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謝罪は弱いしるしですかものみの塔 1961 | 9月15日
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いだいていることを,そこで思い出したなら,その供え物を祭壇の前に残しておき,まず行ってその兄弟と和解し,それから帰ってきて,供え物をささげることにしなさい」。
ここでイエスは,ユダヤ人が宮の庭にささげ物をもってきて,祭司がそれを受け取りにくる時を待つ習慣について述べています。ささげ物をもってきた者は,祭司がそれを受け取って殺し,犠牲の祭壇にささげられるまで待ちました。これは,イスラエル人が身を投げ出して神のあわれみを請い,その犠牲を通して神のゆるしを求める厳粛なしゅん間で,この時には,兄弟との間にどのような問題も残っていてはなりませんでした。もし兄弟になにか悪いことをしたのを思い出したら,どうすべきだったでしょうか。『このささげ物を神にささげたら,さっそく兄弟のところへ行って,おわびをしよう』といってもよかったでしょうか。そうではありません。つぎのことをするまえに ― つまりささげ物をそなえるまえに ― ささげ物を祭壇のまえに残しておいても,先ず和解を求めるべきでした。兄弟と和解しないなら,どんな犠牲をささげても,クリスチャンと神との間に平和はありえないことをイエスはその時示されたのです。
クリスチャンはこれから何を学ぶべきですか。神と和解するということは,目に見える神の会衆のメンバーと和解しなければならないということです。ですから,クリスチャンとクリスチャンの兄弟たちとの関係は,全能の神とクリスチャンとの関係を表わします。まず神の地上の制度と和解しなければ,神と和解することはできません。ですからイエスの助言はすこぶる明確で,エホバ神の制度およびそのメンバーすなわちクリスチャンの兄弟たちと和解せよということです。兄弟たちと和解し,それによって神と和解するには,問題を清算する必要のある時があります。そしてそれには,必然的に謝罪が必要となるでしょう。
では,どうして,あやまることを弱さのしるしと見ることができるでしょうか。もし人が,神の霊をもち,愛,けんそん,平和,一致に関する神の要求を理解しているなら,そのような見方はできません。
心からの謝罪は,弱さどころか,強さのあらわれです。神の御言葉は述べます,「怒れる兄弟はかたき城にもまさりて説き伏せがたし,兄弟のあらそひはやぐらの貫木のごとし」。平和,一致,親しい関係をはばむこの強い障害物は何によって取り除かれますか。誇りや,誇りを態度に表わすことによって,問題が解決するでしょうか。それはありえません。しかし,親しい関係の再現をはばむ,城の鉄の貫木のように強い障害物を除くに十分の力をもつものがあります。それは謝罪です。
また,公平と正義という問題もあります。心から出た謝罪は,義ということを心にかけていることを示します。兄弟と不和の間柄である時に神にささげる犠牲が無価値であるのと同じく義を行なわない者のささげる犠牲も無価値です。神聖な規則は,「正義と公平を行ふはいけにへよりもまさりてヱホバによろこばる」です。(箴言 21:3)行なったかも知れない悪い事に対して謝罪をする人は,正義という問題に対して正しい考えをもっていることを示します。
多くの俗人の意見とは反対に,謝罪は弱さのしるしではありません。それは,一致をはばむ障害を打ちくだく力であり,義を行なっている一つのしるしです。愛とけんそんさで満ちた心をもつ人は,謝罪の力から益を受けます。
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風紀の代りに建物ものみの塔 1961 | 9月15日
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風紀の代りに建物
「現代の宗教は,信仰の強さと『きびしさ』を『肉体の柔弱と快楽」という祭壇の上に犠牲にしてしまつた。……とニューヨークの一ラビは語つている。……ウイリアム・エフ・ローゼンブラム博士は,「教会とユダヤ教会堂の熱烈なる欲望」を評して,『霊のことを重んずる品位ある人々』の育成のかわりに荘大な建物の建築に熱を入れていると評した。『人々の風紀に気を配ることを怠って,荘大な建物のために富と精力を浪費した国民はおとろえ,多くの場合滅びた。これは歴史の教える明白な教訓である』。」― 1960年10月2日付ニユーヨーク・タイムズ。
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