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コリント,光り輝ける町ものみの塔 1965 | 8月1日
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偶像崇拝と堕落した不道徳に囲まれたコリントのクリスチャンには,神の前に清さを保つため,強い戒めが必要でした。そのため使徒パウロは彼らに宛てた手紙の中で,偶像崇拝と道徳の汚れを強く戒めました。―コリント前 5,6章。コリント後 6:14-18。
コリントはギリシャで最も古い町の一つであったため,多くの神の崇拝がこの町で行なわれました。エペソのアルテミスの神殿,アテナの宮,カピタライン丘上のゼウスあるいはジュピターの神殿,イシスとセラピスの神殿,ヘリオスの祭壇,アポロの神殿が数ヵ所,ポセイダンあるいはネプチューン,ヘラあるいはユノの宮,すべての神の宮,ヘラクレスの宮,ヘルメスの宮,オクタビアの宮とアスクルピオスの宮などがありました。神々や英雄の像が町の通りや広場にならんでいました。
考古学者はアスクルピオスの宮で,病人が神に感謝のささげ物として宮に持って来た,赤土素焼でできたからだの部分の類似物を発見しました。アスクルピオスはいやしの神と考えられていました。崇拝者は病んでいるからだの部分の類似物を作りましたが,それは実物に近い色にぬってありました。からだの病んでいる部分を生き写しにした物を,神にささげる同様な儀式が今日でもホンジュラスのローマカトリック信者によって行なわれています。そこでは,人々はからだの病める部分の類似物を「スヤパの処女」の偶像にささげます。この類似物を作るのに金や銀が使われます。教会の壁には,それが何百もぶらさがっています。これらのローマカトリック信者とは違って,コリントのクリスチャンは異教の習慣に従いませんでした。―サムエル前 5:12; 6:4-11。
コリントの市場,アゴラは大理石で舗装され,公共の建物や店が立ち並んでいました。使徒パウロがユダヤ人の迫害者によって,総督ガリオの前に連れてこられたのはこの場所でした。使徒行伝 18章12節はその事を次のように記録しています。「ところが,ガリオがアカヤの総督であった時,ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い,彼を法廷にひっぱって行って訴えた」。市場の高くなった演壇が法廷になりました。それはビーマと呼ばれ,大理石や精巧な彫りものが惜しみなく使われているぜいたくな建造物でした。ビーマの両側のアゴラと同じ高さのところに,モザイク細工の床と大理石の長椅子のある二つの待合室がありました。ここで人々は,総督に陳情書を提出したり,訴訟の申立てをしてもらうため,順番を待ったのです。
この町は給水に恵まれていました。地下水はトンネルを経て合計375キロリットル以上を蓄える四つの貯水池に送られました。地下水は,おもな水源地からアゴラの店の下にある水路に流されます。各店にある井戸はこの水路につながっています。商人はこの井戸に葡萄酒や食料品を下ろして冷やすことができました。
コリントは物質的には光り輝いた町でしたが,それは町の守りにはなりませんでした。物質主義と放蕩に走った人々は,コリントの町と同じく塵に帰ったのですから,その町に救いを求める事はできません。また多くの偽りの神も彼らを救えません。しかし使徒パウロの伝えたキリスト教の真理にしっかり従ったコリントのクリスチャンは,死から復活を受け,主イエス・キリストと共に天の御国の相続者になる確かな希望を持っていました。―コリント前 15:12-57。
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偶像の無益さを悟るものみの塔 1965 | 8月1日
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偶像の無益さを悟る
◆ リベリアでのこと偶像崇拝に率先していたある男の人は「私は決して自分の道を変えません。私に説教しても無駄です」といいましたが,特別開拓者は再三訪問して話し合いました。驚いた事に巡回のしもべの訪問中,彼は兄弟の前で偶像を全部川へ棄ててしまいました。これからは偶像ではなくエホバに奉仕すると語った彼は他の偶像崇拝者に伝道し,彼らもエホバに仕える事に同意し長年の偶像崇拝が無益だったと語りました。
― 1965年度エホバの証者の年鑑から
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