「すべてのみわざを忘れてはならない」
1 詩篇 103篇3-5節はエホバ神のあわれみについてなんと述べていますか。
神のみことばを読み,エホバ神の真の崇拝者であった忠実なダビデ王のようになってください。ダビデはこう語りました。「わたしの魂よ,エホバをほめたゝえよ。そのすべてのみわざを忘れてはならない」。(詩 103:2,新)神ご自身の御旨にかなった人ダビデは,エホバが自分のためにしてくださったことを何一つ忘れたいとは思いませんでした。エホバがダビデのために行なわれた事柄の中にはどんなものがありましたか。ダビデはエホバについてこう語りました。「彼はあなたのすべてのあやまちを許し,あなたのすべての病をいやし,あなたの命を穴の中から再生させ,あなたにいつくしみとあわれみとをもって報い,あなたの命の日を良いもので飽かしておられる」。(詩 103:3-5,新)ダビデは自分が『よこしまの中にうまれ,罪にありてはらまれた』ことを十分に理解していました。(詩 51:5)そして,自分があやまちをする者であることを認め,祈りを通して神に近づき,神の許しを求めました。ダビデは自分が誤った道を離れ,正しい道に転ずる時,エホバが許してくださることを確信していました。彼は自分のすべてのあやまちを許しておられるかたを忘れようとはしませんでした。
2,3 (イ)わたしたちは保健上の忠告に従うにしても,病気そのものはどのようにしていやされますか。(ロ)わたしたちは健康に関するどんな祝福を待ち望んでいますか。イエスはこうした希望をどのように強固なものにされましたか。
2 ダビデは人間のすべての病をいやしておられる神を忘れることができませんでした。人間はほんとうにすばらしく,また驚くべきしくみを備えたものとして造られています。ダビデはこのことを認めていました。彼は自分が見たり,聞いたり,話したり,感じたり,においをかいだりできることを感謝し,また,こうした能力を賢明に用いたいと思いました。彼は自分の心臓と腎臓の健全な状態に心を配りました。(詩 26:2; 7:9)ダビデは病気になった時,自分のそうした状態はアダムの罪とともに受け継いできたものであることを思い返しました。しかし病気の回復はどのようにしてもたらされますか。わたしたちは,「おだいじに」と言います。ダビデも病気の時にはおそらく同じようにしたでしょう。床につき,暖かくし,からだに良い果物ジュースを飲んだことでしょう。当時の医者から何か良い忠告を受けたかもしれません。今日,病をもつ人に対してたいていの医師はどんな忠告をしますか。「寝ていなさい」「もっと休養しなさい」「休暇をとったらどうですか」「もっと運動が必要です」「もっと深く呼吸しなさい」と言うかもしれません。しかし,治癒の仕事をするのはなんですか。ほかならぬわたしたちのすばらしいからだです。エホバ神はからだに治癒の力を与えました。からだそのものが治療をするのです。(詩 30:2; 103:5)ダビデが忘れなかったなら,わたしたちも「すべての病をいやし」ておられるかたを忘れるべきではありません。人類が死にさえ災いされない時代はどんなにかすばらしいことでしょう。新しい天と新しい地が完全に建てられる時について,神のみことばはこう述べています。「神は人の目からすべての涙をぬぐい去られる。もはや死はなく,悲しみも,叫びも,苦痛もない。以前のものは過ぎ去った」― 黙示 21:4,新。
3 ダビデはまた「命を穴の中から再生」してくださるかたを忘れることはできませんでした。ダビデは人間のよわいが70歳ほどであることを知っていました。特にじょうぶな場合でも80歳ほどです。(詩 90:10)やがて死が臨み,人の魂は穴に下るでしょう。しかしダビデはヨブのごとく,死人の復活に信仰をもっていました。ヨブは神が時の限りを定めて思い出してくださることを信じていました。(ヨブ 14:13)イエス・キリストはこうした希望をさらに強固なものとされました。こう言われたからです。「これを怪しむな。記念の墓にいる者すべてが,彼の声を聞いて出てくる時が来る」。(ヨハネ 5:28,29,新)ダビデはこのような信仰をいだき,自分を穴の中から再生させてくださる神を忘れませんでした。あなたはどうですか。
4 エホバのみわざを忘れないという点でダビデが模範であることを述べなさい。
4 ダビデはまた「いつくしみとあわれみとをもって報い」てくださるかたを忘れることができませんでした。ダビデの生涯はきわめて興味深いものでした。彼はかつて善良な羊飼いの少年であり,父親の羊の世話をしていました。まだ若者であった時,彼はイスラエルの王となるため預言者サムエルによって油を注がれました。しかし彼は謙遜な心を捨てず,サウル王の位を奪おうなどとはしませんでした。ダビデは神がサウルに油を注いだことを認め,サウルから迫害されても,エホバが事態を変えてくださる時を待ちました。イスラエル王国はダビデの統治下に発展し,エホバはダビデに対し,その子ソロモンが建てる大きな宮を設計し,そのための資材を集めることを許されました。ダビデにも悲しみと嘆きの時がありました。彼はあやまちを犯しました。しかし自分の神エホバのいつくしみとあわれみにより頼んだのです。あなたの生涯も神のいつくしみとあわれみとをもって報われましたか。あなたもダビデのように「そのすべてのみわざを忘れ」ませんか。
5 神を愛する者が神を忘れないでいるための助けとしてエホバは人類に何を備えられましたか。
5 エホバ神は忘れません。わたしたちはこのことを確信できます。わたしたちは忘れることがあっても,神は忘れないのです。わたしたちは忘れないようにするために,神の聖なるみことばを思い返し,それを絶えず読み,それに聞き従うことを続けなければなりません。これは正しく生きるために肝要です。真理の正確な知識を得,神の御心を行なうために献身し,水のバプテスマを受けたクリスチャンすべては聖書の勉強を続けねばなりません。やがて,文字にしるされた神の法的な定めを十分に学ぶことにより,正邪をはっきり見分けることができるようになるでしょう。聖書は正しい原則と人のとるべき正しい道とを明示しています。しかし神のみことばの勉強をやめるなら,長年神によく仕えてきたクリスチャンでも,神を忘れることがあり得ます。ある人々は故意に神を忘れようとしており,それは良心に対する焼印となっています。―テモテ前 4:2。
6 詩篇 50篇16-18節は今日どのようにあてはまりますか。キリスト教国の宗教が人々の助けとなっていないのはなぜですか。
6 詩篇 50篇の筆者は語ります。「しかはあれど神あしきものに言ひ給はく,なんぢは教をにくみ,わが言をその後にすつるものなるに何のかゝはりありてわが律法をのべ,わがけいやくを口にとりしや なんぢ盗人をみれば之をよしとし,姦淫をおこなふ者の伴侶となれり」(詩 50:16-18)クリスチャンと称する人は多くいます。しかしその人々にはエホバ神の代表となる権利がほんとうにあるでしょうか。神との新しい契約にはいっているなら,なぜ神の教えを憎み,神のことばをうしろに投げすてるのですか。今日,キリスト教国の宗教組織内にある幾百万人の人々およびその偽善的な牧師は,実際に神のことばをうしろに投げすてています。彼らは神のみことばはもう用はないという態度をとっていながら,なおクリスチャンと称しています。人が盗みをしてはならず,結婚した人が姦淫をしてはならず,独身者が淫行をしてはならないことを,彼らは他のだれにも劣らず知っています。しかし彼らの行ないは,『盗人を見ればこれをよしとす』という詩篇作者のことばどおりです。彼らは心の中では自分もそうした盗みをしおゝせたらと思っています。偽りの宗教はみな,姦淫を行なう者とともになっている人々を大目に見ています。あなたはこの点に気づきましたか。そうした人々は懲戒や排斥の処置を受けません。そしてキリスト教国の教会組織の中にあって引き続き「良い」教会員であり,良い地位を保っているのです。以前の配偶者がまだ生きているのに,3回目,4回目,5回目の結婚をする人のことを新聞でなん度読んだことがありますか。そうした人々にとって,結婚は公認された姦淫と化しています。カトリック教会が支配する多くの国で,人はどんな理由があっても離婚できません。それで姦淫を行なう者たちは情婦とたゞ同棲しています。それでも自分の属する不道徳な宗教組織の中で良い立場をもち続けます。したがって偽りの宗教の世界帝国が「大なるバビロン地の淫婦らと憎むべき者との母」と呼ばれていても不思議はありません。(黙示 17:5)あなたはそのような宗教組織に属したいと思いますか。
7,8 神を忘れる者たちは不道徳と不道徳な人々に対する神の見方についてどんな点を見落としていますか。
7 詩篇作者は神を忘れる者たちに対してさらにこう述べています。「なんぢその口を悪にわたす,なんぢの舌は詭計をくみなせり」。(詩 50:19)偽りを語ることはごく普通に見られます。多くの人々はうそをついてもさしつかえないと考えています。これが道徳退廃のはじまりです。宗教と政治と商業が関係した事物の体制における道徳の低下には恐るべきものがあります。健全な道徳心はほとんど見られません。今日のキリスト教国の人々の大部分,またおそらく他の宗教に属する人々の大部分も,神は今日起きている事柄を見ておらず,人間のことに関心をもっていないと考えています。エホバは文字にしるされたご自分のみことばを通してご自身を表わしておられ,いつの日か実際の行動をもって,強力に語られるでしょう。この詩篇 50篇の中でエホバはさらにこう言われます。「汝これらの事をなしゝをわれ黙しぬれば,なんぢ我をおのれにさもにたるものとおもへり,されど我なんじを責めてその罪をなんぢの目前につらぬべし 神を忘るゝ者よ今このことをおもへ,おそらくは我なんぢを抓きさかんとき助くるものあらじ」― 詩 50:21,22。
8 望むなら,「神はいない」,また「神は死んでいる」と唱えることができます。進化論者は「神が存在しないことを立証した」と論じます。しかしそれによって事態が変わるわけではありません。エホバは不道徳な者たちまた『神を忘れる者』たちすべてに対し,ご自分のみことばを通じて大胆に語っておられます。そして彼らをかき裂くことを警告しておられます。全能の神の大いなる日のハルマゲドンの戦いの時にどんなに泣き叫んでも,彼らを救う者はいないでしょう。その時,エホバは義を愛する者たちの祝福のために物事を整えられるでしょう。
感謝をささげる
9 詩篇作者は神を忘れない人についてどのように述べていますか。
9 あなたは神をほんとうに愛し,神のことばを実行し,神のみことばを忘れていない人のひとりかもしれません。そのような人に対して詩篇作者はこう語ります。「感謝の犠牲をさゝげる者はわたしをたゝえる者であり,定められた道を守る者には,神の救いを見させよう」。(詩 50:23,新)あなたはエホバに対し日ごとに感謝をさゝげる幾万もの人々とともに定められた道を守っていますか。家から家に伝道し,義を愛する人々が神のことばを学ぶのを励ますことにより,エホバをたゝえ続けてください。『定められた義の道を守』り続けるなら,さらに多くの人々が日夜エホバの賛美を歌い,エホバの救いを見るようになるのです。
10,11 神を忘れない人は他の者にどのような益となりますか。
10 神を忘れないようにするためにいちばん良い方法はいつも神について考えることです。神の望んでおられることを知り,それを行ないなさい。エホバは詩篇作者を通じてこう言われます。「わが民よ,わが教訓をきゝ,わが口のことばになんぢらの耳をかたぶけよ」。(詩 78:1)そうすることには価値がありますか。益がありますか。それによって何かを得られますか。神の言われることに耳を傾けて聞き,それを実際に行なうなら,報いがありますか。確かにそうです! エホバの御口のことばに耳を傾けるなら,あなた自身が益を受けるだけではありません。それによって別の良い目的も果たされるのです。つまり,「これ来らんとする代 のちに生るゝ子孫がこれを知り みずから起りてそのまた子孫につたへ かれらをして神によりたのみ神のみ わざを忘れず その誡命をまもらしめんためなり」― 詩 78:6,7。
11 今日のキリスト教国には,自分の子供が「神によりたの(む)」ことをほんとうに願っている人がどれだけいるでしょうか。子供の心にそのような神への信頼を教え込む以前に,親自らがエホバについて学び,「神のみわざを忘れ(ない)」ようにしなければなりません。あなたご自身が神の戒めを守り,それを子供に教えないなら,お子さんはどうして神について知るでしょうか。
12 子供に神の戒めを教えるのはだれの責任ですか。なぜ?
12 人間はエホバ神の創造物です。エホバはわたしたちがどのように生活し,どのようにふるまうべきかについては他のだれよりもよく知っておられます。教育者や科学者は子供に生き方を教えることができると考えています。しかし神のことばを信じ,神の戒めを守る親自身がこの点で責任を負っているのです。これを国家にゆだねることはできません。イスラエル人は自分の見聞きした事柄を子供に教え,真理と正義の原則を子供の心に植え込むことを命じられました。国家はこれを行なっていません。そして聖書の助言を自分の子供に教える人は年ごとに少なくなっています。真のクリスャンを自任する人はすべて,「わたしはあなたの命令に心を用い,あなたの道に心を配ります。わたしはあなたの定めを好み,あなたのみことばを忘れません」と言うべきです。(詩 119:15,16,新)この勧めは適切であり,率直ではありませんか。あなたはエホバの定めに心を用いたことがありますか。あなたは神の命令と,正しい生き方のための神の規定とを知りたいと思われますか。普通の生活においてさえ,多くの人々は法律や命令を認め,自分が住む土地の規則を知るようにします。しかしはるかに大切なのはエホバが記録させた律法です。それはわたしたち,およびわたしたちの子供の生活に永遠に関係しています。わたしたちは神の定めを好み,そのみことばである聖書を忘れてはなりません。それをあなたのお子さんに教えなさい。
13 エホバの証人はエホバの言われることに関心をいだいていることをどのように示していますか。
13 エホバの証人はエホバ神の言われることに深い関心をいだいています。証人たちは毎週五つの集会で聖書を勉強します。それによってすべての聖句を覚え,聖書の全体から自由に引用できるようになるわけではありませんが,いつも聖書を読むことにより,エホバが定めておられる人間の生き方,および神の真理と正義の原則を全体的に理解するようになります。そして彼らは他の人々,子供,隣人,そして特に神との関係において,自分がどのように行動すべきかを認識するのです。
14 人間に対するエホバの御心を知ることはなぜ大切ですか。
14 クリスチャンがエホバの御心を知ることは非常に大切です。自分が正邪いずれの道を取るかはクリスチャン各自が決定しなければならないからです。エホバは物事を人に強制されません。事実,人の命つまり人が前途にどのような命をもつかはその人自身の歩み方にかゝっているのです。それで人はあえて神の律法を忘れるべきではありません。人は正邪の区別を知らねばなりません。真理を語ることにより,人はエホバが人の口の自発的なささげ物を喜ばれることを確信するようになります。人は常にエホバ神からエホバの正邪の決定について教えを受けることに深い関心をもつべきです。そして正邪の決定を自分ですることを願いません。正邪の決定をされるのは神ご自身です。そしてそれに服することはわたしたち自身の益になります。正しいことを行なうなら報いがあります。クリスチャンはエホバ神が正しい道,自分の行くべき道を示してくださることを願います。クリスチャンは自分で決定をしなければなりません。他のだれかに代わって決定してもらうことはできません。命の与え主である神に対して各自が責任を負っていることをクリスチャンは知っているからです。
15 アダムとエバはエデンにおいて反逆の道をどのように進みましたか。
15 エデンの園のアダムとエバは自分の命にかゝわる問題をもっていました。エホバはアダムに言われました。「園のどの木からも心ゆくまで食べてよい。しかし善悪の知識の木については,それから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」。(創世 2:16,17,新)神はご自分が創造し,エデンの楽園に置いた最初の人間に対し,生きることをむずかしくされたわけではありません。彼は園にあった他のすべての木 ― そこには幾千本もの木があったでしょう ― から自由に食べることができました。しかし少なくとも当分のあいだ,それから食べてはならない木が一本ありました。神はアダムの創造ののち,その助け手としてエバを創造しました。神は人がひとりでいることをよしとされなかったのです。自分のあばら骨から造られたエバを見た時,アダムは「これこそわが骨の骨わが肉の肉なれ これは男より取たる者なればこれを女と名くべし」と叫びました。(創世 2:23)アダムは神から直接に告げられたことば,つまり善悪の知識の木から食べてはならないという命令をエバに知らせました。しかしある日,ヘビの形をとったサタンが女に語りました。「『あなたがたは園のすべての木からは食べてはいけないと神が言われたのはほんとうですか』。すると女はへびに答えて言った。『わたしたちは園の木の実を食べることができます。しかし園の中央にある木の実を食べることについて,神はこう言われました。「あなたがたは死ぬことのないように,それから食べてはならない。またふれてもならない」』。それを聞いてへびは女に言った。『あなたがたは決して死にません。それから食べる日にあなたがたの目が必ず開かれ,あなたがたが必ず神のようになって善悪を知ることを,神はご存じなのです」― 創世 3:1-5,新。
命は人の決定に依存
16,17 神の戒めに聞き従うという点でアダムとエバはどのような歩み方を選びましたか。それはどんな結果になりましたか。
16 わたしたちはエデンの園で何が起きたかを知っています。そのことに関する記録は創世記の第3章にあります。エバは禁じられた木の実を食べました。それは彼女が善悪を決定する者になろうとしたためです。彼女は神のようになって正邪の決定をし,善悪の決定を自ら行なおうとしました。彼女はすでにはっきりと述べられていたエホバの定めに逆らって行動することを選びました。彼女はエホバの律法に聞き従おうとしませんでした。そして神はエバがその木の実を取って食べることをあえて妨げませんでした。エホバはアダムとエバの双方を倫理的に自由な行為者として創造されたからです。ふたりの命は両人の決定にかかっていました。ふたりは自分の命を自分が望むまゝに扱うことができました。そして何にせよ,自分がまくものを刈り取ることになっていました。エホバは,その御心にそって生活するための健全な助言また良い忠告を両人に与えましたが,ふたりが神の意志に従うことを強制されたわけではありません。選ぶなら,ふたりは神の御心に逆らって行動することができました。同時に神はある木から食べてはならないことをはっきり告げられました。神の律法に従うまいとするなら,アダムが告げられたとおり,両人は死を選ぶ結果となったでしょう。
17 それでこの重大な決定はアダムとエバにかゝっていました。そして倫理的に自由な行為者として,両人は自分の命を自分が望むまゝに扱いました。ふたりは自らと人間家族全体とに死をもたらしました。―ロマ 5:12。
18 人はみな倫理的に自由な行為者であり,すべての人の前にどんな選択の機会がありますか。
18 しかしアダムのこの行為によって,自分で物事を決定する人間の自由が失われたわけではありません。今日でも,地上に存在するすべての人は倫理的に自由な行為者であり,自分の命をもって自分の望む事柄を行なえます。人は神の律法を学び,それに従って生きることができ,あるいはそれに逆らって生きることができます。全知の神のみことばに聞き従い,それにそって生きることが,それに逆らって生きることより賢明なのはいうまでもありません。それで,「あなたのみことばを忘れません」と述べた詩篇作者のようになってください。
19 キリスト教国は悪行に対してどのように自己弁護を試みていますか。しかし,人が正しく歩む助けとして神は何を備えられましたか。
19 エデンの園でサタンが語りはじめたとき,アダムとエバの両人は神の律法をすぐに忘れました。ふたりは「食べてはならない」という神の戒めを退け,禁じられていた実を食べました。あなたは今日,神の律法に対して同じように行動しますか。あなたは自分の決定をする面では,エデンの園のアダムやエバと同じように自由です。問題は,神の律法を無視して決定するかどうかという点です。多くの人々は神の律法を無視しています。その結果は今日の世界的な道徳の混乱です。「彼らをとがめることはできない」と言う人があるかもしれません。しかしそうした人々がキリスト教国をささえており,キリスト教国はもはや姦淫,淫行,同性愛行為などに関する神の律法を教えず,みだらな行為に対してなんら異議を唱えません。キリスト教国は,「神のこれらの律法は今日あてはまらない」と唱えて,自己弁護を試みるかもしれません。それはサタンがエバに語ったことと同じです。それで今日の人々は十戒および他のすべての神の律法をうしろに投げ捨てています。彼らは自由をほしがり,自分の好きかってな所に行こうとしますが,そこに確かな道標はありません。彼らが好もうと好むまいと,道標はすでに掲げられているのです! 神の律法はすでに存在し,人類を助けるためにあるのです。あなたはそれに従い,それにそって生きますか。望みさえすれば,それは可能です。あなたの命はそれにかかっています。
20 (イ)今日の世界にはどんな状態が生じていますか。これはどのような結果に至りますか。(ロ)したがって,クリスチャンの歩み方はどのように異なりますか。
20 地上の諸政府は人々のあいだになんらかの秩序の必要を認めて種々の法律を作ります。しかし学童が反抗し,親が反抗し,労働者が反抗し,国籍の相違による種々の反抗が生じる場合,事態はどうなりますか。今日の世界のいっさいの不穏な事態は,「我々は法律はいらない」と叫んでいます。こうした世界的な無秩序はどのような結果になりますか。それは聖書がハルマゲドンと呼ぶ事態に至ります。(黙示 16:16)神の律法に注意を払い,それを忘れない今日の真のクリスチャンが喜べるのはそのためです。彼らは自分が見る事柄により,今が現存する邪悪な事物の体制の「終わりの日」であることを知っています。それで,聖書を読んだ彼らは仲間のクリスチャンに対し,「これらのことが起こりはじめたなら,あなたがたは身を起こし,こうべを上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからである」と言います。(ルカ 21:28,新)彼らは世界の事態に変化の必要なこと,それがやがて到来することを知っており,神に対し,「御国が来ますように。御心が,天におけるごとく,地にも行なわれますように」と祈ってきました。エホバの証人はこの祈りを信じており,それゆえに天の御国は近づいたと伝道し続けるのです。よく聞き,忘れてはなりません。
21 箴言 3章1,2節の助言は今日および将来,クリスチャンにどのように役だちますか。
21 あなたの命を左右する決定が残されているあいだに,箴言 3章1,2節の助言に従ってください。「我が子よわが法を忘るゝなかれ,汝の心にわが誡命をまもれ さらばこの事は汝の日をながくし 生命の年を延べ 平康をなんぢに加ふべし」。神の律法に聞き従い,それにそって生きていたなら,アダムの命は今日なお続いていたでしょう。事実,聖書の年代表から言えば,アダムの年齢は今や6000年近くに達していたことでしょう。神の国の支配がなんらの対抗者もなく確立され,死人の復活が行なわれ,やがて一千年の統治が終わる時にも,人の命は各人の決定にかゝっていますか。そうです。キリスト・イエスの千年統治の終わりにも,人の命つまり人の魂を左右する問題があります。なぜなら黙示録 20章7-10節はサタンが獄から解かれ,諸国の民を惑わすために出て行くことを述べているからです。それで人おのおのは悪魔サタンにつくか,あるいは神の律法に従うかのいずれかを選ぶことになります。永遠の命は,人類を導くため一千年の終わりに与えられる神の律法に従順であることによってもたらされます。サタンの側を選ぶ者は火の湖つまり第二の死に投げ込まれる悪魔とともに滅びます。それで,『自分の日をながくし,命の年を延べ,安きを加えられる』ことを願うなら,神の言われることに聞き従い,それを行なうのが賢明です。エホバは命の与え主であり,あなたの命を長くするすべをご存じです。エホバに信頼を置き,エホバを信じ,その律法を忘れないなら,それはあなたの「日をながくし,生命の年を延べ」ることになるでしょう。
22 (イ)神のみことばが書かれたのはなぜですか。それでわたしたちの責任はなんですか。(ロ)神のみことばはわたしたち各自にどんな益を与えますか。
22 賢い人のことばに聞き従ってください。「智慧をえ さとりをえよ,これを忘るゝなかれ,また我が口のことばに身をそむくるなかれ」。(箴言 4:5)聖書を読むために二,三年を費やしたのち,神の言われることはみな理解したと考える人がいます。しかしそれは正しくありません。わたしたちは年が進むにつれ,知識と知恵をしだいに増し加えてゆくのです。それに応じてわたしたちの理解はしだいに深くなります。神がご自分のみことばつまり聖書を書かれたのは,「わたしたちの教えのため」という明確な目的があります。(ロマ 15:4,新)したがって,わたしたちはそれを読み続け,真の意味でそれを研究し続けるべきです。知識がふえるにつれ,真のクリスチャンは真理と正義の原則に対する認識をしだいに深めることができます。教えを受けたクリスチャンは迫害その他のむずかしい事態に面してもしっかりと立ち,自分の忠誠を守ることができます。神のみことばはその者を強め,神の見える組織のいずれかの場所で働く御国伝道者,あるいは宣教者,開拓者,巡回のしもべ,地域のしもべとならせるでしょう。神は忠実なクリスチャンが行なっている事柄を見ておられるのです。パウロはこの点を認識し,次のように書きました。「神は不義なかたではなく,これまで聖なる者たちに仕え,なお仕え続けているあなたがたの働きと御名に対して示した愛とを忘れるようなかたではないからである。しかしわたしたちは,あなたがたひとりひとりが希望を十分に確信するため,終わりまで同じ勤勉さを示すことを願っている。これはあなたがたが怠惰にならず,信仰と忍耐とによって約束を受け継ぐ人々にならう者となるためである」― ヘブル 6:10-12,新。
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あなたは,神がなさったことを忘れないようにお子さんを助けていますか