最上の歌の中の愛された女
『私のともよ,あなたはことごとく美しくして,すこしのきずもない。』― 雅歌 4:7。
1 女に対する男の愛にまさる愛は何ですか。キリストは御自分のまわりに集められた人々に対して,どれだけの愛を持たれましたか。
男女を含む人々で構成される一つの制度に対する愛の方が,ひとりの女に対する愛よりも優越することがあります。こんどは,ひとりの人,もしくは一人の指導者に対する制度の愛は,きわめて強いためにこの世の中のいかなるものもその愛を打ち負かすことができません。今までの地上にいた人間の中でも,最も際立つた人はイエス・キリストでした。全地にいる8億人以上の信者たちは,彼に従うと称えていますが,このイエスは今から1900年前に中東のベツレヘムで生まれ,西暦33年には殉教者の死を遂げました。イエス・キリストは一人の女と恋愛して,その女を自分の妻にしましたか。いいえ,彼は33才6カ月の年齢のとき,独身のまま,子供を産まずに死にました。しかし,イエス・キリストは自分を中心にして,男女を含む人々によつて構成される一つの制度をつくりあげ,制度の成員としてそれらの者たちを熱愛いたしました。実際のところ,それらの人々,および将来にその制度の成員になる人々のために,彼は自分の生命を棄てられたのです。
2 彼に追随者の制度を与えられた方を認めて,イエスは何と言われましたか。
2 イエスの地的な父としての行をなしたナザレの大工,ヨセフが,弟子たちで構成されるこの制度をイエスに与えたのではありません。イエスの天的な父である神が,彼にその制度を与えたのです。イエス自身もその事実を認めてこう言われました,『私をつかわされた父が引きよせて下さらなければ,だれも私に来ることはできない。』(ヨハネ 6:44,新口)『私の父が私に下さつたものは,すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から,それを奪い取ることはできない。』(ヨハネ 10:29,新口)イエスは,天の御父にささげた祈りの中で次のように語りました,『私は,あなたが世から選んで私に賜わつた人々に,御名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが,私に下さいました。』(ヨハネ 17:6,新口)天の御父は,御子イエスに彼らを与えましたが,彼らとイエスとの関係は,将来の夫に許婚された一人の娘という関係です。
3 洗礼者ヨハネとパウロは,どんな比喩を用いて,追随者の制度のことを述べましたか。
3 それで,人々で構成されているその制度すなわち会衆は,彼の花嫁と言われました。つまり将来には天の御父の家で結婚し,彼とかたく結び合う制度的な女です。祭司ゼカリヤの子で,イエスの従兄弟にあたるヨハネは,そのことを次のように語りました,『花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立つて彼の声を聞き,その声を聞いて大いによろこぶ。こうして,このよろこびは私に充ち足りている。』(ヨハネ 3:29,新口)イエス・キリストの弟子を多数得たクリスチャン使徒パウロは,ヨハネの言葉に類似した言葉を話し,花婿の友がこれらの弟子に話しかけるような調子で,こう言いました,『私は神の熱情をもつて,あなた方を熱愛している。あなた方を,きよい処女として,ただひとりの男子キリストにささげるために,婚約させたのである。』(コリント後 11:2,新口)使徒パウロは,花婿キリストに対する愛と献身を守り通すようにと彼らに強くすすめたのです。
4 (イ)制度に対するキリストの愛はどの程度まで証明されましたか。(ロ)キリストに対する制度の愛はどの程度まで証明されねばなりませんか。また,どの制度に反対してそうしますか。
4 天の御父は,イエス・キリストの妻として,制度すなわち会衆を彼に与えます。その制度に対するイエス・キリストの愛は,彼自身の死によつて証明されました。パウロは次のように語つています,『キリストも会衆のかしらであつて,このからだの救主であられるように……キリストも会衆を愛して,そのために御自身を捧げられた。それは,会衆をきよめ御言葉によつて水で洗い清められるためである。しみも,しわも,そのたぐいのものがいつさいなく,清くて疵のない栄光に輝く会衆を御自分に迎えるためである。』(エペソ 5:23,25-27,新世)しかしながら,花婿なるキリストに対する会衆の愛は,その会衆に属する14万4000人の成員の最後の者が,すべての試錬を通るまで証明されなければなりません。多くの宗教制度はキリスト教と称え,キリストを愛すると主張します。アメリカ合衆国だけでも,そのように主張する265の宗派が登録されており,南アフリカでは1000以上の宗派があります。しかし,それらの宗派のなす業から見ると,彼らはイエス・キリストや御国を愛するよりもこの世を愛していると分ります。イエス・キリストの御父であるヱホバ神は,彼に油を注いで御座につけ,御国の王にならせ給うたのです。これらの宗派は,この不道徳な世の善意を乞い求めます。弟子のヤコブは,そのように分れた愛を持つすべてのクリスチャンにこう尋ねています,『不貞のやからよ。世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ,世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである。』― ヤコブ 4:4,新口。
5 いくつの会衆がキリストに真にいいなづけされていますか。いいなづけされた者のうちで残れる者は,どのように愛の献身を証明しますか。
5 しかし,天界にあつて王なるイエス・キリストに真実に許婚されている唯一つの会衆があります。これらの者に対して,イエスはこう言われました,『もしこの世があなた方を憎むならば,あなたがたよりも先に私を憎んだことを,知つておくがよい。もしあなた方がこの世から出たものであつたなら,この世は,あなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし,あなたがたはこの世のものではない。かえつて,私があなた方をこの世から選び出したのである。だから,この世はあなた方を憎むのである。』(ヨハネ 15:18,19,新口)14万4000人の忠実な人々で成り立つ真の会衆は過ぎ去つて行くこの腐敗した世を愛しません。それは,天の御父であるヱホバ神に専心の献身を捧げ,御子イエス・キリストには,全き愛を捧げます。天の花婿は全き愛を受けるにふさわしき御方です。今日のあらゆる証拠の示すところによると,ヱホバ神は1914年に花婿なる御子を天の御国に即位せしめられました。そして,地上には花嫁制度の中の残れる者しかいません。いま苦難の『終りの時』にあるこの古い世が存在する限り,彼らは天的な花婿キリストに対しての全き愛の献身を証明しなければなりません。彼らはキリストに対する熱烈な愛,なにものも消すことのできない愛を持つている故に,そういたします。聖書の中でソロモンの雅歌と知られている本は,そのことを確証づけています。
ソロモンの雅歌
6 ソロモンの雅歌は霊感された聖書の一部ですか。この事についてどんな証拠がありますか。
6 イエスが地上に居られた時代に,ユダヤ教の会衆はソロモンの雅歌を霊感された書の一部と受けいれ,それを聖なるヘブル語写本の目録の中に含めました。初期のクリスチャン会衆も,同様にそれを聖書の一部として受け入れました。正しく理解するとき,ソロモンの雅歌を研究することは私たちにとつて益のあるものです。使徒パウロは,次のように語つたとき,ソロモンの雅歌をも含めていました,『聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであつて,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによつて,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである。』(テモテ後 3:16,17,新口)西暦第1世紀に生存していたユダヤ教の師,アキバは,ソロモンの雅歌を深く味わつて次のように語りました,『全世界は,この崇高な雅歌がイスラエルに与えられた時代にふさわしいものでなかつた。聖書全部は聖なるものであるが,しかしこの崇高な歌は,もつとも聖である。』―『ヤダイム』欄第6課にあるミシュナ,第3部第5節。
7 いわゆるソロモンの雅歌とは何ですか。何時それは書かれましたか。その主題は何ですか。
7 しかし,雅歌を書いたエルサレムのソロモン王は,その歌の最初の節で『これはソロモンの最上の歌である』と言つています。逐語訳のヘブル語聖書によると,それは『歌の中の歌』です。つまり,最も美しい歌,最も卓越した歌です。雅歌は通常8つの章に分けられていますが,しかし歌を集成したものでなく,一つの歌です。それは,ソロモン王がヱホバ神への素晴らしい宮を建てた後,そして結婚した後に,書かれたものです。それで,この雅歌の書かれた年代は,キリスト前1010年頃です。それには初めから終りまで一つの主題があります。すなわち,シュネムもしくはシュレムの村の一人の田舎娘が羊飼いの一青年に捧げる愛,という主題です。ソロモン王はこの娘に恋情を抱きましたが,愛しい者で羊飼いに対する娘の愛は最後まで変ることなく,王はその恋を果すことができませんでした。それですから,この歌をソロモンの失恋の歌とも言うことができるでしよう。
8 古代ヘブル人はこの歌にどんな意味を付しましたか。この事の正しさに関して,歴史は何を示していますか。
8 昔のヘブル人たちは,この雅歌に象徴的な意味をつけました。その娘は,予言者モーセの時代以後のユダヤ教会を表わし示すと,彼らは理解しました。その教会の捧げる愛の対象は,ヱホバ神でした。したがつて,ヱホバ神は娘の愛人である羊飼によつて表わし示されたのです。しかし,過去1000年以上にわたるユダヤ教会を調べてみると,それは神なるヱホバの愛を守り通さなかつたという悲しい事実が表明されます。それが,ヱホバ神の証者で成り立つ教会でなくなつてから久しい年月が経つています。ヘブル語聖書中に書かれている彼ら自身の歴史によつても,ヱホバ神が御名によつてつかわした者を彼らが拒絶したと証明します。そして,クリスチャン・ギリシャ語聖書は,彼らが神の代弁者を拒絶した最高潮に達したことを示します。そのとき,彼らは,ヱホバの御名によつて来て伝道したイエス・キリストを拒絶して,ついに苦しみの杭にかけて残酷な死刑を行つたのです。これは,羊の群の大いなる羊飼,ヱホバに対して,一筋の真の愛を有していないと示しました。
9 パウロは,どんな書かれた警告に私たちの注意を喚起していますか。誰に関してこの歌は成就しましたか。
9 使徒パウロは,第1世紀のクリスチャン会衆に手紙を書き送つた際,イスラエル人がヱホバ神の愛から離れそむいた多くの場合を語り,それからこう記しています,『さて,これらのことは前例として彼らに起つたのであり,警告のために書かれたのである。』誰に対する警告?『この組織制度の全き終りに臨んでいる私たちへ』の警告です。(コリント前 10:11,新世)それですから,ソロモンの雅歌の成就はクリスチャン会衆に関連したものにちがいありません。使徒パウロは,第1世紀にその会衆の成員であつて,ユダヤ教の組織制度はもはや神の御前で恵みを失い,終つてしまいました。ヱホバ神は,いまやその恵みをクリスチャン会衆にうつされたのです。そして,そのクリスチャン会衆を花婿なる御子,イエス・キリストに許婚させました。
10 この歌の中の女は誰を表わしており,彼女の羊飼の恋人は誰を表わしていますか。今日の残れる者は誰の模範に倣わねばなりませんか。
10 それですから,雅歌に出ている愛された娘は,許婚された14万4000人の成員で構成される真のクリスチャン会衆にちがいありません。そして,その羊飼なる愛人は,天の御父に対する熱烈な愛の故に,いま天で栄光につつまれておられる主イエス・キリストにちがいありません。彼が苦しみの杭で殺されてから3日後に,全能の神は彼を死人の中からよみがえし,再び霊的な子にならせました。しかし,今では不滅となり,かつて有して居られた人間の肉体よりは遙かに高められたのです。40日後に,ヱホバ神は御座のある天に彼を昇らせました。ヱホバ神はイエスを御自分の右に坐らせましたが,それは,いろいろのことの中でも,天の御父の予定の時に花嫁なる会衆との天界の結婚を待たせるためです。彼が昇天して以来,その花嫁なる会衆の成員は信仰の中に彼と許婚されました。使徒ペテロは,そのような者に宛ててこう書きました,『あなたがたは,イエス・キリストを見たことはないが,彼を愛している。現在,見てはいないけれども,信じて,言葉につくせない,輝きにみちた喜びにあふれている。それは,信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。』(ペテロ前 1:8,9,新口)同じことは,今日その会衆の小さな残れる者に適用します。彼らは,シェラミの娘がその愛人に対して愛を証明したように,見たことのないキリストに対する愛を証明しなければなりません。
11 女と対照した男に関して,ソロモンは試みにより何を見出しましたか。忠節な愛という点で,会衆は誰に倣わねばなりませんか。
11 民の統合者,ソロモン王は,自分の体験によつて見出したものを伝道之書に書き記しました,『集合者は言う。見よ! その合計を知ろうとして,いちいち数え,私の魂はなおも求めたけれども見出せなかつた。私は千人のうちに一人の男子を見出したが,そのすべての中にひとりの女子をも見出せなかつた。』(伝道之書 7:27,28,新世)しかし,ソロモン王は,雅歌の中でシュラミの娘に対する不首尾な愛を記述するなら,その娘の中に,一人の男子への愛をかたく保つたひとりの貞節な女をたしかに見出したのであり,彼の幻想は破られたでしよう。娘の愛を受けた男子は,表向きには,ソロモン程の豪華さはなかつたのです。もし,ソロモン王が西暦第1世紀に生存していたならば,イエス・キリストこそ『千人のうちに一人の男子』であると告白しなければならなかつたでしよう。全くのところ,イエスは地上に住んだすべての人の中で特別に際立つ男子でした。イエス・キリストに許嫁されている会衆は,彼に倣わねばなりません。会衆は彼に対する貞節な愛を保ち,婦人の中では稀となつた操のかたい立派な女のようであると立証しなければなりません。キリスト教国内のすべての宗教制度の中で,唯一つの花嫁なる制度は,この世にあつて忠節を保ち,その貞節を守ります。それは,キリストとの天的な結婚に価値あるものと裁かれるためです。
登場人物と筋
12 この歌の中に名前が挙げられているのは誰ですか。また,話す役割を持つているのは誰ですか。
12 ソロモンは,雅歌の中で自己紹介をしており,エルサレムの王という役を果しています。その都は,シオンという名を持つ要塞があつたため,シオンとも呼ばれました。雅歌の中の主要人物は,シュネムまたシュレムから来た,名前の述べられていない田舎娘です。ソロモン王はこの娘をシュラミの女と呼んでいます。(雅歌 6:13,新世)今日ではソレムと呼ばれているシュネムの村は,イツサカルの支族が有していた領土の南西の国境,ガリラヤの海から南西15マイルのところ,またはエルサレムから55マイルぐらい北のところにあります。アビシャグと言う美しい娘がシュネムで見出されて,ソロモンの父なるダビデ王の宮殿に連れられ,老齢のダビデ王を看護しました。(列王紀略上 1:1-4; 2:17-22)老人の妻で子供のなかつた著名な一婦人が,予言者エリシャの通る度に小さな室で休息するように取り計つたのも,このシュネムの地でした。(列王紀略下 4:8-10)シュラミの娘の母は,シュネムに住みました。彼女のことは雅歌の中で言われていますが,その父親のことは述べられていません。この娘には大ぜいの兄弟たちがおり,兄弟たちは,この劇的な歌に役を果しています。もう一人の重要な登場人物は愛された羊飼です。雅歌の中でせりふを述べる他の人々は,ソロモンの王宮に侍る貴女たちで,『エルサレムの娘たち』と呼ばれ,また都の中に住む婦人たちは『シオンの娘たち』と呼ばれています。(雅歌 1:5; 2:7; 3:5,10,11,新世)雅歌の中の登場人物は,その人々の言葉とか,その人々に言われる言葉によつて識別されます。
13 羊飼は何処でシュネムの少女に会いましたか。その反応は何でしたか。
13 シュレムの娘は,どのようにしてその羊飼と会いましたか。彼女は,羊飼にそのことを想い起させて,こう語つています,『林檎の木の下で,私はあなたを呼びさましたのです。あなたの母は,そこであなたの為に産のくるしみを受けた,あなたを産んだ者は,そこで産のくるしみを受けた。』(雅歌 8:5,新世)野原の中の木ということから,羊飼は自分の卑しい誕生ということを想起するでしよう。それは,家の中の安楽なもの,便利なものから離れているものです。しかし,彼の母は丈夫であつて,その子を育て上げて眉目秀麗な青年にいたしました。羊飼の青年は,自分の生まれたところで,シュラミの娘と会い,その美しいのを知りました。又,娘も羊飼の眉目秀麗なのを知つたのです。
14 シュネムの兄弟たちは彼女に対してどんな態度を採りましたか。一度,彼らが彼女に対して怒つたのはなぜでしたか。
14 ところが,使徒パウロがクリスチャン会衆にたいして抱いた気持と同じように,シュラミの娘の兄弟たちは,自分の妹にたいしてたいへん気を配りました。兄弟たちは,処女なる妹を守ろうと躍起になつていました。どうも危いと,兄弟たちは感じたのです。それで,妹を誘惑から守ろうと努めました。妹にたいして兄弟が怒りを感じたことが一度ありました。それは,羊飼が彼女のところに急いで来て,早春の美を楽しみに散歩に行こうではないかと誘つた時です。ソロモン王の王宮の女たちに告げた彼女の言葉を引用すればこうです,『私の愛しい方の音! 見よ! あの方は来る,山をのぼり,岡を躍りこえてくる。私の愛しい方はしかのごとく,小鹿のようだ。見よ! 彼は私たちの壁のうしろに立ち,窓よりのぞき,格子からうかがう。私の愛しい方は,私に答えて言つた,「私の伴よ,私の美しき者よ,起きて出て来なさい。見よ,雨季は過ぎて雨も止んだ。もろもろの花は地にあらわれ,葡萄の枝を切る時は来た。山鳩の声も私たちの地に聞えるいちぢくは青い実を赤らめ,葡萄の木は花が咲いて,その匂いを発つ。私の伴よ,私の美しい者よ,起きて出て来なさい。磐間にかくれ,崖のかくれ場所にいる私の鳩よ,私にあなたの姿を見させて下さい。あなたの声を聞かせて下さい。あなたの声はこころよく,あなたの姿は麗しい。』― 雅歌 2:8-14,新世。
15 彼女が羊飼と二人で散歩するのを妨げるため,彼女の兄弟たちは何をしましたか。
15 シュラミの娘の兄弟たちは,娘が羊飼の招きに応じたい気持を示したので,怒りを感じた。妹と羊飼の2人だけが出かけて行つて誘惑に陥るのをふせぐため,葡萄園に番人を置くことは絶対に必要であると見てとりました。それは,葡萄の木の下に穴を堀つて,葡萄の木に害を及ぼす小狐を見張るためです。それで,兄弟たちはこう叫びます,『私たちのために狐をとらえなさい。私たちの葡萄園は花盛りであるから,葡萄園を害う子狐をとらえなさい。』― 雅歌 2:15,新世。
16 『エルサレムの娘たち』に述べられたように,葡萄園の務めは,彼女にどんな影響を与えましたか。
16 兄弟たちは,季節によつて是非とも必要になるこの事柄を応用しました。そして,葡萄園の中にいて有害な小狐を見張りなさいと,妹に命じたのです。娘自身も,ソロモン王の王宮にいる『エルサレムの娘たち』に,こう語つています,『私の母の息子たちは,私を怒り,私を葡萄園の番人にした。しかし,私は自分の葡萄園を守らなかつた。』(雅歌 1:6,新世)この娘の膚の美が失われたのは,そのわけなのです,『エルサレムの娘たちよ,私は,色は黒いがしかし美しい。ケダルの(黒髪の)天幕のごとく,(しかも)ソロモンの(美しい)帷帳のようである。色が黒いというので私を見てはならない。私は日に焼けたからだ。』(雅歌 1:5,6,新世)葡萄園の見張りの仕事をしたために,太陽の光線に曝されたのです。
17 しかし,ソロモン王の設営に関連して,シュネムの娘はどんな危険に陥りましたか。
17 しかし,兄弟たちの採つたこの安全処置は,春季において娘の愛人である羊飼から娘を引き離しましたが,こんどは別の危険に娘を追いやつたことになりました。ソロモン王自身が,シュネムまたはシュレムの近くに来て,娘の家と葡萄園から遠くない所に美しい帷帳の天幕を張りました。或る日,シュラミの娘はソロモン王の天幕近くに居合わせました。自分の器量良しを見せびらかすために行つたのでなく,またソロモン王や,腰に刀を帯びて訓練をうけた兵士であるイスラエルの60人の勇士や,または車を運ぶ者たちに,その美を見せるために行つたのでもありません。(雅歌 3:7)移り気にも,自分の愛人である羊飼を忘れることなどはなく,また自分の美は羊飼だけに属しているということを忘れたのでもありません。しかし,娘自身も,後になつてソロモン王にこう説明しました,『私は胡桃の園に行つて,谷の草木の芽を見,葡萄は芽を出し,ざくろの花は咲いたかを見ようとしました。どうしてかは知りませんが,私は私の民の車のところへ来ていました。』(雅歌 6:11,12,新世)用事で出かけたために,彼女は,思いがけなくも,イスラエルの王の天幕のところに来てしまいました。
18 どのようにシュネムの娘はソロモンの天幕に入りましたか。彼女はどのように感じましたか。
18 そのとき,ソロモン王自身が直接この娘を見たか,あるいは彼女を見た天幕の従者たちは娘をソロモン王にすすめました。ソロモンは,母親や兄弟のところ,そして葡萄園から彼女を連れはなして,自分の堂々たる天幕のところに引き入れました。国王の天幕に充ちる目もまばゆいばかりの威厳と光輝は,はにかみやすい田舎娘の気持を圧倒するものでしよう。その中で威風堂々たるソロモン王は,娘に対する称讃を述べ,ともにエルサレムに帰つて自分の妻の一人になるようにと申し出ました。娘は,まわりに取りかこむ国王の富には,すこしも感銘を受けず,かえつてその中にいることがこそばゆく,場ちがいであるように感じます。そして,王にたいしては気持がすこしも引かれません。娘は,唯ひとりの愛人を恋いこがれています。そして,あたかも自分の愛人がそこにいて,彼に話しかけるかのように語ります。
19 離れている羊飼の恋人に向つて,彼女は何と言いましたか。
19 『ねがうことは,彼がその口でもつて私に口づけすることです。あなたの愛の表現は,葡萄酒よりも勝る。あなたの香油の匂は良く,あなたの名は注がれた香油のようである。このわけで,娘たちはあなたを愛したのです。私を引いて下さい。共に走りましよう。王は私を後宮に入れました! 私たちはあなたによつてよろこび楽しみましよう。葡萄酒のことを述べるよりも数多く,あなたの愛の表現を述べましよう。彼らがあなたを愛したのも当然です。私の魂の愛する者よ,あなたは何処で羊を飼い,正午には群を何処で休ませるのですか。どうぞ話して下さい。あなたの伴侶の群の中にいるとき,どうして喪服に身をつつむ女のように,なるべきですか。』― 雅歌 1:2-4,7,新世。
20 『エルサレムの娘たち』は彼女に何と答えましたか。ソロモンの言寄りに対して彼女はどう応じましたか。
20 この質問に対して,王宮の貴女たち,『エルサレムの娘たち』は,こう答えます,『女の中で最も美しい者よ,もし知らないのであるなら,群の足跡に従つて行き,羊飼の天幕の傍らで小山羊を飼いなさい。』彼女たちは,娘がソロモンの天幕を去つて,その愛人が羊を飼つているところに行くにちがいないと知つていました。しかし,ソロモンは娘を行かせたくなかつたのです。ソロモンは娘に対する称讃の言葉を述べ,都の王宮で彼女を着飾らせようと約束しました。ソロモンは娘に向つて,こう語つています,『私の伴よ,私はパロの車の牝馬にあなたをたとえる。あなたの頬には髪の結びが垂れて美しく,あなたの頸に珠玉をかけて美しい。銀をちりばめた黄金の環をあなたのためにつくろう。』しかし,シュラミの娘はソロモンの近寄るのを押い除き,彼女の感じている唯一つの愛は他の者に捧げらるれと,ソロモンに知らせます。娘はこう言つています,『王がその席につかれるとき,私の香袋はその香を出しました。私の愛しい者は,私にとつては没楽の袋のようです。彼は私の胞のあいだで夜を過す。私の愛しい者は,私にとつてはエンゲデの葡萄園の中にある指甲花のようです。』(雅歌 1:8-14,新世)シュラミの娘は,愛人である羊飼を抱擁したいと強く恋いこがれています。
物質の誘惑
21 1914年に起きた事に照らして,残れる者は彼らの愛についてはいま何をしなければなりませんか。
21 このすべての事柄の中で,これと似かよつていることは,今日のキリストの花嫁なる制度の残れる者にどう表わされていますか。ヱホバ神は1914年に御子イエス・キリストを天の御座につけました。しかし,イエスはまだ残れる者を御自分の許に取られていません。それで,イエスに許婚されている者たちは,イエスからは離れています。彼らはこの世にいますが,この世のものになろうとせず,またこの世に後戻りしようとはしません。彼らはこの世から出てキリストにひかれたのです貞節な処女のごとく身を保ち,この世に汚されてはなりません。ソロモン王のきらびやかな王者の栄光と対応して,この世には表面的に心をひきつけるものがたくさんあります。この世は,それによつて許婚された残れる者の愛をキリストから引き離そうと努めます。しかし,残れる者はこの世にあるものを愛してはならない,『肉の欲,目の欲,持ち物の誇』を愛してはならない,といういましめに従います。(ヨハネ第一書 2:15,16,新口)パウロの時代の或るクリスチャンたちは,ソロモンのごとくに王として支配する,という考えに誘われてしまいました。彼らは,地上の生涯を終えたときに,統治している王イエス・キリストが,その御座のところまで高めて坐らせるということを待ちませんでした。『あなた方は……すでに富み栄えているのだ。私たちを差しおいて,王になつているのだ。』とパウロは問うています。―コリント前 4:8,新口。
22 残れる者は王権よりも羊飼を望むことをいま如何に示しますか。
22 しかし,現在のこの悪い世のあるあいだは,私たちはこの地上で支配するよう召されていないと,今日の残れる者は知つています。私たちの召は,ヱホバの正しい羊飼,主なるイエス・キリストの足跡に従うことです。主イエスは失われた羊を見出して養い,彼らを保護して,彼らの為には御自分の地的の生命をも棄てられたのです。残れる者は,この世の物質主義に屈せず,またこの世の政治的な支配のきらびやかな栄えにも屈しません。彼らはこの世の王たちに従いませんが,ヱホバの正しい羊飼に従います。そして,イエスに倣います。つまりイエスが地上でなされたように羊飼の業をしたり,イエスの羊を集めたり,イエスの羊を飼います。彼らはイエスを愛している故に,羊を平和と一致の中に保ち,またこの世の利己的な,狼のごとき人々から彼らを保護します。それらの者共は羊を虐げて,羊から利を貪る者たちです。(ヨハネ 21:15-17)残れる者たちは,地上の事柄に心を向けず,上の事柄に心をかたむけ,先ず神の国とキリストを通して神から来る正義を求めます。彼らは天的な花婿に対して心からの愛を持つているため,この世が誘惑の物質主義で近よつてくるのをしりぞけます。
23 羊飼の愛の表現について言えば,どのように残れる者はシュネムの娘に似ていますか。ソロモンの天幕について感じたことを彼女は如何に表わしていますか。
23 残れる者は,シュラミの娘のように,その羊飼なるイエス・キリストの愛の表現を探し求めています。それによつて,この世の憎しみに対当することができます。彼らは,目に見えなくても,彼が共にいるという証拠を持つて非常によろこんでいます。丁度シュラムの娘の愛人である羊飼が,ソロモンの天幕の中に来て,彼女と会い,次のような愛の言葉を娘に注いだ時と同じです,『見よ,私の伴よ,あなたは美しい。見よ! あなたは美しい。あなたの目は,鳩(の目)である。』シュラムの娘は,自分の愛しい者の近くにいて外の野原とか森のところ,そして香柏の木または松の木の下で彼と一つになることを好みます。ソロモン王の素晴らしい天幕も,彼女の心にはすこしも響きません。彼女は,物質的なきらびやかさを持つ王室の天幕にすこしも心が動かされず,また圧倒されるということはないのです。彼女は羊飼に次のように語り,そのことを示しています,『私の愛しい方,見よ! あなたは美しく,快い。私たちの牀は青緑で,私たちの家の梁は香柏,私たちの垂木は松の木である。』― 雅歌 1:15,16,新世。
24 (イ)シュネムの娘は自分をどう考えていますか。しかし,彼女の恋人は彼女をどう考えていますか。(ロ)彼女は彼をどう思つていますか。それで彼女は『エルサレムの娘たち』に何を命じていますか。
24 そのシュラミの娘は,つつましい女で,この地上の尊貴を求めようとはしません。彼女はこう言つています,『私は海に沿う平地のサフラン,谷のゆりです。』手入れをしなくても生長する野の花に過ぎないのです! 彼女の愛人である羊飼は,彼女に匹敵する者はいないと考えます,『娘たちの中に私の伴のいるものは,いばらの中にゆりがあるようだ。』シュラミの娘は,彼が他のあらゆるものにも勝ると敬慕しています。そして,彼を,林の木々の中にあつて実のなる木,日陰になる木,風通しの良い木になぞらえています,『私の愛しい方が男の人々の中にいるのは,林の木々の中にりんごの木があるようです。私は彼の木蔭を非常に欲して坐つた。彼の実は,私の口に甘かつた。彼は私を葡萄酒の家に連れて行き,私の上にひるがえる彼の旗は愛であつた。干ぶどうをもつて私を元気づけ,りんごをもつて私を力づけて下さい。私は恋にわずらつているのです。彼の左手は私の頭の下にあり,彼の右手は私を抱く。』愛しい羊飼にそのような愛を捧げる彼女が,移り気にも他の者を愛するようになるなどは,どうしてあり得ましようか。それで,彼女はソロモン王の王宮にいる女たちを,厳しくこう申しつけています,『エルサレムの娘たちよ,私は野にいる雌のかもしかと雌鹿をさして,あなた方を誓わせる,愛がおのずから起るときまでは,(私の中に)愛を起すことも,さますこともないように。』(雅歌 2:1-7,新世)それで,彼女は,美しいもの,優美なもののすべてをさして,王宮の女たちにきびしく申しつけ,ソロモン王に対する愛を彼女の中に起させたり,または羊飼に対する彼女の愛,彼女の最初の愛を破らせるようなことをしてはならない,と誓わせたのです。
25 シユネムの娘の変らない愛は残れる者にとつて何の手本ですか。彼らは物質的な人の勧めをどのように扱いますか。
25 彼女は羊飼にたいする一筋の愛を持ちつづけました。今日の残れる者は,それを良い模範にします。そして,ヱホバ神の正しい羊飼であるキリストに対する彼らの愛は,変つてはならず,また移つてもなりません。この世にあるものも,またはこの地上にあるものも,ひとつとして,キリストにたいする彼らの愛を少くさせたり,傍に外らすことができないはずです。物質主義的な人々が説得しようとしても,正しい羊飼とその愛する羊以外のものへの愛とか,利己的な欲望を惹きおこすことに必らず失敗します。この世的な事柄で説得しようとする人々に対しては,私たちの愛が正しい羊飼,花婿なるキリストにだけ捧げられるのであり,また私たちはキリストに従い,物質主義とか外面的な栄華を持つこの世に従わないと知らせます。
26 シュネムの娘と同じく,残れる者はどのように忠実な葡萄園の守りとならねばなりませんか。また彼女と同じく,外の人からどんな評判を得なければなりませんか。
26 シュラミの娘は,勤勉に働き,家族の葡萄園を見張りました。現在,彼女の対をなす,許婚された残れる者も同様です。残れる者は葡萄であるイエス・キリストについて枝としての奉仕をなし,多くの実を結んで大いなる裁培者ヱホバ神に栄光を捧げねばなりません。(ヨハネ 15:1-8)そのシュラミの娘は,家族以外の者から良く言われていました。王宮に仕えた『エルサレムの娘たち』は,彼女のことを『女の中で最も美しい者』と呼びました。ソロモン王でさえも彼女は,『快い都のように美しく,エルサレムのように華やかで,旗のまわりに集まつた軍団のように畏しい。』と言つていました。都の女たち,后や妃嬪たちは,彼女が『しののめのように見え,満月のように美しく,照り輝く太陽のように清い』と言いました。(雅歌 1:8; 6:1,4,9,10,新世)それと同じく,許嫁されている残れる者は,『外の人々にもよく思われている人でなければならない。』彼らは『外部の人々に対して品位を保ち』,真理についてそしられる点がないようにし,むしろその生活によつて良く思われるようにしなければなりません。―テモテ前 3:7。テサロニケ前 4:12,新口。
27 花婿が統治を始めたにも拘らず,いいなづけされた残れる者,そして仲間の大いなる群衆はなぜ信仰によつて歩みつづけねばなりませんか。
27 花婿なる王の支配は,目に見えない天的な支配です。それは天の御父の右のところでなされます。霊者である御使や,あらゆる他の支配よりも,遙かに高いところです,『キリストは……天使たちともろもろの権威,権力を従えておられるのである。』(ペテロ前 3:22,新ロ)それですから,私たちは信仰によつて歩みつづけねばなりません。しかし,1914年以来に彼が天的なシオンで支配していることについての証拠によつて,彼が御座についており,かつ力の杖を行使しておられるということが,はつきり認識し得ます。(詩 110:1,2)私たちは,よろこびあふれて彼を統治している王と讃えます。そして,許婚されている残れる者に交わる大いなる群衆は,いわば棺櫚の枝を持つて,忠節な気持の中に彼を公けに認めているのです。しかし,許婚された残れる者と花婿なる羊飼のあいだは,いまでもなお離されていています。丁度,彼らと彼のあいだには大きな山があるようです。というのは,残れる者はいまでも肉の人間であつて,死人からの復活を受けて居らず栄光に輝く霊者としての体を持つていないからです。―コリント前 15:42-44。コリント後 5:1-8。
28 羊飼の恋人に対する願いを言い表わす残れる者は,シュネムの娘と共に何を感じますか。
28 この理由の故に,許婚された残れる者は,花婿が来て,彼らの天的な復活によつて御許に召し,両者のあいだの分離が終るように切望しているのです。彼らは,次のように語つたシュラミの娘と同じように感じます,『私の愛しい方は私につき,私は彼につく。彼はゆりの中で羊を飼う。私の愛しい方よ,日の涼しくなるまで,影の消えるまで,身をかえして出で行き,分けへだてる山々の上で獐のごとく,小鹿のごとくあれ。』(雅歌 2:16,新世)使徒ヨハネは,聖書の一番最後のところで,その切望の気持を,こう言い表わしています『アァメン,主イエスよ,きたりませ。』― 黙示 22:20,新口。
29 彼の再臨在されている今の日に,私たちは彼をどこに見出しますか。また,どこで彼と交わりますか。
29 1914年以来は,イエスの再臨の時代です。今日,私たちはキリストを探し求めますが,地上で見出すことはできません。彼は天の御座に臨在しておられ,この地上に『力の杖』を伸ばし,地上にいる敵たちの間にその力を感ぜしめました。しかし,私たちは彼の弟子たちの集まりに行つて会合することにより,彼と交わりを持つことができます。イエスは次のように言われました,『ふたりまたは三人が,私の名によつて集まつている所には,私もその中にいるのである。』(マタイ 18:20,新口)このためには,夜の外出がしばしば必要になるでしよう,それはイエスの弟子たちの集会に出席したり,イエスがいま集めておられる『他の羊』を訪問するためです。そのようにして,彼らと聖書研究を行い,正しい羊飼の名の中に養うことができるのです。―ヨハネ 10:16。
30 残れる者が会衆において彼と特別な交りを楽しむことを,シュネムの娘はどう描いていますか。
30 このような仕方により,許婚された残れる者は,会衆の仕方の中にその羊飼なる王との特別な交わりを楽しみます。それは,彼らの霊的な母なる天的なシオン,すなわち『上なるエルサレム』の制度内でなされます。ソロモン王の天幕に拘置されたシュラミの娘は,それをこのように言い表わしています,『私は夜,床の上で,私の魂の愛する人を探した。私は彼を探したが,見つからなかつた。起きて都の内を歩きめぐり,通りや広場で私の魂の愛する人を探そう。私は彼を探したが,見つからなかつた。都の中を巡る夜回りに出会つたので,「あなた方は,私の魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。私は,彼らと別れるとすぐに,私の魂の愛する者に出会つた。私は彼を引きとどめて行かせず,私の母の家に連れて来て,私を産んだ者の内部屋に入つた。エルサレムの娘たちよ,私は雌のかもしかと野の鹿を指して,あなた方を誓わせる,愛のおのずから(私の中に)起るときまでは,ことさらに呼び起すことも,さますこともしないように。』(雅歌 3:1-5,新世)私たちは,努力を払つてキリストと霊的な面で交わりを持ちます。かくして,地上にある他の愛とキリストに対する全身全霊の愛を置きかえさせない私たちの決意を強めます。
エルサレムの都の中での試錬
31 シユネムの娘は更に試みを受けるため,何処に連れて行かれますか。その場所に向う行列はどのように描写されていますか。
31 シュネムの村近くのソロモン王の天幕で,シュラムの娘になされた試錬は失敗しました。その試錬は,羊飼に対する彼女の愛の強さを験すものです。首都エルサレムの中の王宮で,王が心ひきつけるような申込みをすれば,彼女はどのような影響を及ぼすでしようか。ソロモン王の天幕が,約55マイル南方のエルサレムに帰つたとき,ソロモン王はシュラミの娘を連れて行きました。首都の女たちである『シオンの娘たち』は,行列が都に近づくのを見ます。その一人は,こう言います,『没楽,乳香など商人のもろもろの香料をもつて,かおりを放ち,煙の柱のごとくに,荒野からのぼつて来るものは何か。』別の者はこう答えます,『見よ,それはソロモンの乗物で,六十人の勇士がそのまわりにいる。イスラエルの勇士で,みなつるぎを持ち,戦いについて教えられ,おのおの腰に剣を帯びて,夜の危険に備えている。』更に別の者は,こう叫んでいます,『あれは,ソロモン王がレバノンの木からつくつた輿だ。その柱は銀,そのささえは金である。その座は赤色がかつた紫色に染めた布でつくつた。その内部は,エルサレムの娘たちが愛情をこめてつくつたものだ。』都の中の別の女は,こう叫びます,『シオンの娘たちよ,出てソロモン王を見よ。彼は結婚の日,そして心のよろこぶ日に,母が彼にかぶせた冠をいただいている。』(雅歌 3:6-11,新世)最後の試錬がシュラミの娘に面します!
32 この世の誘惑の申し出に耐えるため,残れる者はどんな備えを与えられていますか。シュネムの娘の場合,この事はどう示されていますか。
32 この『終りの時』にあつては,この世の物質主義の故に試錬は増し加わります。私たちの羊飼は,私たちに備えをなさしめ,また私たちを強めます。私たちがこの華やかな古い世の誘惑の申し出を拒絶するためです。彼は,私たちに対する愛が変らぬと保証し,また私たちの正しい種類のクリスチャン行為を褒めます。丁度,愛人である羊飼がそのようにいたしました。彼はソロモンの車に従つてエルサレムに入り,いまや顔覆いしたシュラミの娘に会つて,次のように言いました,『私の伴よ,見よあなたは何と美しいか! 見よ,あなたは美しい。あなたの目は,顔覆いの後にあつて,鳩(の目)である。あなたの髪は,ギレアデ山をはね下りる山羊の群のようだ。あなたの歯は,洗い場からのぼつて来た,毛を切つたばかりの牝羊の群のようだ。みな二子を産んで,一匹も子をなくしたものはない。あなたの唇は,紅の糸すじのごとく,あなたの話すことは心地良い。顔覆いのうしろにあつて,あなたのこめかみは一片のざくろのようだ。あなたの頸は,石で建てられたダビデの塔のようだ。その上には千の楯がかけられ,みな勇士の持つ円形の楯である。あなたの両乳ぶさは,牝じかの二子である二匹の子鹿が,ゆりの中で草を食べているようだ。』シュラミの娘は,自由の身になつて都を出たいと羊飼に告げます,『日の涼しくなるまで,影の消ゆるまで,私は没薬の山と乳香の丘に行こう。』― 雅歌 4:1-6,新世。
33 羊飼は残れる者に向つて彼らの唇は赤い糸に似ており,その語ることは好ましいと,どうして言えますか。彼らの言い表わすことすべては,彼にとつて何に似ていますか。
33 今日,物質主義にみちるこの世の誘惑の中で,正しい羊飼は許嫁された残れる者にむかい『あなたの唇は,紅の糸すじのごとく,あなたの話すことは心地良い』と言うことができますか。できます,残れる者はその口でもつてヱホバの御名を公けに宣べ表わしているからです。その行によつて,彼らは救にみちびかれると共に,花婿と結ばれることができます。(ロマ 10:8-10)彼らの唇は,ヱホバの讃美で美しいものです。ヱホバの栄光は,彼らの上に照り出で,彼らからこの暗い世に映つています。彼らはヱホバの証者です。(イザヤ 43:10,12)彼らの話すことは,正しい羊飼にもつとも気持良いものです。彼らの話すことは,イエスの与えた次の予言的ないましめを成就しているからです,『この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。』(マタイ 24:14,新口)彼らの話すことは,天の花婿にとつては,愛の言葉のようでもあり,快い香のようでもあり,蜜の甘さのようでもあります。シュラミの娘に告げる言葉の中で,羊飼はこのように言つています,『私の伴よ,あなたはことごとく美しく,すこしのきずもない。……私の妹よ,私の花嫁よ,あなたの愛の言葉はなんと美しいか! あなたの愛の言葉は葡萄酒よりもはるかに勝り,あなたの香油のかおりは,あらゆる種類の香料に勝る!(私の)花嫁よ,あなたの唇は甘露をしたらす。蜜と乳はあなたの舌の下にあり,あなたの衣の香は,レバノンの芳しい香のようである。』― 雅歌 4:3,7-11,新世。
34 御国に対するこのような証言によつて,残れる者は羊飼に何をするよう勧めていますか。また,エルサレムの女たちに倣う友好的な人々は,どんな励ましを与えていますか。
34 残れる者は,神の愛する子の御国について,愛情をこめて勇気のある証言をいたします。かくして,愛する羊飼 ― 花婿に来るようにと招待し,そのさしのべる御国の実を食べるようにとすすめます。彼はたしかに来て,自分にささげられる公けの愛の言葉を楽しみ,こう述べているのです,『私は,蜜とともに私の蜜蜂の巣を食べた。乳とともに私の葡萄酒を飲んだ。』エルサレムの女たちと同じように,好意を寄せる人々が多数います。それらの人々は,残れる者が天的な花婿にたいして献身の言葉を公けに述べていることを認めると共に,羊飼の『他の羊』を集めている残れる者の愛の業をはげまします。残れる者と花婿がお互の愛を楽しみつづけ得る為です。彼らはこう言います,『友よ,食べなさい! 飲みなさい,愛の言葉を大いに飲みなさい!』― 雅歌 4:16; 5:1,新世。
35 悪夢の中のシュネムの娘と同じく,第一次世界大戦中,答えるのに遅かつた残れる者は,どんな試錬の経験に遭いましたか。
35 一度だけでしたが,1914年に花婿が父の御国に臨在されて以来,時が暗かつたため,残れる者は花婿の招待に速かに答え応じないことがありました。花婿は,一緒になつて彼に属する羊を集めようとすすめたのです。それは,第一次世界大戦の最高潮の時,特に1918年の時でした。その経験は,シュラミの娘がソロモンの王宮にいる侍女たちに語つた悪夢のようです,『私は眠つていましたが,心は目ざめていました。私の愛する者が戸を叩く音が聞える。』彼女は,その夢の中で,戸の外に立つ彼の願いの言葉を聞きます,『私の妹よ,伴よ,私のはと,私の全き者よ,開けて下さい! 私の頭はつゆで濡れ,私の髪は夜露でぬれている。』彼女は,寝床にいるのです,と答えます,『私は衣を脱いでしまいました。どうしてまた着られようか。足も洗いました。どうして,よごせようか。』やつと起き上つて彼のために戸を開いたときは,彼は夜の中に見えなくなつていました。それから,彼女はこう言つています,『私は彼を探したが,見つからず,彼を呼んだが,答はなかつた。都をまわり歩く夜回りは,私を見つけると,私を打つて傷つけた。城壁を守る者共は(無礼にも)私の上衣をはぎ取つた。』残れる者は,このシュラミの娘と同じようでした。天の御国で結ばれるという彼らの希望が実現せず,かえつてキリスト教国を守る者たちから迫害を受けたときに,残れる者は意気沮喪しました。
36 残れる者は天の花婿を恋していることを,どのように公けに示して来ましたか。これは善意者の心にどんな質問を起させましたか。
36 その悪夢のような経験をした残れる者は,夢を見たシュラミの娘と同じように,天の花婿に恋いわずらつているということを,恥ずかしげなく公けに表明しました。彼らは,証のために御国の良いたよりを全地に伝道せよとの羊飼の命令どおりに出かけて行きました。特にキリスト教国にたいして,自分たちが花婿なる羊飼を愛していると知らせたのです,『エルサレムの娘たちよ,私は誓わせる。私の愛する人に出会うなら,私が恋に病んでいると告げなさい。』彼らは彼の羊を集めたいと欲します。それは,そのように集められた羊が書かれた『推薦状』となり,彼に対しての変らざる愛を証明する為です。(コリント後 3:1-3)残れる者たちは,善意者にもキリストを探してもらいたいと欲し,また,善意者の中に残れる者の愛の証言の業の結果を示してもらいたいと欲します。善意者たちは,そのことをいぶかしく思つて,こう尋ねます,『あなたの愛する者は,ほかの人の愛する者に,なんのまさるところがあつて,私たちにそのような誓をさせるのか。』― 雅歌 5:8,9,新世。
37 残れる者は,人々の前でキリストを言い表わすことを何故恐れませんか。そして彼を愛する理由を何と述べますか。
37 人々の前でキリストを告白するのに,恥ずかしく思つてはならないと残れる者はいましめられています。彼らは彼に愛を抱いている故に,そうすることを恐れません。いつしよにキリストを探したいと欲する羊のような人々にたいして,彼らはキリストが羊飼であり,1914年以来天で支配している神の油注がれた王であると述べます。彼らは,キリストを愛している理由を告げますが,彼のことを最も美しい仕方で表わし示しています。シュラミの娘の言葉は,こうです。
38 シュネムの娘は『エルサレムの娘たち』に向い,彼女の恋をどう描きましたか。
38 『私の愛しい方は,まばゆく,かつ赤く,万人にぬきんでている。その頭は純金である。その髪の毛は,なつめ椰子の房である。その黒い(髪)はからすのようだ。彼の目は,水の流れのほとりにいる鳩のようで,乳で洗われて,良く嵌つている。彼の煩は,香料の花園,かんばしい香を持つ草の塔のようである。その唇は,ゆりで没薬の液をしたらす。その手は,金の円筒で貴橄欖石で充ちている。その体は,サフアイアで覆われた象牙の板だ。その足は,純金の台に立てられた大理石の柱のごとく,その姿はレバノンのごとく,そのすぐれたるさまは香柏のようである。その口はきわめて甘く,彼についてはみなことごとく望ましい。エルサレムの娘たちよ,これが私の愛しい方で,私の伴なのです。……私は私の愛しい方につき,私の愛しい方は私につく。彼はゆりの中で羊を飼つている。』― 雅歌 5:10-16; 6:2,3,新世。
39 (イ)このようにキリストを公けに言い表わすことは,どのように残れる者の益となりますか。(ロ)エルサレムにいるシュネムの娘にいま臨んだ最後の試錬は何ですか。彼女は何を尋ねましたか。
39 残れる者が,『他の羊』を集めているイエス・キリストについて公やけに述べ表わすとき,彼のことおよび彼と許婚していることが頭から離れません。それによつて彼らは強められ,地的な尊貴の誘惑とか,この世的な富の楽しみをしりぞけることができます。羊飼と,その集めの業への愛をためす試錬は,現代の物質主義の時代にいる残れる者の上に臨みました。ちようど,ソロモン王のためにエルサレムに引き留められたシュラミ人の娘に臨んだのと同様です。そのときには,ソロモンはすでに后や妃嬪たちと結婚していました。シュラミの娘に対する彼の愛は,初恋でもなければ,只一つの愛でもありません。ソロモン王は,シュラミの娘を自分の妃嬪の一人にしようと欲したのであり,夫婦の愛情の対象として唯一人の女にしようとしたのではありません。ソロモン王は,彼女の愛人である羊飼の提供したものを,彼女に提供することができなかつたのです。シュラミの娘が,自分は愛人である羊飼だけについていて,彼だけが『ことごとく望ましい』と王宮の貴女たちに告げた後,ソロモン王は彼女に近づきました。彼はシュラミの娘に嘆賞の声を放ち,60人の后や,80人の妃嬪にまさつて非常に美しいと言います。ソロモン王は,彼女をいちばん愛するでしよう。世界的に有名なソロモン王から,そのような言葉を聞けば,普通の多くの娘の心は変ります。しかし,シュラミの娘の心は変りませんでした。彼女は,ソロモン王の側近くにいようと努めたことは一度もないと告げ,離れ去ります。『帰れ,帰れ,シュラミの娘よ! 帰れ,帰れ,私たちはあなたを見たい!』とソロモンは叫びます。すると,シュラミの娘は,自分のようなシュネムの田舎娘に,王や人々は何を見たいのですかと尋ねます!―雅歌 6:4-13,新世。
40 ソロモンは彼女の問いにどう答えますか。このような訴えに対抗するため,シュネムの娘は今日の残れる者にどんな手本を与えていますか。
40 この無邪気な問に,ソロモン王は得たりとばかりに,彼女の美しいこと,その足の先から頭にいたるまで美しいと,ソロモン王は言います,『愛する者よ,もろもろのよろこばしいものの中にあつて,あなたはなんと美しく,なんと快い者であろう!』ソロモン王は,彼女を自分のものにして弄びたいのです。(雅歌 6:13; 7:1-9,新世)彼女にとつては,首都でぜいたくを楽しみ,名誉と栄えを受けて王の妻になるというすばらしい機会でした! このことは,今日の物質主義の申し出を,なんと良く表わしているのでしよう! この申し出に対処する,シュラミの娘は,許嫁された残れる者にどんな模範を与えますか。
『ヤハの焰』による勝利
41 ソロモンの求婚に対してシュネムの娘は何をしますか。それでソロモンは何をしますか。
41 一生の中で最重要なこのとき,シュラミの娘は国王の求愛をしりぞけます,『私は私の愛しい者につき,彼は私を恋い慕う。』と,彼女はきつぱりと答えます。目前にいる威風堂々の王に背を向け,彼女は自分の愛人である羊飼が来て,連れ出すようにと叫びます。愛する羊飼が,自分の母の乳を吸つた兄弟であるなら,どれほど良いか! 人前をはばからずに接吻することもでき,自分に貞節と操の教を喩した母の家に連れて行くこともできる。シュラミの娘は決定をいたしました。そして,王宮の貴女たちにむかい,ソロモン王と共になつてソロモンに対する彼女の愛を呼び起し,さますことをしないように,と願います。彼女は,ソロモンに対する自然の愛を感じません。(雅歌 7:10から8:4,新世)権勢強いソロモン王は,この恋に敗れました。さらに彼女の愛を得ようと努めても,見込みはありません。ソロモン王は,彼女を家に返します。
42 シュネムに近づく彼女を見た彼女の兄弟たちの心には,彼らがかつて彼女について尋ねたどんな疑問がひらめきましたか。彼女をどう扱うかについて,彼らは何を決意しましたか。
42 シュネムにいるその兄弟たちは,彼女の近づくのを見ます。しかし,彼女一人だけではありません。兄弟たちは,『自分の愛する者に倚りかかり,荒野から上つて来る者は誰か』と尋ねます。自分たちの小さな妹が,それ程までに愛に貞節を守り,操を保つたということを悟りません。ずつと以前に,一人の兄弟は,彼女についてこう言いました,『私たちには小さな妹がいる。まだ乳房がない。彼女に(結婚を)申し込まれる日には,私たちは,妹に何をしようか。』別の兄弟は,この問にこう答えました,『もし妹が石垣であるなら,その上に銀の塞を建てよう。もし戸であるなら,香柏の枝で囲もう。』(雅歌 8:5,8,9,新世)ソロモン王についての経験は,彼女がはたしてその愛と操にゆるいかどうか,つまり,くるりと開いてしまう戸のようであるか,どうかを調べるきびしい試錬でした。そのような戸であるならば,頑丈な香柏の板で囲み,歓迎しない者,健全でない者にむかつて,開かないようにしなければなりせん。
43 自分をほめることではなしに,彼女は自身について今や何と言うことができましたか。従つて彼女の兄弟たちはどんな適当な行動を採らねばなりませんか。
43 彼女は,威風堂々たる王の提供したすべてのさそいに勝ち,またこの世の人の手でつくり出された物質の誘惑にも石垣のごとくに毅然として耐えました。それですから,自分の一人前なることを証明したことになります,つまり自分は十分に成熟した乳房を持つ女であり,母親から教えられた美徳の原則にはしつかりと立つと証明したのです。彼女が次のように言つても,それは自己称讃ではなく,当然なものです,『私は石垣で,私の乳房は(石垣の)塔のようである。それで,私は彼の目には,平和を見出す者のようになりました。』(雅歌 8:10,新世)それですから,兄弟たちに,その貞節を認めるものとして,彼女の上に銀の塞を建てさせなさい。彼女の愛する羊飼に結婚することを許可させなさい。
44 (イ)何の時に至るまで,残れる者はキリストに対する愛の試みに遭わねばなりませんか。(ロ)シュネムの娘の言葉によると,彼らはどのように試みに勝つことができますか。
44 ハルマゲドンの戦が,この古い世の物質主義を滅ぼす時に至るまで,羊飼なるキリストに許婚された残れる者は,彼に捧げる一筋の愛について試錬を受けねばなりません。この厳しい試錬において,彼らはどのように勝利を得るでしようか。シュラミの娘が,その愛する羊飼に愛を抱いたと同様に,キリストに愛を抱くことによります。ソロモン王が葡萄園を1000も持つなら,持つが良い。そのような物質的な所有物は,彼女を誘惑しません。彼女は自分自身の葡萄園で満足しています。(雅歌 8:11,12)なぜ? なぜなら,彼女は自分の真実に愛しい者を愛しており,そのような愛は,どんなに貴重なものであろうと物質では買えないからです。彼女は,彼にこう言います,『私をあなたの心の上に置いて,印のようにし,あなたの腕に置いて印のようにして下さい。愛は死のように強く,全き献身を固執することは,ショオールのごとく屈しない。その焰は火の焰のごとく,ヤハの焰のようである。大水も愛を消すことができず,川も愛を流し去ることはできない。もし人(ソロモン王でも)が,その家の貴重なものをことごとく与えて愛に換えるなら,人々はその者を必らずいやしめるであろう。』― 雅歌 8:6,7,新世。
45 恋人である羊飼はいま何を聞くことを望みますか彼女は彼に対するどんな願いを言い表わしますか。
45 なにものにも屈しないそれほどの愛を持つ彼女を,羊飼が愛するのはたしかでした。羊飼は,貞節な心から語る彼女の声を聞きたいと欲します,『園の中に住む者よ,友はあなたの声に耳をかたむけている。私にあなたの声を聞かせて下さい。』この招きに対して,彼女は,彼が跳び来り,二人を分けへだてる山々を横ぎつて来るように,そしてその山々を彼と結ばれる栄えに輝く香ばしい高い山々に,変化するように,との願いを言い表わします,『私の愛しい方よ,走れ。香ばしい山々の上にあつて鹿のごとく,小鹿のごとくありなさい。』― 雅歌 8:13,14,新世。
46 彼女の恋人に変らない愛を捧げたことにより,シュネムの娘は何の冠を得ましたか。何に対して残れる者も同じく冠を得ますか。冠を得る彼らの経験に与かるものは誰ですか。
46 ソロモン王の最上の歌に歌われている,この愛されたシュラミの女は,よろこびにつつまれます。許婚された残れる者もよろこびにつつまれるでしよう。彼らはこの世の物質主義をしりぞけ,羊飼なる花婿に貞節を保ちつづけるからです。『彼女にともなう処女』のごとき『他の羊』も,みな忠実な残れる者のよろこびに分けあずかるでしよう。この霊感の歌を与え給うたヱホバ神に感謝を捧げましよう。この歌のはげましにより,私たちはみなヱホバ神の正しい羊飼,イエス・キリストえの愛に貞節を保ちます。