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血の神聖さを尊敬するものみの塔 1961 | 12月15日
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することができました。いまではこの研究はかなり進み,医者たちは全部の血と血漿 ― これはほとんど無色の液体で,血液細胞はそれで運ばれる ― を使用するだけでなく,必要に応じて,血漿とは別の赤血球と,いろいろの血漿蛋白質を使用します。
16 生命をささえるために血を医療に使用することは,神の律法を破ることですか。
16 血をそのように医学的に使用するなら神の律法は破られますか。血あるいは血漿あるいは赤血球またはいろいろな血の成分を注入して生命を支えるのは悪いことですか。そうです! 神がノアに与えた律法は,彼の子孫全部に適用します。その律法によると,滋養を与えて,生命を保つために血を食べる,すなわち他の生物の血を用いることは悪いことです。「陳謝」(本)という本の中でターツリアンがそのことについての初期クリスチャンの見解を示したように,今日でも次のことが認められています,すなわちこの禁止が動物の血に適用するのであるなら,人間に適用する度合はいっそう強いということです。それは「いっさい」の血をふくみます。―レビ 3:17,新口。
17 人間の血がむかし誤用されたために,初期クリスチャン統治体の決定した禁令の中に人間の血が含まれていることを,歴史の事実はどう証明しますか。
17 初期のクリスチャンの統治体は,血の使用を禁ずる命令を出しました。その命令は,人間の血に関するものでなく,動物の血だけに関係するものであるという議論は,歴史的な事実について無知なることを示します。第1世紀に地中海の世界を支配した古代ローマの闘技場の観衆は,戦いが終わると場内に駈けこんで,倒れた闘士のくびから流れ出る血を飲みました。スクテヤ人のうちのある者は,死んだ親族を食べたとも伝えられます。ある人々は互いの血をすこしずつ飲んで条約を締結しました。人間の血を手にすくって食べることは,異教の女神ベロナの儀式を始めることになりました。それで,聖霊のみちびきを受けた使徒たちが,クリスチャンは血を避けるべきであると語ったとき,その血の中に人間の血をも含めていたにちがいありません。
18 輸血は血によって「滋養を得る」ことであると,何が示していますか。
18 口を通して血を入れようとあるいは口の代わりに静脈を通し体内に入れようと,その入れ方は問題でありません。またある人は,それは静脈摂食と同じでないと論じますが,その主張も力のあるものではありません。事実はそれが滋養を与え,からだの生命を支えているのです。このことを支持する言葉は医学博士ジョージ・ダマリュー・クライル著「出血と輸血」(英文)という本の中に記されています。彼はフランスの医者で輸血の分野の初期研究者デニスの手紙を引用しています。「輸血は,ふつうの場合よりも短い路によって滋養を与えることにほかならない ― つまり,食物を取る代わりにすっかりでき上がった血を静脈内に入れることである。食物はいくらかの変化をして後に血に変わるだけである」。
19,20 (イ)医療がたえず進歩していることを考えるとき,血を使用する医療をうけるべきか拒絶すべきかを,どのように決定することができますか。(ロ)この面においてダビデはどんなすばらしい模範を残し,血の神聖さに対する尊敬を示しましたか。
19 医学界では血の使用に強調を置き,血を用いての新しい療法がたえずすいせんされています。しかし,それが血の全部であろうと一部であろうと,その血が自分自身のからだから取られたものでも,他人のからだから取られたものであろうと,あるいは輸血として与えられようと,注射として与えられようと,神の律法は適用します。神は人間に血を与えました。しかし,人間は他の物質を使用するのと同じように,その血を使用するべきではありません。神は血の神聖さに対する尊敬を要求します。
20 神を恐れたダビデ王は,この律法についてなんとすばらしい模範を示したのでしょう! 神の民の敵共が地から追い出される前に,ペリシテ人はエルサレムに近いベツレヘムに守備兵を置いていました。あるとき,「ダビデはせつに望んで,『だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが』と言った」。彼はペリシテ人が去れば,自由に井戸のところへ行くことができ,その水を飲んで元気づけられるだろうとのぞみました。しかし,ダビデ王の言葉を聞いた「三人〔勇士〕はペリシテびとの陣を突き通って,ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って,ダビデのもとに携えて来た」。彼らの持ってきたものは,水に過ぎませんでした。しかし,彼らは生命の危険を冒してそのことをしたのです。ダビデはそのことを知っていました。「しかしダビデはそれを飲もうとはせず,それを主の前に注いで,言った,『わが神よ,わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです』。それゆえ,ダビデはこの水を飲もうとはしなかった」。(歴代志上 11:16-19,新口。サムエル後 23:15-17)ダビデは神の律法を尊重しました。彼は動物の血を避けただけでなく,人間の血を食べるという極悪の罪を避けました。ほんとうに,彼はその律法違反に思われるものさえも避けました。彼は神の御心にかなう人でした。今日の円熟したクリスチャンたちも,ダビデのとった道と同様な従順の道に心から従います。そして,血の誤用に関する一切の行いを避けます。彼らは神を愛しているので,血の神聖さに尊敬を示します。
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生命を神の御心と一致して用いるものみの塔 1961 | 12月15日
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生命を神の御心と一致して用いる
1 (イ)だれの御心が血の使用を制御しなければなりませんか。彼はどんな行いを禁じますか。(ロ)血を流すことが正しいと示されたどんな出来事がカインとアベルの時代に生じましたか。
生物の生命の血は神の御こころと一致するときだけ正しく使用されます。血を食物として食べることは禁ぜられています。生命を維持するための医療という口実で血を他の人に与えることは,神により許されていません。血は生物の体内で生命を維持する役割を果たします。しかし,神はそれ以外にももう一つの血の使用を認めています。このことはアダムの息子たち,カインとアベルの時代にあきらかに示されました。「アベルは羊を飼う者となり,カインは土を耕す者となった。日がたって,カインは地の産物を持ってきて,主に供え物とした。アベルもまた,その群れのういごと肥えたものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」。(創世 4:2-5,新口)カインの供え物は,魂のない野菜でした。アベルの犠牲は生命を表わし,血をそそぎ出すことを必要としました。エホバはアベルの犠牲をうけいれることにより,犠牲をささげるときに血を流す必要を示しました。しかし,カインはこのことについての神の導きをうけいれませんでした。かえって,彼は自分の弟アベルを荒々しく殺してしまいました。アベルは,彼自身の生命と羊の生命を,神の御こころ通りに用いていた当時の地上のただひとりの人だったのです。
2 神は流された血のどんな一つの正しい使用をゆるしましたか。このことはだれに知らされましたか。そして,どのように?
2 神の忠実なしもべたちは,エホバにささげる犠牲として,動物の生命の血を注ぐことが神の御心であることを認めました。そして,ノア,アブラハムその他の者たちは,それを行なった者であると聖書に述べられています。(創世 8:20; 22:13)彼らの子孫であるイスラエル人たちが,シナイ山のふもとに集まって,一つの国民に組織されたとき,エホバ神は明瞭な言葉を用いて,生物の流された血を用いるただひとつの正しい仕方を告げられました。彼は次のように言われたのです,「あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである」。
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新奇な雑誌配布ものみの塔 1961 | 12月15日
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新奇な雑誌配布
村の人々はお金を持っていないので,雑誌が会衆にたまると巡回の僕は告げられました。彼は産物と雑誌を交換する仕方を実演で示しました。その週中伝道者たちはやまのいも,とうもろこし,落花生,メロン,バナナ,そして他の品物と交換しながら,40冊以上の雑誌を配布しました。―エホバの証者の年鑑(英文)より
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