あなたの立場を守りなさい
『われ汝を教え,汝をあゆむべき道にみちびき,わが目をなんじにとめてさとさん。』― 詩 32:8。
1 ヱホバとの関係を持つ自分の立場を考慮することは,なぜ大切ですか?
宇宙の大創造者ヱホバは,生命を持つものでも持たぬものでも,すべてのものに対する正しい立場を知つております。ヱホバは万物を創造なされただけでなく,また万物の立場をも創造されました。人は,頭の良い悪いにかかわりなく,ヱホバと人との関係,そしてヱホバが人のまわりに置かれた他の多くの事物や生物とヱホバとの関係を毎日深く考えることによつて益を得ます。そうすることにより,人はヱホバの尊貴と誉と偉大さを心から悟ることができるようになり,かつこのすばらしい宇宙内にあるヱホバの大制度中の自分の立場を求めて見出すことができるようになります。
2 詩篇を書いた人は,ヱホバの偉大さと御業の関係をどのように示していますか?
2 詩篇を書いた人は,このことをいたしました。なお,その言葉は私たちの益のため,詩篇 104篇に記録されています。初めの節では,ヱホバの偉大さの故に,ヱホバを讃めることは必要であると述べられています。『わが魂よヱホバをほめまつれ,わが神ヱホバよ,なんじは至大にして尊貴と稜威とを衣たまえり。なんじ光をころものごとくにまとい,天を幕のごとくにはり。』(詩 104:1,2)ヱホバは天を『幕のごとくに』はつて,配置したと述べることにより,この詩篇を書いた人は,ヱホバの偉大さと事物を配置される御業とを結びつけています。
3,4 ヱホバにより場所を設けられたもののいくつかを述べなさい。
3 天を張ることは,多くの特質を持つヱホバの大配置の業の初まりに過ぎません。私たちの益のために,その詩篇はさらに天の御使から地上の動物および無生物にいたる多くのことがらを記しています。『水のなかにおのれの殿の棟梁をおき,雲をおのれの車となし,風の翼にのりあるき,かぜを使者となし,焔のいずる火を僕となしたもう。ヱホバは地を基のうえにおきて永遠にうごくことなからしめたもう。』(詩 104:3-5)今日は,人間の持つている非常に強力な破壊武器により,地を破壊するという社会不安と脅威が存在しています。この時,ヱホバが空間の基の上に地を置き,そして『永遠にうごくことなからしめたもう』よう定められたと聖書の指摘していることは,注意すべき重要な事柄です。この詩篇を書いた人は,地球創造の歴史について詳しく知つており,そして地上に起きたノアの時の洪水について書きました。その洪水の結果,地の外形は変化し,現在のような聳え立つ山々や深い大海を持つ地が生じたのでした。それは6-9節に記されています。『衣にておおうがごとく大水にて地をおおい給えり。水たたえて山のうえをこゆ。なんじ叱咜すれば水しりぞき,汝いかづちの声を発てば水たちまち去りぬ。あるいは山にのぼり,或は谷にくだりて汝のさだめたまえる所にゆけり。なんじ界をたてて之をこえしめず,ふたたび地をおおうことなからしむ。』水に界を定めて,その場所に留まらせたヱホバの力が,正しく認識されていることに注意しなさい。
4 水は植物に水を与え,すべての生物に飲料水を与えるため,海中だけでなく,地の全地でも必要なことは言うまでもありません。ヱホバは山の高いところにも水の場所を設け,地の全地にいる他の創造物の益を図られました。『ヱホバはいづみを谷にわきいだしたもう。その流は山のあいだにはしる。かくて野のももろもろの獣にのましむ。野の驢馬もその渇きを止む。空の鳥もそのほとりにすみ,樹梢の間よりさえづりうたう。』(詩 104:10-12)水は,生命にとつて是非必要なものの一つですが,その水の供給をヱホバが正しくなされているのを観察することにより,大いなる智恵と調和は人に啓示されます。
5 地のいろいろの場所にいる生物のため,ヱホバはどのように食物を供給しますか?
5 生命を支えるには,水とともに食物も必要です。水と地が合して作用するとき,野菜や植物は生長し,食物を豊かに供給します。『ヱホバはその殿よりもろもろの山に水をそそぎ給う。地はなんじのみわざの実によりて飽き足りぬ。ヱホバは草をはえしめて家畜にあたえ,田産をはえしめて人の使用にそなえたもう。かく地より食物をいだし給う。人のこころを歓ばしむる葡萄酒,ひとの顔をつややかならしむる油,人の心を強からしむる糧どもなり。』― 詩 104:13-15。
6,7 その他に何がそれぞれの正しい場所にいると,詩篇記者は述べていますか?
6 詩篇を書いた人は,生物のために水や食物を配置したその素晴らしさと完全さにつき,深く考えて書きましたが,その後に,いろいろの場所の特定の動物や鳥の配置について,その認識と理解を示しました。今日にいたるまで,これらの動物や鳥は同じ棲息地に住んでいます。『ヱホバの樹とその植え給えるレバノンの香柏とは飽き足りぬべし。鳥はその中に巣をつくり,鶴は松をその棲とせり。高き山は山羊のすまい,磐石は山鼠のかくるる所なり。』― 詩 104:16-18。
7 他の被造物にも注意は向けられ,それらが間ちがうことなくつねに正しい場所にいる驚異は,詩篇を書いた人の注意を惹いています。それは太陽と月です。『ヱホバは月をつくりて時をつかさどらせたまえり。日はその西にいることをしる。』(詩 104:19)非常に長い年月のあいだ,ヱホバは太陽や月だけでなく,無数の幾十億という星と遊星をそれぞれの場所に正しく保たれました。1秒も狂わない程正確な時計でさえも,太陽や月によつて調べることができます。
8 夜と昼のあいだに,どんなちがつた活動が行われますか?
8 昼から夜の暗みへと日が進んで行くにつれ,地上には非常に多く変化した活動が起ります。『なんじ黒暗をつくりたまえば,夜あり。そのとき林のけものは皆しのびしのびに出で来る。わかき獅ほえて餌をもとめ神にくいものをもとむ。日いづれば,退きてその穴にふす。人はいでて工をとりその勤労はゆうべにまでいたる。』(詩 104:20-23)ヱホバは,人間,動物,鳥,魚,植物,水,地,太陽,月,遊星,星,山,谷,川,その他をそれぞれの場所に配置し,かつ特別な割当または仕事を与えて,目的と配置は完全に織り合わされています。私たちはその詩篇を書いた人の結論に,達せざるを得ません。『ヱホバよ,なんじの事跡はいかに多なる。これらは皆なんじの智恵にてつくりたまえり。』― 詩 104:24。
神の鋭い洞察力
9 これらの創造の驚異から,人は何をすべきですか? 人はそうしていますか?
9 この詩篇 104篇を書いた人は,さらに創造についての多くの調和と驚異を指摘しています。しかし,前に述べた事実からも人は神についての知識を得,神を讃美しようと欲し,そして正しい崇拝を捧げるべきであります。実際のところ,神を知らないなどという言い訳はできないと,使徒パウロは指摘しています。『神について知るべき事柄は,彼らに明らかであつて,神はそれを彼らに現わされたのである。神の見ることのできない性質,すなわち永遠の力と神なることは,世の創造の時以来,造られたものによつて理解することができ,明らかに見られるのであるから,彼らに言い逃れることはできない。なぜなら,彼らは神を知つていながらも神として崇めず,感謝せず,かえつて彼らの理念に頭は空しくなり,その愚かな心は暗くなつたからである。自分で賢いと言いながら,愚かになり,朽ちない神の栄光を変えて,朽ちる人間,鳥,四足の動物また匍うものの像に似せたのである。』(ロマ 1:19-23,新世)人間は創造された物を見ても,誉と尊貴を持つ大いなる神の存在を,その驚くべき驚異の事実から,学びません。反つて愚かにも,創造されたものを崇拝しました。今日,人は金,力,名誉を崇拝し,これらのものを得るために,あらゆる種類の悪を行いますが,創造者の備えておられる愛の特質を模倣していません。実際に言つて,人は悪行をなし,ヱホバを無視することにより,ヱホバは人間の悪行を見ていないということを,それとなく暗示しています。人間社会の大部分の者は,自己中心の気持から創造者に背き,創造者に注意を払わず,人間の勝手な仕方で物事を行つています。
10 神は人間のすべての行を見ていると,どうして信ずることができますか?
10 ヱホバが彼らを見ているのは真実ですか? 人間の人口は非常に多くなつたため,ヱホバには事態を処理することができませんか? いいえ! 決してそんなことはありません! ヱホバは,そのような弱い神でありません。その智恵と理解は,無限のものです。人間は大きな望遠鏡をつくつて,天にある幾十億という数え切れぬ星の幾万かを数えるとき,非常に賢い者と考えます。しかし,望遠鏡では殆ど見ることのできない銀河系があるのです。ヱホバはすべての星を見て,その数を数えるだけでなく,それぞれの名前で星を呼びます。『ヱホバはもろもろの星の数をかぞえてすべてこれに名を与えたもう。われらの主は大いなり。その能力もまた大なり。その智恵はきわまりなし。』(詩 145:4,5)神に処理し得ない不可能のものはありません。この世における自分の行は重要なものとあなたが感ずるにせよ,感じないにせよ,ヱホバはあなたの行を知つています。小さな生命体のものでも,神は細いところに注意を払われています。頭のまわりに飛び廻つてうるさく感じさせる小さな蚋子や,皮膚のかゆみを起させる目に見えないほどの小さな虫を考えてごらんなさい。それらのものが多くいるということは,生きて行くのに必要で,また多く生殖するのに必要な器官を持つていることを示します。忘れて何かが省かれたなどというものは,ひとつもありません。生きて行くのに必要なすべてのものは備えられています。
11 生命を持たぬものや,下等の動物は,自分の場所から出ることができますか? なぜ?
11 多くのものの創造に示されたヱホバの力を真面目に考えることは,十分意義のあるものです。創造されたものの数は,幾億という多くのものであつても,それぞれの正しい場所にいるようヱホバは取り定めました。生命を持たぬものは,引力の法則,遠心力の法則,その他のようないろいろの自然の法則で制御されています。生物は『類』の法則で制束されています。ある生物が他の族の『類』と交つて,新しいものをつくり出し,ヱホバの備えられなかつた新しい立場を創造することは不可能です。エックス線,ベクレル線,防腐の状態,その他を用いる研究所で人間が努力を払い,宥めてみたり,強制してみたりしても,新しい『類』はまだつくられて創造されて居らず,万物はヱホバの定められた立場を保ち続けています。驢馬はその例外であると考える人もいます。しかし,驢馬自体は『類』ではなく,生殖することができません。十分多くの食物と水を与えて驢馬を放置しておくとき,時が経つにつれ死に絶えます。真実の『類』の生物は,十分の食物と水が与えられるとき,長く生き続けます。
最初に立場を棄てたもの
12 御使については,どうですか?
12 天にいる御使でさえも,神により特定の立場はつくられて,備えられています。御使たちは,勿論生命を持たぬものや植物,動物のような低い創造物に対する法則で制束されません。しかし,御使たちは正しい立場に止まるべきであつて,割り当てられた立場を去るならば,亡びの結果が伴うでしよう。ひとりの御使,ケルブが自分の割り当てを去つたことについて,そしてその結果について,聖書は述べています。その御使は,エデンの園で監督者の割り当てをうけましたが,その割り当てに背き,悪魔サタンになりました。聖書は,その御使が本来持つていた大きな智恵と完全さについて述べ,そしてヱホバの制度の一部として特定の立場に置かれたと述べています。『汝は全く整えたる者の印,智恵の充ち美の極れる者なり。汝神の園エデンに在き。諸々の宝石………汝を覆えり。………汝は油注がれしケルブにして,掩うことを為せり。我なんじを斯なせしなり。汝神の聖山に在り,又火の石の間に歩めり。汝はその立てられりし日より終に汝の中に悪の見ゆるにいたるまでは其行全かりき。汝の交易の多きがために,汝の中には暴逆満ちて,汝罪を犯せり。是故に掩うことを為すところのケルブよ。我神の山より汝を汚し出し火の石の間より汝を亡し去るべし。』(エゼキエル 28:11-16)この御使は,神の制度内の特定な立場を与えられていましたが,神の指示に背いて自分の責務を果さなかつたためヱホバの制度から追放されたと明白に記されています。ある宗教制度は,人々を欺こうと努め,サタンはヱホバの制度から追放されたのではなく,ただその割り当てが変つただけであると信じさせています。そして,サタンはいま『地獄の火』と呼ぶ場所の首であり,赤い服を着け,把叉を持つていて,火を焚きつけていると言います。しかし,聖書はその説を述べておらず,ユダ書 6節(新世)にはこう示されています。『そのもとの地位を保たず,その正しい住家を棄てた御使たちを,神は大いなる日の裁きのために暗やみの下で永遠の鎖りでつなぎ監禁されている。』調和のある宇宙の中には,不一致と不従順に対する場所はないため,自分の立場を棄てることは,完全な亡び,絶滅ということになります。ヨハネは象徴的な言葉を用いて,この事実を啓示しています。彼は悪鬼の悪しき群とすべての悪しき人について書き,それらを象徴的に表わすため『天』と『地』という言葉を用いています。『それから私は大きな白い御座とそれに坐られている方を見た。そのお方の御前から地と天は逃げさつて,あとかたもない。』― 黙示 20:11,新世。
13 ヱホバは事態を制御し得るというどんな証拠がありますか?
13 霊界とこの物質界の両方に現存する大きな制度を亡すことはヱホバにとつて,不可能であると考える人々がいますが,しかしヱホバの使用し得る力をすこし考慮するならば,そのような考え方を変えるべきであります。御使の大軍は,自分の立場にとどまり,神の完全な制度内で割り当てられる仕事を従順に行つています。ダニエルは幻の中で,その数を知ることができました。『彼に仕うる者は千々,彼の前に侍る者は万々』(ダニエル 7:10)ヨハネは,悪の勢力に敵対して戦列についている現在の天の大軍を記して,こう書いています『騎兵の数は一万の二万倍(つまり2億)であつた。私はその数を聞いた。』(黙示 9:16,新世)ヱホバの用いたひとりの御使は,一晩の中に18万5000人の兵隊を亡したという記録を読むとき,そのように多い御使の力を良く悟ることができます。(列王記略下 19:35)一瞬に爆発する原子爆弾は,6万人以上を殺すことができます。しかし,1回爆発すると,爆弾の力はすつかり消耗します。御使は,必要ならば,何度でも亡びの業を繰り返すことができます。幾億という数でこの力が増加され,しかも続けてその力を用い得ると考えるとき,人間の力は神の力と到底比較することはできないと結論せざるを得ません。
14 ヱホバの御力に信頼するとき,悪しき者に対してどんな態度を取りますか?
14 この事柄を良く悟り,そして神は現在の事態を知つておられ,何事も見逃さず見損わないとの事実を良く悟るとき,クリスチャンは悪しき者について過度に心配することはありません。全人類は実際に,多くの御使のごとく,ヱホバから割当てられている立場を去り,心を固くしてヱホバの忠告に従うのを拒絶します。戦場で幾十万という人が死のうと,莫大な金を軍備に用いようと,また今日人間がいかに大きな努力を払おうと,悪しき行をなくすことはできません。むしろ人間の全社会はその固くな道に従つて,ますます堕落しており,貪欲,利己主義,青少年犯罪,不正の収益,腐敗,不従順,不正直,その他の悪い収穫を苅り取つています。神を敬う人は,これらの悪しき人や高慢な人の行について不当に心を乱すことはなく,また悪しき者への罰として来世における永遠苦悩の場所などを考えることはありません。しかし,神は事態を処理することができると悟り,神を待ち望み,心を悩めません。『悪をなすものの故をもて心をなやめ,不義をおこなう者にむかいて嫉をおこすなかれ,かれらはやがて草のごとくかりとられ,青菜のごとく打萎るべければなり。なんじヱホバのまえに口をつぐみ忍びてこれを待ち望め。おのが途をあゆみて栄ゆるものの故をもてあしき謀略をとぐる人のゆえをもて心をなやむるなかれ,怒をやめ,忿恚をすてよ。心をなやむるなかれ。これ悪をおこなう方にうつらん。そは悪をおこなうものは断ち滅ぼされ,ヱホバを待ち望むものは国をつぐべければなり。あしきものは久しからずしてうせん。なんじ細密にその処をおもいみるとも在ることなからん。悪しきものは義しきものにさからわんとて謀略をめぐらし,之に向いて切歯す。主はあしきものを笑いたまわん。かれが日の来るを見たまえばなり。』(詩 37:1,2,7-10,12,13)不完全な人間は,悪をなくそうと努めて,自ら悪を行つています。ヱホバを待ち望む人々は,次のことを信頼し,また知つております。すなわち,ヱホバは悪しき者たちを処分して亡し,栄光に輝く大制度内に悪しき者を決して存在させません。
立場を保つための導き
15 人間は自分の正しい立場が何処であるかを,どのように知り得ますか?
15 約束されているこの清めの業ということから,理智の頭と正直な心を持つ人々は,ヱホバの目から見て自分の立場が,何処であるかを熱心に知ろうと欲します。人を特定な立場に拘束するため,神は自然の法則を持つておられますか? 人間は自分の立場に止まるよう強制されていますか? 人間の立場が何処であり,またどのようにその立場に入り,そしてそこに止まるかについて,聖書は述べていますか? ダビデは,その事柄についての真理を述べ,人間と創造者のあいだには関係があり,人間がその関係に入ることは安全の場所を得ることであつて,保護と救を与えられるものと示しています。『汝はわがかくるべき所なり。なんじ患難をふせぎて我をまもり,救のうたをもて我をかこみ給わん。セラ』(詩 32:7)この詩篇に示されるように,人はヱホバに依り頼んでいるということを認め,その考えを言い表わすとき,ヱホバは次の2節で人間に答え,人間をその立場につけて,守らせるため,実際にどんな取極めをつくられたかを示しています。『われ汝ををしえ,汝をあゆむべき途にみちびき,わが目をなんじに注めてさとさん。汝らわきまえなき馬のごとく,驢馬のごとくなるなかれ。かれらはくつわ,たづなのごとき具をもてひきとめずば近づき来ることなし。』― 詩 32:8,9。
16 人間を導くのに,神はなぜ動物に用いるのとは違う手段を用いるのですか?
16 この2節から,ヱホバは御自分の被造物を知つておられ,その正しい立場を保させるために何を用いるかをも知つていることが明白です。いかなる動物よりも絶対に勝れているすばらしい頭脳を持つ人間にとり,その知力こそ導きを必要とするものであり,かつ人間を指示するのはその知力であります。それで神は,下等動物に対するものと同じ種類の制限を人間に与えず,むしろ助言を与えました。理解力を持つ人は,聖書の多くのところで,神の書かれた御言葉の価値について語り,それは人間を導くもので,歩く途の光であると述べています。ヱホバは詩篇 32篇の前述の聖句の中で,人間を導く手段と馬や驢馬を導く手段とを対照しております。馬や驢馬は非常に劣つた頭脳を持つているため,くつわとかたづなのような力を用いて目的地まで導いて行かねばなりません。しかし神は人間にも同じものを備えられるなどと期待してはなりません。人間は馬よりずつと程度の高い被造物であり,馬よりも勝れた方法で指示することができると,神は必らず知つておられます。それで,人間は馬や驢馬のようになつてはならぬと助言されているのです。ヱホバは人間を強制したり,無理強いしてまでも或る事を行わせません。ヱホバは適当な方法を用います。つまりヱホバは助言を与えます。人間は目で読書したり,耳で聞いたりしてその助言を採り入れ,それから自分の心に保存しておき,その知識を用いて自分の歩む道を定めたり,行為を制御いたします。
17 これは,聖書をどれ程重要なものにしますか?
17 明らかに分るごとく,これは聖書の重要さに多くの強調を置くものです。私たちを助けて,何をどのように行うかを知らせるのは神の備えであります。それにより,私たちは神をよろこばし得るだけでなく,また全宇宙の運行と全く調和する立場に立つこともできます。その備えにより,従順な人類はアダムの持ち得たヱホバとの関係に戻ることができます。もしアダムが神の指示に従順に従つたならば,現在までも生き続け,そして将来にも生き続けるでしよう。それで,今日ヱホバの助言を聞いてうけ入れるならば,永遠の生命という過分の贈物を期待することができます。
18 自分は正しい立場にいると,人はどのように示しますか?
18 たしかに,霊と真をもつて神を崇拝することは,人間の正しい立場であります。世捨人や修道僧になつて,世から孤立したところで,それは不可能です。しかし,大いなる模範者キリスト・イエスは,神の御目的,御性質,そして特質を公やけに他の人に述べ伝えることにより,神への正しい崇拝を捧げ得ると示しました。イエスは弟子のすべてを諭し,忙しく御国の音信を宣べ伝えよ,と話しました。そのために殺されたにもかかわらず,彼自身それを行つて,その忠実さを示しました。神を崇拝することは,毎日の生活で是非必要なものであつて,生命のある限り必要なものです。『われ日ごとに汝をほめ,世々かぎりなく聖名をほめたたえん。』(詩 145:2)それで,人間はいまこの助言をうけ入れ,不従順な驢馬のごとく拒絶したり,停つてしまうことをせず,理智を持つ人間らしく従わねばなりません。人は神を崇拝する方法を求め,かつ隠れ家,救の与え主として神に頼るべきです。
新世社会内の立場
19 どんな社会に交ることは良い事ですか? ハルマゲドンは,それにどんな影響を与えますか? なぜ?
19 いま新しい世の社会と交つている者たちは,全くそのことをなしています。そして,新しい世の社会は神の御言葉をうけ入れてその導きとなし,その御言葉の明らかに示す道に従つていると知つています。そして又,新しい世の社会こそ正しい場所であり,それに悪しき者の全き亡びについての聖書の警告は,新世社会に適用しないことを知つています。悪しき者を亡して取り除くハルマゲドンの戦は,新しい世の社会になんらの変化をも生ぜしめません。新しい世の社会は,自ら進んで正しい立場を取り,亡びをうける理由は全然ないからです。ハルマゲドンの戦で,伝道し続ける必要がなくなることはありません。永遠に語ることによつて,神の御名を讃美することは必要だからです。もちろん,悪しき者はもはや残つていず,悪しき者に語ることはありません。しかし教えねばならぬ子供たちが居り,それに時経て後は,復活をうけて墓からよみがえされる幾百万という人々がいます。
20 私たちの正しい立場を見出して保つために,なぜ努力が必要ですか?
20 いますべての人をすすめて,神権的な助言に従わせることは,まつたく賢明な事柄です。あなたの立場を見出し,それを保ちなさい。いま新しい世の社会と働きなさい。そうすれば,ハルマゲドン後に,新しい世の社会と共に働くことができます。神権的な助言を求めて,それに従うのには努力が必要です。あなたは犠牲をしなければなりません。それは神からのいましめです。『その方(神の子イエス)が私たちのためにその魂を棄てられたことにより,私たちは愛を知つた。それで私たちは,兄弟のために自分の魂を棄てねばならない。』(ヨハネ第一書 3章16節,新世)熱心に聞くすべての人に,神を讃美し,かつ崇拝する必要を語ることにより,兄弟たちへのこの正しい愛と思い遣りを示します。ヱホバの民にとつて,新世社会以外の場所は決してありません。その他の場所は,他の民のものです。その民とは,心かたくなにも,自分自身の考え方に従つて住む場所を求め,そして神に不従順であつた結果を間もなく感ずる民です。
21 クリスチャンが正しい立場にいるため必要な要求のいくらかを述べなさい。これらの要求に対する私たちの態度は,何ですか?
21 いま新しい世の社会と交るすべての者は,その恵みの立場に感謝して,それを固く保つべきです。新しい世の社会と関連して,多くの人は責任の立場を持ち,そしてすべての人は奉仕の立場を持つています。立場を保つために,私たちは霊感をうけて聖書を書いた人々の助言に,熱心に従わねばなりません。真のクリスチャンの歩む道は,この古い世の組織制度と交る人々の歩む道とは,全然違うものです。そして,永遠の立場を保つためには,この違つた道を守らねばなりません。使徒パウロは,特に監督たち,そして一般にはすべての真のクリスチャンたちに対する要求を多く述べています。『それで,監督は非難のない人で,ひとりの妻の夫であり,慎み深く,自らを制し,礼儀正しく,旅人を愛し,教える資格を持ち,大酒を飲まず,騒がず,人を打たず,理性を持つており,人と争わず,金を愛さず,自分の家を正しく治め,全く謹厳の中に,自分の子たちを従順な者に育てている人でなければならない。(自分の家を治めることをも知らない人が,どうして神の会衆を預かることができようか)また,信者になつたばかりの新しい人であつてはならない。新しい信者は,高慢になつて悪魔と同じ裁きを受けるかも知れない。さらに又,外部の人々にも良く言われていなければならない。そうでないと,そしりを受け,悪魔のわなに落ちることになるかもしれない。』(テモテ前 3:2-7,新世)責任の立場を持つていて,新しい世の社会の特別な代表者たちは,パウロのこの助言全部と全聖書に与えられている助言を実行するよう努めるべきです。ヱホバはその助言を記録せしめられ奉仕をする立場がどんなものであろうと,私たちを助けてその正しい立場につけさせるために保存されて来ました。私たちは,クリスチャンにのぞむ義務を避けて,その立場から出ようと努めてはなりません。むしろ,心から進んでその責任をひきうけ,熱心にその責任を果すべきです。
22 聖書はどんな助言を婦人に述べていますか? 男が女の頭の地位につくことは正しいと,この世の人も認めますが,その事はどうして分りますか?
22 会衆内の婦人の正しい立場という事柄についても,聖書の中には充分の注意が払われています。パウロはテトスに手紙を書き,こう述べました『年老いた女たちに,その振舞をうやうやしくし,人をそしつたり,大酒の奴隷にならず,善いことを教える者となるようすすめなさい。そうすれば,彼女たちは若い女たちに,夫を愛し,子供を愛し,慎み深く,純潔で,家事に努め,善良で,自分の夫に従順であるように教えることになり,したがつて神の御言葉がそしりを受けないようになるであろう。』(テトス 2:3-5,新世)今日古い世に属する婦人は,この立場を認めることができません。そのような立場は,自分たちの権利に衝突すると,多くの婦人は感じます。しかし,これはヱホバ神のつくられた取り極めであり,女は自分の夫に服従するときだけ,その正しい立場にいます。女が夫に従わねばならぬとは信じられないと言う人がいるにしても,男でなく女が管理している家庭についての一般の論評から知れるように,神の取り極めの正しいことは認められています。アメリカのそのような家庭では,男はしばしば『妻の尻に敷かれている亭主』または『意気地のない御亭主』と言われ,女は『手に負えない女』と言われます。新しい世の社会に属する婦人は,立場についてのヱホバの取り極めを守り,神をよろこばせようと努めます。そして,会衆を操ろうとしたり,夫の義務を奪おうとは努めません。そうすることは,神の目から見て男になろうと努めることであつて,自分の正しい立場を棄てることです。同じように論ずるならば,新しい世の社会の男は熱心に男の立場を保ち,当然自分のものである事柄を妻に与えようとせず,それに自分の考えや行動を指示して貰うため妻に頼ることはありません。そのようにして,男に割り当てられた立場から外れず,そして神の目から見て女になるのを避けます。
23 すべての人は自分の立場をしつかり保たねばならぬ他の理由を述べなさい。
23 宣教を行いつつ神の助言をみな守り,進んで自分の正しい立場につく人は,キリストの大使となります。そして,正しい立場につくことにより神に和解しなさいと他の人にすすめる充分の資格を持つています。神は宣教により,神を正しくよろこばす方法を多くの人に学ばせています。『それで私たちはキリストの代りの大使であり,神は私たちを通してすすめておられるようである。キリストの代りとして,私たちは願う「神に和解しなさい。」』(コリント後 5:20,新世)宣教を成功させるために是非大切なものは,へりくだつて自分の正しい立場をしつかりと保つことであります。しかもその結果,伝道される他の人だけでなく,自分自身も永遠の生命を得ることができるのです。
24 ある人にとつて,ヱホバの取り極めに従うことは,なぜ難しいものですか?
24 多くの人は,この古い世の名声のため,このことを難しく感じます。多分,高い誇りを持つ為,家から家に生命の神の音信を伝えることができません。仕事の知合や友人が見るかもしれぬと,恐れるかもしれません。あるいは,もつと上の立場を持つべきであつて,自分の仕事は講演の壇上から語り,大きな群を指示することであると感ずるかもしれません。長年のあいだ社会の仕事を行い,男や女の多くの人を監督して来た女の人もいることでしよう。その人が新しい世の社会に来るとき,男の監督に服従するのは難しいと感ずるでしよう。そして自分の持つ能力は重んぜられて,例外が設けられ,他人を指示する仕事を続けることができると感ずるかもしれません。この世の仕事をする際,幾十人,幾百人の人々を上手に指示し得る人もいるでしよう。その人が,新しい世の社会に来るとき,自分よりも低い人の監督を受けるのは難しいと感ずるでしよう。そしてその監督をよろこんでうけません。人々は多くの事情の妨げをうけ,神の完全な制度内における正しい立場に立てません。
神はつくられた割当を保つ
25 人が違つたものを欲するからといつても,神は御自分の準備を変えませんが,そのことについて聖書の中にはどんな例がありますか?
25 しかし,ヱホバは人間のために制度を変えません。神の制度に一致したいならば,私たちが変化しなければなりません。昔ひとりの将軍が,ヱホバの御準備の恵みを受けようと欲しました。その記録は,私たちの益のために書かれているものです。その将軍は,自分の持つ高い地位にもかかわらず,特別の準備がなされないため非常に怒りました。その将軍は,スリアの軍隊の長ナアマンでした。『スリア王の軍勢の長ナアマンはその主君のまえにありて,大なる者にしてまた貴き者なり。是はヱホバ曾て彼をもてスリアに救をほどこしたまいしが故なり。彼は大勇士なりしが,癩病をわづらい居る。昔にスリア人隊を組ていでたりし時に,イスラエルの地より一人の小女を執えゆけり。彼ナアマンの妻に事えたりしが,その女主にむかいわが主サマリアに居る予言者の前にいまさば善らん者を。かれその癩病を癒すならんと言たり。』(列王紀略下 5:1-3)このことは間もなくスリア王の聞くところになり,王は懇篤な手紙をイスラエルの王に宛てて書き,予言者によりナアマンを癒させるように願いました。そして,銀10タラントと金6000および衣服10襲を送りました。取り極めがつくられ,ナアマンは例のごとく馬や車をしたがえ,予言者エリシヤの家の戸の前に立ちました。しかし,エリシヤは戸のところに来ようともせず,また格別騒ぎ立てることもしないで,ただ使を遣して,ヨルダン河に行き,その水で体を洗えと告げたとき,ナアマンは烈火のごとく激怒して去りました。そして自分の国の河の方がヨルダン河の水よりはるかに良いと言いました。聖書の記録は,次のようです。『エリシヤ使を之に遣して言う。汝ゆきて身をヨルダンに七たび洗え。さらば汝の肉本にかえりて,汝は清くなるべしと。ナアマン怒りて去りて言いけるは,我は彼かならず我もとにいで来りて立ち,その神ヱホバの名を呼びてその所の上に手を動かして癩病を癒すならんと思えり。ダマスコの河アバナとパルパルはイスラエルのすべての河水にまさるにあらずや。我これらに身を洗いて清まることを得ざらんやと。すなわち身をめぐらし怒りて去る。』(列王紀略下 5:10-12)ひとりの従者がナアマンに近づき,その気持を静めて言うのに,もしエリシヤが大きな事を為せと命じても,よろこんで行うべきであるのに,ましてこの小さな事をなぜ行わないのですかと述べました。ナアマンはエリシヤの述べた通りに従つたとき,その癩病は全く癒されました。
26 今日どんな準備がありますか?
26 変えねばならなかつたのは,神でなく,その権力を持つ軍人でした。ヱホバは一つの方法で物事を処理され,弱小な人間の利己主義のためにその方法を変えません。今日の人類に対するヱホバの御処置もそれと同じです。ヱホバは,贖の犠牲,『忠実にして慧き双隷』級を持つ神権制度,御自身の民に真理を次々に啓示すること,その他などのすばらしい備えをいたしました。このすべてのものは,謙遜で正直な人に希望を与えます。そして,その希望には,今日永遠の生命に導く霊的な癒しのたしかな根拠が伴つているのです。(マタイ 24:45-47,新世)自分は他の者と違つているとか,あるいは勝つていると考える人に対してヱホバは特別な御準備を設けません。また,特定の人を選んで,特別の啓示を与えるとか,御霊を余分に注ぐこともいたしません。ヱホバは制度の方法で一つの群として民を取り扱われます。そして,群がお互いにどのように働くかについては,御自分の御言葉聖書の中で十分多くの助言を与えております。今日制度が進歩して,霊的に繁栄していることは,このことの真実であることを明白に証明するものです。今日幾十万という人々は,このことを悟つて,ヱホバのつくられる御準備をうけ入れています。そして幾世紀も昔からヱホバを知つた人々が御国とその祝福を待ち望んだと同じく,御国の将来の祝福を待ち望んでいます。
27 神のすべての僕は,どんな一つの事を待ち望みましたか? この結果,すべての僕たちはどんな道を歩みますか?
27 正義のアベルはそれを待ち望みました。エノク,ノア,アブラハム,イサク,ヤコブ,ヨセフ,モーセ,ギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,サムエル,そして予言者たちもそれを待ち望みました。(ヘブル 11:1-40)イエスは,それを祈つて求めよと教えました。(マタイ 6:9,10,33)イエスの使徒や弟子たちはそれを信じて待ち望みました。同じく,今日の多くの人々はそれを信じ,待ち望みます。ヱホバは忠実な人を決して失意させません。ヱホバは,正義の御国で宇宙を支配させるという大きな御目的を変えられず,むしろ幾千年に亘つて,その詳細の取り極めのため常に働いて来られました。それで,人は神を崇拝して,何を待ち望むべきかを知り,しかも失意落胆して希望を変える必要はありません。神の御言葉は「わが足の燈火わが路のひかりなり。」(詩 119:105)彼らはヱホバの指示する道に歩いており,自分の足が堅い平坦な場所に立つていると知ります。
28 ヱホバに依り頼まぬ人は,どんな道を歩かねばなりませんか?
28 これと対照して,ヱホバの助言を求めず,この古い世の組織制度の偉人に依存する人々は,絶えず失望を感じ,その希望は失意に変りました。計画や,同意や,王たちは,次から次に真実の満足をもたらすのに失敗し,そして解決不可能に見える多くの災害や問題をいつも残しています。彼らの足は,陥穴の充ちている凸凹の道を歩んでおり,目標をはつきりと見ることができません。
29 ヱホバの会衆内の立場について,何を言うことができますか?
29 それで,人間にとつて最善のものとは,この古い世の目から見て偉大なものとか人気のあるものではなく,最善のものはヱホバのつくられる取り極めです。ヱホバの民の会衆内の立場は,たとえ低いものに見えようと,それは真実の安全を保証し,価値のある立場です。それは,クリスチャンが求め,かつ得て,それから保たねばならぬ立場です。もしも,次の詩篇を書いた人と同じ心を持つクリスチャンならば,それを行います。『ヱホバよ我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ。願くはわがたましいを罪人とともに,わが生命を血をながす者とともに取収めたもうなかれ。かかる人の手にはあしきくわだてあり,その右の手は賄賂にてみつ。されどわれはわが完全によりてあゆまん。願くはわれをあがない,我をあわれみ給え。わがあしは,平坦なる所にたつ,われもろもろの会の中にてヱホバを讃めまつらん。』― 詩 26:8-12。