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あなたは12月にチチにいましたか目ざめよ! 1977 | 5月8日
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はあっけなく終わり,その日の残りの時間は異教の慣行が幅をきかせました。
コフラディアの役員たちがすぐに本堂の真ん中に出て行き,教会の祭壇に向かってひざまずきます。ところが,チコラーュを持った族長が祭壇に背を向けて,それらの人々の前に立ちました。その敬礼がカトリックのミサの祭壇に対するものなのか,それともチコラーュに対するものなのか,一体だれに見分けがつくと言うのでしょうか。
次に偶像は持ち上げられ,行進が始まります。行列は正面の入口を出て,石段を下りて行きます。族長たちは自分たちの偶像やチコラーュを携え,聖トマスの像の前を歩いています。その行列は教会を出て,混雑した広場の狭い通路を練り歩いて行きました。音のする花火が立て続けに打ち上げられ,爆竹の音がさらに加わって,大騒ぎになります。最後に行列は教会に戻り,三人の聖人の像は広場を見下ろすように,石段の最上段に据えられます。そして,音楽と踊りと飲み騒ぎの続く午後の間ずっと,そこで礼拝を受けます。
異教的要素が多すぎる
チチカステナンゴの住民が,自分たちの宗教の起源をほとんど知らないということに驚かれますか。実際にその通りなのです。しかし,いろいろな宗派に属する人々も,自分たちの“キリスト教”の信仰なるものの教理や慣行を説明する段になると,同じように無知であることをあらわにします。それら“キリスト教”の信仰と呼ばれる宗教の場合にも,キリスト・イエスの教えに数多くの異教的な要素が混ぜ合わされているからです。
カトリック教会は,キチェー族の崇拝に異教的な要素の見られることを憂慮していますか。チチカステナンゴに五年間住んでいる,スペイン人の司祭と話をした際に,この点が話題に上りました。この司祭は,この日,ほとんどずっと祭りを見守っていました。チコラーュは何を象徴しているか,と尋ねられたとき,この司祭は,「知りませんね」と答え,こう続けました。「キチェー族にとって,チコラーュは,二つの宗教の融合を象徴しているのかもしれません」。そして最後に,「インディアンの心には,ほとんど宗教[カトリック教]が根付いておらず,古来のマヤ族の神々の伝統が根強く残っているのです」と言って嘆きました。
12月にチチカステナンゴを訪れたときのことを思い起こすと,多くの観光客が忘れ難い印象を受けながらも,幾分ショックを受ける理由が分かります。確かに,そこで行なわれている事柄は,イエスが語られ,勧められたような,「霊と真理をもって」ささげる真の神の崇拝を正しく反映しているとは言えません。―ヨハネ 4:24。
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「義なる者たちの行路」目ざめよ! 1977 | 5月8日
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「義なる者たちの行路」
■ 箴言 4章18,19節は,「義なる者たちの行路」と「邪悪な者たちの道」を対照させてこう述べています。「義なる者たちの行路は,ますます明るくなって日の固く据えられるに至る明るい光のようだ。邪悪な者たちの道は暗闇のようであって,自分が何につまずいているのか分かっていない」。
太陽の光は,日の出から,「日が固く据えられる」まで,どんどん輝きを増してゆきます。義なる者の場合も同じです。義なる者の歩む道は光そのものです。それは,敬神の知恵で明るく照らされているからです。そのような知恵にいよいよ近付こうと努力するゆえに,義なる者の行路はますます明るくなってゆきます。それは邪悪な者たちの場合と何と異なっているのでしょう。敬神の知恵を無視するそうした者たちに光はありません。暗闇の中でつまずくのと同じように,彼らは自分の身に難儀をもたらします。
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