正しい者の確信
『知恵のある者と共に歩むものは知恵をえ,愚かなる者の友となる者はあしくなる』― シンゲン 13:20
1 ダビデは自分の忠実をどのように考えましたか。そして誰を表わしていますか。
古代イスラエルの正しい王ダビデは,創造主すなわちダビデがヱホバと呼んだ神に全く依り頼みました。罪深い不完全な人間として,その生涯の年月のあいだに多くのあやまちを犯したことを,ダビデは良く知つていました。しかし,彼の心と思いの中にあつた第一のことは天にいます彼の生命の与え主の御心を行う事であつて,ダビデはそのことを知つていたのです。ヱホバ神に献身した民族の指導者であつたダビデは,忠実の問題に心を寄せました。『されど我はわが完全によりてあゆまん』(詩 26:11)ダビデはこの事をなそうと忠実に努めました。彼はその治めた人々すべての手本であり,また偉大なるダビデすなわち神の新しい世の栄光の王イエス・キリストの真の追随者を予言的に表わす人でした。
2 なぜ,ダビデは忠実のうちに歩んだことを確信していましたか。そして,どのように裁かれることを願つていますか。
2 詩篇 26篇には,自分の忠実を述べて神の調べを乞うダビデが示されています。神の戒しめに従つて生活し,正しい道に歩んできたことを彼は確信していました。正しい事を行おうと常に願つたダビテはヱホバにこう述べました,『我をなんぢの真理にみちびき我をおしえたまえ』(詩 25:5)真理のうちに歩んできたことを確信して,ダビデは確信のある言葉を述べています。『ヱホバよ,ねがわくは我をさばきたまえ,われわが完全によりてあゆみたり』(詩 26:1)この詩篇全体を読むと分るように,喜びつつヱホバを崇拝したダビデは,罪深い者の悪しき生活と彼自身を対照しています。それらの人々と同じ類に入れられることをダビデは欲しませんでした。そして,人間の生活の標準によつて裁かれることを欲しなかつたのです。自分がどんな者であるか,つまり,真理と正しい事を愛する者であることをダビデは知つていました。ダビデは正直で責むべきところがなく,その唯一の願いはヱホバに専心の献身を捧げることでした。神の標準が何であるかを知つていたダビデはそれによつて裁かれることを欲し,次のように願い求めています。『わが神ヱホバよ,なんぢの義にしたがいて我をさばきたまえ,わが事によりてかれら(敵)に歓喜をえしめ給うなかれ』(詩 35:24)このように正しい裁きはダビデに幸福を与えました。彼は心から満足しました。忠実のうちに歩んでいることをダビデは確信していたのです。今日,私たちはダビデと同じく,自分の忠実を確信していますか。
3 ダビデの願いはヱホバを喜ばせることでしたが,どんな方法で彼はその事を示しましたか。
3 若者であつたときに,ダビデはヱホバに選ばれて王となりました。予言者サムエルによつて油注がれた時から,ダビデには特別な責任がありました。彼は常にヱホバを求めつつ,その責任を果しました。多くの試錬と艱難を経てのち,ダビデはヱホバのくらいに据えられてイスラエル民族の上に立ちました。彼の大きな喜びの一つは,契約の聖なる櫃をエルサレムの聖なる都に携えてきて,そこにエホバ崇拝の場所を設立することでした。シオン山の上にエホバの祭壇は築かれ,イスラエルの全部がそこでヱホバを讃美しました。ダビデはその場所についてこう述べています,『ヱホバよ なんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ,なんぢの聖山にすまわんものは誰ぞ。直くあゆみ義をおこない,その心に真実をいうものぞその人なる』(詩 15:1,2)この要求にかない,また弱さと不安定の代りに強くなることがダビデの願いでした。そこで彼は神に依り頼まねばならなかつたのです。『我たゆたわずヱホバに依頼めり』(詩 26:1)ヱホバに対するダビデのの信頼と信仰は固くて動かされることなく,平静なものでした。「ヱホバの家の住まいを愛する」者にふさわしく歩んだダビデには,動揺することが全くなかつたのです。
4 今日の真のクリスチャンが,ダビデと同じく忠実を確信する事を助けるものは何ですか。
4 キリスト・イエスの追随者である今日の真のクリスチャンも,この同じダビデの神を信じ,『なんぢ(ヱホバ)が栄光のとどまる処』において崇拝したいと望んでいます。(詩 26:8)クリスチャンの持つ神の言葉はダビデの持つていたものと同じであり,ただ,ダビデよりも多くを持つているのです。ダビデの死後,大勢の予言者が神の選民の許に遣わされて,彼らの述べたことは私たちが学んで教訓とするため神の言葉の中に書きしるされました。それに加えて,キリストの生涯,使徒行伝,弟子たちの書いたもの,があり,今日の完成した聖書,神の御言葉の全部はこれら多くの聖書の本から出来上つています。これは全人類の従うべきものです。このような備えをもつ今日のクリスチャンは,『義を行い,真理を語る』と共に,ダビデと同じくヱホバに忠実であるという確信を持つべきであり,またそうすることができます! 神の言葉を学んで理解し,それによつて生活する人は,動揺しないという確信を持つ筈です。
確信のないキリスト教国
5,6 忠実を確信しているキリスト教国について,どんな的をついた質問に答えねばなりませんか。
5 しかし,ある人は言います,『キリスト教国を見てごらんなさい。何億という動揺した,不信仰の人々はキリスト教国の教会に出席しています。いろいろな教会の名簿に載せられている人々は,確信をもつて次のように言えますか。「ヱホバよ,われを糺しまた試みたまえ,わが腎とこころとを練りきよめたまえ」これはどうした事でしよう。ダビデが予影した信仰の人々は今日どこにいますか。』
6 このような質問を更に尋ねることができます。キリスト教国は試みに耐え得ますか。ヱホバはキリスト教国の中に信仰を見出し得ますか。キリスト教国の指導者は,ダビデと同じほどに清い良心を持つていますか。祈りのうちにヱホバに近づき,彼らを調べ試みて清めるようにヱホバに願うことができるでしようか。ヱホバが御自身の御言葉である聖書の中に定められた標準にふさわしく行つているという確信を持つていますか。彼らは聖書の教えをすべて信じていますか。牧師に教えられている今日のキリスト教国の何億という人々は,ダビデと同じくヱホバへの忠実を確信できますか。このすべての質問の答は否です! しかし,神の御心を行う奉仕に献身したのであるなら,彼らはダビデの信仰を持つべきです。キリスト教国とその支持者たちは忠実であると主張して居り,彼らは聖書を信ずると言つて自身をクリスチャン ― キリストに似るもの,と呼んでいるのです。願うと否とに拘りなく,彼らはヱホバ神の御前で裁かれつつあります。
7 キリスト教国は,どのように神の言葉を否認してきましたか。誰を支持するために? キリスト・イエスとはどのように似ていませんか。
7 全能の神ヱホバの裁きから逃れて後に退くことはできません。キリスト教国は自らの教えによつて神の御言葉を棄ててしまいました。そして,この悪い世の政治と行動を共にしてきました。それを支持しているからです。国際連合制度を全く支持しているキリスト教国は,明らかに神の御国にくみしていません。キリスト教国はイエスに似ていません。イエスはピラトにこう語りました,『わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従つている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦つたであろう。しかし,事実,わたしの国はこの世のものではない』(ヨハネ 18:36)キリスト教国を試みてそれを清くすることはできません。その中には真実に価値ある良いものが一つも無いのです。神の御国はこの世から来ません。しかもキリスト教国はこの古い悪しき世と妥協を重ねてきました。ダビデの書いたことに注意して下さい,『ヱホバよ,なんぢは我をさぐり我をしりたまえり。なんぢわが心をこころみ,また夜われにのぞみたまえり,斯くてわれを糺し給えど我になにの悪念あるをも見出たまわざりき,わが口はつみを犯すことなからん』(詩 139:1; 17:3)キリスト教国はこれを言うことができますか。できません!
8 ヱホバに愛と奉仕を捧げない人々に対して,すべてのクリスチャンはどんな態度をとるべきですか。
8 世界のどこにいてもクリスチャンと名乗る人はすべてダビデやキリスト・イエスと共に次のことを言い得なければなりません。『ヱホバよ,われは汝をにくむ者をにくむにあらずや,なんぢに逆いておこりたつものを厭うにあらずや。われ甚くかれらをにくみてわが仇とす。神よ,ねがわくは我をさぐりてわが心をしり,我をこころみてわがもろもろの思いをしりたまえ。ねがわくは我によこしまなる途のありやなしやを見て,われを永遠のみちに導きたまえ』(詩 139:21-24)正義を愛する者,真のクリスチャンは清い人々の清い世界に住みたいと望んでいます。これは今日どのように出来ますか。忠実な男女,義を行い心に真実をいう人々と交わるのです。―詩 15:2。
9,10 (イ)試練に遭つて忠実を守つたどんな昔の例がありますか。(ロ)現代において,そのように忠実を守る人々が見られますか。
9 忠実の試錬はかならず来ます。ダビデの先祖アブラハムが受けた試錬を見てごらんなさい。『是等の事の後,神アブラハムを試みんとて』(創世 22:1)アブラハムはその独り子イサクを犠牲に捧げるように命ぜられました。アブラハムが忠実を表わして従つたゆえに,ヱホバはイサクの代りとなる小羊を与えられたのです。後に御自身の民イスラエルの荒野の旅を導かれたとき,ヱホバはイスラエルの民を試みました。『汝おぼゆべし汝の神ヱホバこの40年の間汝をして荒野の路に歩ましめたまえり是汝を苦しめて汝を試み汝の心の如何なるか汝がその戒しめを守るや否やを知らんためなりき。……汝の先祖等の知らざるマナを荒野にて汝に食わせたまえり是みな汝を苦しめ汝を試みて終に福祉を汝にたまわんとてなりき』(申命 8:2,16)試みは必要です。しかし,忠実と忍耐は幸福な報いです。今日,献身した神の民の幾人が今の悪い時代に忍耐し,最後まで忠実を守るでしようか。誠実を保ち忠実を守る人々は救われます。イスラエル人の場合のように,外の何物にもまさるヱホバへの愛を証明するための40年間は長い年月です。私たち各人を考えたとき,それだけ長い試みに耐え得る人がいますか。ヱホバの裁きの日である今日においても,多くの人はそうしてきました。忠実の試練に耐えることは生命を意味します。それゆえにアブラハムは息子の生命を長らえさせたのです。イスラエル人は乳と蜜との流れる土地に入りました。あなたは神の新しい世に生きるでしよう。
10 あなたは熔鉱所の金のように精錬されて,純粋の金だけが残るようにカスを取り去つてもらうことを喜びますか。ある人々はその過程を経て最後に『宜いかな,善かつ忠なる僕』と是認されました。他の人々はマラキが述べたように今なお清められつつあります。『かれは銀をふきわけてこれを潔むる者のごとく坐せん彼はレビの裔を潔め金銀の如くかれらをきよめん而して彼等は義をもて献物をヱホバにささげん。その時ユダとエルサレムの献物はむかしの日の如く又先の年のごとくヱホバに悦ばれん』(マラキ 3:3,4)何千人のエホバの証者は,ダビデが述べマラキが描写したような清め,焼きつくす火による清めを経てきました。ロシヤ,ポーランド,チエコスロバキヤ,その他どこでも鉄のカーテンの背後で共産主義の全体主義支配の下で迫害に苦しんでいる人々と同じく,あなたは熱に耐え忍ぶことができますか。カトリックの支配するドミニカ共和国のエホバの証者を見てごらんなさい。彼らは神の御国を伝道し,ヱホバの証者としての立場をとつたために,打たれ,苦しめられ,投獄されたのです。ドイツ,イタリー,ノルウエーその他,ナチスやフアシストの支配者の破壊的な軍勢に侵略された国々において,他の人々は忠実を守り抜き,また今でも守つています。この世界のどこに住んでも,真のクリスチャンであることは安易なことではないのです。私たちの忠実を破ろうと,敵はさまざまな手だてをつくしており,私たちはそれに耐えねばなりません。
11 今日,私たちの忠実を強く確信させるのに役立つものは何ですか。
11 むかし,ダビデは彼をしらべ,こころみ,清めて下さいと彼の父に求めました。今日,私たちは自分の真直ぐなこと,自分の忠実をそれほどに強く確信していますか。ダビデのように物事を見ているなら,また,キリスト・イエスの足跡に従つているなら,そうあるべきです。そして,次のように言うことでしよう,『そは汝のいつくしみはわが眼前にあり,我はなんじの真理によりてあゆめり』(詩 26:3)ヱホバの御業,ヱホバの御心のうちにある御目的,ヱホバがなされたこと,なされていること,御自分を愛する人々の祝福のためになされようとしていること,人がこれらの事を認識するとき,ヱホバの過分の御親切を本当に感謝します。人類を贖うため,天から独り子キリスト・イエスを地に遣わされたヱホバの愛をごらんなさい。しかし,イエス・キリストは贖う以上のことをされました。イエスは忠実を保つことによつてヱホバの御名を立証し,正義の新しい世の王とされたのです。望むなら,あなたはその新しい世に住むことができます。どのように? 聖書に親しみ,その真理を注意深く読み取り,真理によつて生活するのです。キリスト教国の何百万人が祈り求めてきた神の御国に生命を得るため,これは必要です。『御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように』(マタイ 6:10,新口)ヱホバの御国を常にあなたの眼の前に置き,真理の中に歩みなさい。そうすれば,あなたは神の新しい世で生命を楽しむでしよう。
12,13 エホバの御前にあつて,罪のない状態を保つため,誰と交わりますか。また,誰を避けますか。
12 できるなら何時でも,何処でも御国の良いたよりを伝道し,教えなさい。そのことをしている人々と交わりなさい。そのとき,あなたは悪しき人々から離れているでしよう。あなたは忠実を守るのに忙しく励んでいるからです。すべて真理を学んで正しい道をとり,以後生命をヱホバの奉仕に捧げる人は,ダビデが為したと自ら語つていることをします。『われは虚しき人とともに座らざりき,悪をいつわりかざる者とともにはゆかじ。悪をなすものの会をにくみ悪者とともに坐ることをせじ。われ手をあらいて罪なきをあらわす,ヱホバよ斯てなんじの祭壇をめぐり』― 詩 26:4-6。
13 忠実なクリスチャンはその歩む道を定めています。彼らは虚偽の人と共に座らず,御国を伝道する以外には,この世の人と長く論議しません。ヱホバの証者はこの世の関心事を彼らの関心事にしませんでした。彼らには為すべきもつと大きな,もつと重要な業があります。悪しき者の謀りごとに歩み,その企てを支持する人々の終りは常にみじめな滅びです。『悪しき者の謀略にあゆまず,つみびとの途にたたず嘲るものの座にすわらぬ者はさいわいなり。かかる人はヱホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもう』(詩 1:1,2)あなたはこれと同じ道を定めましたか。あなたは何れの道を歩みますか。忠実の道をとりなさい。
憎まれた『悪しき者のつどい』
14,15 牧師の多くは,忠実でないことをどのように示してきましたか。ヱホバの御手から受ける彼らの報いはなんですか。
14 今日のキリスト教国の指導的な学者たちが聖書の翻訳から神の御名を取り除いてしまつたことを御存じですか。ヱホバという真の名を人々から隠すことは,真の崇拝を取り除こうとすることです。今日,多くの牧師は,教会の説教壇に立ち,創世記の創造の記録を否定します。彼らはむしろ好んで人々に進化論を教えるのです。なかにはキリスト・イエスの犠牲の価値を否定し,それには何の贖う価値もないと言う牧師さえあります。彼らは神聖らしく見せかけて人々から称讃を受けることを好みますが,ヱホバの祭壇をめぐることを望みません。イエスは次のような言葉で彼らのことを述べました,『あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であつて,その父の欲望どおりを行おうと思つている。……彼は偽り者であり,偽りの父であるからだ』(ヨハネ 8:44,新口)この類の人々を知つていたダビデは適切な言葉を述べました。『人はみな偽りをもてその隣と相語り,滑らかなる唇とふた心とをもてもの言う。ヱホバはすべての滑らかなる唇と大いなることを語る舌とを滅ぼしたまわん。彼らはいう,我ら舌をもて勝をえん,この唇はわがものなり誰かわれらに主たらんやと』(詩 12:2-4)彼らはヱホバの御名を隠して,その為していることを誇つているのです。しかし,彼らは何という報いを受けることでしよう!
15 大多数の牧師とその追随者は,ヱホバの御名を妄に口にしてきたか,あるいは全く捨てました。このような聖書の翻訳者が出エジプト記 20章7節を翻訳したとき,一体何と考えたことでしよう。『汝の神ヱホバの名を妄に口にあぐべからずヱホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし。』牧師たちはかならず罰せられるでしよう。彼らを心において詩篇記者は祈りました,『かれらの顔に恥をみたしめ給え,ヱホバよ然らば彼ら汝の御名をもとめん』― 詩 83:16。
16 (イ)世の友となることは何を意味しますか。それで,クリスチャンは何をしなければなりませんか。(ロ)その正体を隠そうと努めているキリスト教国は,誰にたとえられていますか。
16 真のクリスチャンがダビデのような忠実を持つには,キリスト教国やこの組織制度と決して交わつてはならず,この世の友となつてはなりません。イエスの弟子,ヤコブは述べました,『不貞のやからよ。世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである』(ヤコブ 4:4,新口)次のことがはつきりと述べられているのも,これが一つの理由なのです。『わたしの民よ。彼女から離れ去つて,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ』(黙示 18:4,新口)偽善のキリスト教国は,イエス時代の宗教指導者がしたように,その正体を隠そうと努めています。『偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが,内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず,杯の内側をきよめるがよい。そうすれば,外側も清くなるであろう。偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。あなたがたは白く塗つた墓に似ている。外側は美しく見えるが,内側は死人の骨や,あらゆる不潔なものでいつぱいである。このようにあなたがたも,外側は人に正しく見えるが,内側は偽善と不法とでいつぱいである』(マタイ 23:25-28,新口)彼らはその正体を隠そうと努めました。キリスト教国の指導者も今日同じことをしています。彼らを避けなさい。
17 詩編記者と似て,真のクリスチャンの態度は何ですか。
17 次のことを述べた詩篇記者のようでありなさい。『あしき人また邪曲を行う者とともに我をとらえて曳きゆき給うなかれ。かれらはその隣に平和を語れども心には害いを抱けり』(詩 28:3)真のクリスチャンが持たねばならない態度は『悪をなすものの会をにくみ』ということです。―詩 26:5。
18 『われ手をあらいて罪なきをあらわす,ヱホバよ斯てなんぢの祭壇をめぐり』と言い表わしたダビデの言葉はどのように意味深いものですか。
18 ヱホバの祭壇の前で崇拝できるように,ダビデ王はヱホバの前にあつて清い手と罪のないことを欲しました。『われ手をあらいて罪なきをあらわす,ヱホバよ斯てなんじの祭壇をめぐり』と言いあらわしたダビデは,祭壇の近くに置かれて祭司が手足を洗うのに用いた銅の鉢を心に考えていたのでしよう。神の律法は祭司について述べていました,『彼らは集会の幕屋に入る時に水をもて洗うことをなして死をまぬかるべし。また壇に近づきてその務めをなし火祭をヱホバの前に焚く時もしかすべし。すなわち斯その手足を洗いて死を免かるべし。これは彼とその子孫の代々常に守るべき例なり』(出エジプト 30:19-21)しかし,ダビデは,神の真理によつて清められた道徳的に清い手を持つことを望んだのです。
19 今日,真のクリスチャンはどのように手を洗つて罪のないことを表わしますか。
19 ヱホバの祭壇によつて表わされていた崇拝の場所に今日来る人は,誰でも清くなければなりません。この世の生活とその汚れた活動に染まつて汚れていてはなりません。ヱホバの祭司たちが昔にしたことの実体を,真のクリスチャンはいま行わねばならないのです。ヘブル人のクリスチャンに清さのことを話したとき,パウロはこう語りました。『心はすすがれて良心のとがめを去り,からだは清い水で洗われ,まごころをもつて信仰の確信に満たされつつ,みまえに近づこうではないか。また,約束をして下さつたのは忠実なかたであるから,わたしたちの告白する望みを,動くことなくしつかりと持ち続け,愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか』(ヘブル 10:22-25,新口)クリスチャンはこの終りの日に集まらなければなりません。しかし,常に清い崇拝を行わねばならず,それは,一生にわたる毎日の生活を含むのです。
20 どのように,ヱホバの証者は正しい清い道に歩みつづけますか。
20 ヱホバの証者のなす崇拝は,一週にただ一度集まつて愛と善い業に励まし合うことだけに限られていません。集会に出席していても御国会館から離れていても,一日中そして毎日彼らは神を崇拝する者でなければなりません。クリスチャンとなつて後,人はキリスト・イエスの血によつて洗い清められたのですから何時も清くしていなければなりません。二度目に洗い清めるために,キリストが再び死なれるという事はないのです。クリスチャンとなる多くの人々は淫行,偶像崇拝,貪欲,泥酔などを行つて悪しき者と共に歩んでいました。しかし,パウロはコリントの会衆に述べています,『しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によつて,またわたしたちの神の霊によつて,洗われ,きよめられ,義とされたのである。』(コリント前 6:11,新口)ダビデのように,私たちは清い心をもつて手を洗い,悪魔の組織から離れて清いこと,真の崇拝に献身していることを誰にでも示さなければなりません。私たちは世にいますが,世の一部ではなく,世の罪の汚れを持つことはできません。ピラトでさえも,キリスト・イエスの死に対して責任を負うことを欲しなかつたのです。怒り立つているユダヤ人の群衆を前にして,ピラトは当時の宗教家に罪を負わせました。ピラトは水をとり,不義を愛する者たちの前で手を洗つてこう言ったのです,『この人の血について,わたしは責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』(マタイ 27:24,新口)しかし,彼はダビデのように清い心を以て手を洗うことが全くできませんでした。
21 キリスト・イエスに匹敵する業をなして,今日ただ一人目立つているのは誰ですか。彼らの音信は何ですか。
21 その悪しく汚れた生活によつてヱホバの崇拝を汚したことに対しては,キリスト教国もまた全責任を負わねばなりません。しかし,ヱホバの証者について言えば,彼らは手を洗い,真のクリスチャンとしてキリスト教国と何の係わりも持たないでしよう。ヱホバを真に崇拝することができるために,彼らはこの立場をとらなければならないのです。偽りの崇拝を行う者から離れることによつて,私たちは『感謝のこえを聞えしめ,すべて汝の奇しき御業をのべつたえん。ヱホバよ,我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ』ことができます。(詩 26:7,8)エデンの園における人間の創造から楽園の地に全人類が回復するに至るまでのヱホバのすばらしい御業を,ヱホバの証者は感謝の心を抱きながら喜んで知らせています。すべての宗教から離れていたキリスト・イエスは,天の御国が近づいたことを宣明したという点で並ぶ者がありませんでした。それと同じく,今日神の御国を宣明しているのはヱホバの証者だけなのです。ヱホバの証者が世界に告げていることは,今がこの悪しき組織の終りの日であつて,義をもつて治める新しい政府が始まるという事です。良いたよりをすべての善意者に知らせるためには,人々の家で多く伝道し,家の人自身の聖書を用いて教えることが必要です。その人々と研究し,彼らの「感謝の声を聞えしめ」て下さい。
罪人と共に取り去られることを避ける
22 罪人の最後はどんなものですか。聖書の歴史はこのことをどのように証明していますか。
22 ダビデは語りました,『願わくはわが魂を罪人と共に,わが生命を血を流す者と共に取収めたまうなかれ。かかる人の手には悪しきくわだてあり,その右の手は賄賂にてみつ』(詩 26:9,10)聖書を研究する人が明瞭に理解しているように,ヱホバは悪しき者を滅ぼそうとされています。ヱホバは以前ノアの時代にも滅びをもたらしてこの事をされました。そのとき,ヱホバは人々の罪深さのゆえに洪水をきたらせて堕落した人々を滅ぼされたのです。また,ソドムとゴモラにいた人々を拭い去りました。神はイエス時代の学者,パリサイ人を裁いて罪に定めました。彼らは血を流す者であつたからです。ユダの右の手は賄賂にみちていたために,彼はゲヘナに罪せられました。後にアナニヤは偽りのために打たれて死にました。そして,ユダは『不信仰な人々が……わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え』と書きしるしています。(ユダ 4)今日,大抵の人々そして彼らの支配者は,生命の神聖さをもはや尊重していません。大企業に支持されている牧師や政治家は,平和,平和!と叫びながら,一方では戦争の準備をますます大規模に行つているのです。人類の滅亡はこの時代における彼らの話題となつています。このような組織制度と少しでも関係を持つことは賢明ではありません。『愚かなる者の友となる者はあしくなる』からです。(シンゲン 13:20)血を流し,放縦で賄賂を愛するこのような者の終りは,ハルマゲドンの戦いにおける滅びです!
23 他方,正しいことを確信している人々に対する約束は何ですか。
23 他方,自分が正しいという確信をもつ人々は,ダビデや献身してキリスト・イエスの真の追随者となつた人々と同じようです。彼らは次のように言えます,『されどわれはわが完全によりてあゆまん。願わくは我をあがない我をあわれみたまえ』(詩 26:11)これは,我を悪しき者から救い,我をあわれみたまえ,と言うのにも似ています。神はモーセを通してイスラエルの人々をエジプトから救い,つまり贖われて,彼らを約束の地に導かれました。ヱホバはより大いなるモーセ,キリスト・イエスを人類に与えられました。人々を贖うためのヱホバの賜物としてイエスを受け入れるなら,キリスト・イエスは全人類の贖い主です。キリストが地上にあるあいだ行われた奇蹟を見るとき,私たちは,御国の準備の下で人間が楽しむ更によい完全な生命のことを考えます。地上のキリストが病気の人をいやし,盲人の眼を開き,死人さえも甦えらせたのであるなら,天にも地にもすべての力を持つキリストは御父の御心に従つて完全な新しい世をたしかに作ることができます。
24,25 救いの軌跡はいつ起こりますか。神の真の僕たちは何を待ち望んでいますか。
24 ハルマゲドンの戦いのとき,大きな奇蹟の救いがなしとげられるでしよう。そのとき,エホバは悪しき組織制度を完全に滅ぼされ,それと同時に忠実な人々の生命を守ります。エホバはそれらの人の愛のある親切な行いのゆえに彼らを記憶されます。今日,忠実を守る神の僕たちはネヘミヤと同じように感じています。私たちは神の民を清める時に生きているからです。ネヘミヤは語りました,『わが神よ此事のために我を記念い給え。我が神の室とその職事のために我が行いし善事を拭い去り給わざれ』― ネヘミヤ 13:14。
25 神の真の僕すべてが望むことは,正しい崇拝をつづけ,忠実を保つてハルマゲドンの戦いに贖われる,すなわち救われることです。彼らの望みは,不和,戦争,利己主義,腐敗がもはやない時,そしてすべての人がエホバ神を讃美し,エホバ神を祝福する時が来るのを見ることです。全能の神の大いなる日の戦い ― ハルマゲドンの後に,そのことは完全に見られるでしよう。すべて真のクリスチャンは,信仰によつてその幸福な日を待ち望み,それを目ざして励み努めます。しかし,その日の標準に従つた生活をいま始めるのです。
26 国々は互にどんな態度をとつていますか。このような態度は,なぜ愚かなものですか。
26 すべての人は諸国家の中にあつて苦しい世界に旅をつづけています。諸国家は憎みあい,そのすべては全く国家主義的で自分の国が他のどの国よりもすぐれていると考えているのです。自分の国だけが存続する権利を持つとさえ考えている国があり,従つて彼らは他の国家を滅ぼそうと狙つています。なぜ,人間は皮膚の色,言葉,体の大きさの違いを越えて隣人と一つになることが出来ないのですか。私たちすべての創造主は御一人であり,私たちはすべて兄弟であつてアダムとエバの子孫なのです。そしてすべての人はやがて唯一の神を崇拝するのです。私たちは唯一の神を見出さねばなりません! 神の言葉,聖書をひもとき,神について読むなら見出すことができます。ヱホバの証者は人々にヱホバを知らせようと真心をもつて努力しています。そして,知らせることができるなら,神を知るようになつた人々が間近い新しい世において幸福な新しい生命を得ることになるのです。
27 ヱホバの証者にとつて,今はどんな時ですか。
27 忠実を守る男女が『平坦なるところ』に立つ時は今です。それは開けた場所であつて,つまづく恐れはもはや無く,真の崇拝をつづけることの出来るところです。ゆえに神の民のすべてと共に,全く幸福な彼らはダビデと同じように言えるのです。『わが足は平坦なるところに立つ,われはもろもろの会のなかにてエホバを讃めまつらん』― 詩 26:12。
28 この心の態度を持つエホバの証者は,世界の有様についてどんな見方をとりますか。彼らはどのように確信を示しますか。
28 今日,ヱホバの証者は164の違つた国,土地,海洋の島々に散らばり,良いたよりの伝道者は70万人以上を数えています。彼らは平らなところに立つており,この悪しき組織制度が最終的に滅ぼされて神の正義の新しい世が全く設立されるのを待ち望んでいます。その日がくるまで,彼らは集まつた群の中にあつて平らなところに立ち,ヱホバを讃美します。悪しき者の手によつてどんな災や迫害が来ようとも,彼らはこう言いつづけるでしよう,『されどわれはわが完全によりてあゆまん』(詩 26:11)彼らは地のはてにまで行き家から家に歩いて伝道するばかりでなく,人々の家に招じ入れられた時には,そこで人々に真理を教えます。彼らの願いは全国民の中から正義を愛する羊のすべてを集めて,その人々もまた集まつた群の中でヱホバを讃美するのに加わることだからです。これらの人々も自分が真直ぐであるという確信を得なければなりません。1958年のあいだ,あなたの忠実のうちに歩んで,あなたはこれらヱホバの讃美者の一人となりますか。