一例として,カナン人に下されたエホバのさばきの決定から学べる事柄を考えてみましょう。そこに含まれている教えに注意するなら,視野を広め,信仰を強め,今までに気がつかなかったいろいろな責任についての認識を持つようになります。聖書の記録をいっしょに思い返してみましょう。
12 イスラエル人がカナンの地にはいる前,モーセは彼らにどんな指示を与えましたか。
12 エホバによりエジプトの束縛から解放され,新しい土地に導かれたイスラエル人は,その境界で野営を張っているところでした。預言者モーセは民に次のように語りました。「汝の神エホバ汝が往て獲べきところの地に汝を導きいり 多の国々の民……汝よりも数多くして力ある七の民を汝の前より逐はらひたまはん時 すなはち汝の神エホバかれらを汝に付して汝にこれを撃せたまはん時は 汝かれらをことごとく滅すべし 彼らと何の契約をもなすべからず彼らをあはれむべからず」。(申命 7:1,2)しかし,それはなぜでしたか。
13 エホバがその土地をイスラエルに与えられることから,エホバの真実性はどのように示されますか。
13 モーセはこう説明しました。「汝の神エホバこれを汝の前より逐はらひたまふなり……汝の先祖アブラハム,イサク,ヤコブに誓たりし言を行はんとてなり」。(申命 9:5)それより400年も前に,エホバはご自分の忠実なしもべアブラハムと正式な契約を結び,ほかでもないこの土地を,彼とその子孫に与えることを約束されました。そして,その約束を,イサクとヤコブにも繰り返されたのです。その約束の履行されるときがついにきました。エホバは忘れていませんでした。カナン人がその土地にいるからといって,エホバはご自分の考えを変更されません。神は偽らないかたです。(創世 15:5-21。テトス 1:2)エホバはある報いを約束されながら,それを別の人に与えるということはされません。そのことばは信頼できるものであり,それゆえに感謝することができます。―ハバクク 2:3。
14 カナン人が追い払われたために,罪のない人々が苦しみを受けることになりましたか。
14 しかし,そうした行動のために,罪のない人々が不当に苦しんだのではありませんか。けっしてそんなことはありません。モーセはイスラエルにこう語っています。「この国々の民悪きが故に汝の神エホバこれを汝の前より逐はらいたまふなり」。(申命 9:5)聖書にかぎらず考古学も,彼らの腐敗ぶりが並々ならぬものであったことを明らかにしています。姦淫,男色,獣姦が常習とされ,子どもの犠牲をその儀式とする,偶像の神モレクの崇拝が行なわれました。(レビ 18:3,20-25)それらの民について,メリル・アンガー教授はこう述べています。「カナン人の神話に見られる残忍性,肉欲,ほん放さなどは,当時の近東地方の他のどんな民族のものよりはるかに悪質であった。カナン人の神々の驚くべき特性といえば,倫理的な性格をなんら備えていないことであり,それは帰依者に最悪の性質を与えていたに違いない。そしてこれには,寺院売春,子供の犠牲,へび崇拝など,当時の最も壊乱的な慣習の多くを伴っていたであろう。……ウガリット文書に描かれるカナン人の宗教の特徴を見ると,……カナンの住民の特性をその徹底した道徳・宗教の堕落にあるとする,聖書の記述の真実さが十分にうかがえる」。
15 腐敗したカナン人に下されたエホバのさばきを思い返すと,悪に対するエホバの態度,また人間に示されるエホバの寛容はわたしたちを得心させるものです。なぜですか。
15 このことからなにを学べますか。ひとつのことが明白です。つまり,エホバは正義を愛される一方,悪を憎まれるということです。(詩 45:7)このできごとからさらに,不完全な人間に違犯のきざしがはじめて現われたとき,エホバが直ちにそのような人を滅ぼされるのではないことが明らかになります。創世記 15章16節に示されているとおり,神はカナンのアモリ人の非道な行為を400年も前に目にとめましたが,そのときには滅ぼされませんでした。神は,普通では考えられない寛容を示されました。そして,カナン人に対するさばきの執行のときが間近に迫った場合でも,エホバはエリコのラハブとギベオン及びその近隣の都市の住民を救われました。彼らがエホバに対する信仰を示し,イスラエルと行動をともにしたからです。このことは,わたしたちを得心させるものです。エホバが悪をいつまでも許すのではないこと,しかし同時に,ご自分の創造されたものに対して寛容とあわれみを示される,ということを信ずるじゅうぶんの根拠が得られるからです。―エゼキエル 33:11。ペテロ後 3:15。
16 カナン人の子どもはどうなりましたか。そこに示されている原則から益を受けるには,どんな危険を避けねばなりませんか。
16 カナン人の子どもたちに生じた事態からも,学ぶことができます。子どもたちは,親に刑が執行されたとき,その刑を免れませんでした。これには意味があります。感傷的な考えをぬぐい去って考えるなら,このできごとに示されている原則から大きな益を受けます。
17,18 (イ)聖書の示すとおり,神は未成年に関する全責任をだれにゆだねられましたか。(ロ)では親の行動が及ぼす影響から子どもを守るために神が介入されるのは,なぜ首尾一貫していませんか。
17 子どもを産むのは特権です。しかし,その特権には責任が伴います。聖書の示すところによると,神は未成年の子どもに関する全責任を親に課しています。預言者モーセをとおして神はご自分の民にこう言われました。「我は生命と死および祝福とのろひを汝らの前に置り 汝生命をえらぶべし しかせば汝と汝の子孫生存らふることを得ん 即ち汝の神エホバを愛してその言を聴き かつこれに付従がふべし」。(申命 30:19,20)その取るべき道により,イスラエル人は自分自身と自分の子どもたちの両方に,生か死を選ぶことになっていたのです。
18 子どもたちが,親のすることのいかんによって益あるいは害を受ける事実から顔をそむけることはできません。もし親が熱心に働く,愛情の深い,神に献身した人であれば,その子どもたちは大いに益を受けます。しかしなまけ者や大酒飲みの父親が,自分の悪行から自分の子どもが影響を受けないようにするのは神の責任だ,とするのは当を得たことですか。親の責任を引き受け,あるいはそれを他の人にゆだねて,子どもへの害を除く義務が神にありますか。神がそのような人間と協力して,責任を回避させるということは首尾一貫していますか。もちろんそうではありません。
19 カナン人の子どもに死を選んだのは,実際にはだれでしたか。彼らはそれを避けることができましたか。
19 カナン人の親は,自分と子どものために命を選ぶことができました。ラハブはそうしました。ギベオン及びカナンの他の三つの都市の住民も同様でした。彼らは,真の神がイスラエルを導いておられることを認めたので,イスラエルと同じ立場を取りました。そのために,彼らは子どもとともに救われたのです。(ヨシュア 2:1-21; 6:25; 9:3-21)他の人々も同じようにすることができたはずです。しかしそうしませんでした。そのゆえに,自分自身と自分の子どものために死を選ぶことになりました。
20 エホバの報復の日に未成年の子どもに臨むことに関して,ほんとうに関心を持っていることを示す親は,今日なにをすべきですか。
20 このことは,今日のわたしたちにとって意味がありますか。そのとおりです。放縦な生き方をする親は,刻々と近づいているエホバの報復の日が実際に到来したとき,ただ幼いからといって自分の子どもが生きのびられると考える理由はどこにもありません。正しい崇拝の模範を示し,かつその道に導く責任は親にかかっているのです。(エペソ 6:4)子どもはあなたにとってどれほど重要な意味をもっていますか。あなたは責任を果たしておられますか。エホバ神に献身しましたか。そして,御心を行ないつつ,神への忠節を実証しておられますか。そうしておられるなら,あなたは,カナンの住民に起きたできごとに,きわめて明確に示されている原則を理解し,またそれを擁護していることになります。―箴言 2:7,8。
困難な下でも忠節を示す
21 クリスチャンの若者の多くは,困難な下でもどのように神のみことばに対する忠節を示していますか。
21 忠節であるか,あるいは忠節が欠如しているかは,特につらい目に会ったり,困難な条件の下におかれたりすると明らかになります。そしてそれは,イエス・キリストの足跡に従って歩むだれもが経験することです。(テモテ後 3:12)あなたと同じ意見を持つ人たちの間で,神のみことばにのっとった話をするのはむずかしいことではありません。しかし,聖書をけなす人に会ったらどうしますか。たとえば,学校に通っているかたならば,先生か生徒が聖書の記録を軽んずる発言をした場合どうしますか。神のことばに対する忠節を示しますか。地上のいたるところで若いクリスチャンはそのことをしています。そういう機会を捕えては,真理について大胆に語るのです。そうすることによって,学友から嘲笑されることもあります。(ペテロ前 2:19,20)反対に,信じている事柄の理由について十分に説明をする機会が開かれ,その結果エホバとその目的に関してりっぱな証言が行なわれたこともあります。
22 古代バビロンで3人のヘブル人の若者は,エホバとその律法に対する忠節をどのように表明しましたか。
22 エホバの忠節なしもべはいつの時代でも,エホバに対する献身をしっかりと保ちました。古代のバビロンでヘブル人の若者は,エホバの律法を破って偶像崇拝をするように命令され,苦境に立たされました。その帝国の支配者ネブカデネザルは,自分の建てた非常に高い偶像の前で頭を下げよとの勅令に彼らが従わなかったという知らせを受けて憤りました。王がユダヤ人の宗教を全然認めなかったというのではありません。(ダニエル 2:46-49)しかし,誇りを傷つけられて理性を失った王は,自分の命令に服することをそれらの若者に要求しました。シャデラク,メシャクそしてアベデネゴは,王に対して敬意を欠いていたのではありません。エホバの律法が偶像崇拝を禁じていることを知っていたのです。エホバが至上者であられることを知っていました。したがって,彼らが忠節を負っているかたはエホバにほかなりません。バビロンの王が死のおどしをもって迫ったときでさえ,彼らは神の律法に忠実に従い,忠節を示しました。―ダニエル 3:13-24。
23,24 エホバの証人は今日,人間の政府の要求があっても,どのようにエホバに対する忠節を実証しますか。
23 イエス・キリストの使徒たちも,忠節に関する同様な試練に会いました。エルサレムの高等法廷に引き出され,イエスの名によって伝道することをやめるように命じられました。聖書をいっさい読んではならないとか,他の人に聖書について語ってはいけないなどと告げられたのではありません。しかし,役人が問題にしたのは,ただこの一事だったのです。(使行 4:15-18)同様に今日でも,ある国々の政府の役人は,エホバの証人が聖書を読んだり,エホバの証人同志が聖書について討議したりすることに関してはなにも反対しない,と言います。しかしエホバの証人が,「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をしなければならないのは彼だけである」,と伝道することを彼らは好みません。(マタイ 4:10,新)エホバの証人が,イエスと同じように,真のクリスチャンは「世のものではない」と人々に告げるのを彼らは望まないのです。(ヨハネ 17:14)国民がこの世の事柄に深いかかわりを持ち,国家に対する献身を,規定された行為によって積極的に表明することを,それらの役人は望んでいます。
24 政府がそのような要求を課したとき,エホバの証人はどうすべきですか。この世の指導者を喜ばすために,聖書のある部分を一般の人々の目に触れないようにするのは正しいことですか。あなたなら,どうなさいますか。イエス・キリストの使徒であったペテロとヨハネは,ユダヤの法廷で証言した際,なにが忠節な行ないであるかを明らかにしました。「神に聴くよりも汝らに聴くは,神の御前に正しきか,汝らこれを審け。我らは見しこと聴きしことを語らざるを得ず」。そして2度目に法廷の前に引き出されたときも,使徒たちは自分の立場を次のように明白にしました。「わたしたちは,支配者として,人間より神に従わねばなりません」。―使行 4:19,20; 5:29(新)。
聖書に示されている道徳規準を忠節に擁護する
25-27 僧職者が聖書の道徳規準を忠節に擁護していないことを示す,どんな証拠がありますか。
25 使徒たちとは対照的に,エルサレムには神の祭司と唱えながら,人の教えをもって神のいましめに代用させて平気な者がいました。(マタイ 15:1-9)キリスト教世界の現代の僧職者たちは,同じ意向を示しています。彼らが,いろいろな事柄に関する聖書の見解を公に否認しているのをしばしば耳にしますが,なかでも特におおっぴらに取り上げられる話題のひとつに性道徳があります。
26 聖書を研究したことのある人ならだれでも,聖書がこの点についてなんと述べているかを知っています。「姦淫するなかれ」。(ロマ 13:9)「淫行を避けよ」。(コリント前 6:18)「男娼となるもの,男色を行う者……みな神の国をつぐことなきなり」。(コリント前 6:9,10)これらの聖句にあいまいな点はまったくありません。神は姦淫,淫行,同性愛を非としておられます。しかし僧職者は神のみことばの述べることを支持しますか。聖公会神学校のジョーゼフ・フレッチャーは,いわゆる「新しい道徳」を論じて,このように語りました。「この倫理観において,結婚関係外の性交を非とするものは何もない。むしろそれが良い場合もある」。(「コモンウィール」誌,1966年1月14日号)この発言にもあきたらず,長老派教会の牧師ゴードン・クラントンは「クリスチャン・センチュリー」誌(1969年1月8日号)の中で次のように述べています。「今われわれはこれより一歩進み,正しい理解の上に立ち,愛をもって実践されるなら,結婚関係外の性交も現実の善であると言わねばならない」。さらに彼は,これよりきびしい道徳律がまだ社会に及ぼしていると思われる影響力をことごとく弱体化することこそ,教会の義務であると信じている旨を公にしました。しかし,この傾向はそれでも満足する様相を示しません。
27 「ニューヨーク・タイムズ」紙(1966年2月12日付)は,成人間の合意に基づく同性愛行為に対する刑罰を廃止するための,英国の立法措置について次のように伝えています。「先頭に立って改革を要求してきたのは教会である。英国国教会,ローマ・カトリック教会およびメソジスト諸派などはこぞって〔廃止〕案の採用を求めてきた」。1967年ニューヨークに集まった聖公会の牧師90人は,同性愛が「善となる場合のある」ことを教会は認めるべきであると表明しました。さらに,オランダでは同性愛関係にあるふたりの男が,ローマ・カトリックの司祭のもとで「結婚」しました。うんざりさせられるのは,ここにあげたようなことをする人々が,クリスチャン奉仕者と名のることです。―テトス 1:16。
28 わたしたちはどうすれば自分が聖書の道徳規準の忠節な擁護者であることを実証できますか。
28 聖書を読む人なら,そうした僧職者たちのしていることが誤りであり,神のことばと調和しておらず,それにより彼らが非難される立場を取っていることがわかります。(ロマ 1:32)しかし彼らが誤っているということを信じている人でも,それを証明するにはことば以上のものが要求されます。口でなんと言おうと,当人が,人目の届かないところで,淫行,姦淫,同性愛,あるいはそうしたものに発展していく不品行にふけるならば,その人も神の目には汚れたものと映ります。自分のことをなんと言おうが,また他人にどう思われようが,そうした行為にふける人は神に忠節ではありません。―テサロニケ前 4:7,8。ホセア 4:12。
29,30 道徳に関する心の状態は,エホバへの忠節とどんな関係にありますか。
29 忠節は心に関係があり,心は人の奥深くにあるものを表わします。(ルカ 5:22)エホバはわたしたちの外見だけではなく,心をも見られます。「人の道はおのれの目に正しとみゆ されどエホバは人の心をはかりたまふ」― 箴言 21:2。
30 神があなたの心をはかられるとき,神はなにを見いだされますか。心の状態は良いものですか。(イザヤ 65:14)みことばを宝のようにたくわえ,律法に喜びを覚える心を見いだされるでしょうか。(詩 119:11,97)不道徳な行為に対して心の底から純粋に神と同じような見方をしている自分を神に見ていただけますか。あなたは悪い事柄をほんとうに憎んでいますか。聖書の詩篇作者は,そうすることを勧めてこう述べています。「エホバを愛しむものよ悪をにくめエホバはその〔忠節な者〕のたましいをまも(られる)」。(詩 97:10〔新〕)この助言に聞き従うなら,わたしたちの忠節を明らかにすることになり,わたしたちのたましいがエホバの目にとうといことを確信できます。
エホバの忠節な者とともに立場を取る
31 聖書にしるされていることをほんとうに信じているなら,それはどのように明らかになりますか。
31 エホバ神とそのみことばに関して,だれが見ても明らかなように自分の立場を定めるのは今です。あなたは,神がご自分のみことばである聖書に述べられていることをほんとうに信じていますか。そうであれば,あなたの話す事柄にそのことが表われるはずです。あなたの行ないに示されるはずです。あなたの選ばれる交際からも明らかになるはずです。詩篇 149篇1節の次のことばに一致した行動をするようになられるでしょう。「エホバをほめたゝへよ エホバに対ひてあたらしき歌をうたへ〔忠節な者の会衆〕にてエホバのほまれをうたへ」。〔新〕
32,33 エホバとそのみことばに対するそうした忠節な者から成る会衆を捜そうとする人は,キリスト教世界の諸教会に関するどんな事実を知らねばなりませんか。
32 すでに気がつかれたように,崇拝のためにつどう会衆がすべて,エホバとそのみことばに対して忠節な者から成っているわけではありません。聖書を持って教会に通う人もあるでしょう。説教中に聖句が1節引用されるかもしれません。しかし,教会の教義や慣行のなかには,神のことばと調和していないものが数多くあります。事実,キリスト教世界が著しく神の教えから迷い出たために,「クリスチャン・センチュリー」誌(1962年9月5日号)は次のように述べています。「ほんとうに正直に言うならば,閉じた聖書,しかもほこりがたまり,色あせた死亡告知書のいっぱいはさまった聖書こそ,新教の現状にふさわしいシンボルと言えないだろうか」。カトリック系の新聞「ルクセンブルガー・ボールト」(1965年1月16日)は,ルクセンブルグの実情を評して次のように述べています。「司祭をも含む我々カトリック教徒の大多数が,聖書の全体はおろか,新約聖書をさえ全部読んでいないことは……いかにも悲しい現状ではないか」。
33 これは最近始まったことではありません。1929年,バプテスト,組合教会,聖公会,福音教会,ルーテル派,メソジスト派,長老派などの神学生500人を対象に調査が行なわれました。「聖書には神話や伝説は全くないと思いますか」,という質問がされましたが,答えた者の95パーセントは,「そうは思わない」と述べました。彼らが聖書を神のことばとして受け入れていないのは明らかです。
34 全地の何十万という人々は,エホバとそのみことばに対する忠節を実証したいという意欲を,どのように表明していますか。
34 もしあなたが彼らの立場に同意しないなら,それを示すことが必要です。そして,そのとおりのことをした人は,地上のいたるところに何十万人もいるのです。彼らは,エホバ神とそのみことばである聖書に不誠実な宗教組織とは,どんなものであれ,かかわりを持つことを望みません。(コリント後 6:14-17。黙示 18:4)彼らが教会から脱退したのはそのためです。しかし,神を崇拝することはやめていません。全地の,2万5,000を越えるエホバの証人の会衆で彼らは崇拝のために定期的に集まります。彼らは聖書にしるされていることを信じています。またその道徳規準を擁護します。近所の家々を尋ねては聖書を調べるように隣人を励ましている彼らの姿を,ほとんどすべての市町村で毎週見ることができます。そして誠実な人に,聖書が神のことばであることを示す圧倒的な証拠を喜んで提供しています。そればかりか,無料の家庭聖書研究の奉仕を喜んで行ない,誠実な人々が神のみことばの正確な知識を得,それに従って生活するのを援助しています。
35 エホバに対する忠節を実証する者には,どんな将来が約束されていますか。
35 エホバのそうした忠節なしもべたちには,なんというすばらしい将来が待っているのでしょう。霊感を受けた,神のみことばは次のように明言しています。「エホバは……その〔忠節な者〕をすてたまはざればなり かれらは永遠にまもりたすけらるれど 悪きもののすえは断滅さるべし ただしきものは国をつぎ その中にすまひてとこしへに及ばん」。(詩 37:28,29〔新〕)