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なぜつぶやかないようにしなければなりませんかものみの塔 1979 | 4月15日
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に優れています。つぶやく者,また不平を言う者が同時に,隣人を愛しなさいという命令に従うことはできません。(マタイ 22:39)つぶやきは,悪く言われた人はもちろんのこと,つぶやいている人にも害を及ぼすものです。愛はすべての人に善を行ないます。(コリント第一 8:1; 13:4-8)では,『愛の王たる律法』に従いましょう。―ヤコブ 2:8。
不満や不平を言う人々に耳を貸すよりも,キリスト・イエスの謙そんな態度を思いに留めるほうがよいでしょう。「彼は神の形で存在していましたが,[イエスは]強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした」。むしろ,「彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」。わたしたちの従うべきなんとすばらしい模範なのでしょう。イエスが物事を行なわれたその仕方には,反逆的なところは全くありませんでした。―フィリピ 2:5-8。
それどころか,イエスは天の父に対して心からの忠節を示しました。彼はまた,他の人がつまずいたときに大変気遣われました。あるときイエスは弟子たちにこう言われました。「つまずきのもととなるものが来ることは避けられません。でも,それが来るその経路となる人には災いが来ます! その人にとっては,臼石を首にかけられて海の中に投げ込まれたとすれば,そのほうが,これら小さな者のひとりをつまずかせるよりはましでしょう」。(ルカ 17:1,2)あなたは,イエスが他の人々に対してこのような同情を示しながら,なおかつつぶやく者であったというようなことを考えられますか。
他の人々に愛ある関心を示し,み父に忠実に従ったためにイエスは大きな報いを受けられました。復活し天に昇ることによって,キリストは他のすべての被造物に勝る地位に高められたのです。(フィリピ 2:9-11)地上におられたとき,イエスは堕落した人間の弱点や問題を理解することができました。現在イエスは高められた地位におられますが,「わたしたちの弱いところを思いやること」ができ,わたしたちを助けに来てくださいます。(ヘブライ 2:18; 4:15)わたしたちも,他の人々に対して不平を言うのではなく,愛ある関心を示し続けることによって多くの祝福を得られることを確信できます。
では,何を結論とすべきですか。つぶやきや不平の精神は,不足感や不満を生じさせるということです。これは神への反逆に導く場合さえあります。そうしたことが自分の身に生じることを望まれますか。それとも,自分が天の創造者の祝福と是認を得ているという自覚に基づいた,あふれるほどに満ち足りた生活を送ることを望まれますか。あなたは神の是認を願っておられるに違いありません。そうであるなら,「すべての事を,つぶやかずに,また議論することなく行なってゆきなさい。それはあなたがたが,とがめのない純真な者,また,曲がってねじけた世代の中にあってきずのない神の子どもとなるためです。その中にあって,あなたがたは世を照らす者として輝(いています)」― フィリピ 2:14,15。
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賢明な格言ものみの塔 1979 | 4月15日
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賢明な格言
「愚鈍な者にとって真の知恵は高すぎる。門の中でその者が口を開くことはない」。これは箴言 24章7節(新)のソロモンの言葉です。
この簡潔な格言は,本当に奥の深い教えです。愚鈍な者にとって,真の知恵は高すぎて,手が届かないところにあるかのようです。愚鈍な者はそれを手に入れる努力をいといます。元のヘブライ語を別の翻訳では「知恵はサンゴのようである」としていますが,昔の人々にとって魅力的な装飾用のサンゴは高価なものでしたから,愚鈍な者には,真の知恵が高くつき過ぎると言うことができました。愚か者はしりごみして努力という代価を支払うこと,つまり知恵を得るために必要な犠牲を払うことをしません。
古代イスラエルにおいて,知恵に富む年長者たちは町の門に集まり,論争の裁きを下したり,助言を与えたりしました。そこは愚か者が話をする所ではありませんでした。愚者は賢明な助言を求めてそこにやって来ることさえありません。門で口を開くよりも,愚鈍な者は別の場所でばかげたことをしゃべり散らすのです。
ソロモンは「愚鈍な者」に関する事実を生き生きと描くことによって,わたしたちが知恵の真価を認識するよう助けています。
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