弟子を得ることに幸福を見出す
1 (イ)自分の仕事に幸福を感ずることはなぜ大切ですか。(ロ)ソロモンは何が神の賜物であると述べましたか。
あなたはご自分の仕事に幸福を見出していますか。そうでなければなりません。多くの時間,あるいは,一生をその職業にささげる以上,そのことに幸福でなければ,人生の意義は失われてしまうでしょう。次のようなソロモンのことばがあります。「わたしは知っている。人にはその生きながらえている間,楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし,そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」。(伝道の書 3:12,13)働くこと,しかも勤勉に働くことは人の本分です。骨折り損になる仕事ではなく,心から楽しみ,満足できる豊かな報いのある仕事をすることです。全身全霊を打ち込み,それより「ほかに良い事はない」と言えるほどの満足を与え,「楽しみを得る」職を見出し,この約束の成就を経験するのは,なんと良いことではありませんか。ソロモンはこれを「神の賜物」と述べています。
2 前の記事と比較して,この記事の目的はなんですか。
2 前の記事の中では,いまエホバの証人が全世界で行なっている,弟子を得るわざについて述べました。また弟子を得るという点でイエス・キリストの残した手本,また今日そのわざを完成するためにエホバの証人が傾けている努力を概略しました。さてこんどは,奉仕者各人の立場からこのわざを考えてみましょう。このわざにみずから携わる時,各人はどんな喜びと幸いを得ますか。
3 人を幸福にするという点で,仕事と遊びはどのようにくらべられますか。
3 ほんとうの幸福をもたらすものはなんですか。仕事ですか,遊びですか。くつろぎ,変化,運動のためには,ある程度の遊びが確かに必要です。しかし幸福をもたらすのはおもに仕事です。アメリカ第30代大統領カルビン・クーリッジは1920年7月27日,その指名受諾演説の中で,「仕事は呪いではない。それは理知に伴う特権であり,人知と文明への唯一の道である。未開人は働くことをしない」と述べました。
4 (イ)イエスは働くことに対してどんな態度を示されましたか。(ロ)アダムとエバに与えられた務めにも示されているように,エホバは働くことをどのように見られますか。
4 クーリッジよりも前に聖書は同じことを述べています。イエス・キリストはご自分が勤勉に携わった仕事について,「わたしの食物というのは,わたしをつかわされたかたのみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである」と言われました。(ヨハネ 4:34)イエスは,遊びにではなく仕事に喜びを見出されたのです。それは実際の食物よりも滋養になる,そして満足をもたらすものでした。アダムとエバが創造されてエデンの園に置かれた時,二人は満足と喜びをもたらす仕事をエホバから与えられました。「神は彼らを祝福して言われた,『生めよ,ふえよ地に満ちよ,地を従わせよ。また海の魚と,空の鳥と,地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世 1:28)人間の勤勉にはたすべき仕事が残されてはいましたが,すべてはととのって神の是認を得ました。「神が造ったすべての物を見られたところ,それは,はなはだ良かった」と創世記 1章31節に述べられています。勤勉に働くことが人間のためになることを,神はご存じでした。
5 真の幸福をもたらすのはどんな仕事ですか。
5 しかし人を幸福にするのはどんな種類の仕事ですか。ノーベル賞を受けた有名な医師アルバート・シュワイツァーの次のことばは,満足を与える仕事のひとつの要件を明らかにしています。「生命を尊重する敬けんな気持ちを抱くとき,学者はたとえそれが社会に有用であっても学問だけに没頭することはできない。芸術家はたとえそれによって多くの人にインスピレーションを与えることができても,芸術のためにだけ生きることはできない。実業家もその経済活動によってのみ,事足れりとすることはできない。すべての人は自分の生活のいくらかを他の人のために犠牲にすることを要求されている」。(1955年1月9日号ニューヨーク・タイムズ・マガジーン,シュワイツァー80歳の誕生日記念特集)トルストイも,「人のためになる事をするのがすべての男女の天職である」と述べています。これらの人は,他人を犠牲にして自分の利益を追求しても心からの満足を得られないこと,ほんとうの満足は他の人の益をはかってする愛のわざによって得られることを経験から知っていました。これは幸福をもたらすわざの要件のひとつです。
6 他の人のために働くことについて,聖書はなんと述べていますか。
6 働くことにこのような面があることも聖書の原則と一致しています。使徒パウロは述べました,「わたしは,あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである」。(使行 20:35)人のために働くとき,ほんとうの幸福が得られます。
7 弟子を得るわざが人を幸福にするのはなぜですか。
7 弟子を得るわざはこの要件にどうかないますか。永遠の生命に至る道を歩むことを可能にする真理を教えるよりも人を益するわざがありますか。そのようなわざはまずありません。無知とまちがった考えから心を解放することは,最大の益となります。「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた,『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら,あなたがたは,ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであろう」― ヨハネ 8:31,32。
わざそのものがもたらす幸福
8 弟子を得るわざの第一歩はなんですか。そのわざに幸福を感ずるのはなぜですか。
8 弟子を得るわざは区域をくまなくめぐり,正義に傾く心と,喜んで聞く耳と,喜んで吟味する心を持つ人をさがすことから始まります。つまり戸別訪問をして,社会的地位,宗教の如何を問わずだれにでも,会う人ごとに語らなければなりません。このようなわざに幸福を見出すことは一見して難しいと思われるかもしれません。ところがそうではないのです。このことをする奉仕者は正しい動機つまり愛の動機を持ち,隣人を愛しています。それで正義を愛する心を持つ人が永遠の生命を得る機会をのがすことがあってはならないと感じています。また神を愛するゆえに,神の目的に関する無知と,み名に対する反対によって神の名にもたらされた非難がぬぐい去られることを望んでいます。それでこのような愛の動機を心に抱いているならば,たとえ会う人の大多数が無関心であっても,喜びを失うことはありません。
9 (イ)奉仕者はしばしばどんな人に会いますか。どのように対処しますか。(ロ)どんな助言に従うならば,心を乱されることはありませんか。
9 多くの場所では,数分でも腰をおろして話をし,訪問の目的を説明するように事を運ぶのが不可能です。たいていそれは,偏見のためか,新しい事を聞くだけの関心に全く欠けているために人が心を閉ざしているからです。そこで奉仕者はその時その時の事態に応じて自分の心を順応させなければなりません。話している相手が反対する態度を明らかに示し,受けつけないならば,無理に話してもむだです。礼儀正しく去って次の家に行くほうが良いでしょう。イエスのことばはこのような場合にどうすべきかを教えています。「もしあなたがたを迎えもせず,またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば,その家や町を立ち去る時に,足のちりを払い落しなさい」。(マタイ 10:14)このよい助言に従う奉仕者は心を乱されません。相手の心に最もよく訴える方法で福音を伝える最善の努力をした以上,奉仕者は事態を落着させ,それで満足します。それで足のちりを払い,変わらない喜びを抱いて次の家に行きます。いま奉仕者が関心をむけているのは次の訪問です。
10 正しい目標を心に留めておくことは,戸別伝道に幸福を見出すのにどう役だちますか。
10 この最初のわざをするにあたって動機がまちがっていたり,正しい目的を持っていなかったりすると,喜びを失うかもしれず,心を乱されるかもしれません。しかし正しい見方を持つ奉仕者は,弟子になる機会を心からすすんでとらえる人,あるいは聖書の理解を深めようと少しでも心がける人が比較的に少ないことを承知しています。イエス・キリストはそのことを明らかにされました。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」。(マタイ 7:13,14)それで奉仕者の目標は世界の改宗をはかることではありません。それは不可能です。その目標は聞く人を見出すことにあります。区域で何を期待すべきかを知っているので,奉仕者は正しい心を持つことができます。それは自分の仕事に幸福を見出す心です。
11 さらに大きな喜びをもたらすのは,弟子を得るわざのどんな面ですか。それはなぜですか。
11 興味を持つ人が見出されると,弟子を得るわざはその性質においていくらか変化します。その人が聖書の真理をさらに深く知ることを望み,話し合うことを喜ぶようであれば,訪問が重ねられます。さて今度は何を幸福に感ずるかも,いくぶん変化することでしょう。御国の音信に初め関心を示したこれらの人に時間をかけるにつれて,聖書の正確な知識を授けて育てることが楽しみになります。弟子を得るわざのどの面にも喜びがありますが,創造者とそのみわざを知りたいと思う人を助けることに精を出すのはとくに大きな喜びです。しかしこの場合にも動機が愛であることに変わりはありません。
12 家庭聖書研究のわざにいっそう大きな喜びがあるのはなぜですか。
12 このような人の関心が深められて定期的な家庭聖書研究が始められると,奉仕者の喜びはさらに大きくなります。ふつうは毎週,日時を定めて1時間のあいだこの研究をします。毎回何を学ぶかはそれぞれわかっているので予習が行なわれます。時とともに進歩がみられるにつれて,教える者と学ぶ者との間には親しみと尊敬の気持ちが深くなります。ガラテヤ人への手紙 6章6節に述べられた原則どおり,わかち合う精神の発露が見られます。「御言を教えてもらう人は,教える人と,すべて良いものを分け合いなさい」。こうして一緒に過ごした楽しい時は貴重な思い出となるでしょう。
準備することの喜び
13 神のしもべは,弟子を得ることに直接,関係した働きだけに幸福を感じていればじゅうぶんですか。それともどうあるべきですか。
13 わざそのものに幸福を見出だすことができるのはいうまでもありませんが,実際に仕事に携わっていない他の時間はどうですか。幸福なのは,弟子を得るわざに直接携わってそれに精を出している時だけですか。あるいは献身した神の奉仕者の生活には,他の面でも喜びがありますか。喜びは生活のあらゆる面に見出されるべきものです。宣教のために各人が準備することも例外ではありません。
14 (イ)熟練についてどう考えるべきですか。これは聖書の真理を教えることとどんな関係がありますか。(ロ)神のしもべにとり,どんな機会に限りはありませんか。どんな目標を心に留めるべきですか。
14 聖書の真理を他の人に教えるには真の熟練を要します。またひとつには,それだからこそ,このわざには尽きない興味があるのです。「あなたはそのわざに巧みな人を見るか,そのような人は王の前に立つが,卑しい人々の前には立たない」と箴言 22章29節は述べています。この原則は,とくに神のしもべにあてはまると言えるでしょう。テモテへの第二の手紙 2章15節が次のことを述べているのも,そのためにほかなりません。「あなたは真理の言葉を正しく教え,恥じるところのない錬達した働き人になって,神に自分をささげるように努めはげみなさい」。聖書また聖書に関連した知識を深める機会に限りはなく,またこの知識を他の人にわかつ,つまり「真理の言葉を正しく教え」ることに上達する機会にも限りはありません。イエス・キリストにならうことを目標にすれば理想的です。イエスに関して,「この人の語るように語った者は,これまでにありませんでした」と述べられています。―ヨハネ 7:46。
15 勉強の時間を計画することについて,どんな考え方をすべきですか。
15 常に正確な知識を増し加え,また教える能力を改善することにまじめに努めている人は,時間の予定をたてて勉強します。ひとりで静かに勉強し,深く考えるこの時間はいろいろな計画の中でも,深い喜びと満足をもたらすものとなるでしょう。このような時間を設けることが難しい人もいますが,よく考えて,また綿密な計画をたてるならば時間を作ることができます。各人が準備することは全く必要であり,これをおろそかにしてはなりません。そのうえ,これをすることから大きな喜びが得られるのです。
他の人との関係において得る喜び
16 (イ)交わりという点について言えば,人間を創造した神は人間にどんな特質を与えましたか。この点で人々の間には何が見られますか。(ロ)対人関係について何を自問できますか。
16 他の人と一緒にいることを楽しむのでなければ,幸福にはなれません。人と交わらないのはふつうではなく,幸福なことでもありません。人間は社会生活を営むものであって,孤立ではなくて交わりを好み,一緒に生活することを好みます。人間はそのように創造されました。それは神から与えられた良い性質です。しかし実際にはどうですか。人々は一緒にいることを望みながら,仲良くしてゆくことができません。熱愛していた若いふたりが結婚すると,ほどなくしてうとんじ合うようになったりします。国々は相互の平和を維持することを望みながら,それが次第に困難となっています。この良くない傾向が今の時代に著しくなることを預言して,使徒パウロは次のように述べました。「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」。(テモテ第二 3:1-5)このような性質を身につける人は自分でも,人との交わりにおいても幸福を感じないでしょう。しかし神のしもべが励んでいるわざは,これらの性質を身につけないように保護するものとなっていますか。また神のしもべは,どこにおいても必要に応じて人と交わる時,安定した心を保ち,幸福を感じていますか。
17 伝道し教えるわざにおいてつちかわれた性質は,対人関係においてどのように益となりますか。
17 確かにそうです。興味のある人をさがして神のことばの真理を教える際につちかわれたクリスチャンの良い動機と性質は,ほかのことで人と接する時にも失われません。神のまことのしもべは二重人格者ではないはずです。伝道したり教えたりする時に愛の心を持つクリスチャンならば,他のことで人と接する時にも愛を忘れません。そしてガラテヤ人への手紙 6章10節にある使徒パウロの助言に従います。「だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行なおうではないか」。それであらゆる場合に人との交わりを楽しむはずではありませんか。たしかにそう言えます。
18 コリント人への第一の手紙 15章33節に照らしてみる時,外部のどんな人との交わりにも喜びを見出せるのはどうしてですか。
18 しかしコリント人への第一の手紙 15章33節に,「まちがってはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」と教えられているではありませんか。たしかにそのとおりであり,またそれは正しい教えです。クリスチャンはこのような交わりを求めません。むしろできるかぎり同じ貴重な信仰を持つ人とだけ交わるようにします。しかし世俗の仕事に携わるとき,また日常生活において他の人々と一緒になることは避けられません。それでも錨のように確固とした御国の希望を常に心に留めているならば,世の人々にならうように誘惑されません。神と神への奉仕に献身したことを心に留めるクリスチャンは,どんな人に会っても,その人がいつかは福音に興味を示す可能性を考えてその人の永遠の福祉を心にかけます。クリスチャンは利己的な考えを捨てて純粋に無私の気持ちから他の人に関心を払うのです。それでどんな人と交わったにしても,明るい積極的な考え方をします。そしてまずたいていの場合,人と交わる時に幸福を感じます。
倦むことを知らない
19 (イ)弟子を得るわざを始めた人に,どんな助言が与えられていますか。(ロ)来る年も来る年もこのわざに幸福を見出すことができますか。
19 このわざを始めた者にむかって使徒パウロは,「わたしたちは,善を行なうことに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる」と述べました。(ガラテヤ 6:9)これはさしのべられた報いを述べるとともに良いさとしを与えることばです。しかし弟子を得るわざを一生の仕事にして来る年も来る年もそれをつづける人は幸福を感じますか。たしかにそうです。しかも人は年毎に喜びが大きく,豊かになるのを経験することでしょう。証拠を見たいと言われるならば,そのことの真実を体験した人々のことばを聞いてください。
20 宣教を生涯の仕事にしたひとりのエホバの証人は,このわざを始めたことについてなんと語っていますか。
20 およそ40年前に宣教の生涯にはいったひとりの証人は,次のように語っています。「わたしは至上の神への奉仕に初めて出かけた時のことを今でもはっきり覚えています。1920年,小春びよりのある日,カナダのウィニペッグでのことです。わたしは兄とともにビラを配っただけでしたが,このわずかな奉仕から満足と心の平和を得ました。それで全能者は人間の主人と異なり,たとえ不満足でわずかな奉仕でも喜んでくださることを,わたしは確信しました。真理を聞くとき人は喜び,心に平和を得ますが,奉仕を始めると,喜びが増し加わります。
21 この人は自分の選んだ生涯の仕事に携わり,活動範囲をひろげた時の経験をどのように語っていますか。
21 「その後,戸別訪問をして文書を配布することに携わった時,いっそう大きな喜びと祝福を得ました。その日以来いまに至るまで,戸別伝道に出かけて人から何かの親切を受けなかったこと,エホバのことばに対する感謝を示す人に会わなかったこと,そして何よりも心の平和と満足というエホバの祝福を味わわなかったことは一度もありません」。
22 40年ほどの間,宣教に携わっているこの人はなんと語っていますか。
22 カナダとアメリカで,また宣教者として外国の任命地で忠実に奉仕したこの人は次のように語っています。「この大きな特権を長く享受すればするほど,他のどんな主人よりもやさしくわたしを守り,導いてくださったエホバにわたしは感謝するようになりました」。
23 宣教を生涯の仕事にした別の人は,その道を歩み始めたことについてなんと語っていますか。
23 弟子を得るわざに一生をささげた別の人は次のように述べています。「聖書の偉大な真理を子供の時に学んだ人は,ほんとうに豊かに祝福されています。わたしは偉大な神エホバと御国に関するエホバの目的,魂と生命の希望を父から教え込まれたことに感謝しています。ニュージーランドのクライストチャーチで青少年時代を過ごし,学業に励んでニュージーランドの学生が競い合う大学入学奨学金を優等の成績で得たわたしは,原子科学者になる道を歩んでいました。しかし唯物的,進化論的な考えに取り囲まれるようになって,わたしはそれが牧師の教える地獄の火と同じく不合理で無価値なことに気づき,聖書に傾倒した生活を始めました。それで修士の学位をとるために科学を勉強してはいましたが,大学時代の大半を開拓者とほとんど同じように奉仕し,休暇開拓奉仕もよくしました」。
24 外国の任命地で何年も過ごしたこの人は,幸福と満足についてなんと述べていますか。
24 ニュージーランド,オーストラリア,アメリカ,日本で何年も神の奉仕に携わって喜びを得てきたこの人は,次のように語っています。「先年わたしはニュージーランドにいる年老いた両親に会うことができ,そのことに感謝しています。エホバがつかわされる所で全時間奉仕をするため,わたしが幸福な神権的わが家を離れてから27年になります。家族の愛の絆は強いものです。しかし互いに遠く離れていても御国奉仕にあって互いを結びつけている絆はもっと強く,わたしは両親が今でも熱心に御国奉仕に励んでいることを喜びました。しかしニュージーランドもオーストラリアも,今では自分の国のようには思えません。宣教者として日本の生活になれてしまったので,ニュージーランドの生活のほうが不自然に思えるぐらいです。国に帰ってつくづく思ったのは,エホバからつかわされて神権的な奉仕に携わるところがわが家だということです」。
25 ブルックリン・ベテルの家族のひとりは,どのように奉仕者の生活にはいりましたか。この人は長年にわたるエホバへの奉仕についてなんと語っていますか。
25 また別の人は次のように語りました。「わたしは1879年,イタリアのカリトリで生まれました。信心深い両親はわたしに洗礼を受けさせ,のちにカトリック信徒として堅信礼を受けさせました。85歳のいま,エホバの証人として送った過去59年間をなつかしく回顧するであろうとは思いもよらなかったことです」。1900年,21歳の時アメリカに移住し,4年後に真理を学んだこの人は,1909年にものみの塔協会の本部の一員となり,以来,神の忠実なしもべとして奉仕してきました。この人はさらに次のように語っています,「エホバに奉仕した59年間を振り返ってみて確かに言えるのは,それが生涯の最も幸福な年であったということです。そのうち56年はブルックリン・ベテルの家族の一員として過ごしました。わたしは,この奉仕の特権を目ざすことを,若いクリスチャンに心からすすめます。試練にあったのも事実です。しかしそれによってわたしはエホバへの信仰をますます強めました。マタイ伝 24章14節にイエスの預言した世界的な証言のわざをすすめるため,この協会がエホバに用いられていることを,わたしは少しも疑いませんでした。パウロのことばどおり,どんな苦難も『やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると,言うに足りない』のです」。
26 ベテルの家族の中にいる多くの年老いた人は,兄弟たちと交わる機会をどのように考えていますか。
26 ブルックリンの本部には,高齢に達してなお忠実に奉仕している神のしもべが大ぜいいます。これらの人々は耳が遠くなっても集会を欠かすことがありません。また多くの努力や,時には若い人々の親切な援助を受けることが必要でも,朝食前の朝の崇拝や大小の大会を欠かさず,たとえ遠くても,歩かなければならなくても,自分の会衆の集会を欠かしません。神のわざに関心を持つ人々と交わる喜びは少しも減っていないのです。
27 真実の幸福を見出すには,どんな考えを心に留めておかなければなりませんか。
27 人を幸福にするのは遊びではなく,勤勉な働きです。しかしそれは正しい仕事すなわち人のためになる仕事でなければなりません。このような仕事として,イエス・キリストの弟子を得る仕事にまさるものはありません。そのわざに直接に携わっている時に幸福を感ずるだけでなく,なすことすべてに喜びと満足が得られます。そのわざに献身する人の生活は満ちたりたものとなります。あなたは今の仕事に真の幸福を感じておられますか。もしそうでないとすれば,それは一生の仕事としてふさわしくないのかもしれません。弟子を得るわざには幸福を見出すことができます。