自制心を培いそして表わす
「御霊の実は……自制であ(る)」― ガラテヤ 5:22,23
1 自制は何にたとえることができますか。なぜ?
天然の真珠には価値があります。それは珍重されます。しかしそれは努力なくして得られるものではありません。ペルシャ湾は品質の最もすぐれた天然真珠のとれる所とされていますが,ここの真珠採取夫は真珠貝のある海床まで1日25回から30回もぐり,一度に約十ぐらいの貝をとって水面にあがります。ダウつまり沿岸航行用のアラビアの帆船には40人から50人が乗り組み,その半分が潜水夫です。しかしこう伝えられています。「良質の真珠がとれることは非常に少ない。たとえば1947年,ある船は1週間に3万5000の真珠貝を採取したが,それから得られた真珠はわずかに21であった。そのうち商業的な価値のある良質のものは3つである」。(アメリカナ百科事典,1956年版第21巻455頁)希少で価値の高いほんとうの真珠は自制という資質のたとえとすることができるでしょう。この「終りの時」にこれはまれな資質となっているではありませんか。「無節制な者」がなんと多いことでしょう。―テモテ第二 3:1-3。
2 自制を定義しなさい。
2 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で自制と訳されるギリシャ語は「エグクラティア」で,これは『自己統制,自己制御。楽しみ事における節度,中庸。欲情の支配,統御』という意味です。(ジェームス・ドネガン編「新希英辞典」,1836年,423頁)「ウェブスター第三新国際辞典」によれば,自制とは「自己の制御。自分の衝動,感情,願望などを抑制すること」です。また,自制は精神的また身体的な力の平衡と安定を保ち,それらを制御することであるとも言えるでしょう。クリスチャンはこの願わしい資質をもつことができます。クリスチャンは神の聖霊を受けており,「御霊の実は……自制[エグクラティア]であ(る)」からです。(ガラテヤ 5:22,23)しかし,ほんとうの真珠を求める者が勤勉に働かねばならないと同じく,霊に満たされるクリスチャンは,この自制という真珠のように価値ある資質をつちかい,発揮するため,熱心に努力しなければなりません。
3 自制はクリスチャン生活にどれほど大切ですか。
3 キリストの生涯は『克己(つまり自制)のかがみ』とされています。キリストに従う者の生活において自制が少なからぬ役割を占めることは,1900年前,総督フェリクスの前に立たされた使徒パウロが,「正義,節制(エグクラティア),未来の審判などについて」論じたことに明らかです。自制はきわめて大切なので,パウロはローマ総督フェリクスの前で,特にこの点を論じたのです。―使行 24:24-27。
4,5 (イ)この事物の制度の終わりが近づくにつれ,自制のあるクリスチャンは何に耐えることができますか。(ロ)エホバの証人が迫害下にあって自制を示した現代の例をあげなさい。
4 自制は19世紀前のクリスチャンに重要な資質でしたが,その重要さは今日でも変わりません。この事物の制度の終わりが近づくにつれ,緊迫した,不安の時代が到来し,嘆き悲しむ人さえ多くなるでしょう。高まる緊張にあえぐ人があっても,神の霊を得て自制心をもつクリスチャンは心の平衡を保てます。自制心のあるクリスチャンは生活上の諸問題に耐えるだけでなく,激しい迫害のあらしを切り抜けることができるでしょう。クリスチャンはそのことをすでに実証しています。もとより,強い反対や激しい迫害に処するには,クリスチャンの種々の資質がそれぞれに必要です。しかし,その一つとして自制が大いに求められることは疑いありません。むずかしい事態に面して信条を容易に放棄する人は少なくありませんが,昔のクリスチャンは色々の面で自制心を示し,死に面しても動揺しませんでした。これら史上の事実についてここで証拠をあげる必要はありません。(「目ざめよ!」1962年10月8日号20,21頁,および「ものみの塔」1958年5月15日号185-187頁をごらんください)しかし現代において,自制心のあるクリスチャンが,極度の圧迫に面しても信仰を動揺させなかったことを,ここで述べましょう。
5 プリンストン大学のエベンスタイン教授は自著「ナチス国家」の中でエホバの証人について書いています。「証人たちがその宗教上の信念のためのたたかいをあきらめなかったとき,彼らに対して恐怖の運動が開始された。それはドイツナチス主義の他の犠牲者になされたいかなる行為をもしのぐ激しいものであった……収容所内のエホバの証人に対する虐待はユダヤ人,平和主義者,共産主義者などの受けた処遇よりひどかった。これは小さな宗派であるとは言え,その一人一人は滅ぼすことはできても決して攻略することのできない要さいのように強い」。リチャード・マシソンも「神は百万長者」の中で,エホバの証人に対する迫害について書いています。「こうした迫害のすべては長く続いてきた。……そしていたずらに伝統をふりまわす者たちは,迫害されたこの少数者の不動の勇気から教訓を学べるであろう。朝鮮戦争中,安易な新教主義の産物,およびわれわれの兵学校や高等教育機関の産物は,共産主義の強圧的かつ巧みな洗脳のまえに幾十人となくくずれおちた。この問題を調査した米国国防当局はその結果に赤面した。数は少なかったが戦争捕虜として終わったエホバの証人は……共産主義への転向をはかる科学的また心理的努力に対し,一人のこらずよく耐えた。これは多くの愛国的な陸軍士官学校卒業生よりすぐれている」。強い迫害に耐えるため自制がクリスチャンに必要な資質の一つであることは明らかです。もとよりこの資質は,エホバの奉仕者としての生活の他のいろいろな面にも求められます。しかし,この価値ある真珠をどのようにして得ることができますか。
この御霊の実をどのようにして得るか
6,7 (イ)自制を養って示すため基本的に必要なことは何ですか。(ロ)自制を求めるクリスチャンの祈りはどんな態度のものでなければなりませんか。
6 イエス・キリストはあるとき言われました。「あなたがたは悪い者であっても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知っているとすれば,天の父はなおさら,求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカ 11:13)強い保証のことばではりませんか。事実,エホバの霊によって自制を身につけることを熱心に祈り求めるクリスチャンは,その点で失望に終わることはありません。「何事でも神の御旨に従って願い求めるなら,神はそれを聞き入れて下さる」からです。(ヨハネ第一 5:14,15)それで,自制をつちかい,それを示すことを願うクリスチャンとして,神の霊がこの貴重な資質となって自分の中に表われることを,キリストを通じてエホバに祈らねばなりません。(ヨハネ 14:6,14)そして自制心を保つには不断の努力が求められますから,「絶えず祈りなさい」,「常に祈りなさい」,「身を慎んで,努めて祈りなさい」という勧めに従うことが必要です。(テサロニケ第一 5:17。ローマ 12:12。ペテロ第一 4:7)このすべては良い助言です。
7 エホバの霊と自制を求めるクリスチャンの祈りに必要なのは誠実さと謙遜さです。自分の心の中に何か平静を失わせるものがあるなら,昔のダビデがしたごとくにエホバに祈るべきです。ダビデは懇願しました。「神よ,どうか,わたしを探って,わが心を知り,わたしを試みて,わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て,わたしをとこしえの道に導いてください。(詩 139:23,24)エホバの助けをこうして謙遜に,熱心に求めるなら,必ず結果を見ることができるでしょう。
8,9 (イ)平衡を得て保つため,祈りのほかに何が必要ですか。(ロ)この点でクリスチャンの集会はどんな役目を果たしますか。
8 しかし祈るだけでなく,自制という真珠を大切にするクリスチャンは,心の平衡を得て,それを保つため,日毎に聖書を読み,聖書を勉強しなければなりません。ヨシュアは次の忠告を受けました。「この律法の書をあなたの口から離すことなく,昼も夜もそれを思い,そのうちにしるされていることを,ことごとく守って行わなければならない。そうするならば,あなたの道は栄え,あなたは勝利を得るであろう」。(ヨシュア 1:8)こうして神の律法のことを絶えず考え,聖書の教えを自分にあてはめるなら,知恵だけでなく,心の平衡や自制を身につけられます。そしてエホバを常に自分の前におく人はよろめくことがありません。―詩 16:8。
9 しかし,聖書の教義,律法,原則などに対する理解は自動的にもたらされるものではありません。神が人を扱うのはご自分の地上の組織を通してです。(マタイ 24:45-47)西暦33年五旬節の聖霊降臨後,キリストの追随者は人の家に集まりました。それは単に食事を共にして楽しく交際するためでなく,共にエホバを賛美するためでした。彼らが開いた会衆の集会は,信者が互いに助け,霊的に励まし合う機会になりました。(ヘブル 10:24,25。マタイ 18:20。使行 2:46,47)これは今日でも同じです。クリスチャンの集会に行くなら,自制を含め,神の霊の実をつちかうのに肝要な,霊的な教えを受けることができます。またこのような会合は,そうした資質が実際に示されるのを見る機会でもあります。
10 クリスチャン宣教に定期的に携わることは平衡を保つのにどう役だちますか。
10 クリスチャン宣教を定期的に行なうことも非常に大切です。それは平衡の維持に役だちます。宣教奉仕者として直面する質問や反論に巧みに処するとき,円熟性を養い,自制心をつちかうことができます。宣教で得る経験は心の平静と自己統御を保つのに役だちます。その経験とエホバの助力とを得るなら,たとえ人に挑発されても,「いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使う」ことができ,「ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかる」でしょう。―コロサイ 4:6。
11 霊的な見方をすることはどんな助けになりますか。
11 神のことばを勉強し,御国の事柄をつとめて追い求めることも,霊的な心を養うのに役だちます。聖書を導きとし,その教えに従うことによって生活上の問題は解決し,あるいは少なくとも軽減するでしょう。霊的な物の見方のできる人は心の平衡がとれています。その人は自制心をもち,幸福です。それで,自分の心をいつも神のお考えで満たしてください。何か問題が起きるときには,必ず聖書に従って考え,聖書の原則を適用してください。それによって,貴重な真珠とも言うべき自制心を得,それを守ることができます。―コリント第一 2:6-16。
12,13 自制について考えるにあたり,習慣について何を言うことができますか。
12 すべてのことに節度を守り,つとめて良い習慣をつけることも,自制を養う助けになります。クリスチャンの監督は「慎み深」い人でなければなりません。しかしそうあらねばならないのは会衆内で監督一人ではありません。パウロは述べました。「女たちも,同様に謹厳で……なければならない」。(テモテ第一 3:2,11)そしてテトスにあててこの使徒は書きました。「老人たちには謹厳で,慎み深く……あるように勧めなさい」。(テトス 2:2)それで節度と良い習慣はクリスチャンに絶対に必要です。「慎み深く」あることにつとめ,同時にその習慣がすべて良いものであることを確かめなさい。これはあなたの自制心を増進させるでしょう。
13 しかし注意してください! 他の人があなたの平衡を失わせることがあります。あなたはいま,有益なクリスチャンの習慣を身につけているかもしれません。しかし自分の交際に気をつけねばなりません。「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」。(コリント第一 15:33)悪い仲間があなたをクリスチャンの交友から離し,世を愛する者にならせるかもしれません。このような事態を決して許してはなりません。「世と世の欲とは過ぎ去る」からです。友だちの選択にあたってはどうしても自制を発揮しなければなりません。―ヨハネ第一 2:15-17。
14 自制を養うため,交わる人をどのように扱うべきですか。なぜ?
14 友だちを選んだなら,その人々とどのように接しますか。自制を養うことを願っているなら,友だちと接するとき思いやりをもち,時に相手の立場に立って考えねばなりません。(マタイ 7:12)人に対してはつとめて善意をもって接しなさい。これは人を疑うこと,たとえばだれかが自分にことばをかけずに通り過ぎる場合に,自分を故意に無視したなどと考えるよりはるかにすぐれています。物事に対し平衡のとれた見方をしてください。自制を働かせ,洞察力をもってください。それは自分の益になるでしょう。「つつしみて御言をおこなう者は益をうべし,エホバにより頼むものは幸福なり」。このことを忘れてはなりません。―箴言 16:20,文語。
15 こらしめを受けることについてどんな態度をとるべきですか。
15 クリスチャンとして自制をさらに養うため,謙遜な態度でこらしめを受け入れることも必要です。聖書やクリスチャンの出版物を読み,そこに見出す戒めが自分に対するこらしめとなる場合もあるでしょう。あるいは,クリスチャンの監督からこらしめを受ける場合もあります。そして監督自身も必要に応じてこらしめを受けています。聖書的なこらしめ,またクリスチャンのこらしめをなぜ退けるのですか。それはすべて神から来るのです。「エホバはその愛する者をこらしめ」られるからです。(ヘブル 12:6)自制という真珠を得る方法について考えたいま,それを実際に用いた場合の価値を評価してみましょう。
自分の気持ちと舌と考えを制御しなさい
16 (イ)自分の気持ちを押えない人を何にたとえることができますか。(ロ)だれの気質は注目に値しますか。
16 昔,城壁のない町,あるいは敵軍によって城壁を破られた町は全く救いようがありませんでした。しかし,自分の気持ちを制御できない人はこれと全く同じです。箴言 25章28節は述べています。「自分の心を制しない人は,城壁のない破れた城のようだ」。そのような人に真の心の平衡はありません。またその人は物事を見る力をも欠いています。箴言 19章11節は,「悟りは人に怒りを忍ばせる」と述べているからです。そのような人はキリストのことを考えるべきです。イエスはご自分について,「わたしは柔和で心のへりくだった者である」と言われました。そして柔和な者は幸福であると言われました。(マタイ 11:29; 5:5)それで,怒りを爆発させたいような気持ちになるなら,イエスのことばをよく考え,その模範にならいなさい。―ヘブル 12:1-3。
17 不完全な人間でも自分の気持ちを押えられますか。答えの実証となるものをあげなさい。
17 しかし,イエスは完全な人間だから気持ちを押えるのは容易だったのであって,不完全な人間の場合には事情が違うと思う人がいるかもしれません。しかしほんとうにそうですか。アブラハムとロトは心の正しい人であったとは言え,やはり不完全な人間でした。(創世 15:6。ペテロ第二 2:7)二人の家畜を飼う牧夫が激しく争うようになったとき,アブラハムとロトは何をしましたか。「アブラハムはロトに言った,『わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも,わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう』」。二人は別れましたが,「身内の者」として友好的な関係を失いませんでした。(創世 13:5-12)クリスチャンはみな霊的な兄弟ではありませんか。もちろんそうです。それではクリスチャンも,怒りの気持ちではなく,自制心をもって問題を解決すべきです。怒りの気持ちで事にあたるのはいかにも非クリスチャン的ではありませんか。
18 気持ちを押えることについて,クリスチャンはだれの道にならい,だれの道を避けますか。
18 怒りにまかせて暴虐に走り,結果として良い祝福を失ったヤコブのむす子,二人の肉親の兄弟のことを覚えておられるでしょう。ヤコブはむすこたちに対する臨終の祝福の中でこの二人について述べました。「シメオンとレビは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ,彼らの会議に臨むな。……彼らの怒りは,激しいゆえにのろわれ,彼らの憤りは,はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け,イスラエルのうちに散らそう」。(創世 49:5-7)ヤコブのこの乱暴なむすこたちは怒りの気持ちで過酷に行動しました。彼らは自制を欠いていました。しかしアブラハムとロトには自制がありました。クリスチャンはシメオンとレビの道を避け,アブラハムとロトの道にならうべきです。
19 気持ちを押えないならどんな結果になりますか。それで聖書のどんな戒めに従うべきですか。
19 気持ちをおさえないなら人との関係は傷つけられます。それは知恵がないことのしるしです。箴言 29章11節は述べています。「愚かな者は怒りをことごとく表わし,知恵ある者は静かにこれをおさえる」。昔の集合者が語ったことばは適切です。「耐え忍ぶ心は,おごり高ぶる心にまさる。気をせきたてて怒るな。怒りは愚かな者の胸に宿るからである」。(伝道 7:8,9)自己本位であるのは知恵のしるしではありません。そして,「怒りやすい者は愚かなことを行い」ます。(箴言 14:17)それで,すぐに怒りに走ってはなりません。ささいな事柄を超越しなさい。「われ悪に報いんと言ふことなかれ,エホバを待て,彼なんぢを救はん」。(箴言 20:22,文語)「柔らかい答は憤りをとどめ,激しい言葉は怒りをひきおこす」ことを心にとめて,他の人の怒りをかわす道を求めなさい。(箴言 15:1)たとえ人から腹だたしいしうちを受ける場合でも,事態を正すためはやく行動しなさい。パウロのことばに注意してください。「怒ることがあっても,罪を犯してはならない。憤ったままで,日が暮れるようであってはならない」― エペソ 4:26。マタイ 5:23,24。
20 ヨハネは自分の兄弟を憎む者について何と述べましたか。それでクリスチャンはどのように行動すべきですか。
20 クリスチャンは自制を失って怒ってはならず,また愛のかわりに憎悪を示したり,あるいはうらみの気持ちをいだいたりしてはなりません。(箴言 26:24-26)もしそうするなら,その人はまだやみにいます。使徒ヨハネは述べました。「兄弟を愛する者は,光におるのであって,つまずくことはない。兄弟を憎む者は,やみの中におり,やみの中を歩くのであって,自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」。(ヨハネ第一 2:9-11)どのような場所にいても,また周囲の事情がどのようであっても,自制を保つことにつとめねばなりません。たとえば家庭においては,きびしい夫,口うるさい妻,不平をいう,気のみじかい子供となってはなりません。(コロサイ 3:18-20)気持ちを制御しないなら,怒りと後悔を生む結果になります。しかし,きびしくするかわりにやさしくし,批判的であるかわりに思いやり深くし,気みじかであるかわりに柔和であるなら,神の是認を受けることができるでしょう。
21,22 舌を押えるため聖書のどんな助言に従うべきですか。
21 当然のことながら,気持ちを押えるためには自分の舌を押えねばなりません。ヤコブは書きました。「同じ口から,さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は,あるべきでない。泉が,甘い水と苦い水とを,同じ穴からふき出すことがあろうか。わたしの兄弟たちよ,いちじくの木がオリブの実を結び,ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も,甘い水を出すことはできない」。(ヤコブ 3:10-12)ヤコブはここで人が口で語る事柄について述べており,彼が強調している点は明らかです。クリスチャンは自分の舌を制御せねばなりません。
22 クリスチャンの生活にひわいな話,うわさ,悪口などの占める場所はありません。パウロはエペソ人に述べました。「悪い言葉をいっさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい。……すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり,また,いっさいの悪意を捨て去りなさい」。(エペソ 4:29-31)不潔なことばを避けなさい。他の人について語るときには注意しなさい。(詩 15:1-3)うわさ話を広めるだけでなく,それに耳を貸すことも避けなさい。話は繰り返されるにつれ,しだいに尾ひれがついてゆきます。こうしてうわさ話はやがて人に対する悪口となりかねません。イスラエル人はこうした悪口を言うことについて戒められていました。「民のうちを行き巡って,人の悪口を言いふらしてはならない」。(レビ 19:16)こうした戒めに注意を払ってください。こうして自分の舌をおさえねばなりません。
23 クリスチャンはどのように自分の考えを制御できますか。どんな考えは捨てるべきですか。
23 しかしうわさ,悪口,ひわいな話などを避けるとすれば,自分の考えも制御しなければなりません。それで,みだらで不潔な事柄が心にうかぶなら,自制を働かさねばなりません。正しいこと,清いこと,愛すべきこと,ほまれあること,徳のあること,そして称賛に価することを心におき,こうした事柄について考えなさい。(ピリピ 4:8,9)自制心を増し加えてくださるようエホバに祈りなさい。このためには物質主義的な考えとわずらいを心から去らせねばなりません。イエスの言われたとおり,「たといたくさんの物を持っていても,人のいのちは,持ち物にはよらない」のです。(ルカ 12:15)それゆえ,なぜ心配するのですか。エホバは飲食また身につける物について,わたしたちに何が必要かをご存じです。キリストは賢明にも言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。(マタイ 6:25-34)すぐれた忠告ではありませんか。自制を働かせながらこれに従いなさい。そのとき,あなたは真に幸福になるでしょう。
食べること,飲むこと,レクリエイションに自制を示しなさい
24 (イ)むさぼりまでいかなくても,食べすぎがどんな結果になることがありますか。(ロ)飲酒に自制しないことからどんな結果の生まれることがありますか。
24 飲食物を得ることに必要以上に心を用いてはなりませんが,それを得た場合にも自制を示さねばなりません。箴言 23章20,21節はこう戒めています。「酒にふけり,肉をたしなむ者[むさぼりくらう者,新世訳]と交わってはならない。酒にふける者と,肉をたしなむ者[むさぼりくらう者,新世訳]とは貧しくなり,眠りをむさぼる者は,ぼろを身にまとうようになる」。もとより,人はあからさまなむさぼりとなるほどに物を食べないかもしれません。しかし食べ過ぎが,怠惰で実のない宣教となり,クリスチャンの集会における眠気となることがあります。それで,食べることについて自制を働かせなさい。そして,決して酒に酔ってはなりません。酒に酔うのは人の品性をおとすことです。さらに,クリスチャンが酒に酔うなら,人をつまずかせ,エホバの組織に非難をもたらす結果にもなるでしょう。酔酒は人の全生涯を容易に滅ぼします。習慣的で,悔い改めのない酔酒者はクリスチャン会衆から排斥されなければならないからです。自制の欠如がきびしい結果となってかえって来るではありませんか!―コリント第一 6:9,10。
25 レクリエイションを求める場合に,クリスチャンは何を忘れてはなりませんか。
25 くつろぐ場合でも,神を喜ばせようとするなら,クリスチャンは自制を忘れてはなりません。レクリエイションを楽しむにも節度が必要です。たとえばスポーツをする場合には,その正しいありかたを忘れてはなりません。パウロはこう書きました。「からだの訓練は少しは益するところがあるが,信心は,今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので,万事に益となる」。(テモテ第一 4:8)真のクリスチャンはレクリエイションを求める場合でも,堕落した肉の不完全な傾向を押え,自分を高揚させる楽しみを選びます。しかし真のクリスチャンは夜ふかしをしないようにも注意します。夜ふかしは健康をそこなうだけでなく,宣教を効果的に行なうことの妨げとなるでしょう。それでクリスチャンは,たとえば土曜日の晩には早く床につき,日曜の朝に新鮮な気持ちで宣教を行なえるようにします。レクリエイションのためにむやみに精力を浪費するのは愚かです。それは自制の欠如であり,レクリエイションの目的を逸しています。賢く行動しなさい。節度を守り,生活のこの面にも自制を示しなさい。
26 自制を得,示そうとする努力に価値があることを述べなさい。
26 それで,美しくまれな天然真珠と同じく,自制は誠実な努力なくしては得ることも向上させることもできません。しかし,これを得,発揮しようと懸命に努力することには価値があります。その価値と大切さを考えてごらんなさい。この終わりの時代に自制を養い,発揮するなら,エホバを喜ばすことができます。そして,エホバに忠実を保つなら,今日だけでなく,エホバの約束される新秩序においてもエホバの祝福を受けて幸福になるでしょう。(ペテロ第二 3:11-13)事実,エホバの賛美と御国の福音の伝道のために果たすべきことの非常に多い今日,自制はクリスチャンの進歩に肝要な資質です。