読者からの質問
● イエス・キリストのかたわらで刑柱につけられた悪人は,どんな方法で刑柱につけられましたか。釘づけされたのですか,あるいは縛りつけられたのですか。―英国の一読者より
この悪人たちは刑柱に縛りつけられたようです。ローマ人が行なった,刑柱を用いる処刑法について,大英聖書辞典(第1巻,377頁)は次のように述べています。「運命の場所に連れてこられた時,その犯罪者は衣服をはぎ取られて,裸同然にされたうえ,十字架に縛りつけられるか,あるいは釘づけにされると,十字架は持ち上げられ,立てられたのである」。キリストとこの悪人たちを刑柱につける際に,もしユダヤ人の処刑法が用いられたとすれば,最初に殺されてしまい,それから死体が刑柱に取りつけられたことでしょう。(申命 21:22,23。ヨシュア 10:26)しかし彼らは生きながら,刑柱につけられたのです。(ルカ 23:32-46)それで彼らが刑柱につけられたときには,ローマ人の処刑法が用いられ,釘づけにされるか,縛りつけられたのです。
イエス・キリストの場合には苦しみの杭に釘づけされたことがわかります。死んで復活させられて後,イエスは幾度も化身しましたが,その肉体には釘づけにされた傷あとがありました。たとえば,あるときイエスはトマスを招き,ご自分の両手に釘づけにされた傷のあることを確かめさせています。(ヨハネ 20:19-29)このように聖書は,イエスが苦しみの杭に釘づけされたことを示していますが,イエスのかたわらで処刑されたその悪人たちが刑柱に釘づけにされたか,縛りつけられたかは明示していません。そのために,ものみの塔協会は,たとえば「失楽園から復楽園まで」という本の141頁に,聖書に示されていることおよび,ローマ人が,釘づけにする処刑法と,縛りつける処刑法の両方を用いていた事実を認める絵をかかげているのです。そのさし絵では,イエスは苦しみの杭にだけに釘づけされており,他の悪人たちは縛りつけるという簡単な方法で刑柱にかけられています。
● マルコによる福音書 15章33節に記録されている,イエスが刑柱につけられた時に生じた暗闇は日食によるものですか。―アメリカの一読者より
聖書はこの暗闇に関して簡単に述べています。「昼の十二時になると,全地は暗くなって,三時に及んだ」。(マルコ 15:33)マタイによる福音書 27章45節とルカによる福音書 23章44,45節の記録も根本的にはこれと同様ですが,ルカは「太陽は光を失い」と観察的なことばをつけ加えています。
霊感を受けた福音書の筆者は,この異常な暗闇の起こったことを神のわざとして記録しました。ところがある注釈者たちは,長年の間このできごとを科学的に説明しようと試み,イエスが刑柱に釘づけされた時,偶然に日食が起こったと述べています。しかしイエスが死なれたのは西暦33年の過ぎ越しの日であって,広く認められているようにこの日は満月のため日食は天文学的に起こり得ません。というのはこの時,月は太陽と地球の間にあるのではなく地球が月と太陽の間に位置するからです。さらに,この暗闇は昼の12時から午後3時までの3時間にもおよびましたが,皆既食が一地点で二,三分以上も続くことはほとんどありません。皆既食が最良の条件の下で最も長く続いても計算によれば,それは7.5分間です。それで地球と太陽の間に位置する月のために太陽が人間の目からさえぎられて起こる日食を用いて,イエスが刑柱につけられた時の暗闇を説明することはできません。
ある人々は,西暦2世紀の自由民,トラレスのフレゴンが指摘した日食を取りあげます。フレゴンは,珍らしい日食が起こり,星がよく見えたと記録しています。フレゴンによれば,この日食の起こった時を,オリンピア紀第202期の第4年(紀元前776年から始まる期間で,1期間は4年である)としており,それは偶然にもイエスの死んだ年になっています。限られた天文学の知識を持つ人間が,イエスの死の時の暗闇を日食によるものと誤って考えることはあり得るでしょう。しかしフレゴンが指摘した日食については,その日時の詳細が記録されていない以上,たしかにこの日食がその暗闇の原因であるとは言えません。
イエスが刑柱につけられた時に,太陽が光を失ない,暗闇が昼から午後3時まで続いたこのできごとは,神の直接の働きによって引き起こされたものに違いありません。イエスが息絶えた時に,地震が起き,宮の聖所の幕が裂けたことについても同じことが言えます。(マタイ 27:51。マルコ 15:38)これらのできごとを単なる自然現象として片付ける論議には十分の証拠がありません。
これらのできごとを目撃した証人たちや,イエスの処刑を見守っていた百卒長と他の人々は,地震や他の起きた事柄を見て,それらは超自然のできごとであると認め,「非常に恐れ」,『まことに,この人は神の子であった』と言ったのです。―マタイ 27:54。
● 「預言は決して人間の意志から出たものではな(い)」と述べた使徒ペテロのことばは,何を意味するのですか。―アメリカの一読者より
使徒ペテロは預言に関して次のように書きました。「聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべきである。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったものだからである」― ペテロ第二 1:20,21。
ペテロはここで以前に書かれた預言の適用の仕方,意味,解釈について考慮しているのではありません。前後の文脈からわかるように,ペテロは,預言がクリスチャンにとって信頼できる確実なものであることを論じているのです。(ペテロ第二 1:16-19)それから彼は,聖書に書かれた預言は人間の想像力によるものではなく,エホバ神から出たものであるから,クリスチャンはこの預言に確信を持つことができるということを指摘しています。
たとえば,人間は,ある国の政治および社会状態を自分で観察し,その資料の自己流の解釈に基づいて,将来に関するある予言をすることができます。この場合,その自己流の解釈とそれに伴う予言は,ともに神に霊感されたものとは言えません。イスラエルのアハブ王の治世に,400人の偽りの預言者が語った預言は,この種のものでした。二人の王アハブとヨシャパテが,ラモテ・ギレアデに戦いを挑むべきかどうかを尋ねた際に,職業的な預言者たちはこの二人の王の勝利を預言しました。(歴代下 18:4-11)この預言は,その時の事態を見て取った彼らの個人的解釈の結果なされたものです。
これと対照的にエホバの預言者ミカヤは,アハブが平安のうちに帰ることはないと預言しました。この預言はミカヤの個人的な解釈によるものでしたか。そうではありません。ミカヤはアハブに語る前にこう述べています。「わが神の言われることをわたしは申します」。(歴代下 18:13-27)アハブが戦死したことによって,偽りの預言者の預言が不完全な人間の考えのみに基づいていた事が明白に証明されました。他方,エホバの預言者ミカヤは事態を自分で勝手に解釈したのではなく,事を決定したのがエホバご自身であったことは明らかです。ミカヤによるエホバの預言は正確であって,成就しました。
それで,ペテロの第二の手紙 1章20,21節に説明されているとおり,わたしたちは聖書に記録されている預言に確信を持つことができます。それは預言が神から出たものであって,人間が事態を解釈して語ったものではないからです。神ご自身こそ,聖霊を通してご自分のしもべたちを動かして語らせ,記録させた方です。