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正しい交わりは生命にみちびくものみの塔 1961 | 10月1日
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従ってその異端審問所のこと,野心をとげるために多くの血を流したことを歴史で読んでも驚くにはあたりません。外見は敬虔をよそおっていますが,その生み出したものと,悪い交わりからはっきり分かるように,キリスト教国は神の敵です。「こういう人々はにせ使徒,人をだます働き人であって,キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし,驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから,たといサタンの手下どもが,義の奉仕者のように擬装したとしても,不思議ではない。」(コリント後 11:13-15,新口)クリスチャンの教会あるいは会衆のように見せかけているキリスト教国は人をだます働き人であり,人を神と友なる関係に導き入れるよりは人々を神からひき離しています。
28 正義を愛する社会は今日どこにありますか。その中に住む人々にはどんな希望がありますか。
28 今日のクリスチャン会衆は現代のエホバの証者の新世社会と密接に結びついていますが,キリスト教国とは無関係です。新世社会はクリスチャン会衆と切っても切れない関係にあります。ここにこそ,正義を愛し,1世紀のクリスチャンと同じく神の律法を重んずる社会があります。これこそイエスと同じく世から離れ,イエスと同じく公に伝道し,イエスの如く神の御国を第一に求めてイエスの足跡に従っている社会です。これこそ腐敗した世に住みながらも神と共に歩いている社会です。大きくなりつつあるこの国際的な社会は,正義の人々から成り立っています。その多くは現在の組織制度の終りを生き延びて地をつぐでしょう。「正しい者は国を継ぎ,とこしえにその中に住むことができる。」(詩 37:29,新口)この人々との交わりは永遠の生命に導く正しい交わりです。
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クリスチャンを作りだすには何が必要かものみの塔 1961 | 10月1日
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クリスチャンを作りだすには何が必要か
非キリスト教の国々において宣教のわざをすすめるために,毎年何億円もの金が寄付されています。地球上広範囲にわたり,何千という人々は,この寄付による物質的な益を受け,キリスト教にはいりました。しかし,このような改宗者は本当のクリスチャンですか。その人たちが,キリスト教は自分の宗教だと言う時,その動機は正しいですか。それは試練の時にたえ得るほど強いものですか。1960年5月28日号の「オッタワ・ジャーナル」にのっていた,ひとつの記事は,これらの質問に解答を与えるものです。
フィリピン群島のある人里はなれた所で,宣教者の医師が,非常に憂いに沈んだイゴロート人が道端にすわっているのを目にとめました。その人が,あまりにもみじめに見えたので,その医師は足をとめ,どうしたのかとたずねました。その男は,元気のない調子で,意気消沈しているのだと答えました。どうしてそうなのかと医師はたずねました。翌日,牧師がやってくるのです。とイゴロート人が答えた時,宣教者は,あの牧師なら良い人で,だれをもいじめるようなことはしないから大丈夫だ,と受け合いました。
イゴロート人はすぐ同意して,牧師が好きだと暖く言いました。「それなら,何がいけないのかね」と医師は聞きました。「この前,牧師さんがここに来られた時,私に帽子をくださいました。それで私は,監督派になりました。」「それは,けっこうなことだ。それは良い宗教だよ。」と医師は言いました。
それからイゴロート人は説明しはじめました。それによると少したってからカトリックの司祭がやってきて,ズボンを一着くれたので,カトリック信者になったというのです。「そうだね,カトリックだって良い宗教だよ。」と医師は言いました。イゴロート人は悲しそうに言いました。「カトリックの司祭はもう行ってしまいましたが,監督派の牧師がまたもどってきます。私は彼をがっかりさせたくありません。」イゴロート人が,この問題にぶつかって非常に悲しそうに見えたので,宣教者は最後に,どちらの派を選びたいのかと聞きました。「牧師さんに帽子を返し,司祭さんにズボンを返えし,またただの異教徒になろうと思っています。」と彼は言いました。
これは,次の悲しむべき事実を裏づけている
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