神を賛美するために組織される
「エホバよ,わたしは心をつくしてあなたをほめたたえます。あなたの奇しいわざをことごとく語り告げます。わたしはあなたを喜び,歓喜します。いと高き方よ,あなたのみ名をほめ歌います」― 詩 9:1,2,新。
1,2 (イ)古代の神殿の音楽家たちの例が示すように,組織されるとはどういう意味ですか。(ロ)秩序立って調和した組織はなぜエホバにとってふさわしいものですか。
美しい音楽や美しい歌を聞くと,なんと深い感動を覚えるのでしょう。エホバ神を賛美する歌が歌われる場合は特にそうです。昔のイスラエル人はエホバの聖所で祭りを祝ったとき,レビの支族の歌い手や演奏家たちの歌や音楽を聞きました。(歴代上 6:16,31,32)当時の人びとのうたった歌の多くの歌詞は聖書の詩篇に収められ,今日まで保存されてきました。いと高き方を賛美するそれらの歌は,どんなにか感動的なものだったでしょう。
2 歌や音楽に携わったそれらの楽人たちはよく組織されていました。(歴代志略上 25章)つまり彼らの努力を統合し,協働的な働きを行なえる態勢を整えさせるため,各人にはそれぞれ任務が割り当てられていました。組織とは,ある目的のために結束した人びとの集団です。それらレビ人の場合のように,秩序立って調和した組織こそエホバにとってふさわしい組織です。というのは,「神は無秩序の神ではなく,平和の神だからです」。(コリント前 14:33,新)レビ人たちが歌をうたってエホバをほめたたえたとき,それを聴いた人びともエホバをほめたたえました。なぜなら,人びとは音楽がその最高の目的のために用いられて美しい調べが流れるのを聞いたからです。
3 聖なるみ使いたちの組織はどんな目的にかなうものですか。
3 それらレビ人たちが神を賛美するために組織されたように,他の者たちもやはり神を賛美するために組織されています。もし,霊の領域をのぞいて見ることができたなら,驚嘆すべき組織,つまり何百万ものみ使いたちを見ることができるでしょう。(ダニエル 7:9,10。黙示 5:11,12)それらみ使いたちの奉仕はどんな目的にかなっていますか。神からの霊感を受けたダビデはこう叫びました。『エホバにつかうる使いよ エホバの聖言のこえをきき その聖言をおこなう勇士よ エホバをほめまつれ その万軍よ その聖旨をおこなうしもべらよ エホバをほめまつれ』。(詩 103:20,21)聖なるみ使いたちがエホバのみことばを履行し,その聖旨を行なうには,十分に組織されていなければなりません。―イザヤ 6:1-6。ヘブル書 12章22節と比べてください。
『やみから神の驚くべき光の中へ』
4 背教が生じたにもかかわらず,霊的な闇に包まれた何世紀もの間,一部の人びとは神からの恵みを得ました。どうしてそれがわかりますか。
4 西暦1世紀,神は心の正直な人たちを「やみからご自分の驚くべき光の中に」招き入れられました。それらの人びとはクリスチャン会衆の一部となりましたが,その会衆もやはり神を賛美するため,また『神の卓越性を広く宣明する』ために組織されました。(ペテロ前 2:9,新)しかし,やがて背教が起こり,霊的な闇が人類の間に広まりました。(使行 20:29,30。テモテ前 4:1,2)それでも,イエス・キリストのたとえと一致して,霊的な闇に包まれたその何世紀もの間,一部の個々の人びとは神からの光や恵みを享受しました。(詩 43:3)イエスのたとえの中で「小麦」になぞらえられている一部の真のクリスチャンは,「雑草」つまりにせのクリスチャンのただ中で成長しました。「収穫」つまり「事物の体制の終結」が近づくにつれて,エホバは小麦のような者たちの実体を明らかにするため行動を起こされました。(マタイ 13:24-30,36-43,新)1世紀当時のクリスチャンのように,彼らは『やみから神の驚くべき光の中に』招き入れられた者であることを実証しました。それら現代のクリスチャンは,『エホバの卓越性を広く宣明し』,心をつくしてエホバをほめたたえ,またそのみ名をほめ歌う点での熱意のゆえに,容易に彼らの実体を明らかにすることができます。(詩 9:1,2)彼らの歴史を簡単に回顧してみると,それらの人びともまた,神を賛美するために組織されてきたことがわかります。
5 チャールズ・テイズ・ラッセルとはだれですか。彼の若い時代の宗教面での経験のいくつかについて述べなさい。
5 この点では,西暦19世紀当時のできごとがわたしたちの注意を引きます。当時,いくつかの宗教グループが,肉身を備えたイエス・キリストの到来が差し迫っていると考えていました。しかしわたしたちは,アメリカ,ペンシルバニア州アレゲーニーに関心を集中させることにします。1852年,その地でジョセフ・L・ラッセルとエリザ・バーニイ・ラッセルの息子チャールズ・テイズ・ラッセルが生まれました。チャールズは子供のころでさえ,神に対する深い関心を示しました。彼は長老派の信者として育てられましたが,後日,組合教会にはいりました。しかし,青年ラッセルは運命予定説や永劫の責め苦などに関する教理で大いに悩まされ,17歳のころには懐疑主義者になっていました。その後,ある重要な事がらが起きました。そのことについてラッセルは後日,こう書いています。
偶然のことのようにも思えるが,ある晩,私はかねてから礼拝が行なわれていると聞かされていた,ペンシルバニア州,アレゲーニーの,とあるごみごみした汚いホールに立ち寄ってみた。そこに集まっていた少数の人びとが果たして,大教会の信条よりも多少でも意味のある何事かを提供できるかどうかを確かめるためであった。私はそこで初めて,ジョナス・ウエンデルが再臨主義の見解について語るのを聞いた。……
聖書に関する彼の説明はすべてが明快だったわけではないが……感謝すべきことにそれは,聖書が神の霊感による著作であるということに対する,動揺しかけていた私の信仰を再確立し,使徒および預言者たちの記録が密接不可分の関係にあることを示すには十分であった。
6 ラッセルおよび彼とともに集まって聖書研究を行なった人たちは,神から霊的な光を得ましたか。
6 その後まもなく,ラッセルと他の数人の人たちは祈りをこめた聖書の組織的研究を行なうため,毎週集会を開くようになりました。彼らが神から受けた霊的な光は輝きを増してゆきました。というのは,『義者の道は旭光のごとし いよいよ輝きをまして昼の正午にいたる』からです。(箴 4:18)たとえば,彼らは,イエスが霊者として戻ること,ゆえにたとえ目には見えなくても臨在されるようになることを認識しました。―ペテロ前 3:18。
7 (イ)C・T・ラッセルとN・H・バーバーの関係について述べなさい。その関係はどうなりましたか。(ロ)「ものみの塔」誌が最初に発行されたのはいつですか。贖いの教理に関してそれはどんな立場を取っていますか。
7 1876年の1月ごろ,C・T・ラッセルは,ニューヨーク,ロチェスターのN・H・バーバーの発行していた「朝の先ぶれ」誌と関係するようになりました。同誌はイエス・キリストの見えない臨在に関する信仰を唱道しました。やがてラッセルのピッツバーグの聖書研究会はバーバーのグループと合同し,ラッセルは同「先ぶれ」誌の共同編集者となり,また財政的援助をも与えました。しかし1878年,ラッセルの話によると,バーバー氏は「キリストの死はアダムと人類のための贖いの価を払うものであることを否定した」記事を同「先ぶれ」誌に掲げました。ラッセルは同誌の記事の中で,贖いに関する聖書の教理を断固として支持しました。(テモテ前 2:5,6)しかし,そうした努力もかいがなかったので,ラッセルはバーバーとの関係を断ちました。次いで1879年7月,C・T・ラッセルは今日「ものみの塔」と呼ばれる,「シオンのものみの塔とキリスト臨在の先ぶれ」の創刊号を発行しました。この雑誌はまさしく贖いに関する聖書の真理を常に告げ知らせてきました。
8 「ものみの塔」誌が神からの支持を得てきたことを示すどんな証拠がありますか。
8 それは『小さき事の日』でしたが,卑しめるべき日ではありませんでした。(ゼカリヤ 4:10)その「シオンのものみの塔」誌の創刊号はわずかにおよそ6,000部発行されたにすぎませんでしたが,それを発行した当時の聖書研究生は神を賛美することを願い,同誌がエホバの支持を得ていることを信じていました。今日,70余の言語で出版されている同誌の発行部数は毎号平均780万部に達しています。その間に生じた国際的な反対にもかかわらずこうした実績が得られたということは,神の支持を得ていることの証拠です。―ヨハネ 17:14-17。詩 127:1。
9 ものみの塔協会の起こりと目的について述べなさい。
9 1881年は「ものみの塔冊子協会」の創設を見た注目すべき年となりました。そして,同協会は1884年,ペンシルバニア州の法律のもとに「シオンのものみの塔冊子協会」(今日,「ペンシルバニヤのものみの塔聖書冊子協会」と呼ばれる)という名称の法人団体として設立されました。それは商業上の利己的な関心事とは無関係な法人でした。同法人の定款にはこう記されています。
当法人の創設された目的は,冊子・パンフレット・文書類その他の宗教的な公式文書を用いて,また正式に設置された理事会が前述の目的達成を促進するのに適当と考える他のあらゆる合法的手段を講じて,各種の言語で聖書の真理を普及させることである。
この法人団体および同様の目的を持つ他の諸法人は,神に仕え,神を賛美するエホバのしもべたちの用いる単なる法定機関にすぎません。
10 (イ)聖書研究者はどのようにして『貨財をもってエホバをあがめ』ましたか。(ロ)「聖書の家」とは何ですか。
10 聖書研究生たちはそのわざの振興のために基金を自発的に寄付しました。彼らは『自分たちの貨財をもってエホバをあがめ』たので,エホバは彼らを豊かに祝福されました。(箴 3:9,10。コリント後 9:7,11)神は聖書文書に対する需要の増加に応ずるために設けられた宿舎や種々の施設を備えてくださいました。1889年,彼らはアレゲーニーに工費3万4,000㌦(約950万円)で建設した「聖書の家」と呼ばれるレンガ造りの4階建ての新しい建物に移りました。何年か後にその建造物全体の所有権が同協会に壌渡されたとき,同協会の理事会はその建物と設備の純価を16万4,033㌦65セント(約4,593万円)と査定しました。
11-13 (イ)霊的な食物はどんな手段によって供給されましたか。(ロ)「シオンのものみの塔」誌および同類の出版物に載せられた霊的食物にある人びとはどう答え応じましたか。
11 エホバの聖霊つまり活動力が引き続き導きや啓発を与えたので,複合の「忠実な家令」とその統治体を通して霊的な食物が豊かに供給されました。(ルカ 12:42-44,新。使徒行伝 15章4-29節と比べてください。)「シオンのものみの塔」誌および同類の出版物を通して優れた霊的な食事が真理を求める人びとに届けられました。C・T・ラッセル自身は1886年から1904年にかけて,「千年期黎明」(後日,「聖書研究」と呼ばれた)全6巻を著わしました。その間,「聖書文書頒布者」(今日,「開拓者」と呼ばれる)によって行なわれた戸別訪問による宣べ伝えるわざにより,神の真理は直接人びとの家庭に伝えられました。―使行 5:42; 20:20。
12 しかし,そうした霊的食物に人びとはどのように答え応じましたか。確かにエホバの霊が物事を導いたと言うことができます。たとえば,1882年,英国のロンドンから次のような問い合わせの手紙が来ました。「神が望んでおられる祝福されたわざを成し遂げるためには,どのように,また何を宣べ伝えればよいのかを,どうぞ教えてください」。1887年,アメリカ,ネブラスカ州から寄せられた一通の手紙はこう述べています。「私が自由に用いうるあらゆる手段を利用して,この福音を宣明するわざのお手伝いをすることは,単に義務であるばかりではなくて,祝福された特権であると考えます」。
13 また,エホバの霊はさらに遠隔の地でも働いていました。1887および1888年までには中国大陸にも真理がいくらか広まりました。1888年にはトルコのヨーロッパ側にあるマケドニアから次のような報告が寄せられました。「トルコ人,ユダヤ人,ブルガリア人そしてマケドニア人は真理に対して多大の関心をいだいています」。その後まもなく迫害にもめげず,アフリカの沿岸地方に沿って真理が「地歩を占め」るようになったと伝えられています。また1890年には,インド,デカン高原の「ジャングルを約48㌔はいった奥地にいる」キリスト教国の派遣した一宣教師から,「シオンのものみの塔」誌や聖書研究生の冊子を「深い興味をもって」読んだ旨しるした手紙が寄せられました。その人は同誌の2年間の予約購読を申込み,他の文書類を注文しました。
14 (イ)「千年期黎明」と題する本を何冊か入手したJ・F・ラザフォードは,その本に対する感謝の気持ちをどのように表わしましたか。(ロ)ラザフォード兄弟の後日の活動について少し詳しく述べなさい。
14 1894年,「千年期黎明」という本を何冊か入手したある男の人は,当協会に寄せた手紙の中で一部次のように述べました。
私はそれらの本を家に持って帰りましたが,数週間ばかり前に少しの余暇ができたのでその第1巻を読み始めるまでには,それらの本のことは少しも気にかけませんでした。ところが,それはあまりにも興味深い内容なので,途中で読むのをやめることはできませんでした。その結果,妻と私は非常な興味をいだいてそれらの本を読んでまいりました。そして,私たちがこれらの本に接する機会を得たことは神から授けられた大きな祝福であると考えております。これらの本は確かに聖書研究のための「手引き」です。この一連の本を研究して明らかにされた偉大な真理は,私たちの地的野望を全く覆してしまいました。私たちはキリストのために何かを行なうべき重要な機会があることを少なくともある程度悟りましたので,この機会をとらえて,まず最初にこれらの本を私たちの最も身近な親族や友人の間で,次にそれを読みたいと願いながらも貧しくて買えない人たちの間で配布したいと存じます。
この手紙に署名をしたのはJ・F・ラザフォードで,彼は1906年に神への献身を象徴するバプテスマを受け,やがて,ものみの塔協会の会長としてC・T・ラッセルのあとを継ぎました。
エホバの祝福は人を富ませる
15 協会と関係を持っていた巡礼者とはどんな人びとでしたか。彼らは仲間の信者をどのように援助しましたか。
15 「エホバの祝福 ― それこそ富ませるものであり,彼は,それとともに苦しみを加えない」とは,なんと真実なのでしょう!(箴 10:22,新)聖書研究生の会衆は神の祝福を得,その数はふえてゆきました。やがて,「巡礼者」― ものみの塔協会の旅行する代表者 ― が定期的に諸会衆を訪問しました。それら巡礼者はその奉仕から喜びを得,講演を通して,またその他の方法で『仲間の信者に霊的な賜物を少しでも分け与えるために彼らに会うことを切望し』ました。(ロマ 1:11,12,新)そうした巡礼者についてヘイゼル・M・クルルは深い感動をこめてこう語りました。「彼らは絶えずほとばしる私たちの喜びと私たちの信仰の富とをなんと増し加えさせてくれたのでしょう。エホバの組織を認識するよう私たちをなんとよく助けてくれたのでしょう」。
16 (イ)エホバのクリスチャン証人の集会は,どんな機会を差し伸べるものですか。(ロ)それらの集まりでは寄付が徴収されますか。
16 当時の聖書研究生の開いた集会は,優れた聖書教育を施す場となりました。また,『互いに愛とりっぱな業とを鼓舞し合う』機会を供するものともなりました。(ヘブル 10:24,25,新)今日でもエホバのクリスチャン証人の集会は,「入場無料,寄付は集めません」という標語を掲げて宣伝されています。「あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」とイエス・キリストは言われました。―マタイ 10:8,新。
17 アメリカ国外の協会の最初の支部事務所はいつ,またどこに設置されましたか。1972年にはいくつの支部事務所が設けられるに至りましたか。
17 1891年,C・T・ラッセルは海外旅行を行ないました。その後,ものみの塔協会の文書はドイツ語,フランス語,スウェーデン語,ノルウェー標準語,ポーランド語そしてギリシア語で,またさらに後にはイタリア語でそれぞれ発行されました。1900年には,ものみの塔協会のアメリカ国外最初の支部事務所が英国のロンドンに設立されました。以来今日までの来歴は,増加と神からの祝福を物語るものとなり,1972年には当協会の支部事務所は95を数えるに至りました。
18 1909年には協会の本部に関してどんなことが起きましたか。
18 1908年および1909年はいっそうの拡大を見る年となりました。協会の代表者はニューヨーク,ブルックリン,ヒックス通り13-17番の「プリマス・ベテル」と呼ばれる古い教会建造物と,同ブルックリン,コロンビア・ハイツ124番のヘンリー・ウォード・ビーチャーの家を購入しました。その「プリマス・ベテル」は「ブルックリン・タバナクル(幕屋の意)」と改名されました。またビーチャーの古い家は「ベテル」と呼ばれ,協会の本部職員の宿舎になりました。それで,1909年にはブルックリンは協会の世界本部の所在地となりました。今日,ニューヨーク法人,ものみの塔聖書冊子協会はブルックリンに宿舎,事務所,印刷工場などの建造物でなる大規模な総合的施設を所有しています。それらの施設はすべて,神を賛美し,王国の良いたよりを告げ知らせるエホバの証人の手で使用されています。―マルコ 13:10,新。
19,20 (イ)聖書研究生は新聞のシンジケートをどのように利用しましたか。(ロ)「創造の写真-劇」について説明しなさい。
19 当時,聖書研究生はまた,新聞の国際的なシンジケートを組織し,新聞を用いて一般の人びとの面前に聖書の真理を掲げ続けました。一時,アメリカ,カナダそしてヨーロッパのおよそ3,000の新聞がC・T・ラッセルの著わした説教文を掲載しました。ところで,それまでの何年もの間,聖書研究生は2,520年にわたる異邦人の時つまり「諸国民の定められた時」が1914年に終わるということを告げ知らせてきました。(ルカ 21:24,新)その年が近づくにつれて,ラッセルは良いたよりを告げ知らせる大胆な新しい方法を考えました。
20 当時,映画はなお揺らん期にあり,フィルムと録音を一致させて上映する商業映画はまだ完成されていませんでした。また,一般に使用されるカラー映画も完成されてはいませんでした。しかし1912年,ラッセルはこの方法を用いて大々的な証言を行なうことに決めたのです。彼はスライドと活動写真と録音とを組み合わせた,上映時間8時間に及ぶ「創造の写真-劇」のシナリオを書き,その製作を行ないました。それは,創造の時代からイエス・キリストの千年期の終わりに至るまでの,地と人類に対する神の目的の大要を説明するものでした。(黙示 20:6)その「写真-劇」は4部に分かれており,蓄音機のレコードに合わせてスライドと映画を上映する仕組みになっていました。それは何百万もの人びとに見せられ,エホバの目的についてすばらしい証を行ないました。
21 聖書研究生のわざはひとりの人間に依存していましたか。
21 1916年10月31日,病身のチャールズ・テイズ・ラッセルは伝道旅行の途上,テキサス州パンパで列車の中で亡くなりました。しかし,その結果悲しみに包まれはしたものの,聖書研究生の大多数は,自分たちのわざはただひとりの人間に依存してはいないことを知っていました。それはエホバのわざであり,その聖霊に導かれていました。神はそのわざを継続させ,栄えさせられるのです。―使行 5:38,39。
王と王国を宣伝する
22 J・F・ラザフォードがものみの塔協会の会長になって間もなく,エホバのクリスチャン証人はどんな困難を経験しましたか。しかし,結局どうなりましたか。
22 J・F・ラザフォードはものみの塔協会の会長に選ばれ,C・T・ラッセルのあとを継ぎました。しかしラザフォードは,組織を支配しようとする野望をいだいていた組織内の反対派の人びとと真っ向から対立しました。彼らの努力が完全に失敗に帰すまでにはかなりの時間がかかりました。同時に,エホバのクリスチャン証人は,僧職者によって引き起こされた激しい迫害に直面しました。(マタイ 24:9)さらに,1918年5月7日,J・F・ラザフォードおよび協会と関係を持っていた他のおもだった人びと7人が逮捕され,後に裁判を受け,ついには偽りの告訴に基づいて有罪宣告を受けるに至って,証人たちのわざに重大な打撃をこうむるかに見えました。彼らは次のように告発されました。すなわち,彼らは ―
不法かつ悪質にも確かに共謀し,団結し徒党を組み,互いに,また当大陪審員の知らない他のさまざまの者たちと同意の上でアメリカ合衆国に対して罪を犯した。すなわち,戦時中,不法かつ悪質にも故意に不服従,不忠誠およびアメリカ合衆国陸海軍の兵役参加拒否の態度を人びとに取らせる罪を犯した……個人的教唆,手紙,公開講演により,また「聖書研究,第7巻,完成された奥義」と呼ばれる本をアメリカ合衆国の至る所で配布し,公に流布することにより,さらに「聖書研究生月刊」「ものみの塔」「王国ニュース」と呼ばれるパンフレットおよび他の無名のパンフレット類を合衆国中で配布し,公に流布することによって,これを行なった。
ジョージア州アトランタの連邦刑務所で何か月かを過した後,彼らは保釈されました。1919年5月14日には,彼らの受けた誤った判決は破棄され,次いで1920年5月5日,彼らは完全に無罪とされました。比喩的に言って,神の「ふたりの証人」つまりキリストの油そそがれた追随者たちは死にましたが,協会の代表者たちが刑務所から解放された後,「神からの命の霊」によって生気づけられた彼らは,神を賛美するために組織されて再び勢いよく飛び出してゆきました。―黙示 11:3-12,新。
23,24 (イ)1919年にオハイオ州シーダー・ポイントで開かれた聖書研究生の大会は,どんな点で彼らのわざに影響しましたか。(ロ)王国を告げ知らせる点で,1922年の大会にはどんな意義がありましたか。
23 1919年にはオハイオ州シーダー・ポイントで感動的な大会が開かれました。それは聖書研究生のわざに新たな勢いを付与するものとなりました。とりわけ,その大会では,宣べ伝えるわざで使う新しい器が彼らに与えられました。それは宗教上の誤りを暴露し,聖書に見いだされる希望や慰めに注意を向けさせる月刊誌「黄金時代」でした。以来半世紀余を経た今日,同誌は「目ざめよ!」という新たな名称のもとに依然としてその同じ目的を成し遂げています。
24 1922年,聖書研究生は再びシーダー・ポイントに集って大会を開きました。このたびは,9月8日,金曜日に行なわれた,「王国」という主題に関するJ・F・ラザフォードの講演が特に重要な意義を持つものでした。彼は次のような力強いことばで話を結びました。「ご覧なさい,王は統治しておられます! あなたがたは王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。それと同時に,演台の上方の標語を書いた長さ10㍍余の旗が広げられました。それには,「王と王国を宣伝せよ!」と書かれていました。以来,今日に至るまで神のしもべたちは王国を宣伝してきました。
25 どんな状況のもとで聖書研究生は「エホバの証人」という名称を採用しましたか。それは聖書に基づいていますか。
25 やがて,1931年が訪れ,聖書研究生はオハイオ州コロンバスの大会に集まりました。その大会で彼らは決議を採択し,聖書に基づく「エホバの証人」という名称を心からの喜びをいだいて採用しました。(イザヤ 43:10-12,新)彼らは喜んでエホバのみ名を担い,神とその目的について全地で証を行なってきました。
彼らの賛美する神によって支えられる
26,27 エホバを賛美するために組織された人たちにとってエホバが「難みのときの城」となられたことを示す実例を挙げなさい。
26 その後,何年にもわたって豊かな祝福を受けましたが,同時に多大の迫害をもこうむりました。たとえば,第二次世界大戦中,エホバのしもべたちは数多くのつらい経験に遭いました。ナチの手で投獄されたひとりの兄弟は述べました。
食物を与えられないのはしばしばでしたし,毎日重労働をしいられたため,私の体力は目に見えて衰えてゆきました。そうした状態にあったため,やせこけた自分のからだを動かすことさえほとんどできないほどでした。行進して収容所にはいる時には,ふたりの兄弟が両脇から私を支えてくれました。また,しばしばひと握りの砂を呑み込んでは空腹感をなんとか紛らわそうとしました。ほかの兄弟たちもやはりそうしました。それで私たちは,あらゆる方法を講じて何とかして生き続け,そうすることによってサタンと親衛隊員にうそつきの極印を押せるよう努めました。というのは,彼らはしばしばこう言ったからです。「おまえたちのエホバはどこにいるのだ。エホバに助けてもらえ!」 エホバは驚くべき仕方で私たちを助けてくださいましたと,私は言わねばなりません。
27 エホバは確かにご自分のしもべたちを援助されます。エホバの霊は,組織として,また個人としてのその民の上に留まっているのです。神を賛美するために組織されている人たちにとって,エホバは「難みのときの城」であることを何度も実証してこられました。―詩 9:9。
神を賛美するよう教育され,強化される
28 ものみの塔ギレアデ聖書学校はいつ開校されましたか。同校は何を成し遂げてきましたか。
28 1942年1月8日,J・F・ラザフォードは亡くなりました。その五日後,万場一致の票決でN・H・ノアがものみの塔協会の会長に選ばれました。彼とその同僚たちはさっそく広範に及ぶ教育的なわざを開始しました。1943年2月1日は,ものみの塔ギレアデ聖書学校の献堂および開校式の行なわれた著しい日となりました。以来,多年にわたってこの学校は何千人もの奉仕者に外国での宣教者のわざや,エホバのしもべたちの拡大する組織内の他の重要な割当てを遂行するよう備えさせてきました。
29 神権宣教学校はどんな点で個人個人に益を与えていますか。
29 1943年にはまた,エホバの証人の個々の会衆に新しい学校が開設されました。それは神権宣教学校で,最初は男子のために開校されました。今日,同宣教学校はその名簿に載せられている男女子供を援助し,また毎週開かれるその学校に出席する人すべてに大きな益を与えています。この学校に入っている人たちは,聖書に関する資料の集め方や話の作り方,またその提供の仕方について教えられます。この学校やエホバの証人の他の集会で受ける教育は,聖書の知識や認識を深めさせ,また奉仕の務めを遂行する能力を増し加えさせます。
30 王国宣教学校はいつ開設されましたか。その学校の目的は何ですか。
30 1959年には,もう一つの組織的な備えがその機能を開始しました。それは王国宣教学校です。便利のよい場所に設けられ,ものみの塔協会の指示のもとにいろいろの土地で運営されるそれらの学校は,霊によって任命された監督たちにクリスチャン会衆内で責任を遂行するための訓練を施します。―使行 20:28。テモテ前 3:1-10,12,13。ペテロ前 5:1-4。
31 1958年にはエホバの証人のどんな重要な集まりが開催されましたか。
31 神がご自分の献身的な崇拝者たちのわざを繁栄させてくださったので,エホバの地上の組織は拡大しました。彼らの開いてきた種々の大規模な集まりには少なからず重要な意義があります。その一つは1958年7月27日–8月3日にわたって開催されたエホバの証人の「神の御心」国際大会です。その大会では,「神の王国は支配す ― 世の終わりは近いか」と題するN・H・ノアの行なった公開講演のさい,25万3,922名の聴衆がニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ競技場を埋めつくしました。
32 エホバの地上の組織はどうして霊的に強化され,また増加を経験してきましたか。
32 神からの祝福は,エホバの地上の組織を霊的に強化し,またその結果,王国を宣べ伝えるわざを産出的なものにしました。今日,そのわざは,ものみの塔協会の95の支部事務所の指導のもとに208の土地で遂行されています。こうした増加はひとえにエホバのお陰であることを認めねばなりません。神はご自分の忠実なしもべたちを祝福してこられましたし,また神の目的を告げ知らせ,弟子を作る彼らのわざの面で神の聖霊は彼らを支えてきました。―マタイ 28:19,20。
33 近年真理を学んできた人たちにとって,どのように自問するのは適切なことですか。
33 また,さらに何千人もの大勢の人びとがまさしく現在に至るまで引き続き群れをなしてエホバの組織に入ってきました。そうした人びとがやって来るのを見るのはなんとすばらしいことでしょう。しかし,彼らは自分たちの学んでいる良いたよりをどう扱いますか。神の熱心なしもべたちがこれまでの年月の間に示してきたものと同じ熱意を表わしますか。また,同様のがまん強さを示しますか。今日,エホバの組織内には悪天候や不健康そして迫害をもものともせずに50年以上も野外奉仕に出かけてきた人たちがいることを忘れないでください。一生懸命に行ない続けるよう彼らを動かしてきたのは,エホバに対する純粋の愛なのです。
34 (イ)エホバが示された模範と一致して,エホバの組織内でわたしたちは互いのことをどう見るべきでしょうか。(ロ)急を要するどんなわざには,わたしたちすべてのなすべき事がたくさんありますか。
34 もしかしてあなたはこれまでのほんの数年のうちにエホバの組織と交わってこられたかもしれません。あなたはそうした年老いた人たちのことをあまり長く知ってはいないかもしれません。晩年の彼らのことしかしらないでしょう。それらの人たちをどう見ますか。このことに関して,最近ものみの塔協会に寄せられた一通の手紙はこう述べています。「私は『1973年度の年鑑』に対する感謝の気持ちを表わしたいと存じます。……『現代におけるエホバの証人の活動』という見出しのもとにある,その32ページの第3節は,私が一番感銘を受けた一節ではないかと思います。この節は,今確かに存在する状況に次のように注意を引いています。『現代の世代の人びとは時として,自分たちが今成し遂げている事がらだけを考えます。しかし実際のところ,エホバの証人の現代の世代の人びとは,何年も前に忠実な福音宣明者たちが行なった事がらの上に物事を築いているのです』。それはなんと真実なのでしょう。『1973年度の年鑑』の編集の仕方は,『真理において日の浅い者』である私たちが,『真理においていっそう年を経た兄弟たち』を別の見地から見,彼らを単に『年老いた友人』もしくは『年老いた兄弟姉妹』などとみなさないようにする助けとなります」。エホバのしもべたちはおのおのエホバの組織の中で自分の場所を持っており,おのおのエホバにとって貴重な存在です。また,彼らすべてのなすべきわざがありますし,聖書は,わたしたちが『主の業においてなすべき事をいっぱい』持ち,それがだれでも行ないうる最も価値あるわざであることを知るよう勧めています。(ゼカリヤ 2:8。ハガイ 2:7。コリント前 15:58,新)一致団結した集団であるエホバの証人は,エホバに賛美をもたらすために組織されてきたことを感謝して,全地にわたって引き続き自分たちの天の父をほめたたえてゆきます。
[586ページの図版]
C・T・ラッセル
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1922年のシーダー・ポイント大会で協会の会長J・F・ラザフォードは,神の王国を宣べ伝えることを大いに強調し,力強く次のように勧めた。「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい!」
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N・H・ノアがものみの塔協会の会長に就任した後,教育が大いに強調された。そのために設立された学校の一つは,ものみの塔ギレアデ聖書学校である