神はあらゆる敵の上に高く上られる
1 人間は神の国に対してどの程度の関心を示していますか。人間は神の国に関して何をねたんでいますか。
ダビデの天的な子イエス・キリストの治める,すでに建てられた神の国を,大多数の男子が賛めないとしても,婦人の「大いなる群れ」はそうするでしょう。男子は一般に世の政治に関心を持ち,天のシオンの山から治める神の国よりも人間の政治とナショナリズムを好みます。(黙示 14:1-5。ヘブル 12:22-28)人類の政治国家は,神のことば聖書がダビデの子の天的な国に与えている地位をねたんでいます。それでその存在また全地を治めるその権利を無視しているのです。人間は自分たちの国家のほうが神の国よりも大きく,高いと考えています。また神から拒否されていることに怒りを感じています。しっとに燃えたその態度は,詩篇作者ダビデが詩的に表現しているバシャンの山々のそれにくらべられます。バシャンの山々はみずからをシオンの山にくらべました。シオンはエルサレムがあったところです。
2,3 バシャンの高さはどれだけでしたか。エホバは統治の座としてどの山を選ばれましたか。どのようにそのことを示されましたか。
2 「神の山,バシャンの山よ。峰かさなるもろもろの山よ,何ゆえ神がすまいにと望まれた山をねたみ見るのか。まことに〔エホバ〕はとこしえにそこに住まわれる。〔エホバ〕は神のいくさ車幾千万をもって,シナイから聖所にこられた。あなたはとりこを率い,人々のうちから,またそむく者のうちから贈り物をうけて,高い山に登られた。〔ヤハ〕なる神がそこに住まわれるためである」― 詩 68:15-18〔新世訳〕。
3 バシャンの山地の峰はヘルモン山において9000フィート(2740メートル)以上に達すると言えるかもしれません。弟子ペテロ,ヤコブ,ヨハネの面前におけるイエスの変ぼうが起きた「高い山」は,ヘルモン山とされています。(マタイ 17:1,2)バシャンの山地の高さにもかかわらず,エホバ神はダビデ王の首都を建設し,またダビデの王宮近くに契約の聖なる箱を安置する高所としてシオンの山を選ばれました。(サムエル下 6:12-16)それで神はダビデ王がシオンの要塞を占領し,統治の座をヘブロンからシオンの山に移すことを可能にされたのです。(サムエル下 5:4-10)シオンの占領はエホバ神の勝利でした。契約の箱がダビデ王の手でそこに移された時,それはシオンにおいてエホバ神がイスラエル国民を治めはじめられたかのようでした。シオンの山でダビデ王はエホバの見える代表者として「エホバの位」に座したとしるされています。―歴代上 29:23,文語。
4 (イ)ダビデの時代にエホバはどのように高く上られましたか。(ロ)エホバはどのようにとりこを連れ去り,「人々の賜物」を得られましたか。
4 シオンの山は海抜2500フィート(760メートル余)にすぎません。エホバの臨在を表わす契約の箱がそこに移された時,エホバはあたかも何万の戦車をひきいたかのようにしてそこへ行かれました。シオンの山は神の地上の国のために戦いとられたからです。神から油そそがれたダビデ王は,約束の地において敵に対する勝利を与えられ,大ぜいの者を捕虜にしました。その多くは神の選民が土地を占領するに際して頑強に抵抗した者たちです。それはあたかもエホバご自身が捕虜をひきいてシオンの山に凱旋されたかのようでした。捕虜の多くは奴隷にすることのできる者であり,とくに神の崇拝の幕屋において下働きをする者としてレビ人に贈られる人々の賜物となりました。(エズラ 8:20)このようにしてエホバは「人々の賜物」を得られ,また頑強な敵を平定する必要があったにしても約束の地に住まうことを始められたのです。
5 (イ)エホバは王なる石としてイエス・キリストをどこにすえられましたか。どのように?(ロ)この王なる石に関して,キリスト教国の支配者はユダヤ人の支配者とどのようにくらべられますか。
5 地上のシオンの山はダビデ自身が統治を行なった場所です。エホバの独り子イエス・キリストは人間としてはダビデの子孫であり,したがって栄光を受けたこの御子をエホバが即位させた天の高みは,シオンの山にたとえられます。エホバは御子を死から復活させてのち,王なる石としてイエス・キリストを天のシオンの山にすえられました。そのすべてはイザヤ書 28章16節の成就です。(ペテロ第一 2:5-7)しかしダビデの子孫であるゆえにダビデの国の正当な相続者であるイエス・キリストを受け入れる段になると,19世紀前のユダヤ人の支配者は,皇帝テベリオ・カイザルに仕えた総督ポンテオ・ピラトにむかって「わたしたちには,カイザル以外に王はありません」と叫びました。(ヨハネ 19:15)しかし神の復活の力によりこのダビデの子は天のシオンの山で支配しはじめました。エホバは地上のシオンの山あるいはバシャンの山々ではなくこの象徴的な山を統治の座として選ばれたのです。しかしユダヤ人の支配者と同じくキリスト教国の王たちは自分たちを治める天からの支配を望みません。彼らは地にある山々つまり自分たちの政府のほうを望みます。
「人々の賜物」
6,7 エペソ人への手紙の中で使徒パウロは詩篇 68篇が預言であることをどのように示していますか。
6 このような見方は私たちの想像ではありません。それは預言の成就です。使徒パウロは詩篇 68篇を預言とみています。小アジア,古代エペソにあったクリスチャン会衆にあてた手紙の中で,パウロは詩篇 68篇18節を引用し,この預言がイエス・キリストおよびその弟子たちの会衆に成就したことを説明しています。エペソ人への手紙 4章7節から13節にパウロは次のように書きました。
7 「しかし,キリストから賜わる賜物のはかりに従って,わたしたちひとりびとりに,恵みが与えられている。そこで,こう言われている,『彼は高いところに上った時,とりこを捕えて引き行き,〔人々の賜物〕を分け与えた』。さて『上った』と言う以上,また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は,同時に,あらゆるものに満ちるために,もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は,ある人を使徒とし,ある人を預言者とし,ある人を伝道者とし,ある人を牧師,教師として,お立てになった。それは,聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ,キリストのからだを建てさせ,わたしたちすべての者が,神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し,全き人となり,ついにキリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」― 〔新世訳〕。
8 (イ)パウロが詩篇 68篇18節をイエス・キリストに適用している事実には,どんな意味がふされてますか。(ロ)ダビデの時代にエホバは詩篇 68篇18節に描かれている事柄をどのように行なわれましたか。
8 使徒パウロがここで行なっている詩篇 68篇18節の説明は,イエス・キリストがエホバ神であるという意味ではなく,そのように述べてもいません。しかしヘブル語聖書において詩篇 68篇18節はエホバに語りかけていませんか。そうです。しかしダビデ王が関係したこれらのことばの模型的な成就において,シオンの山に実際におりて王座を占め,崇拝のための天幕を張ったのはエホバご自身ではありません。直接にそれをしたのは,エホバを代表する油そそがれた支配者また戦士であるダビデでした。したがってダビデを代表としてエホバ神がそれを行なわれたのです。自分がそれをしたにもかかわらず,ダビデはそれがエホバから出たことを認め,エホバがそれを行なわれたものと見なしました。それでダビデはそれを行なわれたかたとしてエホバに語りかけています。今日の成就においても同様なことが言えます。
9 (イ)詩篇 68篇18節の全き成就において,エホバはどのように下り,また上られましたか。(ロ)イエス・キリストはどのように「もろもろの天の上にまであげられ」ましたか。
9 その完全な成就において「地下の低い底にも降りてこられた」のはエホバご自身ではありません。実際に降りてこられ,シェオールすなわちヘーデースの深みにまで下られたのはエホバの独り子です。その屍は岩に掘った墓に葬られました。(イザヤ 53:9。マタイ 27:57-61。詩 16:10。使行 2:25-32)イエス・キリストは地の墓から上られましたが,それはご自分の力によってではありません。(死人が自分をよみがえらせたり,a あるいはもっと難しいことに霊的な復活によって自分を生かすことは不可能です)。霊感による聖書は,神がダビデの子イエス・キリストを死からよみがえらせたことを何度も述べています。またエホバ神が地から天に,すなわち天のシオンの山に実際に上られたのではありません。復活から40日目に天にもどったのは,ダビデの子イエス・キリストでした。イエスは貴重な隅のおや石としてエホバ神により天のシオンの山にすえられました。エホバ神は天のどんな被造物よりも高い地位に,イエスの以前の地位にもまさってイエスを高められたので,イエスは「もろもろの天の上にまであげられた」と言えます。―ピリピ 2:5-11。
10 (イ)詩篇 68篇18節を引用したパウロは,なぜ「あなた」のかわりに「彼」という人称代名詞を使ったのですか。(ロ)「彼はとりこを捕えて引き行き」とあるのは,どのようにしてですか。彼はとりこをどうしましたか。
10 ゆえに詩篇 68篇18節を引用したパウロはエホバ神に語りかけておらず,「あなた」のかわりに「彼」という人称代名詞を使っています。昇天したイエス・キリストは西暦33年五旬節の日,エホバ神から聖霊を受け,エルサレムで待つ約120人の弟子にそれをそそぎました。パウロはそのことを知っていたのです。「彼はとりこを捕えて引き行き」ました。キリスト教時代以前の忠実な神のしもべをよみがえらせて天にとりあげたのではありません。その五旬節の日に使徒ペテロ自身も,キリスト以前のダビデ王が天に上らず,ユダヤの地になお葬られたままであることを述べています。(使行 2:1-34)キリストによって連れ去られ,ダビデのようなキリストによって神への奉仕にひき渡されたのは,聖霊をそそがれたエルサレムの120人でした。同じ五旬節の日,約3000人の「とりこ」がキリストの勝利の行進に加えられました。(使行 2:37-42)このような事情の下で,キリストはエホバの代表者として人々の賜物を与えることができました。
11 ではエホバが「人々の賜物」を得,それを授けられたのはどのようにしてですか。
11 エホバ神はそのよみがえらせたイエスによって「人々の賜物を得」られたのです。(詩 68:18,新世訳)復活させられたイエスによって,エホバ神は五旬節およびそれ以後にも「人々の賜物」を与えることをされました。
12 (イ)イエス・キリストはどんな「人々の賜物」を授けることをされましたか。だれに?(ロ)このような「人々の賜物」が授けられたことは,なにを明白に証明しますか。
12 クリスチャンの預言者を含む12使徒という「人々の賜物」の存在は,西暦33年の五旬節の日に明白でした。(使行 2:37,42,43)これら使徒または預言者である「人々の賜物」は,やはりとりこになった他の弟子たちによってすみやかに受け入れられました。しかし天の神の右にいます勝利のキリストが地上の弟子たちの会衆に与えられた「人々の賜物」の中には他の者すなわち伝道者,霊的な意味における牧者および教える者がいました。聖書の記録によれば,1世紀のクリスチャン会衆内において奉仕したおもだった人々は,献身してバプテスマを受け,みたまに満ちたこれらの人でした。それで使徒パウロはエペソ人への手紙 4章11節および使徒行伝 20章28節において「人々の賜物」のことを語っているのです。(使行 21:9。テモテ第二 4:5)エルサレムにおいて発足したクリスチャン会衆にこのような「人々の賜物」が授けられたことは,復活したイエス・キリストが勝利を得て天のシオンの山に「上られた」ことの見える証拠でした。エホバ神は,貴重な「すみのおや石」としてそのシオンの山にキリストをすえられました。キリストの会衆はその上に建てられます。
13 (イ)今日のクリスチャン会衆にはどんな「人々の賜物」がありますか。とくにいつからですか。(ロ)キリスト教国はどのようにして神の王なる石を拒絶しましたか。しかし神は彼に対して何を行なわれましたか。
13 今日においてさえ真のクリスチャン会衆には「人々の賜物」が存在しています。使徒やクリスチャンの預言者はもはや生存していませんが,霊感によって彼らの書いたものがクリスチャン・ギリシャ語聖書の中にのこされています。そのうえ真のクリスチャン会衆のものである私たちには,とくに1919年以来,伝道者,霊的な羊飼い,教える者の形で「人々の賜物」が与えられています。1914年から1918年まで第一次世界大戦をしたキリスト教国の諸国家は神の国を拒絶し,全地を治める正当な政府の座である天のシオンの山に神がすえられた王なる石を拒絶しました。1919年おもにキリスト教国の諸国から成る国際連合を支持する投票が行なわれたことは,その最高潮となりました。しかし宗教家の支持を受けた政治家がこうして拒絶した王なる石を,エホバ神はその高められた天のシオンにおいて確固としたものにし,イザヤ書 28章16節の預言を全く成就されました。エホバ神は1919年,その民をバビロンの束縛から解放し,「人々の賜物」を授けてその事実を明白にされました。
14 (イ)エホバは今さからう者の中にどのように住まれていますか。(ロ)すすんで「とりこ」になった人々は何になりますか。エホバは彼らの間にどのように住まれますか。
14 神の勝利の御国にあくまでさからう者たちは,実際には何も成し遂げていません。ハルマゲドンにおいてエホバ神はベラジム山またギベオンにおけるごとく立たれ,高められた王なる石イエス・キリストを用いて彼らを滅ぼされます。今のところ神はさからう者のただ中に,また彼らの存在にもかかわらずやはり王として住まれています。天のシオンの山にすえられた王なる石イエス・キリストに対してエホバは「あなたはもろもろの敵のなかで治めよ」と言われます。(詩 110:1,2)しかし「この御国の福音」を受け入れ,すすんで勝利のエホバ神とキリストの「とりこ」になる人々は,「善意の人」となります。(ルカ 2:14,新世訳)神は「人々の賜物」すなわち伝道者,羊飼い,教える者により,クリスチャン会衆として彼らを霊的に強められます。ヤハなる神は,すすんでとりこになったこれらの人々の中に聖霊によって住まれます。
神の敵はひとりものがれることができない
15,16 詩篇 68篇19,20節にあるダビデのことばに照らして,天の御国のために選ばれた者が滅亡を免れたことは,どのようにしてのみ説明できますか
15 第一次世界大戦が1918年に終結してから50年後の現在,過去をふり返ってみて,私たちは詩篇作者ダビデのことばを私たちのことばとして述べることができます。ダビデのことばには将来に対する確かな保証も含まれています。「日々にわれらの荷を負われる〔エホバ〕はほむべきかな。神はわれらの救である。われらの神は救の神である。死からのがれ得るのは主なる〔エホバ〕による。神はその敵のこうべを打ち砕き,おのがとがの中に歩む者の毛深い頭のいただきを打ち砕かれる。〔エホバ〕は言われた,『わたしはバシャンから彼らを携え帰り,海の深い所から彼らを携え帰る。あなたはその足を彼らの血に浸し,あなたの犬の舌はその分け前を敵から得るであろう』と」― 詩 68:19-23,〔新世訳〕。
16 この「終りの時」そして預言どおりキリストの忠実な追随者に臨んだ世界的な迫害の中で,勝利のイエス・キリストの「とりこ」にすすんでなった人々の存在がどうして抹殺されなかったかはふしぎなほどです。それはエホバが「救の神」であり,「死からのがれ得るのは主なるエホバによる」という事実によってのみ説明できます。これに関連して次のことを心にとめなければなりません。すなわち1918年以降ハルマゲドンに至る期間において,諸国民と諸国家に臨んだ艱難の日は神のはからいで短かくされました。イエス・キリストの預言どおり,神は選民のため,そして地上で救われる者があるようにそのことをされたのです。(マタイ 24:21,22)このように艱難が短かくされたことは,天国でキリストとともになるため神に選ばれた人々の,油そそがれた残れる者が救われる結果にもなりました。
17 今日すすんで「とりこ」になった他のどんな人々は,救いのわざに対してエホバをほめなければなりませんか。
17 彼らのみならず,すすんで「とりこ」になった他の人々の「大ぜいの群衆」も,「救の神」「われらの救」「日々にわれらの荷を負われる」神としてエホバをほめなければなりません。黙示録 7章9,10節に預言されているとおり,「大ぜいの群衆」は今まさにそのことをしています。
18 エホバはどのようにバシャンや深海の底から彼らを引き出されますか。彼らはどうなりますか。
18 エホバ神が敵に「救」いを施されることはありません。神はハルマゲドンにおいて敵に対して立ちあがり,神の前に罪のある者,罪を重ねている者を滅ぼされます。宗教的な大いなるバビロンの滅び,およびハルマゲドンにおける「全能の神の大なる日の戦闘」で,これらの敵は一見安全と思われる隠れ場所を求めて高い所や低い所にのがれようとすることでしょう。たとえバシャンの山地の頂上のような高みに逃げても,エホバは彼らをのがれさせず,そこから引きおろして罰します。原子力潜水艦で深海の底にもぐっても,エホバは彼らをそこから引き出します。何のためにですか。殺りくのためです。彼らの生命の血が流されます。それでダビデの子の真の追随者は,敵の血で足を洗うでしょう。これらの忌むべき敵は葬られず,聖書の中でいやしい動物とされる犬がもし私たちのために使われるならば,神は自身がその前に立ちあがった敵の血を犬になめさせるでしょう。
勝利の行進
19 さからう者はどんな勝利の行進を見てきましたか。どの部族がこれらの行進に加わりますか。
19 ハルマゲドン前のこの緊張した時代において,頑強にさからう敵はエホバの民の勝利の行進をすでに見てきました。神の民は,「終りの時」の始まった1914年以来,エホバ神がダビデの子によってすでに得られた目ざましい勝利を喜びつつ祝っています。今日,生来のイスラエルはベニヤミン,ユダ,ゼブルン,ナフタリなど,部族の別を明確に定めることができません。ユダヤ人の戸籍の記録は西暦1世紀の後半に失われたからです。しかし霊的イスラエルの「十二部族」の残れる者がいます。彼らはダビデの子とともに天のシオンの山にやがて立つ人々です。(黙示 7:4-8; 14:1-5。ガラテヤ 6:16)これら霊的イスラエルの少数の残れる者は,エホバ神とダビデの子の勝利を祝う凱旋行進に加わってきました。それはダビデが彼の時代について描写した事柄と似ています。
20,21 (イ)このような勝利の行進はどこにむかって進みましたか。それが神の行列と呼ばれたのはなぜですか。(ロ)ダビデがエホバのことを「わが神,わが王」と呼んだのですか。
20 「神よ,人々はあなたのこうごうしい行列を見た。わが神,わが王の,聖所に進み行かれるのを見た。歌う者は前に行き,琴をひく者はあとになり,おとめらはその間にあって手鼓を打って言う,『大いなる集会で[集められた群衆となって,新世訳]神をほめよ。イスラエルの源から出た者よ,〔エホバ〕をほめまつれ』と。そこに彼らを導く年若いベニヤミンがおり,その群れの中にユダの君たちがおり,ゼブルンの君たち,ナフタリの君たちがいる。神よ,あなたの大能を奮い起してください。われらのために事をなされた神よ,あなたの力をお示しください」― 詩 68:24-28,〔新世訳〕。
21 昔のイスラエルにおいてエホバ神のそれぞれの勝利は,その選民にとって勝利の行進をするいわれとなりました。彼らは聖所すなわち崇拝の中心の場所に行進したのです。このような行進はあたかも神が先頭に立って聖所に進まれているかのように,神の行列と呼ばれました。神の民のための勝利は彼らに対する神の王権を確証したので,詩篇作者ダビデはエホバを「わが王」と呼んでいます。イスラエル全部族の男女が加わり,音楽と歌でエホバをほめるのはふさわしいことでした。
22 (イ)イスラエル人がそれから出た「イスラエルの源」はだれでしたか。(ロ)神は,なぜ彼らの力を支配できましたか。また神がご自身の力を表わすことはなぜ必要でしたか。
22 歌い手と手鼓を持つ女たちは,「大いなる集会で[集められた群衆となって,新世訳]神をほめよ。イスラエルの源から出た者よ,〔エホバ〕をほめまつれ」と歌いました。(詩 68:26,〔新世訳〕)イスラエル全12部族の地的な源はイスラエルの異名を得た族長ヤコブでした。しかし選民としての彼らの真の源はエホバ神であり,彼らは勝利の行進の場合におけるごとく集会でエホバをほめなければなりません。エホバは国民の力の源泉です。それで当然にこの国民はエホバへの奉仕に力を用いることを命ぜられていました。しかしこの国民の成功と勝利のために神はその力を表わし,彼らのために敵と戦わなければなりません。
23 (イ)1919年以降,異邦はどのようにして「わが神,わが王」の行進を見ましたか。(ロ)それに加わる者の多くはだれによって占められていますか。
23 現代において,西暦1919年以来,クリスチャンのエホバの証人は,エホバ神の勝利を祝うこのような凱旋行進をしてきました。「集められた群衆となり」一致して,彼らはイエス・キリストの使徒がしたように,公にも家から家にもエホバ神の御名と御国を証言するために出て行きました。(使行 5:42; 20:20)彼らは,エホバ神の目に見えない導きの下に,そのことをしてきました。彼らは,エホバ神の御名を負っているのです。このようにして異邦の人々は,エホバの証人の神また,王の行進を見ました。このような行進,すなわち証言のわざにおいて,献身した婦人の証人の群れが,無視することのできない目だつ存在となっています。
24 これに関して,「集められた群衆」は実際にどこに見られましたか。
24 これら現代の勝利の行進に関連して,エホバの証人の巡回,地域,全国および国際大会にはなんと大きな群衆が見られたことでしょう。たとえば1958年8月7日,日曜日,ニューヨーク市における公開集会において,ものみの塔聖書冊子協会の会長は25万3922人の聴衆を前に「神の国は支配する ― 世の終わりは近いか」と題する講演をしています。
25 (イ)最大の勝利の祝いはいつ行なわれますか。なぜ?(ロ)行列に加わる者はその力を何のために用いることを命ぜられていますか。
25 しかしハルマゲドンの戦いにおいてエホバが敵に対して立ちあがり,最大の勝利を得られてのち,世界的な勝利の行進が行なわれます。ハルマゲドンの戦いに生き残る,恵まれた人々は,歌と踊りで神の永遠の勝利を祝い,その民の命の源であられる神をほめます。彼らの熱心な祈りにこたえて神は力を表わし,その宇宙主権と聖なる御名を立証されることでしょう。また彼らに救いを施されます。神に負うすべてのものに感謝して彼らは神の命令にこたえ,肉体と霊の力を神にささげます。そのあとに続くキリストの千年統治の下で,彼らは死からよみがえる何十億の人々にエホバのみわざと栄光の勝利を語り告げ,そうすることに力を惜しまないでしょう。
ハルマゲドン前に贈り物を携えてこない者はいましめられる
26,27 詩篇 68篇29節から35節に示されているとおり,いま正しい決定を下すことがなぜすすめられていますか。
26 ハルマゲドンで神が敵の前に立ちあがるまでなお残されている年月は危急の時にあり,正しい決定を下すことがすべての人に求められています。ハルマゲドンにおいてはいましめが加えられ,いましめを受けることは滅びを意味します。きわめて適切に詩篇作者ダビデは,この重大な時に賢明にふるまって正しい決定を下すことをすすめています。
27 「エルサレムにあるあなたの宮のために,王たちはあなたに贈り物をささげるでしょう。葦の中に住む獣,もろもろの民の小牛を率いる雄牛の群れをいましめてください。みつぎ物をむさぼる者たちを足の下に踏みつけ,戦いを好むもろもろの民を散らしてください。青銅をエジプトから持ちきたらせ,エチオピヤには急いでその手を神に伸べさせてください。地のもろもろの国よ,神にむかって歌え,〔エホバ〕をほめうたえ。いにしえからの天の天に乗られる主にむかってほめうたえ。見よ,主はみ声を出し,力あるみ声を出される。力を神に帰せよ。その威光はイスラエルの上にあり,その力は雲の中にある。神はその聖所で恐るべく,イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな」― 詩 68:29-35,〔新世訳〕。
28 どんな意味において「エジプト」と「エチオピア」はエホバ神にささげ物をしましたか。
28 それでは「万国の王」「永遠の王」はどなたですか。それは国々の王たちのすべてよりも高い宇宙主権者エホバ神です。(エレミヤ 10:7,10)御子イエス・キリストでさえ,彼らのうちのだれよりも上にいられます。(黙示 17:14; 19:16)異教国のみならずキリスト教国の王たちはエホバの至上の王権を認めることを拒絶しています。しかし彼らは,イエス・キリストを隅のおや石とし,忠実な弟子たちを「生きた石」とする霊的な宮で行なわれているエホバの崇拝に貢献することを余儀なくされてきました。(ペテロ第一 2:5-9)エホバの崇拝者であるクリスチャンのエホバの証人は堅い決意をもち,支配者として人間よりも神に従ってきたため,地上の支配者は宮におけるエホバの忠実な崇拝者に有利な立法措置を講じ,また有利な判決を下すことを余儀なくされてきました。このようにしてそれはあたかも青銅の贈り物が昔の敵国エジプトからもたらされたかのようでした。別の敵国エチオピアも急いで贈り物をエホバ神にささげました。
29 (イ)「地のもろもろの国」の民は,天に乗る者をどのようにほめるべきですか。(ロ)「葦の中に獣」と「雄牛の群れ」はどのようにいましめられますか。
29 今こそ「地のもろもろの国」の人は,クリスチャンのエホバの証人が宣明する御国の音信に耳を傾け,戦車に乗るごとくいにしえからの天の天に乗って凱旋行進をされるエホバを賛美することに加わるべきです。「葦の中に住む獣」すなわちかばのような,あるいは「もろもろの民の小牛」に比すべき臣民をひきいる「雄牛の群れ」のような地の強大な支配者は,ハルマゲドンにおいてエホバにいましめられるでしょう。彼らは「みつぎ物」をささげず,神のものを「踏みつけ」ているからです。彼らは神または神の崇拝者との「戦いを好」みます。このような敵対者に対して神が立ちあがることを求める私たちの祈りに答えて,エホバ神は彼らを散らして滅ぼし,迫害された神の民を救われます。雷鳴のような神の「力あるみ声」は彼らをいましめ,敵対者を永遠に沈黙させるでしょう。
30 (イ)なぜ私たちは,力を神に帰すべきですか。(ロ)神の「威光」はどのようにその民の上にありますか。
30 エホバがこのことをする力を持たれることを,私たちはほんとうに信じますか。このような力をエホバに帰するのは肝要なことです。今日に至るまでエホバは霊的イスラエルの残れる者と献身した地的な仲間に力を与えてこられ,ハルマゲドン前のこの危険な時代にエホバの証人はエホバの命ぜられた事柄を行なってきました。神から授けられた目ざましい勝利のゆえに成し遂げることのできた事柄に対し,私たちは神に力を帰さなければなりません。神の威光は私たちの間で輝きます。他の神々や地上の支配者はエホバと同列におかれず,まして高くされることは決してないからです。宇宙主権者であられる神の「威光」は明らかに私たちの上にあります。私たちは神を支配者として神に従い,ダビデの子の治める神の国を全世界に宣べ伝えるからです。
31 神の力はどのように「雲の中」にありますか。
31 確かに「その力は雲の中」,宇宙空間よりも高い空にあります。神は全能者であられるからです。ハルマゲドンにおいて神は人間と悪霊の上にご自身の全能の力を表わし,宇宙主権を立証されるでしょう。私たちはエホバを神としてあがめるべきではありませんか。今もそしてとこしえまでもそうすべきです!b
[脚注]
a 自力復活ともいうべきこの考えはマクリントックとストロングの百科事典第3巻570頁2欄1節に述べられています。「長子,初穂」に関して次のことが出ています。「『長子,初穂』という表現は必ずしも文字どおりに解すべきではない。時にそれはあるものの中で最初の最もすぐれた,主要なものの意である。それで『イエス・キリスト』は『あらゆる被造物の中で最初に生まれた者,死人の中からの初穂』であり,いかなる被造物よりも先に父によって生み出された者また彼自身の力によって死からよみがえった最初の者である。(1861年4月号神学文献ジャーナル参照)」
b 1932年3月1日号から5月15日号までの「ものみの塔」誌上に「エホバの御名を宣明する」と題する6つの記事が連載されました。それは詩篇 68篇の全部をとりあげていますが,欽定訳聖書を基にしており,またその説明は当時までに行なわれた聖書研究に基づいています。