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寛大は富ますものみの塔 1953 | 12月1日
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ません。
ヱホバ神が示される例は,なんとそのようなケチな態度と違うのでしよう! 寛大な気持の中に,ヱホバ神は人間が地上で永遠に住み,終りなく尽きることのない祝福を楽しという目的を立てられました。そして単に物質的な祝福だけでなく,霊的な賜物に於いてもヱホバは寛大です。『若しあなた方の中の誰かか智慧に欠けているならば,その人をして神に求めさせなさい,というのは神はすべての者に物惜しみせず,また咎めずに与えられるからである。そしてそれはその人に与えられるであろう』。(ヤコブ 1:5,新世)ソロモンは寛大に関する智慧に感謝して居ました。『ほどこし散らして反りて増すものあり,与うべきを吝みて反りて貧しきに至る者あり。施与を好む者は肥え,人を潤す者また利潤をうく。』さらに又『汝の糧物を水の上に投げよ多くの日の後に汝ふたたび之を得ん。汝一箇の分を七また八に分て,其は汝如何なる災害の地にあらんかを知らざればなり。』― シンゲン 11:24,25。デンドウ 11:1,2。
キリスト・イエスも寛大に関する智慧を強調しました。『与えることを行いなさい,そうすれば人人はあなた方に与えるであろう。人人は良い桝目をあなた方に与えるであろう,その桝目はぎつしりと詰め込まれ,ゆすり振られて,溢れるばかりであろう。あなた方の与える桝目に応じて,人人もあなた方に与えるであろう。』また『若し権威ある者があなた方に命じて一里行くように強いるならば,その人と一緒に二里行きなさい。あなた方に求める者には与えなさい,利息なしであなた方から借り度いと思う人を拒絶してはならない。』(ルカ 6:38。マタイ 5:41,42,新世)パウロも此の点を説明して居ります。それは特にコリント人えの第二の手紙に示しています。『私達の心は広くなつた……私は子供達に向つて語るように話すが ― あなた方の心も広くなつた。』『吝に播く人は,また収穫も吝であろう。豊かに播く人は,また豊かに収穫するであろう。』
しかし,寛大に関する智慧はただ物質的な面だけに適用すると考えてはなりません。その考え方は間違いです。クリスチャン奉仕者は丁度使徒ペテロやヨハネのようです。ペテロもヨハネも金や銀を持つて居らず宮の戸のところに横つていた不具者に与えませんでしたが,彼等は身体上の健康以上にもつと価値あるものを与えることが出来ました。確かに私達が与える真理と,神の御国の希望と慰めの賜り物は精神的な健康という結果をもたらします。それは金や銀よりも,ずつと価値のあるものです。他の人達に慰めをもたらす際に,私達の時間と精力を惜しみなく用いれば用いる程,私達は精神的に『潤』い,元気ずけられ,肥え,繁栄します。私達が寛大で,物惜しみしない例を示せば,善意者の心には寛大な感情が引き起されるでしよう。
私達が寛大を示し,それによつて富まされる別の面は,憐れみを示すことによつてです。他の人達や,また家族の者として一緒に住んでいる者や,一緒に働く仲間や,またクリスチャン会衆内の仲間を裁く時に私達は寛大でなければなりません。私達は皆不完全であり,私達は皆間違いをします。時に,或る一人の人に関して良くない報告を聞くかも知れません。賢明な方法は寛大であり,憐みの心を持ち,他の人達の失敗を許すことです。その人達に出来るだけ不審の気持を感じさせ,なにか許されるような事情があつたに違いないと考えさせなさい。そのような考えの方法は,私達に心の平和を与え,間違えている人達を助けることが出来ます。寛大であり過ぎて,許すために間違える方が,厳し過ぎて許さないことよりも良いです。憐れみを示すことによつて,私達は憐れみを受けます。
真に,寛大を示すことは賢い途です。寛大は,寛大の与えられる人も,また寛大を示す人をも富まします。たとえそれが物質的な賜物,あるいはまた精神的な賜物ということに於いて表わされ,あるいはまた他の人達に憐れみを示すということに表わされても,寛大は富まします。
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たしかな導きものみの塔 1953 | 12月1日
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たしかな導き
2月5日号のロンドンのカソリック・ヘラルド紙は次のように述べて居ります。『カソリックの信者は聖書を読むことを許されて居ないという非難に反駁するのにカソリックの信者は聖書を読むことを許されて居り,読むことをすすめられていると言うだけでは充分ではない。反駁がよく利くのは,ただカソリックの信者が聖書を読み,また愛し,そしてその読むという事実を心の持ち方や,言葉の変化の中に示す時である。あらゆるものにもまして,教理と霊的生命にたいする深い感謝の中に示す時である。その霊的生命は聖書を良く学ぶ時に得られるのである。』抗議を申し込もう! カソリックの信者が聖書を読むようにすすめられているということを信ずる人は一人も居ません。カソリックの信者にとつて聖書を読むことは必ずしも喜いものではありません。というのは熱心に研究すると次のことがはつきり判るからです。すなわち昔のパリサイ人が真の教理につけ加えたのと全く同じく,今日の宗教も真の教理につけ加えているのです。
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