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エホバに頼ることによってのみ成功するものみの塔 1978 | 5月1日
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突き出ている戦車900両を持つ巨大な敵の軍隊を絶滅させました。(士師 4:3,16)ギデオンは300人の部下と共に,13万5,000のミデアン人の軍を完全に打ち負かしました。(士師 7:19-22; 8:10)エフタは,圧制的なアンモン人の都市20を打ち破りました。(士師 11:32,33)サムソンは,ペリシテ人の町ガザの大きな門を山頂まで数㌔も担いでゆき,そこに置きました。サムソンは一度の戦いで,それらイスラエルの断固とした敵1,000人を独りで虐殺しました。最後にサムソンは,自分の死に際して,生きていた時に殺したよりも多くの人を殺しました。それはペリシテ人が偶像に犠牲をささげ,神の力ある人を捕虜にしたことを歓喜していた折に,ペリシテ人の神ダゴンの神殿を倒壊させたときのことです。実に3,000人もの人々が死にました。―士師 15:14,15; 16:1-3,28-30。
サムソンの業は非常に重要なものでした。というのは,サムソンは『率先し』,主要なユダの部族でさえ震え,恐れのためにペリシテ人の前ですくんでしまった時にイスラエル人を彼らの手から救い出したからです。(士師 13:5; 15:9-13)預言者サムエルの下でもペリシテ人を壊滅させる業は引き続き行なわれ,最後にダビデ王が彼らを完全に征服しました。
女性のデボラが国の裁き人になったのはなぜだろうかと思う人がいるかもしれません。デボラが裁きを行なった場所はヤシの木の下でした。人々は自分たちの問題や事件をモーセの律法に従って審理してもらうためにそこにいたデボラに近付きました。デボラは女預言者でもありました。彼女はイスラエルの軍勢を率いて戦ったことはありませんが,20年間イスラエルを虐げていたハゾルのヤビン王との戦いでナフタリの人バラクが指揮を取るよう励まし力づけました。そして攻撃の際には進んでバラクに同行しました。(士師 4:4-9)このような方法で女性が用いられたということは,当時のイスラエルが陥っていた霊的に低い状態を反映しているように思われます。イスラエルの北部には,強い信仰と優れた指導力を持つ男の人がいなかったようです。しかし,バラクに下った聖霊は,霊感を受けた女預言者デボラによりバラクに与えられた保証と相まって,一万の軍を召集し驚くべき勝利をかち取るようバラクを動かしました。―士師 4:10。
清い崇拝を通してのみ得られる勝利
士師記の最後の五章は年代順に配列されていません。それらの章は事実上士師記に付属するものです。17章と18章は,ヨシュアの死の後間もなく始まった偶像崇拝,またそれと関係のある罪や不正などをその最初から記録しています。最後の三章は,カナン人の影響により生じた堕落が,その初期の時代にどれほど根深いものとなったかを描写しています。そして,その記録は,カナンの人々を根絶するよう神が命じられた理由を知るのに役立ちます。
この後半の記述は,ベニヤミン族が道徳的にひどく堕落したがゆえに他の部族がベニヤミン族に対して戦いをしたことを述べていますが,この記述もまた,イスラエルが全体としてはそうした堕落から自らを守ったことを例証しています。それらの部族は正しい事柄に対して非常な熱意を示しました。しかし彼らは明らかに自分自身に頼り,その行動は専ら,エホバのみ名に対する非難を除き去るという関心に動かされたものではありませんでした。ここでも,士師記の記述全体と同じように,エホバに全き信頼を置くことが絶対に必要であることが次のような方法で強調されています。十一の部族は,たとえ清い崇拝に対する熱意を抱いてはいても,ベニヤミン族を罰するよう最初に二度試みたときには自分たちの力に頼っていたようでした。彼らはそれらの戦いでは敗北を喫し,四万の兵力を失いました。シロから軍隊の野営していたベテルまで神聖な契約の箱が運ばれてきており,そのそばには大祭司ピネハスがいました。しかし,二度の敗北の後に,人々は断食し,燔祭と酬恩祭をささげ,エホバが自分たちのために戦ってくださることの必要性を認めました。そのようにして初めてエホバはベニヤミン族を彼らの手に渡されたのです。―士師 20:20-29。
士師記を読むなら信仰が強められます。士師記は,エホバ神の神聖さ,および清い崇拝に対する神の強い要求,また誠実さと真理をもって神を呼び求める者に示してくださる大いなる憐れみの強い証しとなっています。この書は『自分のわざを神にたくす』ことによって勝利が得られるという確信を読者に与えます。障害がどれほど大きくても,エホバに信頼を置く者たちには,神の任命された指導者,また偉大な裁き人イエス・キリストを通して救出がもたらされるでしょう。―箴 16:3。ローマ 8:35-39。
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読者からの質問ものみの塔 1978 | 5月1日
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読者からの質問
● 長老や奉仕のしもべの家の者である子供が「放とうの責め」を受けるような場合,その家族の頭が引き続き任命された立場で会衆に仕えることができるかどうかを決定するものは何ですか。
会衆内で仕える既婚の男子は模範的な家族の頭でなければならないことを聖書は明確に述べています。次のように記されています。「したがって,監督は……自分の家の者をりっぱに治め,まじめさをつくして子どもを従わせている人であるべきです。(実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか。)」。(テモテ第一 3:2,4,5)「奉仕のしもべたちはひとりの妻の夫であり,子どもと自分の家の者たちをりっぱに治めているべきです」― テモテ第一 3:12。
会衆は,長老や奉仕のしもべおよびその家族がクリスチャンとしての生活の点で立派な模範を示すことを期待しますが,それは当然なことです。(テモテ第一 4:12; ペテロ第一 5:3と比べてください。)そうした状態が見られなくなるなら,会衆の霊的な福祉に有害な影響が及ぶでしょう。例えば,長老や奉仕のしもべの子供たちが聖書の原則を当てはめる点で手ぬるいなら,会衆内の他の子供たちはそれを見倣い,自分たちの悪行の言い訳をするようになりかねません。(コリント第一 8:9-13; 10:31,32)長老や奉仕のしもべの子供がゆゆしい悪行に携わるようなことにでもなれば,事態はますますもって深刻なものになります。
それで,そのような子供が家族や会衆に恥辱をもたらすなら,長老団はその父親が長老あるいは奉仕のしもべとして引き続き奉仕する資格があるかどうかを決定しなければなりません。家庭内でそのような事態が発展していても,当人自身はそうした立場で奉仕する資格があると考えているかもしれません。しかし,そのことによって長老団の決定が左右されるようなことがあってはなりません。
人が任命された立場で奉仕し続けてゆくためには,自分の家の者に必要とされる霊的な助けを与える能力がその人にあり,その点で著しく怠慢であるようなことはなかった,という明確な証拠がなければなりません。目ざとい父親は,普通,自分の手に負えなくなる前に,自分の家族に問題があることを見抜けるものです。自分の家の者を治める方法を知っている者として,その人は家庭内の望ましくない事態を制するための処置を取れるはずです。その人の子供が間違いを犯すとしても,子供に必要とされる導きや懲らしめを与え,『放とうな』人間にならないようにすることができなければなりません。―テトス 1:6。
もちろん,家族を霊的に助けようと父親が賞賛に値する努力を払ったとしても,子供が真理の道から離れたり,悪行に走ったりすることがあるかもしれません。その人の他の子供たちはクリスチャンとしての生活において立派な模範を示し,親から優れた訓練を受けたことを実証しているかもしれません。一方,その家に住んでいる未成年の子供たちが一定の年齢に達してから次々に深刻な霊的困難に陥り,家族と会衆に恥辱をもたらすようであれば,父親が「自分の家の者をりっぱに治め」ているかどうかは非常に疑わしくなってきます。ですから,サムエルの子たちやエサウなど,悪くなった者たちの例をただ聖書から指摘するだけで,そうした事態を大目に見ることのないよう注意しなければなりません。(創世 25:27-34; 26:34,35。サムエル前 8:2,3,5)道を踏みはずした者として聖書の中で言及されている人々の大半は,自分で決定を下す十分の能力を持つ大人になっていた,ということを念頭に置いておかねばなりません。そうした人々は家庭内の未成年の子供と同じような権威
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