私たちの歩きかたに良く注意する
『あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。』― エペソ 5:15,16,新口。
1 今日,私たちが何をすることは最重要ですか。それをするとき,なぜ神の御国の事実は私たちを支配すべきですか。
私たちが地上のどこに住んでいようとも私たちの歩き方つまり私たちの行動に良く注意を払うことは,今日きわめて重要なことです。「私たちの歩きかたに良く注意する」とき,極めて重要な一つの事実は私たちを支配すべきです。その事実とは,神の御国が支配しているということ,すなわち1914年から過去45年間すでに支配してきたということです。なぜその事実はそれ程に重要ですか。なぜなら,その天的な御国の主要な目的は,神の御こころが天で行われる通り,地上にも行われるようにするからです。(マタイ 6:9,10)今日の悪しき古い世は,全歴史上の最大な悩みの中に,その終りに急速に近づいています。なぜなら,この世が神の御こころと一致したことは一度もなく,かえつて神の御こころの最大の反対者だからです。神の御国は,神の御こころを実施するものです。神の御国は,『新しい天と新しい地』で構成される新しい秩序を紹介するでしょう。その『新しい天と新しい地』で,神の表明された御こころはたしかに行われます。(ペテロ後 3:13)私たちは,このすばらしい変化を避けることができません。それで智恵の示すとおり,私たちは神の御国に真心からの忠節をささげねばなりません。それは,この古い世が終るときに私たちが終らないようにするためです。神の御国に忠節をささげるとは,私たちが神の御こころに全く一致することを意味します。現在の混乱している世に私たちに対する神の正義の御こころは,神の書かれた御言葉,聖書の中に述べられています。
2 現在は,どんな時代であると言えますか。それで,パウロのどんな助言は今日の私たちにとつても適当ですか。
2 世界の宗教状態や道徳状態,および諸国家間の関係や人々のあいだの関係を見まわすとき,現在は悪い日であると言わざるを得ません。それで,使徒パウロが当時のクリスチャンたちに与えた助言は,現在でもいちばん適当なものです,『あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから,愚かな者にならないで,ヱホバの御旨がなんであるかを悟りなさい。酒に酔つてはいけない。それは乱行(このためクリスチャンは神の会衆から排斥される)のもとである。むしろ御霊に満たされなさい。』― エペソ 5:15-18,新世。コリント後 5:9-13。
3 (イ)私たちは,神に献身する前,どのように歩きましたか。(ロ)献身して後,私たちはどのように歩くべきですか。このことにつき,私たちはどんな個人的な質問をするべきですか。
3 今日の全地にわたつて50万人以上の人々は,イエス・キリストを通してヱホバ神に全く献身しました。そして,イエス・キリスト御自身が洗礼を受けたのと同じく,彼らは水の浸礼を受けることにより,その献身を公に象徴しました。(マタイ 3:13-17; 28:18-20)かつて私たちが神に献身する前では,私たちはみな一つの道を歩きました。私たちは『この世のならわしに従い,空中の権をもつ君,すなわち,不従順の子らの中に今も働いている霊(サタン悪魔)に従つて,歩いていたのである。』私たちは『異邦人がむなしい心で歩いているように歩いて』いました。『彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ,自ら無感覚になつて,ほしいままにあらゆる不潔な行いをして,放縦に身をゆだねている。』(エペソ 2:2; 4:17-19,新口)私たち献身した者は,そのように歩くことを止めたはずです。神に献身した私たちは,神の御こころに従つて歩むと決意しました。それは,私たちが「神と共に歩く」ことができるためです。(創世 5:22-24; 6:9)時代は悪いので,私たちが歩き方に良く注意を払うことは最も賢明であると共に是非とも必要です。今こそ次のことを自問する良い時です。私たちは後もどりしてこの世と共に歩いていますか,それとも一層みつせつに神と共に歩いていますか。この質問に答えるため,私たちは神の御こころが何であるかを知らねばなりません。このためには,神の書かれた御言葉を研究しなければなりません。
4 テサロニケ前書 4章3-5,7節は,神のみこころが何であると言つていますか。ヱホバはブライアパスやペオルのバアルと,どのようにちがいますか。
4 神の御言葉の中に,神の御こころについての言葉が次のように短く示されています,『神のみむねは,あなたがたが,淫行を避けて,清くなることである。あなた方各自は,自分の器を清めとほまれの中に,どのように持つべきかを知るべきであり,神を知らない諸国民の持つような強い淫欲をほしいままにするべきではない。神が私たちを召されたのは,汚れたことをするためではなく,清くなるためである。』(テサロニケ前 4:3-5,7,新世)『自分の器』とは自分の体のことです。私たちがヱホバ神に献身するとき,私たちは御子イエス・キリストの義を通して私たちの器,私たちの体を神にささげます。ヱホバは,ギリシャ神話やローマ神話に出てくる偽りの神,ブライアブスのごとき性の神ではありません。またペオルの偽りの神バアルの場合とは異り,性の享楽でヱホバを崇拝すべきでもありません。―民数紀略 25:1-13。
5 制度にたいする神のどんな御こころは,その成員に難しい仕事を課しますか。彼らは,どのように援助を受けますか。
5 私たち献身した者たちは,神権制度にみちびかれ集められました。神の御こころは,清い制度を持つことです,すなわち神に用いられる尊いものにするため,清い制度を持つことです。不道徳で性のことばかりに考えが走つているこの世の中で,しかも現在の悪い時代中に制度を清いものに保つことは,制度の地的な成員にとつてかなり難しい仕事です。しかし,神の御霊は私たちと共にあり,私たちを助け,神の目的のために私たちを清めます。
6 その面から見るとき,特別な責任は誰の上に課せられていますか。神はそれらの者により,どんな回復の約束を成就しましたか。
6 もちろん,制度を清く保ち,ヱホバが用いる清いものにするため,献身した各人には個人的な責任が課せられています。しかし,制度内の監督にされている者たちには特別の責任が課せられているのです。特に1919年の春以来,私たちは『神が聖なる預言者たちの口をとおして,昔から預言しておられた万物更新の時』に生活しています。(使行 3:21,新口)いまから19世紀のむかしのクリスチャン会衆の初期のとき,そして小羊イエス・キリストの12使徒の生涯中にヱホバは忠実な監督たちを立ててさばきを告げしめ,助言を述べさせました。それらの忠実な予言者たちが過ぎ去つてのち,使徒の信仰からの大きな『背教』が起りました。それで,現在における『更新の時』について,ヱホバは次のごとき約束をつくられました,『あなたのさばき人をもとのとおりにあなたの議官を初めのとおりに回復する。その後あなたは正義の都,忠信の町ととなえられる。』(イザヤ 1:26,新口)今日,ヱホバは任命した裁き主,すばらしい議士,イエス・キリストの下に良心的な監督を立てました。そして,それらの監督を用いることにより,約束された回復を成就し,御自分の制度を清いもの,正義のもの,そして忠信のものに保ちます。―使行 17:31。イザヤ 9:6。
7 何について言い開きをしなければならぬため,監督たちはその歩き方に良く注意しなければなりませんか。
7 今日,ヱホバの証者の新しい世の社会の監督たちは,きわめて重い責任をになつています。彼らは『群れの模範』とされているのです。彼らは正しい模範として影響を持つだけでなく,それぞれが奉仕する各会衆の制度,または巡回区,地域区,支部の地区,あるいは地帯の地区で大きな権威を持ちます。監督である彼らは,ヱホバ神に献身している『魂』すなわち生命を取り扱わねばなりません。それは『神に言いひらきをすべき者として,あなた方の魂のために,目をさましている。』(ペテロ前 5:3。ヘブル 13:17,新口)彼らが献身した者たちについてなす言い開きの種類如何によつて,監督たちに対する神のさばきは何であるかが決定されます。責任の地位についている監督たちは何人にもまして,歩き方に良く注意しなければなりません。
歩き方についての模範
8,9 (イ)正しい制度に対する良い監督の力は,ヨシユアとその仲間の者の場合,どのように表明されましたか。(ロ)それらの監督が死んだ後,イスラエルに生じた事からその事実はどのように明白ですか。
8 道徳的にもまた霊的にも強い監督たちは,忠実にして正義の制度に大きな力をおよぼします。それについての例は,モーセの後継者ヨシュアと交つていたイスラエルの長老たちに示されています。これらの者たちの持つていた良い影響については,次のように書かれています。『ヨシュア民を去しめたれば,イスラエルの人々おのおのその領地におもむきて地を得たり。ヨシュアの世にありし間またヨシュアより後に生きのこりたる長老たちの世にありしあいだ民はヱホバに仕えたり。この長老たちは,ヱホバのかつてイスラエルのために成し給いしもろもろの大いなるわざを見しものなり。』
9 注意力に富んでいると共に物事に良く通じていた忠実なイスラエルの長老たちは,異教主義がヱホバの国家的な会衆に入りこむのを防ぐ神権的なとりでの働きをしました。それらの神権的な監督たちが死んだ後にイスラエルの会衆に生じた事柄から見ると,その事実は明白となります。ヱホバを知らぬ新しい世代の者,そしてヱホバがイスラエルのために行つたわざを知らぬ新しい世代の者が起きました。彼らには,それらの監督たちの示す有益な模範というものがなく,また助言とか監督を受けなかつたのです。聖書の記録は,次のように述べています,『イスラエルの人々ヱホバの前に悪しきことをなして,バアリムにつかえ,かつてエジプトの地より彼らを出し給いしその先祖の神ヱホバを捨てて他の神すなわちそのめぐりなる国民の神にしたがいこれにひざまずきてヱホバの怒りをひき起せり。』ヱホバは敬虔なさばき人を起して,彼らを異教の敵対者たちから救い出した後,彼らはヱホバの僕であるさばき人が自分たちの為にしたことを直ぐに忘れました,『彼らそのさばきづかさにも従わず,かえりて他の神を慕いてこれと淫をおこない,これにひざまずき先祖がヱホバの命令に従いて歩みたるところの道をとみに離れ去りてその如くには行わざりき。』― シシ 2:6-8; 10:12,17。
10 それらの監督たちのごとく,キリストの使徒たちは,当時何に対してとりでの働きをしましたか。
10 イエス・キリストの12使徒たちは,昔のイスラエルの忠実なさばき人や監督たちのごとく,とりでの働きをしました。使徒たちが生きているあいだ,彼らは会衆の『背教』を阻止し,そして『不法の人』『滅亡の子』の現われるのを防ぐと共に会衆の支配権を得させない抑制力として働きました。―テサロニケ後 2:2-12。
11,12 (イ)使徒の死後,何が宗教的に発展しましたか。私たちがこのことから回復していると,どんな事実は示しますか。(ロ)しかし,なぜ各人は歩くことに良く注意を払うことが必要ですか。
11 使徒と忠実な仲間の監督たちが死んで後,清いクリスチャン信仰と行いからの『背教』は,極めて急速に進み,『不法の人』扱は宗教制度を支配するにいたりました。今日,私たちはこの宗教的な『背教』から回復し,そしてキリスト教国内の『不法の人』級による支配から回復しました。私たちはヱホバの証者の新しい世の社会に神権的に組織されました。大いなるヨシュア,イエス・キリストは,私たちを『新しい天と新しい地』の来るべき新しい制度にみちびくため,目に見えぬ状で私たちと共におられます。また,『忠実にして慧い奴隷』級も私たちと共にいます。大いなるヨシュアは,1919年に彼らを任命して地的の所有物をごとごとく管理せしめています。
12 大いなるヨシュアと油注がれた奴隷級は,ヱホバの証者の新しい世の社会に背教の精神が入りこむことや『不法の人』が入りこむことに対しては,通ることを決して許さぬ関所のような働きをします。(ペテロ後 3:13。イザヤ 65:17。マタイ 24:45,47)しかし,献身している各クリスチャンは,歩き方に良く注意せよという使徒パウロのきびしい助言に注意を払う必要があります。この世とその神なる支配者サタン悪魔は,ヱホバの証者の会衆全部を堕落させることはできません。しかし,この世とその神サタンは,制度をけがし,制度に属している各人をできるだけ多く自分の奴隷にしようとしています。預言者モーセを有していた昔のイスラエル人たちは,キリストが目に見えぬ状で臨在しているいま制度内の各人が滅亡を受けるということについての警告のいましめとなつています。どのように?
13 モーセが山にいたときのイスラエル人から,私たちはどんな警告のいましめを持つていますか。
13 それはアラビヤ半島のシナイ山の頂上からヱホバ神が十のいましめを奇跡的に告げられてから程ない時でした。モーセは彼らの近くにいました。彼はシナイ山の頂上に40日間おり,彼らからは見えないところにいたのです。ところが,イスラエル人は金のこうしを作つて,騒々しいふしだらな行いでそれを崇拝し始めたのです。イスラエル人が守ると同意した10のいましめの第1,第2,そして第7のいましめは次のように述べていました,『私はあなたをエジプトの地より,奴隷の家からみちびき出したあなたの神ヱホバである。あなたは私の他に,なにものをも神にしてはならない。あなたは自分のために,刻んだ像をつくつてはならない。上は天にあるもの下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものの,どんな形をもつくつてはならない。あなたはそれを拝んでもならないし,仕えてもならない。あなたの神である私ヱホバは,専心の献身を求める神である。……あなたは姦淫してはならない。』(出エジプト 20:2-5,14,新世)しかし,国民の監督モーセの目が注がれていないと知つた多数のイスラエル人たちは,勝手気ままなことを始めました。全く,モーモが山に昇つて40日も経たない中に,多数のイスラエル人は10のいましめを忘れかけており,偶像崇拝や性の享楽で不しだらな時間を楽しもうとしていました。―出エジプト 32:1-35。
14 モアブの平地に天幕を張つたイスラエル人から,私たちはどんな他の警告の例を得ますか。
14 それから40年の後,彼らはモアブの平地にいました。いまやカナンのヨルダン河を渡り,約束の地に彼らを導くというヱホバの約束が奇跡的に成就されようとしていました。しかし,イスラエル人の幾千人という新しい世代の者たちは,モアブの異教の娘たちに目を向けました。利己的な心を持つそれらのイスラエル人たちは,モアブの娘たちと不道徳な関係を結びたいという強い欲望に燃えたために悪魔に仕えるそれらの誘惑の女たちと共々に偽りの神,ペオルのバアルに崇拝を捧げることをいとわなかつたのです。イスラエル人の長ジムリはあつかましくもミデアン人の女コズビをイスラエルの聖なる陣営に,そして自分の天幕に連れこむことすらしたのです。祭司ピネハスがジムリとコズビを殺すという熱心な行いをして,やつと疫病は止まりました。この疫病は,2万4000人の不道徳なイスラエル人を滅ぼしたものです。(民数紀略 25:1-9)モーモは,まだ生きておりその時には天幕にいました。しかし,情欲に駆られたイスラエル人は,いつこう気にしなかつたのです。彼らは自分たちに要求されている神聖さを忘れました。彼らはヱホバの正義のいましめを忘れ,奔放な情欲に耽けつて異教の女たちと不道徳な関係を持つたのです。そのため,偽りの神ペオルのバアルに崇拝をささげ,真の神ヱホバを怒らせることになりました。
15 使徒は,それらの例が私たちに対する警告の例であると,どのように言及していますか。イスラエル人による警告の例は,どんな事実をたしかにしていますか。
15 クリスチャン使徒パウロは,聖なることから背教したそれらの歴史的な出来事に言及して,私たちに対する警告の例であると述べています,『これらの出来事は,私たちに対する警告であつて,彼らが悪をむさぼつたように私たちも悪をむさぼることのないためなのである。だから,彼らの中のある者たちのように,偶像崇拝者になつてはならない。すなわち,「民は座して飲み食いをし,また立つて踊り戯れた。」と書いてある。また,ある者たちがしたように,私たちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が,一日に二万三千人もあつた。』(コリント前 10:6-8,新口)イスラルの全国民の場合のごとく,ヱホバに献身している者が,その心を悪くさせるなら,どんな状況であろうとも都合の良い機会が得られるならすぐに心の欲する事を満たそうと努めるでしよう。滅ぼされたイスラエル人の警告のいましめは,この事実をたしかなものにします。
16 私たちの希望は,間もない中に実現されるというのに,献身したある者たちは,何をしますか。そのことをする彼らは何に留意していませんか。
16 それで今日,御国の希望の実現が極めて近いにもかかわらず,献身した人々の中の或る者は聖書に従つて歩く仕方に良く注意していません。彼らは自分の肉欲を満足させるために,この世の不潔によろこんで染まります,そしてその危険を冒します。彼らは,次のことを考えて自省するということをしていません。すなわち,これは彼ら自身の滅亡を意味するだけでなく,ヱホバに非難をもたらし,ヱホバの見える制度に侮べつをもたらすということです。会衆の監督がその場に居合わせず,見ていないという理由で,彼らはその歩き方つまり行動に良く注意を払いません。それらの人々は,ヱホバ神とその聖なる御使たちが見守つているということ,そして罪は必ず見つけ出されるということを心に留意していないのです。―民数紀略 32:23。
17 私たちは,いつでも誰の御前に歩くべきでか。その目的のため,私たちはどんな建設的なみち,決意にみちたみちを取るべきですか。
17 人間の目だけをはばかつて,すなわち地的な監督の目だけをはばかつて歩むというようなことではいけません。私たちは神の目をはばかつて常に歩かなければならないのです。なぜなら神の目はどの場所にもあり,悪い者をも良いをも見ておられるからです。(シンゲン 15:3)『神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。』(伝道之書 12:14,新口)私たちは,詩篇記者の取つたみちと同じく,建設的なみち,決意にみちたみちを取ることが必要です。詩篇記者は,次のように語つています,『われ常にヱホバをわが前に置けり。ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし。』(詩 16:8)この意味で積極的である私たちは,語ることおよびすることで,いつもヱホバ神をよろこばし,崇めるように努めます。霊的な長老たち,すなわち会衆の僕なる監督が,直接見ていようといまいと,そのように努力します。
18 私たちのかたい立場について,なぜ私たちは過信してはなりませんか。私たちは,どんな災にたいして注意すべきですか。
18 ハルマゲドン後の『新しい天と新しい地』の新しい組織に極めて近いから大丈夫ということはありません。また,聖書の真理に十分長くいたし,多くの数の誘惑をも通つて来たから,注意をゆるめても大丈夫,落ちるなどの危険などはないということもありません。エジプトから救い出されたのに荒野で滅んでしまつたイスラエル人について,パウロは次のように述べています。その或る者は,40年目の最後の年に滅びました。『これらの事が彼らに起つたのは,他に対する警告としてであつて,それが書かれたのは,世の終りに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである。だから,立つていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい。あなた方の会つた試練で,世の常でないものはない。』そして,この試練の下に人々は倒れたのです。(コリント前 10:11-15,新口)真理にいるいちばん若い者から,いちばん古い者にいたるまで,また会衆の一般の人から会衆の僕または監督にいたるまで,私たちはみな自分自身を頼るということを決してせず,むしろ私たちの歩き方にいつでも良く注意して,悲惨にも落ちるということのないようにしましよう。ヱホバの会衆から排斥されて永遠の滅びを受けるとは,なんという災でしよう!―コリント前 5:9-13。
非行をする奉仕者の破滅
19 北アメリカの会衆内の非行者のどんなパーセント増加により,良く注意を払う必要は強調されますか。
19 祈りをささげつつ絶えず注意を払う必要は,ものみの塔聖書冊子協会のブルックリン本部にある奉仕部門からの知らせによつて強調されます。これは,北アメリカ合衆国の幾千という会衆に属する献身して洗礼を受けた者に関係を持つものです。1952年3月から1957年4月までの5年間,毎年平均500人はヱホバの会衆内で許すことのできない極めて悪い非行のために排斥されました。しかし,1957年4月から1958年4月までの1年間に,数は急にはね上つて平均500人から1334人の非行者が出ました。それは,2倍半以上も多い数です。次のように論じて,この驚くべき知らせの衝動を押えてはなりません。すなわち,この原因の一部は,その12ヵ月中にアメリカの会衆にすくなくとも1万8537人の新しい人々が証言の活動に交わつたからだというのです。その新しい人々の数は,1958年の4月アメリカで御国の良いたよりを宣べ伝えた22万6797名の12分の1にもなりません。その22万6797名の約65パーセントは献身して洗礼を受けているものです。それで,1334名の非行者を14万7000人以上の献身して洗礼を受けた成員とくらべるとき,どういうことになりますか。1パーセントにも達しません。
20 それは1パーセントにも達しないものであつても,どんな恐ろしい警告が,私たち全部に与えられていますか。
20 1334人は1パーセントにも達しませんが,しかしこの数が急にふえたことは以前の年よりも2倍以上の人が1957-1958年の悪い時代中に,注意をゆるめ,賢明に行うことに失敗したことをはつきり示しています。北アメリカの合衆国には3718かそれ以上の会衆があることから,三つの会衆のうち約一つの会衆は1334の排斥によつて影響を受けることになります。かくも多くの会衆が影響を受けたという事実および1957から1958年までに排斥の数が2倍以上に増したという事実は,私たち全部の者に対する恐ろしい警告となります。今後は私たちが落ちないように気をつけねばなりません。
21 人はどのように清い汚れのない形式の崇拝を行うというヤコブ書 4章4節の聖句を悪く適用して罪を犯しますか。
21 ヱホバの証者の新しい世の社会は,汚れのない清い形式の崇拝を行いつづけねばなりません。クリスチャンの弟子ヤコブは,このことを明白にこう述べています,『私たちの父である神の立場から見て,清く汚れない崇拝の形式とは,孤児と寡婦とをそのなやみの時に世話し,また自分を守つて世から汚されないことである。姦淫を行う者よ,世の友となることは,神の敵になることをあなた方は知らないか。それであるから,世の友となろうと欲する者は誰でも自ら神の敵となるのである。』(ヤコブ 1:27; 4:4,新世)次のように考えることは全くの間ちがいです,すなわちのこの世の政治に介入せず,この世の争いに中立を保つてこの世の友とならず,霊的な姦淫者にならなければ,世の汚れを受けないが,一方,実際の肉体上の姦淫または淫行を行うことができるというのです。しかしそれは自分自身の体に対して罪を犯すことになります。
22 人は,マタイ伝 24章14節の聖句の成就に参加しながら,間ちがいにもどのようにバラムの罪のごとき罪に落ちますか。
22 また,次のように考えることも間ちがつたものです,すなわちマタイ伝 24章14節の預言的な命令に従つて,野外奉仕の証言時間をたくさん報告すれば,異性の者と肉体面の不道徳な行いをすることができるという考えです。忘れてはなりません,預言者バラムはヱホバの代弁者として用いられ,イスラエルの国民に祝福を述べました。しかし,後に荒野の40年の旅の終りになつて,イスラエルの中に性崇拝と不道徳をすすめようとしたバラムは殺されました。
23 クリスチャンの道徳は,伝道と共に必要であると,パウロはどのように示しましたか。
23 神の御国について各人が証言をすることは,永遠の生命を得るために是非とも必要です。しかし,クリスチャンの道徳も共に必要な事柄です。パウロは次のように叫びました,『もし福音を宣べ伝えないなら,私はわざわいである。』しかし,すこし後の文章のところで彼は次のようにつけ加えました,『自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない……,また,ある者たち(イスラエル人)がしたように,私たちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が,一日に一万三千人もあつた。』― コリント前 9:16,27; 10:8,新口。
24 人は肉体上の不道徳を行うことにより,誰の友となりますか。故に,それは又どんな他の種類の不道徳ですか。
24 自分自身を欺いてはなりません。姦淫または淫行をすることは,自らを世の友にすることです。それですから,それは霊的な姦淫または淫行をすることです。それは神の友または神の会衆の友に,ぜつたいになりません。それはこの世にまねて,この世を手本としていることです。それはこの世の精神の表われです。それはこの悪い世を愛していることを証明するものです,『すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父(ヱホバ神)から出たものではなく,世から出たものである。』(ヨハネ第一書 2:16,新口)それですから,不道徳は次のことを示します,すなわち淫行者はこの世に属する者であつて,ヱホバの証者の新しい世の社会内にいるべき人ではないということです。
25 ヱホバは,どんな二つの強烈な行いにより,会衆の不道徳な者にたいして何がなされねばならぬと示しましたか。
25 ヱホバは2万3000人の淫行者を御自分の会衆から切り絶たれました。それは1年の中になされたのでなく,わずか1日の中になされたのです。淫行者はヱホバの会衆から排斥されねばなりません。シロに近いところでの戦争中,ヱホバは大祭司エリの息子たちである2人の祭司ホフニとピネハスを切り絶ちました。なぜなら彼らは集会の幕屋の人口で奉仕していた女たちと姦淫を行つてヱホバ神に非難をもたらしたからです。―サムエル前 2:12,22-25; 3:13,14; 4:4-11,17。
26 (イ)排斥を必要とする他の罪のあることについて,パウロは何と言いますか。(ロ)自分の悪行に目ざめる者の心の状態および行動は何でなければなりませんか。
26 排斥が必要となる罪は,淫行以外に他の物もあります。パウロは会衆にこう書き送りました,『私が実際に書いたのは,兄弟と呼ばれる人で,不品行な者,貪欲な者,偶像礼拝をする者,人をそしる者,酒に酔う者,略奪をする者があれば,そんな人と交際してはいけない,食事を共にしてもいけない,ということであつた。その悪人を,あなたがたの中から除いてしまいなさい。』(コリント前 5:11,13,新口)排斥が必要である罪を犯してから,そのはなはだしい悪行に目ざめ,神の不興を大きく受けたと気づいたなら,その人の心の状態はどんなものでなければなりませんか。悲しいものでなければなりません。心を痛めるほどに悲しみ,悔い改めねばならないのです。その者は,その罪をすでに御存知である神に告白するだけでなく,それぞれの地方で神権的に任命されている僕たちを通して神の見える制度に告白すべきです。慈悲を願い求めつつ,キリストを通して神とその民との和解を求める緊急な時です。このことに一致する聖書の助言はこうです,『あなた方の中に(霊的に)病んでいる者があるか。会衆の古い人々を呼び,ヱホバの御名によりオリブ油を塗つて祈つてもらうがよい。信仰の祈りは病める者をいやし,ヱホバはその人を立ち上らせて下さる。また,罪を犯したならば,その罪は許されるであろう。ゆえに,たがいに罪を公けに言い表わし,互いのために祈りなさい。それはあなた方がいやされるためである。』(ヤコブ 5:14-16,新世)深い後悔の念を持つて,霊的に必要なことを告白することは,罪人が神と和解することを助けるものです。それから後,神の御前でどのように歩くべきかについて良く注意する助けとなります。