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助言をどのように受け入れますかものみの塔 1975 | 8月1日
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ダビデの例を思い起こしてください。ダビデは多くの懲らしめを受けましたが,神はそのような懲らしめを通して,より大きな事がらに備えさせるためダビデを訓練しておられたのです。ダビデは自分の経験に基づいてこう語りました。「義者われをうつとも我はこれを愛しみとし その我をせむるを頭のあぶらとせん〔その油わが頭をくだくことあらじ〕」。(詩 141:5〔欽定訳〕)ある兄弟の与える助言が受け入れ難いものであっても,そのような助言が身体的な面でも,また霊的な面でもあなたの命を奪うようなことはなく,むしろ気持ちを和らげ,さわやかにする油のようなものとなり得ることが分かるでしょう。そうした助言を心に留めるなら,『戒めを守る者は尊まる』という箴言のことばが真実であることを経験されるに違いありません。―箴 13:18。ヘブライ 12:11。
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ある神の死ものみの塔 1975 | 8月1日
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ある神の死
神とは何ですか。「神」ということばは「力ある者」の意であって,この語は力がある,つまり善または悪を崇拝者になし得るとして崇拝されるものすべてに適用されています。この神は物体,人物,人間の集団であったり,組織であったりします。
ここで論ずる神は,人間の一つの集団つまり一つの部類に属する人々です。これは聖書の中で「不法の人」と呼ばれています。使徒パウロはこの神を次のように描写しました。
「彼は,すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの[また全能の神]に逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します」― テサロニケ第二 2:3,4。
「不法の人」のこの描写に一致するのはだれですか。その答えは次のように問うことによって得られるでしょう。マタイ 23章8-12節にあるイエスのことばに真っ向から逆らって「尊師」,「神父」,「教皇」などの称号を自らに与えてきたのはだれですか。(ヨブ 32:21,22と比べてください。)カトリックおよびプロテスタント双方の僧職者ではありませんか。彼らは「神の羊の群れ」を自分たちのものであると主張し,彼らの教区あるいは地域の人々に対して神のことばを語る者がいると,その語る事柄が僧職者の教えに一致しない場合,その語ることを阻止しようと躍起になっていませんか。(ペテロ第一 5:2)これはユダヤ人の宗教指導者がイエスの伝道に対して取った態度また行動と全く同じです。(ルカ 11:52)昔のユダヤ人の指導者の取った行ないとも比べてください。―エゼキエル 34:1-6。ミカ 3:5。
僧職者は,聖書の真理を人々に教えようとする者たちを弾圧し,厳しく制限し,圧迫するように政府に働きかけてきました。その多くは聖書の霊感を否定し,聖書を「神話」,「時代遅れ」そして現代生活に適用不可能であると唱えて,自分たちの考えを神のことばよりも上におき,神に対して不法な者であることを自ら示しています。
キリスト教世界の僧職者は自分たちを神のような地位に高めることを求めてきましたが,その行なってきた多くの事は不敬虔極まりないものです。彼らは世の友となり,こうしてイエスの異父兄弟ヤコブの書いたように,自らを神の敵としてきました。(ヤコブ 4:4)彼らは世の政治家や大企業家の腹心の友また助言者となり,戦争を起こす者や軍事分子の手先となってきました。彼らは軍隊付き牧師となり,人を殺す戦争の武器を祝福し,いわゆる“キリスト教”の国家同士の戦争の両側において勝利を祈ってきたのです。
こうして僧職者は自ら「大いなるバビロン」すなわち
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