聖書理解の助け ― 怒り
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
怒り 聖書の中では,基本的には「鼻孔」(激情に燃え立つ人の激しい息づかい[または,その荒い鼻息]から),「熱さ」,「興奮」,「怒り」,「激怒」,「あふれ出た[感情]」,「自然な衝動もしくは欲望」などを意味するヘブライ語およびギリシャ語の言葉が,文脈により,またその場の意味合いによって「怒り」,「義憤」,「憤り」,「激しい反感」,「激怒」,「激昂」などと訳されています。
神の怒り
怒りには正当な場合とそうでない場合とがあります。神の怒りは常に正当なものです。それは,原則に根ざし,専心の献身を求める当然の権利に基づき,常に真理を擁護する態度に発し,義とそれを実践する人々に対する愛に支配されているからです。神の怒りが一時的な気まぐれから出,そのため後でそれを後悔するというようなことはありません。エホバは関係するすべての問題を見きわめ,その状況についてすべての事を完全に知っておられます。(ヘブライ 4:13)エホバ神は人の心を読み,無知と怠慢と故意の罪の程度に注目して公正に対応されます。―申命 10:17,18。サムエル前 16:7。使徒 10:34,35。
神の憤りを制御する諸原則
神の怒りはいつでも制御されており,愛,知恵,公正の属性と調和を保っています。また,その全能の力により,怒りをご自分の欲するだけ表明することもおできになります。(ヨハネ第一 4:8。ヨブ 12:13; 37:23)神の怒りがむなしく終わることはありません。それには常に十分の理由があり,必ず効果を上げます。神の怒りは神ご自身の原則が実施されることによって和らぎ,静められます。例えば,イスラエルにおいて故意の殺人者のための贖いは認められませんでした。その者の血を流すことによって初めて,その地は清められ,神の不興は除かれました。(民数 35:16-18,30-33)しかし,犠牲および大祭司の奉仕を基として公義を満たし,心が『熱して』いたであろう,神の定めた血の復しゅう者の怒りを静めるための取り決めも設けられていました。これが避難都市の備えでした。―申命 19:4-7。
エホバの怒りは,公義が十分に遂げられるときに初めて静められ,和らぎます。神の憤りは一切の不義に対して向けられます。神は不義を容認されず,当然の処罰を免れさせるということはされません。(出エジプト 34:7。ハバクク 1:13)しかし,イエス・キリストの犠牲に基づいて神の怒りは和らげられ,撤回されます。イエスは,信仰を働かせる人々に対し,その人々の当然受けるべき苦痛と懲罰を身に負われたからです。(イザヤ 53:5)この取り決めによってエホバ神はご自分の義を示され,「イエスに信仰を持つ人を義と宣するさいにもご自分が義にかなうように」されました。(ローマ 3:26)このようにして公義は十分に満たされ,しかも神は憐れみを差し伸べるための基を持たれます。不従順な人の上には神の憤りがとどまっています。(ヨハネ 3:36)ですが,信仰を働かせるなら,イエス・キリストの犠牲がその人を神の憤りから救うのです。―テサロニケ第一 1:10。
怒りを表明される方法,またその理由
神の怒りは直接表明される場合と間接的に表明される場合とがあります。神は自然の事物を支配する法則も利用され,また他の人を用いて怒りを表明する器とされる場合もあります。神の道徳上の律法を犯す人は神の憤りの下に置かれ,『その誤りに対して当然な十分の返報を身に受け』ます。その人々は否認された精神状態,堕落,病気,抗争,死などを経験します。(ローマ 1:18,24,27-32)人が神の法とも調和する土地の法律を犯して行政府から処罰を受ける場合,それはその人に対する神の憤りの間接的な表明です。(ローマ 13:1-4)イエス・キリストは神の怒りの主要な執行者であり,神の憤りを余すところなく表明して,邪悪な者に対する神の怒りを完遂します。―エレミヤ 30:23,24。啓示 19:7-16,19-21。
神の選んだ人々に対する誤った態度や行動は神の怒りを引き起こします。エジプト人は,イスラエルがエホバを崇拝することを許さなかったために災厄を被りました。(詩 78:43-50)ミリアムとアロンは,神の定めたモーセの地位に対する不敬のために神の激しい怒りを経験しました。(民数 12:9,10)エホバの怒りは低い立場の人々を圧迫した裁き人に対して向けられました。(イザヤ 10:1-4)「良いたより」の伝道の業を妨害する人々も神の憤りを受けることになります。―テサロニケ第一 2:16。
エホバは偽りの崇拝に対して怒りを抱かれます。エホバの民と唱える人々が他の神々にそれてゆく時には特にそうです。(出エジプト 32:7-10。民数 25:3,4。士師 2:13,14,20。列王上 11:8,9)ほかにも,不道徳行為,真実の抑圧,悔い改めの不足,「良いたより」に対する不従順,み言葉に対する不敬,ご自分の預言者に対する嘲弄,貪欲さ,無礼さ,そねみ,殺人,抗争,欺瞞,悪意,また,つぶやく者,陰口をきく者,神を憎む者,尊大な者,ごう慢な者,うぬぼれる者,有害な事柄をもくろむ者,親に不従順な者,合意したことに不実な者,憐れみのない者,心霊術を行なう者,うそをつく者などに対して神は怒りを抱かれます。ここに挙げたすべて,また他のあらゆる不義の行ないに対して神の怒りが示されるのです。―コロサイ 3:5,6。テサロニケ第二 1:8。ローマ 1:18,29-31; 2:5,8。歴代下 36:15,16。啓示 22:15。
怒りは主要な特質ではない
しかし,エホバ神は「怒ることに遅く,愛の親切に富んで」おられます。(出エジプト 34:6; 民数 14:18,新)エホバを恐れ畏んで義を実践するなら,その人はエホバからの憐れみを受けます。全能者は人間の相続した不完全さを認め,そのために,またイエスの犠牲に基づいて憐れみを示されるからです。(詩 103:13,14。創世 8:21。ゼパニヤ 2:2,3も参照)神はご自身のみ名のゆえ,また選びの民に対するご自分の目的を遂げるために怒りを抑えられます。(イザヤ 48:9。ヨエル 2:13,14)エホバの怒りは,真実に神に仕え,自分の罪を認めて悔い改める人々に対してはやがて消えてゆきます。(イザヤ 12:1。詩 30:5)エホバは怒りの神ではなく,幸福の神,近づきにくい神ではなく,正しい手順でみ前に近づく人々に対して平和で,静穏で,さわやかな方であられます。(テモテ第一 1:11。詩 16:11。啓示 4:3と比較)これは,異教の偽りの神々に付せられる,怒りに燃える無慈悲で残酷な特質,またそれらの神々の像に描かれる特質とは対照的です。
人の怒り
人間の怒りも,原則にのっとるものであれば,正しい場合があります。人が当然義憤を表明すべき場合もあるでしょう。わたしたちは,「邪悪なことは憎悪」するように命じられています。(ローマ 12:9)聖書は義憤を表明した例を数多く記しています。―出エジプト 11:8; 32:19。民数 16:12-15。サムエル前 20:34。ネヘミヤ 5:6。エステル 7:7。サムエル後 12:1-6も見よ。
しかし,人の怒りは無制御で正当化できない場合も少なくありません。十分な理由がなく,結果に対する顧慮を尽くさずに表明される場合も多いのです。エホバがニネベを滅びから免れさせた時,ヨナはそれを不快に感じて「激しい怒りに燃え」ました。ヨナは憐れみを欠き,エホバから矯正を受けなければなりませんでした。(ヨナ 4:1-11)ユダのウジヤ王はエホバの祭司たちから正された時,激怒して僭越な振舞いをし,そのために処罰を受けました。(歴代下 26:16-21)ナアマンは無思慮な誇りのために憤って激怒し,あやうく神からの祝福を得そこなうところでした。―列王下 5:10-14。
制御することが肝要
不当で無制御な怒りによって人は罪の度合を深め,暴力の行為にまで進みました。「カインは激しい怒りに燃えて」アベルを殺害しました。(創世 4:5,8)エサウは父の祝福を受けたヤコブを殺そうとしました。(創世 27:41-45)サウルは激怒のあまりダビデとヨナタンに槍を投げつけました。(サムエル前 18:11; 19:10; 20:30-34)また,ナザレの会堂に集まっていた人たちはイエスの話を聞いて怒り,山のがけから突き落とそうとしました。(ルカ 4:28,29)怒りに満たされた宗教指導者は「[ステファノ]に向かっていっせいに突進し」,彼を石打ちにして殺しました。―使徒 7:54-60。
怒りは,それが正当な場合でも,制御されないなら危険であり,よくない結果に至ります。シメオンとレビはシケムに対して憤るべき理由がありました。デナにも責めるべき点があったとはいえ,シケムが彼らの妹デナを辱しめたからです。しかし,シケムの人々に対する気ままな殺りくは,課すべき当然の刑罰をはるかに越えていました。そのため父ヤコブは,彼らの無制御な怒りを糾弾して,それを呪いました。(創世 34:1-31; 49:5-7)ひどい挑発を受けた場合でも,人は自分の怒りの情を制御すべきです。イスラエル人の不平と反逆的な態度のために,地上で最も穏和な人とされたモーセも無制御な怒りに駆られて行動し,エホバを聖なるものとすることを怠って処罰を受けました。―民数 12:3; 20:10-12。詩 106:32,33。
激発的な怒りは,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,飲み比べなど他のいとうべき肉の業と並べて論じられています。これは人が神の王国を受け継ぐのを妨げます。(ガラテア 5:19-21)怒り声は会衆内にあってはなりません。これを行なうために助けになるのは祈りです。(テモテ第一 2:8)クリスチャンは憤る点で遅くあるように命じられており,人の憤りは神の義の実践とはならないと告げられています。(ヤコブ 1:19,20)また,「神の憤りに道を譲」るように,復しゅうは神に委ねるようにと諭されています。(ローマ 12:19)憤りやすい人であれば,神の会衆内の監督としては用いられません。―テトス 1:7。
人は時おり怒りに満ち,それを当然とみなせる場合もあるかもしれませんが,それを根深く宿したり,ずっと憤慨していたりしてそのために罪を負ってはなりません。そうした状態のままで日を暮れさせてはなりません。それは悪魔におりを得させることになるからです。(エフェソス 4:26,27)とりわけ,クリスチャン兄弟相互の間の怒りの情であれば,和ぼくし,あるいは神の定めた方法で事を解決するため正しい手順を尽くすべきです。(レビ 19:17,18。マタイ 5:23,24; 18:15。ルカ 17:3,4)聖書は,この点で交わりに気をつけ,怒りや発作的激怒に駆られる人との交友を避けて,自分の魂をわなから守るようにと諭しています。―箴 22:24,25。
イエス・キリストは地上の人間としていた時,わたしたちに完全な手本を残されました。その生涯の歩みに,無制御な怒りを爆発させたり,神に敵対する人々の不法や反逆や攻撃に遭ってその霊をかき乱され,追随者その他の人々にそれを表わしたような例は一つもありません。ある時イエスはパリサイ人の心の無感覚さを「深く憂え」,憤りをもって彼らを見まわされました。しかし,イエスの次の行為はいやしの業でした。(マルコ 3:5)別の時,神の神殿を汚し,かつエホバの家を売り買いの家としてモーセの律法を破っていた人々を追い出したことがありましたが,それは決して無制御で不当な激発的怒りによるものではありませんでした。むしろ聖書は,それがエホバの家に対する正しい熱意の表明であったことを示しています。―ヨハネ 2:13-17。
有害な影響を避ける
怒りの感情はわたしたちの霊的健康にとって有害ですが,身体に対しても深甚な影響を与えます。それは血圧を上げ,動脈系の変調を来たし,呼吸障害,肝臓の不調,胆のうの分泌異常を起こし,すい臓にも影響を与えます。強い感情である怒りと激怒は,ぜん息,目の痛み,皮膚病,じんましん,かいよう,歯や消化器系の障害などを高じさせ,それを引き起こすことさえあると,医師たちにより指摘されています。激怒や激昂の情は思考の過程をも狂わせ,人は論理的な結論や健全な判断を下すことができなくなります。激しい怒りを爆発させた後には憂うつな感情の続くことが少なくありません。ですから,怒りの情を制御し,愛と平和を追い求めるほうが,宗教的な面だけでなく,身体的な面でも知恵の道です。―箴 14:29,30。ローマ 14:19。ヤコブ 3:17。ペテロ第一 3:11。
聖書によると,「終わりの時」は激しい怒りと激昂の時代となります。エホバが力を執って治め始めたことに対して諸国民は怒り,悪魔は地に投げ落とされ,「自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだ(き)」ます。(啓示 11:17,18; 12:10,12)そのような厳しい状況にあって,クリスチャンは自分の霊を制御し,破壊的な怒りの感情を避けるのがよいでしょう。―箴 14:29。伝道 7:9。
「あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは肢体として互いのものだからです。憤っても,罪を犯してはなりません。あなたがたが怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい。悪魔にすきを与えてもなりません」― エフェソス 4:25-27。